13 愛を時に人を狂わせる
13 愛は時に人を狂わせる
春樹
それから、俺と静香さんは穏やかに時を過ごした。
彼女はあまり、わがままを言わない人だった。あまりというか、全然。どこか連れて行けとか、何か買えとか、特にもっと時間を自分のために使えというのが彼女にとって苦手な言葉らしかった。無理に言わせようとするとしんどいみたいで、だから、彼女が喜びそうなことをこっちから提案しては二人で出かけた。
旅行に行ったりとかそういうこともしたかったのだけれど、リフコの件で裁判が始まってしまって、さすがに今度ばかりは、仕事をしたくないということもできずに、家には寝に帰るだけ。週末彼女が来ても自分は傍らで仕事をしてるという日々が続き、あっという間に時間が経った。
やっぱり彼女は何も不満を言わなかった。それがちょっと不安で……。
でも、慣れてしまった。
そう、人は何にだって慣れる。静香さんがそばにいるという信じられないほどの幸運が、だんだん日常になりつつあった。
休みなんてほとんどないまま夏が過ぎ、空が高くなった頃、リフコの件に決着がつき、俺らが勝った。アシスタントという身ではあったけど、今までで一番主体的に関わった案件だったので感慨深かった。反面、榊原先生には完全に嫌われてしまったようだった。
そういう時だった。仕事中に電話かけてくるなんて絶対しない彼女から、夕方電話がかかってきた。
「春樹君、助けて」
その言葉に、反射的に半年ほど前にスーツケース引っさげて家出してきた彼女を思い出した。でも、その時の声は前回の時と比べものにならないくらい緊迫していた。
「静香さん、どうしたの?」
「お母さんが、倒れちゃった……。どうしよう?お母さん、死んじゃうかもしれない」
そして、電話の向こうで泣き出した。
「どこにいるの?すぐ行くから」
仕事を抜け出して、病院へ行った。彼女の母親は手術中だった。ペースメーカーが入れられることになったらしい。手術室のすぐ脇で、真っ青な顔してる彼女の横に座って、手術が終わるのを待った。
彼女の母親は、心臓にもともと問題があったらしい。ただ、それはそんなに深刻なものではなくて、本人も静香さんもそんなに心配してはなかった。それが今日、突然職場で倒れた。唯一救いだったのは、彼女の母親の勤め先というのが、病院だったことだ。彼女の母親は医療事務の仕事をしていた。
「今まで生きてきて何もいいことなかったのに、このまま死んじゃったら、お母さん、かわいそう」
手術が終わるのを待つ間、何かに取り憑かれたように顔を硬くしてそんなことを言う。
「静香さん」
呼びかけると、青白い顔でこっちを見る。
「お父さんには、知らせた?」
その単語を聞いた途端に、彼女の目は凍ったように思った。
「知らせた」
気のせいだったのかと思いなおした。一瞬だったから。
「今、向かってるの?」
「わかんない。留守電だったし」
「もう一回かけたほうがいい。気づいてないのかも」
「いいの。あの人は何回かけても留守電なんだから」
急に彼女が声を荒げて、その様子は普段の彼女とは似ても似つかなくて、俺はびっくりした。静香さんははっと我に返って俺に謝った。
「ごめん。急に大きな声を出して」
「いや。謝んなくていい」
お母さんのことについては時々話したけれど、お父さんについて聞くと、仕事の関係で今はお母さんと一緒にいないのだと言われた。何をしてる人?と聞いたら、サラリーマンだと言っていた。なんとなく仲が良くないのかなと思ってはいたけれど……。
夜半に手術が終わって、お母さんは集中治療室に移された。付き添いはできない。また明日来るように言われる。その日は彼女の部屋に一緒に帰った。次の日も朝から病院に行く。午後になると、個室に移された。まだ目が覚めなかった。彼女は母親のベッドに縋り付いて、ただじっと母親が目を開けるのを待っていて、自分は彼女のそばにいた。
がらりと病室のドアが不意に開いた。
「静香」
1人の男の人が立っていて、その顔を見て俺は目を見張った。そこにいる初老の男性はおそらく静香さんのお父さんで、初対面の人だったけど、ただ、知ってる人でした。驚いて呆然としている自分の後ろから、ピンと張った静香さんの声が響いた。
「今更来て何よ!何回、電話かけたと思ってるの?」
「……」
その人は何も言えなかった。
「いつ連絡したってそうなんだから。こんな大変な時にだって。お父さん、いっつもそうなんだから」
「静香……」
「なんで来るのよ!どうせなら、もう、完全にいなくなってよ!わたしとお母さんの人生から完全に消えて!」
「静香さん」
俺は泣きながら喚いてる彼女を後ろから抱きしめた。
「やめなよ。もう、やめな」
ただ、立ちつくすことしかできない男の人の前で、彼女は号泣した。身体を震わせて。何も言えなかった。静香さんのお父さんも、自分も。ただ、抱きしめてあげることしか。そして、俺の目の端に、それが映った。彼女の耳元で俺は囁いた。
「静香さん、お母さん、目が開いた。起きたよ」
まるで親子喧嘩が心配で寝てはいられないとでもいうように、彼女の母親はうっすらと目を開けていた。
「お母さん?」
静香さんは俺の腕の中から逃れると踵を返し、ベッドにすがりつくと母親の手を取って母親を呼び続ける。呼びながら泣いている。
「お母さん、お母さん」
胸が痛んだ。その声と、その背中を見ていると。
「お医者さん、呼んできます」
静香さんのお父さんにそう声をかけて、俺は廊下に出た。
静香さんがずっと待ち続けていた人、それは、神谷さんではなかった。
それは彼女のお父さんで、そして、彼女のお父さんを俺は本人に会う前から知っていた。彼女のお父さんが、テレビに出ているような人だったからです。有名なノンフィクション作家で、コメンテーターとしてあちこちの報道番組などで顔を見る、大木道隆でした。
静香
父と母は、病院で出会ったらしい。父が何か軽い病気か怪我で通院していて、なんとなく父のことが母は印象に残っていたらしい。そして、通院が二回目か、三回目になった時、父は治療代が払えなかった。普段は寡黙な様子で、落ち着いて頭の良さそうな人が、よっぽど恥ずかしかったのだろう。慌ててしまって、耳まで真っ赤にしているのを見て、とても気の毒になって、会計の係として窓口にいた母はお金を貸したのだそうだ。それがきっかけだと。
その頃の父は、売れない高尚な本を書くかたわら、時々頼まれて記事を書くしがないフリーライターで、お金に困っていた。母は父を拾った。家族の反対を押し切って結婚して、わたしが生まれた。わたしが生まれてからも、父はしがないフリーライターであり続け、我が家の家計はある時期までずっと母がみていた。
わたしはその頃のことをくっきりとよく覚えている。
幼稚園に迎えに来る父。若い母親たちの間に一人、男として居心地悪そうに立っていた父。
帰り道、公園に寄ろうと駄々をこねると、嫌な顔をするのだけれど渋々応じる。わたしが遊んでいる横で、ベンチに座って難しそうな本を読んでる。父はいつだって一冊は必ず本を持っている人だった。わたしは誰か一緒に遊ぶ子がいたらいいのだけど、一人だとつまらなくて、父に一緒に遊べという。父は本から顔をあげてしかめ面をする。でも、渋々遊んでくれる。
そして、時々、わたしに笑いかけてくれた。
滅多に笑わない人だけど、笑った時は優しい顔になる。その顔が好きでした。
二人で家に帰る。手を洗ってうがいをして、ベランダに干した服を二人で協力して取り込んで、簡単なもの、バスタオルとかああいう四角いもの、それを二人で畳みながら、でもこのくらいからもうわたしはソワソワしている。
父はまた机に戻り、わたしはお絵かきをしたり絵本を読んだりして遊ぶ。カンカン外階段を上がる足音がするたびに玄関にすっ飛んで行って、ドアを開けて外を覗く。いつも必ず何回か外れがあった。
「お母さんっ」
「ただいま〜」
あの頃、母が帰ってくると必ず家が明るくなった。父もわたしも、毎日母が帰ってくるのを待ちわびてました。母からいつも元気を分けてもらっていた。
「今日ね、幼稚園でね」
三人で囲んだ食卓で、わたしはマシンガンのように話して、母は疲れていただろうに、にこにこと話を聞いてくれた。父は黙って横でご飯を食べていた。その顔はよく見ないとわからなかったけど、微笑んでいた。あの頃、父はわたしたちの会話に積極的にくわわりはしなかったけど、でも、わたしたちのやりとりを聞いて、喜んでいたんです。
わたしが小学校低学年のある日、父はノンフィクションの作品で賞を取りました。
長く続いた父の苦労が報われた。本人以上に喜んだのが母で、その母の様子を見て、嬉しくてたまらなかった。わたしたち家族が一番幸せだった時は間違いなく、あの、父が受賞した直後です。
父のことが好きだったのかと聞かれたら、やはり好きだったのだと思います。ただ、それ以上に、わたしは母が喜ぶ様子が好きだった。母は父のことが本当に好きで、その心は突き抜けていました。世界の片隅でものになるかどうかわからないものをこつこつと書き綴る男。誰もが無視し続けていたその存在に、出会ったその日からずっと光を与え続けた人は母でした。
父が有名でも無名でもそんなことに関係なく、母の愛はいつも父に注がれ続けていた。母は人を支えることで喜びを得て、輝くそういう人です。
愛は時に人を狂わせる。
母は父を愛していて、父は長い時間をかけて、成功をおさめた。本来ならここで、ハッピーエバーアフターの言葉とともに、わたしたち家族の物語は後半を省略されたっていいはずでした。でも、そうはならなかった。
受賞したのみならず、その本は当時世間の話題となり、ベストセラーになった。次作が期待され、父にはプレッシャーだったのかもしれません。執筆に専念するためと、仕事部屋を借りた。そして、昼も夜も帰って来なくなりました。
当たり前のように家にいた父親が、ある日突然消えてしまった。まだ、小学生だったわたしはパニックになりました。そんなわたしに母は言いました。
「静香、お父さん、大事なお仕事があるの。お仕事の邪魔しちゃだめよ」
「お家でできないの?前はいつもお家でしてたのに」
「前よりも、もっともっと、すごい本をお父さん書いてるのよ」
「……」
「お父さん、がんばってるの。だから、わたしたちも応援してあげよう」
わたしたちの応援、それは、父の仕事の邪魔をせず、こちらから会いたいなどと言わずに、父が帰ってくるのを待つことでした。
安定した収入が入ってくるようになって、母は仕事を辞めた。父の仕事部屋に行っては家政婦のように身の回りの世話をして、わたしが学校から帰るような時間には家で待っている。なかなか帰ってこない日が続くと、母は週末にわたしを連れて父の部屋へゆく。家事をしている母の横で、わたしは久しぶりに会った父に甘えました。学校での話をしたりした。頃合いが来ると、母がそっとわたしに声をかける。
「静香、お父さんのお仕事の邪魔しちゃだめよ」
その声を合図にわたしは父の書斎から離れ、リビングで1人で本を読んだり、持ってきた落書き帳に絵を描いたりして、母の家事が終わるのを待ちました。一緒に父の部屋で3人でご飯を食べる時、わたしと母が話している横で、父はやはり黙っているのだけれど、前と違った。うるさいと思っているように見えたんです。前は、わたしたちのおしゃべりを音楽を聴くように楽しんでいた。でも、父は変わってしまっていました。わたしは父の前でぺちゃくちゃと話すのをやめてしまった。
父はどんどん忙しくなって、わたしたちはときどき顔を合わすのだけれど、父は心ここにあらずといったいった様子でした。それでも父が大好きな母は、父の横でただひたすら父の機嫌を損ねないように、邪魔をしないようにしながら、まるで空気のように、それでも許されるだけ父のそばにいました。
わたしの誕生日も、母の誕生日も、クリスマスも、父と一緒に過ごした記憶があまりない。さすがにお正月はいるのだけれど、やはり静かで、そして暇さえあれば父は本を読んでいて……。運動会も、授業参観も、卒業式も、入学式も……。一体わたしには父親がいるのだろうか?他の子のお父さんを見るたびに思った。
父はテレビにまで出るようになりました。あんなに話さない人が、テレビに出てどうするのだろうと子供ながらに思った。
「見て見て!静香。お父さん、出た」
母はまた、はしゃいで、そして、わたしはテレビに出ている父を見て驚いた。父は饒舌でした。とうとうと難しい言葉で難しいことを語り、周りの人を感心させていた。そりゃそうです。父は物書きです。語ることの下手な物書きなんてどこの世界にいますか?しかし、わたしにとってその父は、わたしの知っている父とは全く別の別人でした。
わたしには、カッコいいスーツを着て、まるで大学教授のように知的に見える父よりも、安物の服と靴でわたしを幼稚園まで迎えに来てくれたあの父のほうがよかった。多分、父はもともと子供があまり好きではない。だけど、実の娘が駄々をこねれば、渋々遊びに付き合ってくれるくらいの優しさは持っていた。わたしたちと一緒にいることをあの頃の父は喜んでいた。
小さな部屋で小さなちゃぶ台を3人で囲んで、豪華とは言えないご飯をおしゃべりしながら食べる。あの時のような幸せを、あれからわたしは知りません。
おそらく、あのまま父が世の中に出ることなく3人であの生活を続けていたら、また別の破局をわたしたちは迎えたのかもしれない。わたしは院はおろか、大学に進学することもできなかったでしょう。
「お父さんになかなか会えなくても、最近はテレビつけたら顔が見られるからいいわねぇ」
母はそんなことを言いました。のんびりと。
「こんなすごい人と結婚したなんて、お母さん、最近、自分でも信じられなくって」
そう言って笑った。母はほんの僅かも父を憎んだり、恨んだりしていませんでした。そして、ありえないことですが、母は自分は幸せな女だと思っているんです。
「お母さんみたいに頭の良くない人が、お父さんみたいに賢い人の奥さんでいいのかしらね?それでいいってお父さんが言ってくれるんだから、お母さん、感謝しなくっちゃ」
愛は人を狂わせる。狂った世界の中で、母は幸せに生きていた。昼も夜も家にいたりいなかったりの父のために、掃除と洗濯をして、買い物をして、冷蔵庫に食べるか食べないかわからない料理を作って詰めて。わたしに手がかからなくなってくると、パート待遇でまた働き始めた。
「懐かしいなぁ。お父さんが、お金が足りなくって真っ赤になっちゃったあの日が」
いつぐらいからだろうか?中学生ぐらいの頃か、わたしは思うようになった。母があの若い日に父と出会ったように、誰か別の人と出会えばいいのにと。大切にできないのなら、父はせめて、完全に母を手放すべきだと。母の狂気で作り上げた幸せをきちんと壊して、誰か別の人のところへ送り出してあげるべきだと。
だけど、父は完全にはいなくならない。母はせっせと父の元へ通い、父はそれを拒まない。もちろん、離婚しようだなんて話も出ない。すれ違いの毎日で、2人が顔を合わせる時間なんて、本当に僅かしかないのに。母のような女は、愛に生きる女です。もっといつも近くにいてくれて、母がその人のためにすることを喜んでくれる人がいたら、どんなに幸せか。
母のベッドの脇で、春樹君と一緒に久しぶりに父と対面したあの日、母は目を覚ました。
お医者さんが状態を確認して、特に心配するようなことはないと思いますが、連絡は常にとれるようにしておいてくださいと言われた。わたしは父とほとんど口を利かず、間に立たされて、春樹君が困っていた。
「本当にびっくりした」
その日、わたしの家に帰ってきて、2人っきりになった時に言われた。
「……」
「顔似てないし、苗字違うし、言われなかったら絶対親子だってわかんない」
「わたし、母親似だし」
「なんで大木って名前じゃないの?」
「ペンネームよ。月城ってなんか女性的な苗字で好きではないんだって」
「へー」
有名人にあったからか、興奮した顔をしていた。
「隠さずに最初から話してたほうがよかった?」
「いや、そんなのは別に。お父さんがどんな人がより、静香さんがどんな人かの方が俺にとっては重要だからさ。ただ、びっくりした」
わたしは父について話しました。この話は必要がなければあまり人にしない話。
「ね、春樹君、大きな木って絵本、知ってる?」
彼はしばらく首を捻ってから言った。彼はあまり、小説や物語の類を読まないのです。
「多分、知らないな」
「リンゴの木がね、友達の男の子に全てを与えてしまう話なの」
「うん」
「わたしのお母さん、あのリンゴの木みたい」
「……」
春樹君は横にいるわたしの身体を黙って抱きしめた。
「お金が欲しいって言ったら、リンゴをあげちゃうの。家が欲しいと言ったら、枝を。遠くに行きたいと言ったら、幹を。最後に切り株になっちゃうの。それから何年も待って、男の子が老人になって戻ってくるの。リンゴの木は困るの。もうあげられるものがない。そしたら、その老人は、疲れたから休む場所が欲しいって……。切り株に座るの」
母の笑った顔。いつも、自分は幸せだと言って笑う顔が目に浮かぶ。
「最後の言葉がね、木は幸せでした……」
母はどうしてそんなふうに生きられるのだろう?ほんの僅かも父を恨まずに。
「お母さんが死んじゃうかもって思った。それなのに、お父さんったら、また、お母さんのことひとりぼっちにして……」
「うん」
春樹君は泣いているわたしの髪を撫でてくれた。そして、その時に古い記憶が蘇りました。
「お父さん、百点とったよ」
父は、読みかけの本から顔を上げて、わたしとその答案を見る。
「それは頑張ったね」
あっさりとした口調だった。父にとって百点を取るということはそんなに大したことじゃなかったのだろう。
「よしよしして」
「よしよし?」
「うん」
わたしは自分の頭を父に差し出した。父は言われる通りにわたしの頭を撫でた。
「こうすると、お父さんの手から頭のいいのがうつるって。お母さんが」
「え?」
父は戸惑った。
「お父さん、そんなすごい人じゃないよ」
「いいや。お父さんはすごいんだよ。だって、お母さんがいっつも言ってるもん」
「……」
「だから、これから百点取ったら毎回、よしよししてね」
「……うん。いいよ」
わたしは父に頭を撫でられるのが好きだった。
どうしてあの頃のままで、わたしたち、いられなかったんだろう?仲のいい家族のままで。




