12 ずっと待っていた人
12 ずっと待っていた人
静香
「週末、どっか行きたいとことかある?」
電話で話してる時に春樹君にそう言われた。
「週末も、仕事あるんじゃないの?」
この前、家でもいろいろやってた彼のこと思い浮かべた。
「仕事はいつでもあるよ」
「じゃあ、どっか出かけちゃうと大変でしょ?」
「仕事がなくなる日を待ってると、おじいちゃんになっちゃうよ」
おじいちゃんになった春樹君を思い浮かべた。ちょっと笑えた。
「んっと、じゃあ、なにか考えますけど……」
「うん」
「一緒に過ごせたら、特別にどっか出かけるとかなくても、わたしはいいかな」
「……わかった」
電話が切れた。なんとなく、今のでよかったのかどうかがわからない。ただ、春樹君の邪魔になりたくなかった。負担にも。でも、本当はこういう時はかわいく甘えたほうがよかったのかな?わからない。
この前も、かわいくないって言われちゃったしな。
わたしは、毎日自分の家に帰ってくる男の人がほしい。でもいざ、自分の日常に男の人が入り込んでくると、落ち着かない。ずっと昔、それを不快感だと思ったことがありました。
それはでも、不快感ではないのかもしれない。
なんとなくもやもやとしながら、土曜日に彼の家に行く。向かう電車の中で自分は気が重かった。そして、少しずつ怖くなってくる。
「いらっしゃい」
嬉しそうな顔してドア開けた春樹君の顔見て、その、不安の大きな風船のような物がぱちんと割れた。
「お邪魔します」
家に入ると、テーブルの上にいろんな資料が広がっている。
「仕事してたの?」
「ああ、特にやることなかったし」
ベランダで洗濯物がはためいている。
「洗濯、もうしたんだ」
「ああ、うん」
「お掃除は?」
「……」
「春樹君、仕事してる間に、わたし、お掃除してあげようか?」
なんだろ?なんか、苦しい。気づくとわたしは手をぎゅっと握ってた。そう、わたしは緊張していた。
「静香さん、家事させるために呼んだんじゃないし、掃除なんてしないでいいよ」
「ああ、ごめん」
「謝んなくていいし」
「じゃあ、邪魔しないから、仕事してて」
読みかけの本を鞄から取り出すと、春樹君が本を取り上げた。
「推理小説だ」
「そうだね」
「どこまで読んだの?」
「しおりのとこまで」
「じゃあ、まだ、犯人が分かりそうだから、止めたくないってとこまできてないでしょ?」
「そうだね」
「じゃ、後にしなよ」
彼は本をぽいっと取り上げてテーブルに載せた。
「買い物いこ。冷蔵庫空っぽなの」
「仕事は?」
「しない」
「なんで?」
「したくないから」
「買い物ならわたしが……」
春樹君は不思議なものを見るような目でわたしを見ました。
「静香さんは、うちの事務所の回し者かなんかなの?」
「なんで?」
「なんでそんなに俺に仕事させようとするの?」
「……」
彼のその言葉で、結局二人で買い物に出ることになった。
「いい天気だね」
2人でのんびりスーパーまで歩く。空の青さを眺めながら。春の太陽の光に身体をあたためながら。
「お昼はめんどくさいから、買い物の後に適当に食べちゃおうよ」
「うん」
しばらくすると、スーパーについた。カートを転がしながらおしゃべりをする。
「朝ごはんってパンがいい人?うち米もないわ。そういえば」
「自炊しないの?」
春樹君はちょっと考え込む。
「カップラーメンとか冷凍食品とかくらい?」
「そんなんばっか食べてると身体に悪いよ」
「普段はちゃんとコンビニの弁当とか食ってるよ」
「それはちゃんととは言わないよ」
春樹君は、はははと笑った。
「この前まで実家にいたからね。一人暮らしってわりと大変だね。でも、仕事大変でさすがに自炊までしてらんないよ」
「わたしと遊んでて、後で仕事大変にならない?」
「仕事はね、いつも大変で、頑張っても頑張らなくても、終わんないの。それだけ学んだわ。社会人なって」
「……」
あれもこれもと籠に入れるのを、持てないし、買いすぎと言っていくつか戻して買い物を済ませた。重いものを彼が持って、そんなに重くないものをわたしが持つ。
どこにも出かけないのなら、わたしがいつも1人でいる時にしてることを一緒にしたいと言って、帰りに映画を何本か借りました。一緒に見てたんだけど、春樹君は途中で寝てしまった。その顔をしばらく見てました。
こんなふうにのんびりと男の人と過ごしてることが、本当に久しぶりだった。
秀とはめったに会えなかったし、会えても、夜来て朝には帰る。
午後のだんだん弱くなってくる光の中で、眠っている男の人の顔を眺めるなんて、本当にいつぶりだろう?
わたしは夕方に向けてだんだん暗くなる時間が大嫌いです。
暗くなったから電気をつけようとする時間。1人でいることが多くて……。一番寂しいと思う時間。ああ、ここにあの人がいてくれたらいいのにと思いながら、電気をつける。そういうことが積み重なってくると、自分の心の奥の方に、消えない何かが居座る気がした。
それが、そばにいてくれる誰かがいるだけでどうしてこんなにも違うのだろう?
同じはずの午後が、夕方が違って見える。
春樹君をそのまま寝かしといて、昼買った材料で料理をする。小学生でも作れるカレーにしました。たくさん作って冷蔵庫に入れとこうかと。平日あっためれば食べられる。
「え、俺、寝ちゃったの?」
向こうで声がする。起き上がってこっちに来た。
「あの映画、最後どうなったの?」
「言っちゃっていいの?」
「やっぱり言わないで。もっかい見るから」
その後、春樹君は黙ってわたしを見ていた。
「なに?」
「静香さんが俺んちで料理してる」
「してるね」
「俺、まだ夢見てんのかな?」
そして、そっから動かない。
「ね、なんか気が散るからあっち行ってて」
「見てちゃだめ?」
「ほら、寝ちゃったとこからもっかい映画見てな」
小学生でも作れるカレーでも、見られてると失敗しそうな気がする。春樹君はちえっと言った後におとなしく向こうへ行きました。
その日の夜、わたしを抱いた後で、彼はわたしに聞きました。
「ねぇ、静香さん」
「なあに?」
「俺といて楽しい?」
「楽しいよ。なんでそんなこと聞くの?」
「無理してない?」
彼はわたしを背中から抱きしめていた。わたしは身体の向きを変えて、春樹君の顔を見た。
「無理してるように見えるの?」
「ちょっと」
その後、暗い部屋の中で彼はわたしをじっと見ながらわたしの髪をゆっくりと撫でた。大きな手で撫でられると、何かがわたしの中で交差した。古い記憶。
「何かあったら言ってほしい。どんなことでもいいから」
「……」
「俺じゃ、役不足かもしれないけど」
「あ、それ、誤用だよ」
「え?そうなの?」
つい揚げ足を取ってしまった。真面目な話してたのに。でも、春樹君は怒らなかった。
「ずっと一人でいたから、なんかどうしたらいいのかよくわかんなくて」
「その、男の人はいたんでしょ?彼氏ではない」
「めったに会える関係じゃなかったの。いっつも待ってた」
「うん」
「春樹君はわたしといて楽しいの?」
「楽しいに決まってるじゃん。なんでそんなこと聞くの?」
笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「わたしたち、おんなじセリフをひっくり返して繰り返してるよ」
「あ、ほんとだ」
春樹
神谷さんと会って話したことが俺に対して与えた影響は絶大で、自分の中にはそれから不安が居座りました。自分と神谷さんを比べてしまう。二人でいる時に、ときどき静香さんは浮かない顔をする時があって、そういう時に俺と一緒にいても、つまらないのかなと思う。そして、神谷さんといるときの方が楽しかったと思ってるのかなと思ってしまう。
静香さんのことがわからない。好きだけど、分からない。もっとわかりたいのに。
その頃の自分はとても不安定でした。元気だったり、その次の瞬間にまたひどく落ち込んだり、頑張らなきゃとまた自分に言い聞かせたり……。
そんな日々の中でも、自分は社会人なわけで、毎朝起きて、顔洗って、スーツ着て、通勤して、仕事してました。リフコの件も進展があった。江上先生は、期限ぎりぎりまで回答を引き延ばした後に、原島産業に特許権侵害の事実がない旨の回答書を出した。
「裁判になります。また、忙しくなりますが、まずは一区切りということで」
江上先生に誘われて、飲みに行った。いつも行くような居酒屋よりも少しいいお店で落ち着いたところだった。二人で飲むのは初めてだった。
「上条君、本当にありがとう。正直、高岡君がアシスタントだったら、今回の件は断ってたよ」
ビールで乾杯をして、その後、ぽつりと言った。不道徳なことだが、その言葉は嬉しかった。ざまみろ、高岡。
「もう一個、正直言うと」
「はい」
「君がここまでやるとも思ってなかった」
「え?」
先生はビールを片手に苦笑した。
「自分はさも見た目で人を判断しないみたいなことを言っておきながら、結局君を見た目や先入観で見てたんだな。今時の要領のいい男の子だろうと」
「はぁ……」
ちょっと先生の言葉を頭の中で反芻する。
「お言葉ですが、僕は確かに今時の要領のいい若者ですが」
「自分で自分の事、そう思ってるの?」
え?違うの?俺の人生の中で、要領の悪かったことなんてあった?
ちょっと目を白黒させてると、先生がまた小さく笑った。
「要領が悪いと言いたいわけじゃないんだよ。ただ、小さい頃からいい大学目指して勉強して、今度は司法試験目指してさ。君みたいな歳でクリアしてくる子って言うのは、いつも全てのタスクを最短時間でクリアする癖が身に染み付いてるよね。そうじゃないと、やってこられなかったわけだから。でも、そういう過程で、大事なものを失ってしまうこともきっとある。君はそういうものを失わずに大人になったんだね」
「先生、なぞなぞみたいでなにをおっしゃってるのかわかりません」
江上先生はくるりとこっちを向くと、まっすぐに俺を見た。
「自分の時間をよく人のために使えたね」
「え?」
「省略できるとこは適当にやろうと一度もしなかったよね。疲れただろ?」
「……」
「なんでそんなに頑張れたの?それに僕がいうまで一度も勝てそうかどうか聞かなかったよね。負けたら全部無駄になるわけじゃない。無駄になるかもしれないことに人はそんなに頑張れないものだよ。君はどうしてそんなに頑張れたの?」
まるで学校の先生みたいに、江上先生はたんたんとそう尋ねた。
なにも考えてなかった。なんでなんて。自分がそんなに頑張ってるって意識もなかったし。
「自分には頑張ることしかできないからですかね?特別な才能があるわけじゃないし。でも、努力はできるから」
「君は弁護士に向いてるかもしれないね」
「僕がですか?」
驚いた。初めて言われたかも。変な声が出た。
江上先生はまた笑った。
「変な人だな。向いてないと思う仕事を選んだの?」
「いや、半信半疑というか、向いていないとは思いませんでしたけど、向いてるとも思ったことがないというか」
「ねぇ、今みたいな豊かな時代ではさ、人のためにこつこつ頑張れる人なんてさ、本当に少ないんだよ。だって、そこまでしなくたって自分は困らず生きていけるじゃない」
「はぁ」
「それはもう、立派な才能だと思うよ。損得考えずに頑張れるのは」
「こんなことがですか?」
なんか才能ってもっと華々しいものに使う言葉じゃないの?
「弁護士はさ、経験と知識がものをいう職業だからさ。それに時代はどんどん変わるから、努力し続けなきゃいけない仕事なんだよ。君にきっと向いている」
「はぁ」
「君はやっぱり外見で損してるな」
「え?」
「外見が綺麗だから、中身がもっと綺麗なのに、みんな気づかないんだね」
「……」
「そのままの自分に誇りを持って大事にしなさい。君はきっと10年後、20年後に今よりもっと立派な人になってるよ」
その時江上先生は、学校の先生のようだったと思う。お金では買えないものを人に与えることができる人。それを与えることで、自分だってなにも得ないはずなのに。
先生は俺が落ち込んでることも、内側に隠している自信のない自分のことも知らないはずなのに、どうしてこんなことを言ったのだろう?言えたのだろう?後から思ってみても不思議だった。特に深い考えはなかったかもしれない。でも、その時の自分に先生のこの言葉は沁みました。
いつも家族は、親は俺の味方で、精一杯励まして育ててくれたけど、家族が俺の味方であるのは当たり前で、大人になると人間は家族に認められるだけでは足りないんです。だから、苦しみながら無我夢中になるわけで。
それは、自分の世の中での価値を感じたいから。
「ありがとうございます」
「うん」
「プライベートでちょっと落ち込むようなことがあったんですけど、今の先生の言葉で少し元気が出ました」
先生は目を丸くした。
「こんだけ褒めて、少しなの?」
「……」
「君も意外と厄介な人だな」
そう言って先生は渋い顔をした。その顔がおかしかった。
その日の夜の帰り道で、ずっと昔に父さんに言われたことを思い出した。誰もがビル・ゲイツである必要も、スティーブ・ジョブズである必要もない。俺は神谷さんにはなれない。逆立ちしても。でも、俺が神谷さんみたいに、或いはそれに匹敵するような何かになる必要はないんだ。俺は俺なんだから。神谷さんみたいにならないと愛することはできないと、静香さんが言ったわけではない。俺のままでできる精一杯で、ただ頑張るしかない。
その週の週末に外でお昼を食べた後、彼女を誘った。
「天気もいいし、行きたいとこあんだけど、ちょっと遠回りして帰らない?」
彼女は浮かない顔をした。
「いいけど、疲れない?」
最近、ひとつ気づいたことがある。静香さんが浮かない顔をするのは、自分がつまらないからではなくて俺の顔色を伺っているからということ。付き合い始める前はこんなこと絶対になかった。
「大丈夫」
バスに乗って移動する。並んで席に座ったときに、カバンから本を出して見せた。
「あ」
静香さんは驚いた。
「もう読み終わっちゃった?」
「いや、まだ」
静香さんがこの前読んでた本。真似して買って読んでた。
「じゃあ、追い抜かせるかな」
「読んだら貸すのに」
「いや、静香さんより速く読み終わって、犯人教えてあげようと思って」
「はぁ?」
「というのは冗談で、同じ時期に同じ本読んで、読み終わってすぐに感想言い合えたら嬉しいなって思って」
「……」
彼女はちょっと黙った後に、笑い出した。
「春樹君、中学生みたい」
「え、そうなの?」
「中学生とか、高校生の頃にしなかった?同じ本読んだり、同じ音楽聴いたり」
「そんな健全なことしたことない」
「……」
ちょっと待てよと思い返す。
「そういえば、頼んでないのに相手にそういうことされて、内心引いたことがあったような」
あれは誰だったっけ?名前も忘れたな。静香さんは静かに俺を見ている。ちょっと顔が怖いです。
「それで今、心を入れ替えて、青春のやり直しをしているわけだ」
「心は入れ替えてないよ。別に」
心なんて入れたり出したりするものではないですよ。
「今になって、その時の女の子の気持ちわかった?」
「たぶん」
顔も名前も覚えてない人のことなんかどーでもいいんだけど。一応そう答えておいた。静香さんの顔が怖いので。
2人で葛西臨海公園行きました。水族館ぶらぶら見て、そのあと公園でのんびりした。海を見ながら並んで座ってるときに話を切り出した。
「ひとつ、話してなかったことがあるんだけど」
彼女はこっちを見た。風に吹かれる髪を片手で押さえながら。
「神谷さんに会ったよ」
静香さん、ぽかんとした。
「どうして?」
「向こうから訪ねてきたの」
「ええっ!」
かなりショック受けて、手のひらで自分の口元押さえた後、しばらく放心した。
「ありえない……」
「まぁ、ちょっと珍しいかな。普通はしないよね」
それから、静香さんは気まずそうに俺に聞いた。
「一体どんな用だったの?」
「いや、どんな人か見てみたかったんだって」
「もう、信じられない。ほんっと、自分勝手なんだから」
静香さんは怒ってた。本当はあの日、神谷さんは自分勝手ではなかった。でもそれは告げるわけにはいかない。約束したから。武士の情けというやつだ。
「正直、あんなすごい人と付き合ってたって知って、落ち込んだ。言わなかったけど」
「春樹君……」
静香さんは、ちょっと困った顔をした。
「付き合ってたなんて、そんな立派なものじゃないのよ。たくさんいる女のうちの一人だったんだから」
静香さんは確かに、神谷さんのことをいい加減な男として認識していた。
「その……、神谷さんに聞いたんだけど、静香さん、神谷さんと出会った頃から最近までずっと恋愛するのを避けてたって」
彼女の瞳の色が少し変わった。
「それって、どうしてなの?」
「……」
「俺にもわたしのことを忘れてって言ったよね?その方が俺のためだって。それはどうして?」
彼女は不安そうな顔で俺をみた。俺は繋いだ手に力を込めた。
「あなたのことが知りたいの。もっと大切にしたいから。だから、教えてほしい」
その時の彼女の顔は、あの日、駅で泣き出してしまったときと同じ。あの日は逃げていってしまった。今日は逃げないでほしい。彼女は俺から目を逸らして、海の方を見ました。
「昔、まだ学生だった頃に、婚約してたことがあるの」
「……」
「びっくりした?」
「ちょっと」
それから遠い目をした。きらきらと光が反射しているかなたの海を見ている。
「わたしが、というよりは彼がそうしたがって。わたしが院を卒業したら結婚しようと言われて。婚約した後に、卒業の半年くらい前かな、同棲を始めたの」
「うん」
「なんか、四六時中一緒にいるのが息苦しくて、耐えられなくて解消したの。相手のことをめちゃくちゃに傷つけて」
「一緒に住んでみたら、思ってたのと全然違う人だったの?」
「いいや。彼はとってもいい人だった。いつも優しくて……。いけなかったのはわたし」
明るい光景の中で、俺は少し目眩がした。
「俺と一緒にいるときも、息苦しいときがある?」
「春樹君」
彼女は俺の手をぎゅっと握ってきた。
「また同じことが起こるかもと思って、あなたのこと避けてたの。でも、1人でいたくない」
「……」
「もう、1人でなかなか来ない人を待つのはいや」
この時、彼女の鼓動が聴こえた気がした。俺は彼女の生きている音を聴いた。耳にした。
「息苦しいというよりも、緊張してしまうのだと思う」
「緊張?」
「頭ではわかってるの。大丈夫だって」
彼女はぎゅっと目をつぶった。手が震えてる。
「でも、怖いの。わたしが何か間違ったことをすると、きっとあなたはわたしから離れて行ってしまう」
俺はその時、繋いだ手を通して彼女の苦しみと悲しみを体験した。彼女がずっと快活で知的な表情の後ろに隠してきたものに触れた。涙が出そうになった。
「俺は絶対に離れていかないし、それに、あなたのその苦しみを半分持つから」
静香さんは俺を見た。わたしのこと愛してる?と聞いた時と同じ悲しい顔で。どうして、好きな人が苦しんでいると、自分が苦しいよりも胸が痛むのだろう?
「半分持たせて、俺に。それで、静香さんには笑ってほしい」
片手で彼女の手を握って、もう片方の手で彼女の肩を抱いて、しばらくそのまま二人で海を見ていた。なにも話さないままで。彼女は、わかったとか、信じるとか、そんなことを一言も言いませんでした。俺のその言葉に対して何も言わなかった。言わなかったというよりも、言えなかったのだと思う。でも、それでよかった。俺の考えてることがただ、彼女に伝われば、それで。時間がかかってもいい。それが彼女を温めてくれればいい。そして、彼女が泣かなくなれば。いつも笑えるようになれば。
帰り道、バスの中で俺は彼女に引っ越す時に葛西を選んだわけを話した。
「親が昔住んでたの」
「……」
静香さんは元気がなくて、俺の肩に頭をのっけて静かに俺の話を聞いていた。
「それで、葛西臨海公園は、思い出の場所なんだって」
「なんで?」
「結婚する前に一回別れそうになったことがあったらしくって。その時、あそこで仲直りしたって」
静香さんは俺の肩の上でかわいい顔でそっと微笑んだ。
「今日はそういう縁起のいい場所に行きたくって」
「春樹君はお父さんとお母さんが大好きなんだね」
「まぁ、そうなんだろうね」
繋いでる手が温かくて、触れているお互いの身体が。そのことがただ嬉しかった。彼女の手はもう震えていなかった。
「最近、わかったんだよね」
「なにが?」
「俺はね、自分の家族を完璧な家族だと思い込もうとしてたんだなって」
「……」
「それで、うちの家族の足りてない部分を、足りない部分なんて何もないと思い込んで生きていこうとしてたんだなって。一生懸命目を逸らして」
「うん」
「それで、自分の当たり前のように起こってくる普通の感情を押し殺して生きてきた」
俺の悲劇は、誰だって抱える普通の感情を持つことを自分に一切許さなかったこと。
「親は忙しくていつも家にいなかった。俺と暎万はいつも、寂しかったんだ」
「うん」
「でも、寂しいというと、親を傷つけてしまいそうで、言えなかった」
子供の頃に寂しかったはずの自分の像が浮かびあがらない。それだけ強く自分は、そういう自分を封印してしまったのだろう。
「一人で暮らし始めて思った。家族は完璧である必要なんてないんだよ。足りてるところと足りてないところがあるのは自然なことで、うちの家族は完璧ではないと思うことは、別にうちの親を否定しているわけじゃない。完璧な人がいないのと同じことなんだ」
俺は肩にのっている彼女の顔を見た。
「正解?」
「正解、不正解があるの?今の話に」
「静香さんから見て、正解?」
彼女は笑った。
「教えてくれないの?正解か不正解か」
「不正解って言われたら、どうするの?」
「それはその時、考える。ね、どっち?」
彼女はもう一度笑った。彼女が笑うと嬉しくて、抱きしめてキスしたくなった。
「あのね、そういうものじゃないの。春樹君の心の問題に、わたしが丸、罰つけられるわけがないでしょう?」
「俺が、許す」
「わたしの生きてきたスタンスからいって、ナンセンスなことはしたくない」
「たった二文字いうだけじゃん。難しく考えるの、やめなよ」
「もうっ」
もちろん丸か罰かなんて、どーでもよかった。
俺たちは仲良く家に帰った。手を繋いで。
この時、自分は、彼女がずっと待っていた人というのは、神谷さんのことだと思っていた。でも、本当はそうではなかった。彼女がずっと待っていた人というのが誰なのか、俺が知るのはもう少し先になる。




