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しあわせな木  作者: 汪海妹
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14/15

14 切株に座る人と座らせる人













   14 切株に座る人と座らせる人












   













   春樹












 静香さんのお母さんは、順調に回復しました。呼吸器とかそういう器具が外れて、普通に話したりできるようになると、俺は病院に呼び出された。お医者さんが俺をよびだしたのではなくて、呼び出したのは彼女のお母さんです。病院へ向かう電車の中で彼女は俺に謝った。


「ごめん」

「いや、別に、謝るようなことじゃないでしょ?俺も嬉しいし」


 彼女はしかめっ面をしながら続ける。


「ほんっと、信じられないのよ。お母さんたら、死にかけたのよ?それなのに、目を開けて一番最初に考えたことが……」


 笑ってしまった。何度聞いても笑える。

 

 もしかして、この人、静香の彼氏?


「これは、意地でも生きなきゃいけないって思ったって、なんなのよ。全く」

「でも、よかったじゃん。それで、元気になるのなら」

「それから、人の顔見るたび早く会わせろって。あの日は朦朧としていて、よく見られなかったからって」

「そんなにお母さんが心配してんなら、もっと早く紹介してくれたってよかったのに」

「いやなのよ。お母さん、すぐ一人で盛り上がっちゃうから」


 お母さん相手だとわりとムキになる。いっつも余裕のある静香さんが子供っぽいのがかわいかった。病室に着くと、明るい声に迎えられた。


「あら、あらあら、いらっしゃい」


 この前、会った時は、顔が真っ青で、それが今日は顔色も良くて、にこにこしてて、本当によかったと改めて思う。あと少しで好きな人を産んで育ててくれた人に生きて会えなかったかもしれなかった。


「お母さん、お花買ってきてあげたよ。花瓶は?」

「あら、そんなものあったかしら?」


 静香さんがベッド脇の棚をパタパタ開けたり閉めたりする。


「ないね。売店で買ってこようか」

「いやよ。もったいない。ほら、一階行って、お会計のとこで、月城の娘ですけど、花瓶貸してくださいって言って借りてきなさいよ。一個くらい余ってるわよ」

「ええっ?」

「いいから行ってきなさいよ」

「いやよ。そんな貧乏くさいの」

「これは、貧乏とは関係ないんです。エコなの」


 普段の大人びた静香さんとはちょっと違う、子供みたいな顔になって怒った。


「もうっ」


 おとなしく出て行った。お母さんが嬉しそうに笑う。


「うちの子、かわいくないでしょう?」

「いや、かわいいですよ」


 かわいいと思わなきゃ付き合ったりしない。あら、やだと言ってお母さん、両手で女の子みたいに口元隠して嬉しそうに笑った。可愛らしい人だった。


「あ、すみません。初めまして……ではないのかもしれませんけど、上条春樹です」

「どうも、静香の母です」


 ちょこんとお辞儀された。


「なんて、お呼びしたらいいのかしら。静香はなんて?」

「ああ、春樹君」

「あら、じゃ、わたしも真似しちゃおうかしら。春樹君」


 なんだか、ちょっと照れてしまった。


「いつ頃からお付き合いしてるの?」

「えっと、今年の春先……」

「どこで、知り合ったの?」

「……」


 嘘をつくわけにも、でも、正直に答えていいんだろうか?高校で……。お互いが高校の高校ではないですが……。


「仕事の関係で……」

「ふうん」


 適当に誤魔化してみました。


「それにしても、春樹君みたいな人がいるなら早く言ってほしかったわ。あの子、ずっと恋人いなかったんですよ。まぁ、女で頭がいいと、あの子、学歴も高いし。縁遠くなっちゃうのかしらね。男の子に産んであげたらよかったって何度思ったか」

「それだと僕が困ります」

「あら」


 お母さんはまたかわいらしく笑った。


「ほんと、わたしなんかが産んだ娘なのに、父親の血ですかね?頭のいい子で。勉強しなさいなんて言ったこと、一度もなかったわ」

「顔はお母さんに似て綺麗ですしね」

「あら」


 なんだか、お母さんを笑わせるのが楽しくなってきました。


「やあね。春樹君みたいな若い子にそんなこと言われるなんて、お世辞でも嬉しいわ」

「お世辞じゃないですよ」

「なに、話してんの?」


 2人で振り向くと、静香さんが花挿した花瓶を抱えて立っている。


「あら、静香。もっとゆっくり帰ってくればいいのに。気が利かないわね」

「それ、どういう意味?」


 お母さんがまた、ころころと笑う。

 そのあと3人でしばらく他愛もない話をした後に、静香さんが言った。


「ねぇ、お母さん。今回みたいなことがまたあったら怖いからさ。わたし、今のところ引き払って、お母さんと一緒に住むよ」

「あら、そんな必要ないわよ」

「また、痩せ我慢してる」

「痩せ我慢じゃないわよ。お母さんはお父さんと住むから大丈夫」

「え……」


 静香さんの顔から、表情が消えた。


「お母さんがそのつもりでも、お父さんは……」

「違う、違う。お父さんがそう言ってるの」


 

 静香さんはぽかんとした。


「でも、お父さんなんか、忙しくていっつもそばにはいられないでしょ?」

「一部のもの以外は断って、仕事を減らすって言ってたわ」

「そんなの信じるの?お母さん」


 彼女の声は少しぴりりとして、俺はちょっと緊張した。この前みたいに、彼女に心を痛めてほしくなかった。


「静香……」


 この時、お母さんはしんみりとした顔をした。


「お父さんはわかりにくいけど不器用なだけで、お母さんや静香のこと大切にしていないわけじゃないのよ」

「でも……」

「倒れてみるものね。お父さん、なんか思うところあったみたい」


 お母さんは、そっと目を閉じて、幸せそうにうっとりとした。


「テレビに出たりとか、そういうバタバタした毎日から自由になって、折角、せかせか頑張らなくてもいいだけの名声を得たんだから、昔、君の横で、ただ純粋に書きたいものを書いていたように暮らしたいって」


 その顔は、本当に幸せそうでした。わざわざ言葉に表さなくてもどれだけご主人を、静香さんのお父さんを愛しているのか伝わった。そこには、一片の憎しみも、苦しみもなく、ただ、人を愛する喜びがあった。


「本当にそんなこと言ったの?」

「言いましたよ」


 2人のやりとりを横で聴きながら、俺はこの前静香さんがしていた本の話を思い出した。木は幸せでした。最後に切り株に座る人と、座らせる人。こんなことを軽々しく言ってしまっては怒られるかもしれないけれど、本人達にとってはこれは、究極のハッピーエンドなんです。

 ただ、与え続けて、そして、それが純粋な喜びになる。そんな愛し方ができる静香さんのお母さんはすごい人だと思って、そして、大木道隆という人物を世に生み出したのは、やはり静香さんのお母さんなのだと思う。でも、娘としてかたわらにいた静香さんは、その生き方を犠牲だと思ってしまった。そして、本人自身も深く傷ついてしまった。


「きっとまた、お父さんは約束を守らない。お母さんはまた待たされる」


 帰りの電車の中で、彼女は憂鬱そうにしていた。俺は今度こそ、約束が果たされることを心から願った。お母さんのために。そして、好きな人の、静香さんのために。

 自分にはわからないんです。静香さんのお父さんがひどい人なのかどうか。2人の在り方は、娘の静香さんを傷つけてしまったから。ただ、お母さんは生命を取り止めた。俺たちにはまだ、未来がある。人生の中でこんなふうに切株に座るのと座らせるような関係の夫婦というのはきっと他にもいて、でもそのそれぞれの夫婦のそれからの結末というのは、また、ばらばらなのではないか。ただ、より良い結末を目指して歩んでゆくしかない。

 静香さんのお父さんも今、そう思っているんだと信じます。


 そんな日のかたわらで、自分の生活にも、変化が起きた。

 とある普通の日の朝、事務所に行くと、桜木先生、佐々木さん、俺、3人全員呼ばれた。道すがら買って来たコーヒーをデスクに置くと、江上先生の個室に入った。3人で先生の前に横一列に並ぶ。


「前からあった話なんだけれど、本決まりになったから君たちにも伝えておく」


 先生は座ったままで、両手を組んで、いつもみたいに淡々としていた。


「3、4ヶ月先の話になると思うんですが、事務所を辞めて、東京を離れることになりました」


 驚いて横を向くと、桜木先生も、佐々木さんも自分と同じような顔をしていて、知らされてなかったのは自分だけではなかったと知った。


「どうして?」


 桜木先生が聞く。


「大学の同級生が博多で弁護士しててね。前から誘われてたんです。一緒にやって欲しいって」

「……」


 みんな、黙ってしまった。先生に会えなくなる寂しさと、そして、不安。それは心地よい寝床をまだ寝ている朝方に傍若無人に剥ぎ取られて、寝間着のままで寒空の下に叩き出される、そんな気持ちだった。それまで気が付いてなかった。自分は知らず知らず、江上先生を頼っていました。


「今じゃないといけないんですか?」


 気づくとそう言ってしまっていて、そばの二人もなにも言えず、江上先生は困ってしまった。


「ああ、すみません。なんでもないです」

「上条君」

「あの、わかりました」


 そして、なんだか恥ずかしくなって、部屋を出てしまった。ちょっと1人になりたくて、フロアの休憩室に向かう。事務所を突っ切る時に、他のチームの人たちが視界に入る。同じ事務所の人たち。遠い他人に思えた。江上先生と働く前はそれでも、あの中で息を潜めてやっていた。それは、社会はこういう所だと思い込んでいたからで、今は前みたいに騙し騙しやっていける自信がない。

 江上先生がいないと、この事務所でうまくやっていける自信がない。

 先生は、自分が社会に出てから初めて会ったまともな大人だった。


 休憩室の窓から朝の街を上から眺める。ぼんやりと。


「こんなところにいたのか」


 ふと顔を上げると、そこに江上先生がいた。


「すみません。動揺してしまって」

「動揺?」

「俺、先生がいなかったら、ここでやってく自信がありません」

「……」

「こういう大きい事務所、自分には向いていないんじゃないかって思うんです」

「それは、自分も何度も何度も考えた」

「先生がですか?」


 先生は笑いながら頷いた。


「だけど、この歳になるまで、ここに齧り付いた。逃げなかった」

「……」

「ぎりぎりのところでみんな生きているものだから、最近は心を病んでしまう人もいるし、絶対に逃げるなとは、君にも言えないのだけれど……。ただ、そういうぎりぎりの環境でしか、人は強くなれない」

「強く……」


 自分は弱い。強くなんてない。でも、その俺の心の声を、江上先生は否定した。


「人間は自分が思っている以上に実は強いものです」

「……」

「でも、その、自分の強さはね、ぎりぎりの場面で戦って勝ったり負けたりする自分に自分で出会わなければ、信じられないものなんだよ。だから、本当にもうだめだと思うまでは、逃げちゃだめだ。上条君」

「……」


 それでも元気の出ない自分に向かって、江上先生は言いました。


「自分のためにではなくて、人のために頑張ってごらん?怖さが消えて、力が湧いてくる。君はそれができたじゃないか」

「あ」


  そして、思い出した。リフコの渕上さんや社長さんと、榊原先生を天秤にかけた瞬間を。

 不思議だった。あっという間に恐怖が消えました。


「先生は博多に逃げるんですか?」


 江上先生は大笑いした。


「ちょっと、桜木くんに似てきたな。君も」

「一緒に働いているもので」

「少しでも大きいものを目指すのもいいと思うんだけど、僕がやらなくても他にいくらでもやる人がいる。反対にね、地方は今、弁護士が足りないんですよ。このくらいのまだ働けるうちに全然違う環境にまた自分を置くのもいいかと思ったからです」

「……」


 それでもそれはやっぱり、負けなんだろうか。それとも、勝ち?


「そうそう。もう一個だけ、教えといてあげましょう」

「はい」

「男はね、身近に味方を持っているかどうかで決まりますよ。世の中には様々な勝ち方がある。自分は勝ってると思い込んでしまったら、勝ちだし、自分は勝ってると思い込ましてくれる味方がそばにいると、頑張れる」

「それは、つまり……」

「普通は、奥さんですね」

「……」

「ありきたりの話ですみませんね」

「先生、惚気てるんですか?」


 先生はまた大笑いした。


「まぁ、君もそういう人ができれば分かりますよ」


 もう、います。心の中でだけ、言っておいた。













   静香












   


 母の退院の日、病室で荷物をまとめるのを手伝っていると、父が来た。思わず振り返って母を睨んだ。


「なんて顔するの、静香」


 わたしはまだ、父のことを許してませんでした。


「お父さんが来るって知ってたら、今日来なかったのに」

「なに言ってるのよ」

「帰る」

「静香」


 父の脇を通り過ぎて、廊下に出た。このまま、もう一生口をききたくも、顔も見たくもなかった。


「もう、お母さんのこと走らせないで」


 廊下で母に捕まった。


「ごめん」


 心臓押さえてる母見て、真っ青になった。慌てて近くの椅子に座る。母は心臓を押さえたままで俯いている。わたしはいったいなにをしてるんだろう。先程まで怒ってたのが一気にさがる。


「なーんてね」

「はい?」


 気が抜けた……。怒る気も失せた。父がわたしたちの後ろから荷物抱えてくる。


「でもさ、今のは冗談だけど、お母さんにちょっとでも長く生きて欲しいなら」

「はい」

「お母さんにストレスかけないで」

「……」

「お父さんと静香が仲良くしてくれなかったら、お母さんもっかい倒れちゃう」


 この脅迫には、屈するしかありませんでした。母親って……。

 母親ってときどき敵わないと思う。理屈ではなくて何かもっと別のもので子供のことを把握していて、嫌な言葉で言えば支配しているんだけど、でも、その支配は……。

 一言で言えない。母の支配は、そう、わたしという存在を根こそぎ変えてしまうほどに強力で、悪でもなく善でもないんです。お母さんを切り捨てて生きてくなんて世の中のたいていの人はできないのだから。


「あー、家はやっぱりいいわねぇ」

「じゃ、あんまり無理しないでね」


 家まで送ってそそくさと帰ろうとしたら、


「静香、ちょっと座ってくれないか。話があるんだ」


 父に言われた。渋々、テーブルに腰掛ける。父が座った横に母がちょこんと腰掛けた。


「今回のこと、それに今までも悪かった」

「……」

「お父さん、今回のことでいろいろ考えたんだ」

「考えたって何を?」

「自分の本当にしたい生き方とでもいうのかな?」


 寒々とした気持ちで父の言葉を聞いた。わたしの父に対する信頼のようなものはとっくの昔に壊れてしまっている。


「もうちょっとね、静かなところに引っ越そうって言ってるの」

「え?」

「寂しい?お母さん、そばにいないと」


 母はにっこりと笑った。久しぶりに見る母のこんな笑顔。


「好きにしたらいいわよ。別にわたしだって子供じゃないし」

「これからどうしようと思ってるんだ?」

「どうもなにも」


 滅多に顔合わせないくせに、不意に父親面するんだから。母がまた間に割って入る。


「あのね、お父さんが、お父さんの使ってた部屋を静香に残すって言ってるのよ」

「え?あの部屋?」


 父が使ってた部屋を思い浮かべる。


「なんか1人で使うのは勿体無いような……」

「でしょ!だから、もうそろそろそういうことも考えたら?」

「え?」

「会えなくなるわけじゃないけど、今までのようには近くにいられないし、静香がいつまでも1人だとお母さんもお父さんも心配なのよ」

「……」

「ね、お母さんのこと安心させてちょうだい」


 帰り道に一人電車の中で考えた。

 何度、いい人はいないのかと言われてもはねのけてきた。母の気持ちもわかったけど、あのある日いきなり父がいなくなってしまったあのときの衝撃がまだ自分の心の中には残っている。

 スタスタとなんて進めない。

 それが、今更何なのだろう?仲直りした?

 悔しくて涙が出そうになった。父も父なら、それを許してきた母も母です。

 そして、自分たちがうまくいった途端に人に干渉してくる。



 母が倒れていなければ、とても許せなかった。母が倒れていなければ。

 母が倒れた事実は、父のみでなくわたしの生き方についても影響を与えました。生き方を考え直したというほどではありませんが……。

 自分の腹の虫がおさまるのを待ちながら歳を取ることはできない。間に合わなくなるかもしれない。母が生きているから、わたしの父母への反抗行動、わたしが幸せにならないという行動の意味があるわけで、母が死んでしまっては意味がなくなってしまう。

 わたしがその時、ザマアミロと思うわけがない。とてもとても後悔することは目に見えてるんです。













   春樹












   


 とある休みの日に、二人で朝ごはん食べた後に買いたいものがあるからと言って彼女を連れ出した。


「その、これは、出世魚みたいなものだから」

「ツバス、ハマチ、メジロ、ブリ?」

「なに、なに、今の?」

「出世魚」

「なんで、そんなん、覚えてるの?」

「……なんでだろ?」


 すらすら言える人、初めて見た。


「ええっととにかく、話の腰を折られましたが」

「はい」

「ずっと俺と一緒にいてくれたら、いつかブリを渡しますから、今はこれで我慢して」

「はい」


 彼女は、ちょっとはにかんで笑った。静香さん、結構照れ屋さんです。

 店の前で買ったばかりのペアリングをつけて、2人で歩き出した。


「春樹君が、女の人と同じ指輪買ってつけるなんて」

「うん」

「そういうキャラではなかったのではないの?」

 たしかに俺にとって指輪なんて、勘違いした女が買えと迫ってくる恐怖アイテム以外の何物でもなかった。どんな安物でも、所謂お祭りの出店で売ってるおもちゃまで含めて、一回も買ったことないし、贈ったのも、自分でつけたのも初めて。


「俺は本当はこういうキャラなの」

「ふうん」


 でも、この人だけは束縛したいんです。男がいるって目印につけさせようと思って。相手にだけつけさせるのもアンフェアかと思って自分もつけることにした。


「ただ、俺が跪く相手は静香さんだけだから」

 

 彼女はまたはにかんで笑った。最近、この顔を見るのが好き。


「俺はなかなか懐かないけど、懐いたら忠犬ハチ公よりすごいんでしょ?」

「なにそれ?」

「自分で言っといて忘れちゃったの?ひどいなぁ」


 俺は笑ってて、でも、不意に彼女は真面目な顔をする。

 たしかに俺にとって指輪なんて、勘違いした女が買えと迫ってくる恐怖アイテム以外の何物でもなかった。どんな安物でも、所謂お祭りの出店で売ってるおもちゃまで含めて、一回も買ったことないし、贈ったのも、自分でつけたのも初めて。


「俺は本当はこういうキャラなの」

「ふうん」


 でも、この人だけは束縛したいんです。男がいるって目印につけさせようと思って。相手にだけつけさせるのもアンフェアかと思って自分もつけることにした。


「ただ、俺が跪く相手は静香さんだけだから」

 

 彼女はまたはにかんで笑った。最近、この顔を見るのが好き。


「俺はなかなか懐かないけど、懐いたら忠犬ハチ公よりすごいんでしょ?」

「なにそれ?」

「自分で言っといて忘れちゃったの?ひどいなぁ」


 俺は笑ってて、でも、不意に彼女は真面目な顔をする。



「どうかした?」

「ちょっと先の話なんだけど」

「うん」

「お父さんとお母さんが、今、住んでる東京の家を売って、郊外に家を買い直すんだって」


 知らなかった。あの顛末。今回ばかりはお父さんの嘘にならなかったらしい。


「そうなんだ」

「お母さんが住んでる家の他に、お父さんが住んでたマンションがあって、もし、使うなら売らないで住ましてくれるって言ってるんだけど……」

「うん」


 ここで、彼女は止まった。俺は辛抱強くその先を待った。


「一緒に……」

「えっ?」


 彼女はぱっと顔をあげた。


「結構広い部屋なの。便利なとこにあるし」

「うん」

「2人で住むなら、ちょうどいいかなって思ったんだけど」


 とっさに出た言葉……。ふさわしかったかどうかは別にして、俺の本音。


「俺でいいの?」

「……」

「いや、結婚と違うってのはちゃんと理解してるけど……」


 一緒に住むとなると、そういうの視野に入ってくるよね。なぜか、神谷さんでなくていいのかなとか思ってる自分がいるし。


「嫌?」

「いや、嫌ではない。ただ…」

「ただ?」

「俺、神谷さんや君のお父さんみたくすごい人じゃないよ。俺でいいの?」

「……」


 黙らしてしまった。ああ、なんか女々しかったかな、今の。


「秀のこともお父さんのこともすごいとは思うし、尊敬するけど」

「うん」

「こんなことをあなたに言っていいのかわからないんだけど」

「うん」


 なにを言われるんだろう?どきどき


「男の人って成功すると変わってしまうから。わたしは成功した男の人より、毎日わたしの所に帰ってくる男の人がほしいの」


 ちょっと拍子抜けしました。


「静香さんレベルの人がそんな低い要求で満足なの?」

「これはそんなに低い要求ではないよ」


 なぜかちょっとムキになる静香さん。俺はちょっと考える。


「あなたのお父さんと同じくらい成功しろと言われたら、善処しますとしか言えないけど、毎日帰ってこいと言われたら、帰ります。そりゃ」


 彼女はそっと笑った。


「俺は静香さんの犬だから」

「もう、やだ。春樹君」


 そっと笑ってたのが満面の笑みになる。静香さんの笑い方、お母さんに似てるなと思った。 

   

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