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第3話 三十一ページの勘違い

 その日の夜、俺たちはほとんど走るような勢いで俺の家へ向かった。


「お邪魔しまーす!」


 慧は玄関に足を踏み入れた瞬間、隣の家まで届きそうな声で叫んだ。


「馬鹿かお前! 声がでかい!」


 反射的に、俺は慧の口を片手で塞いだ。


 次の瞬間、リビングの方から母さんの声が飛んでくる。


「蒼介? お友達?」


「うん! ク、クラスメイト! 一緒に宿題するだけ!」


 宿題。


 自分で言っておいて何だが、これほど信用できない言葉もなかった。


 隣の慧は、なぜか満面の笑みを浮かべている。


「友達だって」


「そこで感動するな。あと、絶対に漫画って言うなよ」


「了解。秘密任務ってことだな?」


「お前がそう言うと余計に怪しいんだよ」


 俺たちは泥棒みたいに足音を殺しながら、俺の部屋へ滑り込んだ。


 ドアを閉めた瞬間、慧の視線が部屋の中をぐるりと回る。

 そして、すぐに目が輝いた。


「おおっ! 蒼介の部屋、漫画多いな! すげえじゃん!」


「普通だろ?」


 俺は鞄を下ろしながら、逆に首をかしげる。


「お前は持ってないのか?」


 慧は腕を組み、やけに偉そうに顎を上げた。


「俺は電子書籍派だからな」


「じゃあ何で実物の本を見てそんなに感動してんだよ……」


 呆れながらツッコむ。


 制服すら着替えないまま、俺たちはそれぞれ作業場所についた。


 俺は机の前に座り、液タブの電源を入れて、新しいファイルを開く。


 慧はベッドのそばにあぐらをかき、ノートを膝の上に広げた。

 それから部屋をもう一度見回し、まるで歴史的瞬間を目撃するみたいな顔をする。


「おお……ここが伝説の始まりの部屋か」


「伝説が始まる前に親にバレて終わるぞ」


「大丈夫。俺、ちゃんと小声で喋るから」


「玄関で一回失敗してるやつの台詞じゃない」


 それを最後に、慧はシャーペンを握り、すぐに集中モードへ入った。


 部屋の中が静かになる。


 聞こえるのは、シャーペンが紙の上を走る、かりかりという音だけだった。


 それから三十分ほど経った頃。


「ほい。まず最初の部分、膨らませてみた」


 慧が文字でびっしり埋まったルーズリーフを一枚破り、後ろから差し出してくる。


「ん、サンキュー」


 俺はそれを受け取り、左手側に置いた。


 右手にはペン。


 俺は深く息を吸い、第一ページの空白にペン先を落とした。


 ――そして、奇跡が起きた。


 少なくとも、その時の俺たちは、本気でそう思っていた。


 壁にぶつからない。

 手が止まらない。


 慧の書いた、重くて、痛くて、それでいて妙に熱を帯びた文章が、まるで案内図みたいに俺の頭の中で画面へ変換されていく。


 主人公が立つ位置。


 カメラをどこまで低くするか。


 吹き出しを置く場所。


 ページをめくる直前に残す余白。


 ただの文字だったものが、俺の脳内で、一コマずつ輪郭を持ち始める。


 そこに、『MONO』として三年間積み上げてきた線と、影と、画面の感覚を流し込んでいく。


 まるで、最高級のエンジンを積んだ車に、ようやく本物の燃料が入ったみたいだった。


「……なあ、蒼介」


「何だよ」


「俺たちって……ちょっと強くない?」


「言うな。言った瞬間、馬鹿みたいになる」


「でも、お前、口元笑ってるぞ」


「黙れ」


 ただし、その一気に進む快感は、ラフの段階までだった。


 細部を詰め始めた瞬間、俺の部屋は一気に戦場になった。


「おい蒼介! ここ、主人公の表情が違う! 俺が欲しいのは、そういう綺麗でかっこいい冷笑じゃなくて……もっとこう、狂ってて、絶望してる感じ!」


「うるさい! 小声で喋れって言っただろ! あと脚本には『笑った』としか書いてないだろうが! どこまで狂わせればいいんだよ!」


「世界はもう終わってるのに、本人だけはまだ勝てると思ってる笑い!」


「そういう説明を先に脚本へ書け!」


「今、口で伝えてるだろ!」


「それは後出し設定って言うんだよ!」


「いいから見せろ! その修正、今すぐ見せろ!」


 俺は画面を拡大し、主人公の口角をわずかに下げた。

 さらに目元の光を細く削り、今にも切れそうな危うさを入れる。


 慧は三秒ほど画面を凝視した。


「おおおおおっ! そう! それだ! やっぱお前すげえな!」


「だから声がでかい!」


 それから毎日のように、慧は放課後になると俺の家へ来るようになった。


 俺たちの、初めての修羅場が始まった。


 最初の一日目、俺たちはまだちゃんと声を潜めていた。


 三日目、慧は母さんが部屋の前を通るたびに、「ここで主人公を死の寸前まで追い込む」を「ここで主人公をちょっと成長させる」に言い換える技を覚えた。


 五日目、俺は英語の授業中に教科書の端へネームのコマ割りを描き込んでいた。

 教師に何をしているのか聞かれて、危うく「視線誘導の修正です」と答えそうになった。


 七日目、数学の授業中に吹き出しの夢を見た。

 目が覚めると、ノートには歪んだコマ枠がびっしり並んでいた。


 十日目、慧がコンビニのおにぎりをラフ原稿の横に置いたので、俺は定規で殴りかけた。


 十四日目、俺たちは一コマの沈黙にどれだけのページを使うかで、深夜一時まで揉めた。


「半ページ」


「一ページ」


「お前、正気か?」


「ここは読者を止める場面だろ!」


「止めるのはいい。でも作品から追い出すな」


「じゃあ何ページならいいんだよ」


「……三分の二」


「おお、天才」


「一秒前まで俺のこと漫画わかってないって言ってただろ」


「人は成長するんだよ」


「成長が早すぎる」


 十六日目には、部屋の隅のゴミ箱がエナジードリンクの空き缶とコンビニ弁当の容器で埋まり始めていた。


 二十一日目になる頃には、液タブの薄い光が夜明けに見えてくるようになっていた。


 いつの間にか、また一週間に一度の『週刊少年ラッシュ』発売日が来ていた。


「蒼介! 最新号、買ってきたぞ!」


 慧が忍び足のつもりで部屋に入ってくる。

 手には、安っぽい紙とインクの匂いがする分厚い漫画雑誌。


 ちなみに、慧の言う忍び足とは、あくまで本人基準だ。

 実際には床が普通にぎしぎし鳴っていた。


 俺たちは一度だけ手を止め、ベッドの端に並んで座った。


 そして、プロの漫画家たちの最新話をめくっていく。


 怪物みたいなネームの力。


 息を飲むような見開き。


 たった一コマで空気を変える表情。


 疲れ切っていた俺の頭に、冷水をぶっかけられたような感覚が走る。


 けれど次の瞬間には、それ以上に理不尽な負けず嫌いが燃え上がっていた。


「……俺たちの原稿が完成したら、この中の下の方の連載、いくつか押しのけられるんじゃねえか?」


 慧が雑誌を見つめたまま、狂ったような目で言う。


「基準を低くするなよ、馬鹿」


 俺は鼻で笑い、液タブの方へ向き直った。


「押しのけるなら、最初から上位五本を狙う」


「うおおおっ! その狂い方、嫌いじゃない!」


 最新号の『ラッシュ』を三回買った。


 ペン先を二回交換した。


 母さんに見つかりかけたエナジードリンクの空き缶を五回隠した。


 そして、コマ割り一つで部屋の中で本気で殴り合いになりかけた夜は、数えきれないほどあった。


「藤原! 神宮寺! お前ら昨日もどこで遊んでた!」


 ある日の数学の授業中、チョークが正確に俺たち二人の頭へ飛んできた。


 クラス中が笑う中、俺たちはパンダみたいなクマを目の下に抱えたまま、額を押さえて顔を見合わせるしかなかった。


 毎日、どこかで限界を踏み抜いていた。


 心臓が止まりそうなほど眠かった。


 けれど、不思議なことに。


 俺たちの毎日は、どうしようもないくらい充実していた。


 そうして時間は、インクの匂いと、カフェインと、身の程知らずな夢の中で、あっという間に過ぎていった。


 二十一日後。


◇ ◇ ◇


「……できた」


 最後のページの端に、最後のトーンを置いた瞬間だった。


 ペンを机に置く。


 窓の外には、ちょうど朝の薄い光が差し込み始めていた。


 俺は振り返り、ベッドの上で大の字になっている慧を見る。


「おい、起きろ」


 足で軽く慧のすねを小突く。


「ん……終わったのか?」


 慧は血走った目をこすりながら起き上がり、画面の前まで這うように近づいてきた。


 俺たちは、液タブの画面に並んだ三十一ページの完成原稿を、ただ黙って見つめた。


 誰も喋らない。


 部屋の中にあるのは、パソコンのファンが回る低い音と、興奮で少し荒くなった俺たちの呼吸だけだった。


 完璧だ。


 少なくとも、その瞬間の俺たちには、そう見えた。


 慧が作った、絶望感と暗い熱を含んだ世界。

 そこに、俺が三年間かけて磨いてきた線と画面が乗っている。


 三十一ページ。


 それは、奇跡の結晶に見えた。


 睡眠不足とカフェインで脳が壊れかけた高校生二人の目には、その原稿が、漫画界をひっくり返すほどの光を放っているように見えたのだ。


 感動。

 熱狂。

 そして、身の程知らずな全能感。


 それらが胸の中で膨れ上がっていく。


「なあ……慧」


 俺は画面を見つめたまま、かすれた声で呼んだ。


「何だよ」


 慧も同じように、血走った目で画面を見ている。


「四ヶ月後の新人賞まで、待てない」


 俺は拳を握った。


 そして、慧を見る。


「このまま『週刊少年ラッシュ』の編集部に持ち込もう」


 そのあまりにも無謀な言葉に、慧は一瞬だけ固まった。


 けれど、すぐに口元を吊り上げる。


 危険で、どうしようもなく楽しそうな笑みだった。


「自信あんのか?」


「ある」


 俺は即答した。


 画面に映る原稿を見ながら、口元が勝手に上がる。


「よし!」


 慧は俺の肩を強く叩き、笑った。


「なら、行こうぜ!」


 俺は机の上に置いてあった最新号の『週刊少年ラッシュ』を掴む。


 巻末のページをめくり、「新人持ち込み受付」と書かれた番号を見つけた。


 スマホにその数字を打ち込む。


 けれど。


 発信ボタンの前で、俺たちのさっきまでの身の程知らずな勢いは、一気にしぼんでいった。


 慧がスマホの画面をじっと見つめ、喉を鳴らす。


「……ここに電話すればいいんだよな?」


「……たぶん」


「何か、急に緊張してきた」


 慧は小さく肩をすくめ、スマホを俺の方へ押し戻す。


「や、やっぱ蒼介がかけろよ」


「どっちでもいいだろ」


 そう言ってスマホを受け取ったものの、俺の手のひらはすでに汗で湿っていた。


 俺は深く息を飲み、震える指を発信ボタンの上に置く。


 慧を見る。


「かけるぞ」


「おう……」


 慧が息を止める。


 俺は緑色のボタンを押し、スマホを耳に当てた。


 部屋の中が、ありえないくらい静かになる。


 トゥルルルル。


 トゥルルルル。


 心臓の音まで聞こえてきそうな、長い呼び出し音。


 そして。


『はい。少年ラッシュ編集部です』


 低い男の声が、電話の向こうから聞こえた。


 俺と慧は、同時に息を止めた。


 目を見開き、互いの顔を見つめる。


 心臓が、胸の内側を殴るみたいに暴れていた。


 もう、後戻りはできない。


 俺は画面に並ぶ三十一ページの原稿を見た。


 昨日まで、それは俺たちの頭の中にしかない妄想だった。


 けれど今は違う。


 それは確かに、この世界に存在している。


 俺は、震える拳を握りしめた。


 最高の場所へ続く扉を。


 俺たちは今、初めて叩いた。

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