記憶
「一つ約束をしよう」
屍食鬼が笹島に言った。
笹島の目の前には屍食鬼の赤く光る二つの瞳があった。
天井の電灯は明滅を繰り返し、屍食鬼の広い額と涙の痕のような皺を浮かび上がらせては影に戻した。
「これから起こることを黙って見ていることができたら、お前の命は助けてやる」
屍食鬼の手には笹島から奪った拳銃があった。
屍食鬼は笹島に拳銃を手渡した。
「これを使いたければ使えばいい。お前の自由だ」
屍食鬼の後ろに笹島の妻がいた。
臨月までまだ間があるが、腹は大きく目立つようになっていた。妻は右手を腹に添え、すがるように笹島を見ていた。
そして、妻を取り囲んで、三体のなりそこねが涎を垂らして屍食鬼の許可を待っていた。なりそこねは症状が進み、豚ような浅ましい姿をしていた。
笹島は奥にあるガラス扉に目を向けた。
ガラス扉は笹島達が住んでいる官舎と駐在所の仕切りとなっていた。
駐在所の外では、武器代わりに鍬やバールを持った住民達が息を殺して中の様子を窺っていた。
「一つ教えておいてやるが、外の住民に助けを期待しても無駄だ。彼らは戦うために集まっているのではない。彼らはただ不安に駆られて集まり、ことが終わるのをただ待っているだけだ。いつもそうだ。儂らが出て行かない限り、彼らがここへ足を踏み入れることはない」
屍食鬼が右手を上げた。
「やめろ!」
笹島は銃を屍食鬼に向けた。笹島の手はガタガタ震えていた。
笹島には、目の前のさほど大きくもない初老の男が巨大な怪物のように見えていた。
「それは誰に対するアピールだ?儂にか?それともお前の妻にか?」
銃を構えてはいるが、撃つ勇気がない笹島を屍食鬼はせせら笑った。
「言葉じゃ何も変えることはできん。行動のみが結果を変えることができる」
屍食鬼は左手で自分の額を指さした。
「撃ってみろ。そうすればお前も、お前の妻も、お前の子供も助かるかもしれんぞ」
しかし、引き金にかけた笹島の指はぶるぶる震えるだけで、銃弾が発射されることはなかった。
屍食鬼は右手を下ろした。
妻が笹島の名を叫んだ。
結婚する前も、結婚してからも妻は笹島をそう呼んでいた。そう呼ばれることに笹島は照れくささと嬉しさが入り交じったくすぐったい幸福感を感じていた。しかし今、妻の笹島の呼ぶ声は笹島を無力感で打ちのめした。
笹島は銃を構えたまま、ただ呆然と、妻が食いちぎられ、足が裂かれ、食い破られた腹から内蔵が引きずり出される様を、そして腹から取り出された自分の子が噛み砕かれる様を見ていた。
妻は人間の形を失っていきながら笹島の名を呼び続けた。
声が消えた後は、肉を食むくちゃくちゃという音と、骨を噛み砕くごりごりという音が長く続いた。
「よし、よし、いい子たちだ」
屍食鬼は残さず平らげたなりそこねの頭を撫でた。なりそこねはごろごろと喉を鳴らした。
「そうか、そうか。まだ足りないか。だったら、外にたくさん食べ物があるぞ。行っておいで」
三体のなりそこねは嬉々として駐在所を飛び出していった。集まっていた住民達から悲鳴が上がった。しかし、彼らの悲鳴は笹島には遠いものに聞こえた。
なりそこねを見送った後、屍食鬼は笹島のそばにやってきた。
笹島はまだ銃を構えていた。
「なかなか利口な態度だったな。期待以上だ。実に感動的な幕切れじゃないか。撃つ気のない銃をずっと構えているなんて滅多にお目にかかれるものじゃない。非常に人間らしい態度で好感が持てたぞ」
屍食鬼は笹島の肩に手を回した。
「約束通り、お前の命は助けてやろう。この町で生き残るのはお前だけだ」
笹島は衝動的に銃口を自分の口に入れ、引き金を引こうとした。
屍食鬼の瞳が金色に煌めいた。
笹島の体は動かなくなった。
笹島の眼前に、金色に煌めく屍食鬼の瞳が近づいてきた。
「人生は素晴らしい」
屍食鬼は言った。
「そして死はさらに素晴らしい。全ての生き物が平等に持つ不可侵の権利だ。生きとし生ける全てのものの生命という名の罰を終わらせる唯一の方法だ。儂は約束を守ると言っただろう。そんな都合のいい死に方はさせん。お前は自分の妻と子供の命を儂に差し出して、自分の命を救ったのだ。彼女たちのためにも、お前には生きる義務がある」
そう言うと、屍食鬼は笹島から銃を取り上げた。
夜が明け、太陽が昇りきった頃に、笹島は駐在所を出た。
町は人気がなく、がらんとしていた。
笹島は導かれるように、町の中心にある集会所へ向かった。
集会所の前には死体が積み上げられていた。三体のなりそこねが死体貪り喰っていた。一体どれほどの人間を喰ったのか、なりそこねは、笹島が知っている倍の大きさに膨れあがっていた。
そのなりそこねの体にはあちこちに亀裂ができており、血が流れていた。笹島が見ている間にも、亀裂は広がり、さらに別の場所に新しい亀裂が生じていた。
なりそこねから少し離れて二体のヴァンパイアがその様子を見守っていた。
一体は屍食鬼だが、隣に初めて見る若い男のヴァンパイアが立っていた。若いヴァンパイアは両手が鋭い鉤爪をしていた。
若いヴァンパイアはつまらなそうな顔をしていたが、笹島を見つけると飛び出してきて爪を向けた。
笹島は目を閉じた。
「鉤爪!」
屍食鬼が男を制止した。
笹島が目を開けると、屍食鬼が若いヴァンパイアを手招きしていた。若いヴァンパイアが戻ると、屍食鬼は何か耳打ちした。若いヴァンパイアは驚いたような顔をして、確かめるような視線を笹島に向けた。
獣のような悲鳴が上がった。
悲鳴を上げたのは、老いた農夫を貪っていたなりそこねだった。なりそこねの体全体に深い亀裂が走り、血が噴き出した。
なりそこねは屍食鬼の方へ歩き出したが、一歩歩くと腕が崩れ落ち、二歩目には両足が折れ、三歩目を歩くことなく体が崩壊して肉の塊となった。
その様子を見た残りのなりそこねが、助けを求めて屍食鬼の元に駆け出した。だが、若いヴァンパイアが道を塞いだ。若いヴァンパイアは一瞬でなりそこね達の首をもぎ取り、息の根を止めた。
二体のヴァンパイアは町から出て行った。
笹島は死に絶えた町に一人残された。
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あれから二十年。
あの日のことを忘れたことは一日たりともなかった。
臆病な自分、無力な自分を呪いながら、屍食鬼に復讐するためだけに笹島は生き永らえてきた。
屍食鬼を捜し出して、この手で殺す。
そのためだけに笹島の人生はあった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回は3/22(金)投稿予定です。




