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第2話 続きが気になる

 神宮寺と夕日の中で拳をぶつけ合った、その翌日の放課後。


 昨日あれだけ熱く「漫画家を目指す」なんて宣言したくせに、今日の俺たちは、結局また誰もいない教室の隅にいた。


 秘密同盟を結んだとはいえ、片方はクラスの目立つ現充グループにいる神宮寺。

 もう片方は、入学してからずっと空気みたいに生きてきた俺。


 人目のある場所で急に二人でつるみ始めるのは、正直、お互いにまだ少し気まずかった。


「ほい、これ」


 神宮寺はそう言うと、鞄の中から分厚い大学ノートを何冊も乱暴に引っ張り出した。


 ドン、と机の上に積まれたそれを見て、俺は思わず眉をひそめる。


「……何だこれ」


「ネームだよ。昨日お前にあんなこと言われたせいで、帰ってから止まらなくなった」


「は? こんなにかよ! 何で一晩で四冊も増えてるんだ!」


 ノートは一冊どころではなかった。

 四冊。


 この量、どう見ても一晩でどうにかなるものじゃない。


「仕方ないだろ」


 神宮寺はまったく反省していない顔で、むしろ得意げに鼻を鳴らした。


「初めて誰かに、俺の話には次のページをめくらせる力がある、なんて言われたんだぞ? そんなこと言われて、普通に寝られるわけないだろ」


「お前なあ……」


「アイデアが泉みたいにバシャバシャ湧いてきてさ。手が止まんなかったんだよ。気づいたらこうなってた」


 俺はこめかみを押さえ、深くため息をついた。


 昨日、こいつの物語に人を引っ張る力があることは認めた。

 認めたはずだった。


 けれど今、俺の脳裏には「やっぱりこいつ、本質的にはただの熱血バカなんじゃないか」という強烈な不安がよぎっていた。


「ちゃんと考えたんだろうな? こういうのは量を書けばいいってもんじゃない。大事なのは中身だ、中身。面白くなかったら、いくら書いても意味ないぞ」


「そんなのわかってるって」


 神宮寺はにやりと笑った。

 白い歯を見せる、いつもの無駄に自信満々な笑顔だった。


「とにかく、まず読んでみろよ」


「はいはい」


 俺は諦め半分に返事をして、一冊目のノートを開いた。


 ……案の定だった。


 目に飛び込んできたのは、ぐにゃぐにゃに歪んだ棒人間の群れ。

 コマの枠線は傾き、人物の関節はありえない方向に曲がっている。


 控えめに言って、画力は幼稚園の年中くらいだった。


 いや、幼稚園児に失礼かもしれない。


 だが、重要なのは絵じゃない。

 物語だ。


 俺は深く息を吸い、ぐちゃぐちゃの落書きみたいな画面を無理やり視界の端に追いやる。

 意識を、話の流れだけに集中させた。


 一ページ。

 二ページ。

 三ページ。


 廊下の雑音が、少しずつ遠くなっていく。


 指先が紙をめくる音だけが、いつの間にか教室の中に残っていた。


 気づいた時には、俺は分厚い四冊のノートを、ほとんど一気に読み終えていた。


 隣に座る神宮寺は、珍しく少しだけ落ち着かない顔で、黙ったままの俺を見ている。


「どうだ? やっぱダメか? 自分では前よりマシになったと思うんだけどさ……」


「待て」


 俺はパタン、とノートを閉じた。


 そして、真剣な目で神宮寺を見る。


「もう一回読ませろ」


「お、おう」


 神宮寺は少し驚いたように瞬きをした。


 俺はもう一度、一冊目の最初のページを開いた。


◇ ◇ ◇


 さらに十数分が過ぎた。


 四冊目のノートを閉じた俺は、目を閉じて、少し乾いた目頭を揉んだ。


「どうなんだよ?」


 神宮寺は、ほとんど机に乗り出す勢いで身を乗り出してくる。


「んー……面白くなる、と思う」


「思う!?」


 神宮寺の眉が一瞬でつり上がった。


「『思う』って何だよ!」


「思うは思うだろ」


「だから! その『思う』はどういう意味なんだよ!」


 神宮寺が不満そうに机を叩く。


 俺は目を開け、神宮寺をまっすぐ見た。


「はっきり言うぞ。今、二回読んでわかったことがある」


「な、何だよ」


「お前のネーム、漫画になった時の画面がまったく想像できない」


「ぐっ」


「人物の動きも、空間も、全部ぐちゃぐちゃだ。どこに誰が立ってるのかも怪しい。たぶん、お前の頭の中にはちゃんと映像があるんだろうけど、それが紙に落ちた瞬間、すごい勢いで事故ってる」


「事故ってるって言うな!」


「でも」


 俺はノートの表紙に手を置いた。


「画面がここまで事故ってるのに、俺は最後まで読まされた」


 神宮寺が、少しだけ目を見開く。


「何度もツッコミたくなった。何度もノートを閉じたくなった。でも、次のページをめくるたびに、その先が気になった」


 俺は指先で、ノートの角を軽く叩く。


「だからわかる。この話の芯は、かなり面白い。ちゃんと漫画にできれば、かなり強い作品になると思う」


「何だよ、それ……」


 神宮寺は少しだけ力が抜けたように、頭を掻いた。


「漫画にできなきゃ、話が面白くても意味ないじゃん。前と同じだろ。頭の中では面白いのに、描いたら誰にも伝わらない」


「いや、そこで一つ思いついた」


「思いついた?」


「ああ」


 俺は人差し指を立てる。


「神宮寺。お前、これを描く前に、どんな準備をした?」


「準備? いや……頭の中に浮かんだ話を、そのまま描いただけだけど。ネームって、そういうもんじゃないのか?」


「そう。そこだ」


 俺はびしっと神宮寺を指差した。


「問題はそこだ。お前は絵が描けない。だから、お前の頭の中にある『物語』を『画面』に変換する時点で、情報が大量に抜け落ちてる」


「情報が抜け落ちてる……?」


「だったら、わざわざ下手な絵に変換する必要はない。お前の頭の中にある、一番原型に近いものをそのまま出せばいい」


「一番原型に近いもの?」


「物語を、文字で書け」


 神宮寺が目を瞬かせた。


「文字? 作文みたいに?」


「そう。ただし、学校の作文みたいな堅苦しいやつじゃない。小説を書くつもりでいい。キャラの台詞、動き、場面の変化、感情の流れ。それと、どこで読者の手を止めさせたくないのか。できるだけ詳しく文字で書け」


 俺は小さく笑う。


「それを漫画のネームに変える作業は、俺がやる」


 神宮寺は三秒ほど固まった。


 そして、次の瞬間、目を輝かせる。


「おおおおおおっ! それ、いいじゃん! あのクソみたいな棒人間を描くより、文字の方が何倍も得意だ!」


「だろ?」


 神宮寺の反応を見て、俺も少しだけ得意になった。


「今日はここまでだ。帰ったら、この中の一作を小説っぽい脚本に直してこい。明日持ってこいよ」


「おう! 任せろ!」


「おい、お前ら!」


 俺たちが机を挟んで盛り上がっていた、その時だった。


 教室の外から、やたら威圧感のある怒鳴り声が飛んできた。

 次の瞬間、半開きの後ろ扉が勢いよく開かれる。


 そこに立っていたのは、放課後の校内を見回っている体育教師だった。


 ごつい体格。

 無駄に鋭い目つき。

 そして、完全に怒っている顔。


 俺と神宮寺は、同時に肩を震わせた。


「こんな時間まで何やってんだ! さっさと帰れ!」


 俺は慌てて教室の時計を見る。


 いつの間にか、もう夜の七時近くになっていた。


「荷物まとめて帰れ! 今すぐ!」


「はい!」


 俺と神宮寺は、ほとんど同時に返事をした。


 ノートと鞄を慌てて抱え、逃げるように教室を飛び出す。


◇ ◇ ◇


 俺たちはそのまま走った。


 校門を抜けるまで全力で走り、ようやく足を止めた時には、二人とも肩で息をしていた。


 夜の冷たい風が、熱くなりすぎた頭を少しだけ冷やしていく。


「はぁ……はぁ……じゃあな、蒼介」


 神宮寺は息を切らしながら、あまりにも自然に手を振った。


 俺は思わずため息をつき、呼び止める。


「おい、ちょっと待て」


「ん?」


「今さらだけど、お前、何でそんな自然に俺を名前で呼んでるんだよ」


「え? 別にいいだろ。俺たち、もう相棒じゃん」


 神宮寺は当然だと言わんばかりに腕を組み、いつものむかつく笑みを浮かべる。


「一緒に漫画描くのに、いつまでも『藤原』とか『神宮寺』って、距離ありすぎだろ。お前も俺のこと、慧って呼べよ」


「……男同士でいきなり名前呼びって、普通に気持ち悪いだろ」


「何でだよ! 相棒感あっていいだろ!」


「その相棒感が気持ち悪いんだよ」


 そう言いながらも、神宮寺の目はやたらきらきらしていた。


 大型犬みたいだった。

 しかも、こっちの返事を期待して尻尾を振っているタイプの大型犬。


 俺は拒否の言葉を喉まで出しかけて、なぜか飲み込んだ。


 視線をそらし、近くの電柱を見ながら、ぼそりと呟く。


「……勝手にしろ。じゃあな、慧」


「おおおおおっ! いいじゃん、蒼介!」


 慧は嬉しそうに叫ぶと、そのまま俺の首に腕を回してきた。


「ぐえっ、苦しい! 離せ! 絞まってる! 首が!」


「いやー、青春だな!」


「どの辺がだよ! 殺人未遂だろ!」


 帰り道。


 隣でうるさく笑う慧の声を聞きながら、俺は結局、抵抗するのを諦めた。


 不思議なことに。


 ずっと冷えきっていた胸の奥が、「相棒」という言葉のせいで、ほんの少しだけ温かくなっていた。


◇ ◇ ◇


 翌日の放課後。


 昨日、体育教師に怒鳴られて追い出された教訓を活かし、俺と慧は新しい秘密基地を探すことにした。


「教室は危ない。いつ教師が巡回に来るかわからない。かといって、俺んちや蒼介んちだと、油断してゲーム始める可能性がある」


 慧は顎に手を当て、無駄に真剣な顔で分析していた。


「で? 何かいい案でもあるのか?」


「ふふん。もちろんある」


 そう言って慧が連れてきたのは、旧校舎にある第三図書室だった。


 ここは古い文学全集や、誰が読むのかわからない郷土資料ばかりが置かれている場所だ。

 普段、学生の姿はほとんどない。


 空気には、古い紙の匂いが薄く漂っている。


 正直、俺たちの秘密基地としてはかなり理想的だった。


 俺たちは足音を殺しながら、背の高い本棚に囲まれた一番奥の席へ向かう。


「さあ見ろ! これが俺の血と汗と涙の結晶だ!」


 慧は声を潜めながら、目を自信で輝かせ、文字でびっしり埋まったルーズリーフを鞄から取り出した。


 それを俺の前に滑らせる。


 俺は深呼吸をして、すぐに読み始めた。


 文字を目で追う。


 それだけで、昨日までぼやけていた棒人間たちが、頭の中で一気に輪郭を持ち始めた。


 台詞。

 動き。

 感情の変化。

 場面の切り替わり。


 全部が、昨日よりもずっとはっきりと伝わってくる。


 さらに。


 読んでいるうちに、またあの感覚が戻ってきた。


 ここで終わられたら困る。

 次が読みたい。

 この先に何が起きるのか、早く知りたい。


 最後の一行まで読み終えた俺は、顔を上げた。


 感想は、一つだけだった。


「……やっぱり面白い。俺の目は間違ってなかった」


「おお! マジか!」


 慧の目が一瞬で輝く。


 興奮した顔で、ぐいっと身を乗り出してきた。


「じゃあ、漫画にできるんだな!」


「できる。やっぱりこのやり方で正解だった」


 俺は力強く頷いた。


 指先が熱い。


 この脚本があれば、絶対に面白いネームが切れる。

 そう思えた。


「よし! じゃあさっそく――」


 慧が勢いよく机を叩いた。


 その反動で、ルーズリーフの一枚がふわりと舞い、通路へ落ちる。


「あ」


 俺が拾おうと手を伸ばした、その時だった。


 視界の端に、別の白い手が入った。


 慧の手じゃない。


 もっと細くて、白い手。


 顔を上げた瞬間、俺は固まった。


 早川栞。


 どうして、ここにいる。


 俺たちの話を聞かれたのか。

 どこまで聞いた。

 今の紙、どれだけ見られた。


 頭の中で警報が鳴り響く。


 中途半端に伸ばした手の行き場に困っていると、早川はその紙を持ったまま、そっと口を開いた。


「あの……藤原くんたち、小説を書いているんですか?」


「え?」


「すみません。拾う時に、少しだけ見えてしまって」


 早川は申し訳なさそうに微笑んだ。


 けれど、その目には小さな驚きがあった。


「すごく生き生きしていて……それに、続きが少し気になりました」


 その瞬間。


 俺は、一瞬だけ息をするのを忘れた。


 続きが気になる。


 俺が早川から一番聞きたかった言葉は、たぶんそれだった。


 上手いでも、すごいでもない。


 次を見たい。


 その一言が、胸の奥にまっすぐ刺さった。


 その時、向かいに座っていた慧が、何も考えていない顔で口を開く。


「小説? いや、これは漫画の――」


「そう! 小説!」


 俺は嫌な予感を察知し、全力で慧の言葉を遮った。


 同時に、机の下で慧の足を思いきり蹴る。


「ぐっ!?」


「趣味でちょっと書いてるだけなんだ! ただの暇つぶしというか、何というか、はは、ははは……!」


 乾いた笑いが口から漏れる。


 冷や汗が背中を伝っていた。


 慧は痛そうに顔を歪めたが、俺の「余計なことを言ったら殺す」という視線を見て、賢明にも口を閉じた。


 早川はルーズリーフを俺に返し、やわらかく微笑んだ。


「素敵だと思います。小説でも、何でも。誰かと一緒に、一つの物語を作っているのって……なんだか、いいですね」


「そ、そうかな。はは……」


 俺はぎこちなく紙を受け取った。


 図書室の空気が、少しだけ静かになる。


 早川は俺を見たまま、少し笑みを引っ込めた。

 それから視線を落とし、指先を軽く絡める。


 何か言おうか迷っているように見えた。


「あの……藤原くん」


「は、はい!」


 背筋が勝手に伸びた。


「この前の放課後のことなんですけど」


 早川の白い頬に、ほんの少し赤みが差す。


「一年C組の教室の前で……」


 心臓が一気に吊り上がった。


 終わった。


 やっぱり覚えていた。

 あの時、俺は何も言わずに逃げた。

 早川から見れば、どう考えても不審者だ。


「ご、ごめん! あの時は別に覗くつもりじゃなくて、たまたま通りかかっただけで――」


「大丈夫です」


 早川は小さく首を振った。


 そして、少し恥ずかしそうに笑う。


「あの時は、私も驚いてしまって。ちゃんと挨拶できませんでした。それに……あの雑誌を読んでいるところを見られるの、少し恥ずかしかったので」


 そこで早川は、少しだけ言葉を切った。


 その目には、かすかな探るような色があった。


 同時に、何かを期待しているようにも見えた。


「あの時から、ずっと少し気になっていたんです。藤原くんは今も……漫画を読んでいるのかなって」


 迷う理由なんてなかった。


 俺は力いっぱい頷いた。


「読んでる。もちろん」


 俺の答えを聞いた瞬間、早川はほっとしたように表情を緩めた。


「よかった」


 そう言って、彼女はやわらかく微笑んだ。


「それじゃあ、私はそろそろ行きますね。二人とも、頑張ってください」


 早川は小さく手を振り、本棚の向こうへ歩いていった。


 その背中が完全に見えなくなった途端、俺は椅子の背もたれにぐったりと体を預ける。


「はぁ……」


 長い息が漏れた。


「おい、蒼介」


 慧が蹴られた足をさすりながら、不満そうな顔で俺を見る。


「何で漫画描いてるって言わなかったんだよ。めちゃくちゃチャンスだっただろ」


「そ、それは……」


 俺は視線をそらし、しどろもどろに言い訳を探す。


「もし言って、結局できませんでしたってなったら、めちゃくちゃダサいだろ。変に期待させたくないんだよ」


「へえ?」


 慧は片眉を上げ、口元にものすごく腹の立つ笑みを浮かべた。


「きれいなこと言ってるけどさ。本当は、ある日早川さんが雑誌を開いて、『えっ!? 藤原くんがラッシュに載ってる!?』って驚くところを見たいだけなんじゃないの?」


 心の奥に隠していた一番恥ずかしい妄想を、こいつは一撃でぶち抜いてきた。


 耳が一瞬で熱くなる。


「う、うるさい! そんなこと考えてねえよ!」


「ほんとに?」


 慧が疑いの目で、にやにやと覗き込んでくる。


 俺は三秒ほど必死に耐えた。


 そして、負けた。


「……ちょっとは、考えた」


「考えてんじゃねえか!」


 慧が腹を抱えて笑う。


「うるせえ!」


 俺は机を軽く叩いた。


 けれど、頭の中には、さっきの早川の笑顔が焼きついて離れなかった。


 ほっとしたような、やわらかい笑顔。


 あの顔を見たせいで、胸の奥のマグマは完全に噴火していた。


 俺は勢いよく顔を上げる。


「おい、慧」


「何だよ。急にやる気に満ちた顔しやがって」


「早川のあの笑顔を見たら、もっとやる気が出た」


 俺はルーズリーフを指差す。


「でも、さっき頭の中でネームにしてみた感じだと、今の脚本じゃ短編新人賞の三十一ページには足りない。これだと、話の張力を出しきれない」


 慧を見る。


「今夜、この脚本をもう一回膨らませられるか?」


 慧は一瞬だけ目を丸くした。


 そして、すぐにいつもの狂ったような笑みを浮かべる。


「はっ、当然だろ。今夜寝なくても書いてやるよ」


「よし」


 俺は机の上の鉛筆を掴んだ。


 指先が興奮で少し震えていた。


「今すぐ描きたい」


「俺もだ!」


 慧は立ち上がり、胸をどんと叩いた。


「早川さんの顎が外れるくらいの神作、描いてやろうぜ!」


「外すな。怖いだろ」


 荷物をまとめ、図書室を出る。


 外の冷たい風に当たった瞬間、少しだけ頭が冷えた。


「でも、明日からここは使えないな」


 俺は歩きながら眉をひそめた。


「は? 何でだよ。静かでいい場所じゃん」


「作業中に、また早川が来たらどうする。原稿が完成するまでは、絶対に進捗を見られたくない」


「おー。わかるわかる。純情少年のプライドってやつね」


 慧はにやにやしながら、肘で俺の脇腹をつついた。


「だったら簡単じゃん。蒼介の家に行こう」


「お前、さっき家だと油断してゲームを始めるって言ってただろ」


「それは一時間前の俺の意見だ」


「一時間で意見を変えるな」


「今の俺たちを見ろよ。この熱量でゲームのコントローラー握ると思うか?」


 慧は、ノートとルーズリーフで膨らんだ鞄を叩く。


 悔しいことに、反論できなかった。


 確かに今の俺の頭の中には、一刻も早くネームを描きたいという衝動しかない。


「……まあ、そうだな。でも、何で俺の家なんだよ」


「都合悪いのか?」


「悪くはないけど……」


 俺は頭を掻き、少しだけため息をついた。


「俺、親には漫画家目指すとか一言も言ってないんだよ。バレたら絶対面倒なことになる。だから来るなら、絶対に騒ぐなよ」


「任せろ!」


 慧は妙に爽やかな顔で親指を立てた。


「よし、じゃあ今すぐ行くぞ!」


「は?」


 俺はその場で固まった。


「待て待て。今から来るのか?」


「当たり前だろ」


 慧は本気で何を言っているんだ、という顔をしている。


「俺、今夜この脚本を膨らませるんだろ? だったら蒼介の部屋で書いて、書き上がった瞬間にお前がネームに入る。効率最高じゃん」


「……まあ、そうだけど」


 こいつの創作熱に、俺は完全に飲まれていた。


 もう抵抗する気力もない。


 ――こうして。


 俺たちの最初の修羅場は、俺が何一つ準備していない状態で始まることになった。

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