獣化
咲を振り切って走り続けると、沼があった。
水は澄んでいるようだが、水面を覆うように楕円形の水草が広がっているため、底を見通すことはできない。
鉤爪は沼のほとりに立っていた木に上ると、木の葉に体を隠して陸が行った手順を思い返した。
頭の中に見えない手が入ってくるような不思議な感覚だった。
その手が鉤爪頭の中にあるスイッチをパチンパチンと入れていった。
スイッチが入るごとに、体の重しがとれるような感じがしたことを覚えている。
「確か……こう」
鉤爪はその感覚を思い出しながら、頭の中のスイッチに意識を集中した。
なんとなく上手く行きそうな予感がする。
鉤爪の足に鎖が絡みついた。
鉤爪は木の上から地面に引きずり落された。
「見ぃーつけた。まったく、女を置いて逃げるなんてひどいじゃないか」
顔を上げると、咲が立っていた。
鉤爪を見下ろして嗤っている。
その隣で、黒子のような身なりの男が鎖を握っていた。
上半身は異常に発達しているが、下半身は子供のように小さい。アンバランスな体つきをした小男だ。
頭巾で顔を隠しているため顔はわからないが、目玉の代わりに青い光が二つ並んでいる。生きた存在ではないのだろう。
「くそが。もう見つかったか。あと少しだってのに……」
悪態をつきながら鉤爪が体を起こすと、小男がぐいと鎖を引っ張った。
鉤爪は引き倒された。
小さな体のくせに、すごい力だった。
「この野郎」
鉤爪は爪で鎖を断ち切った。
今度は頭上から亡者の群れが降ってきた。
亡者は鉤爪に纏わりつき、血を吸い上げた。
「ぐわぁ」
鉤爪はたまらず、すぐそばの沼に飛び込んだ。
水の中に入った途端、纏わりついた亡者が鉤爪から離れた。
水中から見上げると、亡者達は忌々しそうな顔をして水面をぐるぐると飛び回っていた。
水の中までは追ってこれないようだ。
(チャンスだ。ここなら時間が使える)
鉤爪は水底まで潜ると、目を閉じて、頭の中に意識を集中した。
一度経験しているので、体が覚えている。手順を進めるのはさほど難しくなかった。
一つスイッチを入れるたびに、力が増していくことを感じる。
鉤爪の生気が膨れ上がった。
体の傷が消え、筋肉の一つ一つが生き物のように蠢き出す。
心が全能感に満たされていく。
圧倒的な力の奔流を感じながら、鉤爪は全てのスイッチを入れた。
水面から激しい水飛沫が上がり、鉤爪が飛び出してきた。
鉤爪は、沼の水面から突き出していた枯れ木を駆け上がり、その頂点に立った。
鉤爪の姿は全く別のものに変貌していた。
はち切れんばかりに膨れ上がった筋肉を黒い体毛が覆い、両手の爪が禍々しく伸びている。
後頭部から背中にかけて生えたタテガミがそそり立ち、大きく裂けた口からは牙が覗いていた。
わずかに鉤爪の面影が残ってはいるものの、それはまさに獰猛な獣そのものだった。
衝動に突き動かされるまま、鉤爪は咆哮を上げた。
空気が震えた。
沼の水面が波打ち、咲の体にビリビリとした振動が伝わってきた。
鉤爪が血走った目をじろりと咲に向けた。
左の鬼火が鎧武者に変化し、大剣を構えた。
小男が両手に持った鎖の束を広げた。
亡者が咲の周りに集まって蛭の壁を作った。
「獣化か。完全獣化とは珍しい。やはりケダモノだな」
刀を抜いて、咲が嗤った。
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次回は7/23(火)投稿予定です。




