11 優しさという水
11 優しさという水
春樹
その日、彼女は青ざめた顔で帰って来た。約束通り俺の元に帰って来たけど、心をどこかに置き忘れて。そして、俺は、まるでジェットコースターが頂点に達してその直後に奈落の底に落ちるように、人生で一番の幸せな瞬間から落ちた。
「静香さん、どうしたの?具合でも悪いの?」
聞かなくても本当はわかってた。多分、静香さん曰く、もう好きではない人と会って来たんだろう。
「大丈夫」
元気のない彼女を抱きしめたくて、でも、怖くて出来なかった。自分が抱きしめて、そして、彼女が笑わなかったら、どうしよう?戸惑ってるうちに彼女はとぼとぼと家の中に入り込んできた。
「鍵をね、返してもらったから」
「ああ、うん」
「だから、とりあえず、明日帰るね」
「明日?」
「うん」
「明後日にしなよ」
彼女はきょとんと俺を見た。そして、笑った。
「うん。じゃあ、明後日」
その日の夜、俺は何もせず、でも、彼女の体を抱きしめて寝た。
やりたいとか、やりたくないとか、まだ若い自分にとって、それまでセックスは、もっとシンプルで単純なものだった。でも、それが変わった。
その日の夜、彼女を抱きたいと言って、断られたらどうしようと思った。断られなくても、身体を重ねた時に彼女の瞳に自分ではなくて他の男の影が映っていたら?彼女が目を閉じて、俺に抱かれながら別の男に抱かれている夢を見ていたら、自分はどうすればいいのだろう?
恋というのはどうしてこんなに切ないのだろうか。彼女を手に入れたと思っていたのに。
長く触れられずに見つめていた時と、腕の中に抱きしめながら自分のものだと思えない今と、一体どちらのほうがより切ないのだろうか。
日曜日の午後に彼女はもう少し元気になって自分の家へ帰っていく。
「短い間だったけどお世話になりました」
「次、いつ来る?」
俺がそう言うと、彼女は笑った。
「うちに来る?今度は」
「どっちでもいい」
抱きしめて軽くキスをする。
「春樹君、離してくれないと帰れないんだけど」
「次、いつ会えるか言ってくれたら離す」
彼女はまた笑った。さっきよりもう少し大きく。そして、彼女の笑顔の大きさに比例して自分の心も上がったり下がったりする。
「そういうキャラじゃないでしょ?」
「いや、本当はこういうキャラだから」
俺の腕の中で、笑いながらちょっと照れてる静香さんを眺めた。いい眺めだった。
「じゃあ、急な予定が入らなければまた週末にね」
「うん」
ゆっくりと彼女の体を離した。彼女がスーツケースを引きずって出て行こうとする。
「ちょっと待って」
家のテーブルから、自分の部屋の鍵を二つ取る。
「これ、静香さんが持っててよ」
一つ彼女に渡した。
「ええ?こんな簡単に鍵って渡すもの?」
「いや、簡単じゃない」
「でも……」
「他の女には死んでも渡さない。だから、俺から鍵奪うのは簡単なことじゃないの」
そう言うと、スニーカー履いて、彼女と荷物を外に出すと、自分のほうの鍵でドアを閉める。
「どっか行くの?」
「駅まで送ってく」
「え?いいわよ。別に。道覚えたし」
俺は笑った。
「かわいくないね」
その言葉にちょっとムッとしてるし。静香さんのスーツケース持って歩き出す。
「その鍵、大事にしてね」
「ああ、うん。なくさないようにする」
彼女はそう言って、俺の部屋の鍵をバッグにしまった。
「他の女の手には間違えても渡さないでね」
「どうしてわたしが春樹君の部屋の鍵を他の女の人に渡すのよ。どういうシチュエーション?」
「どういうシチュエーションだろ?よくわかんないけど、とにかく渡さないで」
「はいはい」
ふと思い出して、もう片方の手で彼女と手を繋いだ。
「羽毛布団無駄になったな」
「え?なんで?大事に使ってよ」
「1人で布団、二つも要らない。それにもうあったかくなるし」
「え〜。なんか、悔しいな」
その顔見てちょっと笑った。
「何がおかしいの?」
「いや、いきなり夜中に押しかけて来てから、静香さん、わけわかんないことばっかしてたなと思って……」
「そう?」
「特に布団……」
「……」
「でっかい荷物抱えて帰って来た時、ちょっと笑えた」
「だって、春樹君、風邪引くと思って」
こういうところはやっぱり年上なんだよな。精神的な立ち位置が。
「ありがとう」
そして、彼女は帰って行った。
彼女に触れていないと、不安でたまらない俺を1人残して。
「上条先生、お客様です」
次の週のとある日、事務所で仕事をしていると受付の女の人から内線が入った。
「え?アポなんて入ってませんけど」
「アポなしで来られたお客様ですよ」
彼女は来ている人の会社名と名前を告げた。知らない人だった。
「本当に僕宛ですか?」
「はい。はっきり上条先生を指定されました」
「じゃあ、とりあえず行きます」
受付まで行くと案内した会議室を聞いた。そして、教えてもらった会議室のそのドアを開けた。その人はその時、会議室の椅子を窓に向けて外を見ていて、自分には背中を見せていた。ぱっと見てすぐにサラリーマンではないなと思った。着ているスーツが高かったし、それに、ちょっと派手だった。
「あの、上条です」
するとくるっとこっちを向いて、その人は立ち上がった。
「ああ、すみませんね。お忙しいところを」
スーツの内ポケットに手を入れて名刺を取り出すのに合わせて自分も名刺を取り出しながら、その人を観察する。30後半から40くらいの人?なんだか存在感のある人だった。普通の人なら似合わなさそうなスーツとシャツがよく似合ってる。
「神谷と申します」
「上条です」
名刺交換した後に、相手が座るのを待ってこちらも座る。名刺の肩書きが、代表取締役となっている。どんな会社かわかんないけど、社長さんらしい。
「あの、どこかでお会いしたことがありましたでしょうか?」
「あ、いや、そういうわけではないんですが」
じゃあ、どうして俺のこと尋ねて来たんだろう?さっぱりわからない。
「都を中心にレストランを経営している会社でして、一番新しいとこですと、まあ、ご存知ないかもしれませんが、青山にマジというお店をオープンしました」
「あ、知ってます。そこ」
神谷さんはちょっと驚いた。
「上条先生は結構な食通ですか?」
「あ、いえ、妹が詳しいので」
オープンの時に取材に行ったと言っていた。
「何ヶ月か先まで予約でいっぱいで、簡単に予約できないって聞きましたけど」
「おかげ様で滑り出しは順調で」
神谷さんは控えめに笑った。
「それで今日はどういったご用件で」
「あ、すみません。仕事の話をしましたが、今日はプライベートなことでちょっと」
「なにかプライベートのことでお困りなことがあるということですか?」
個人の資産関係のトラブルとかかな?
「そうだなぁ。困ったというか、今日は……」
「はい」
「兄弟の顔を見に来ました」
「きょうだい?」
強大、鏡台、京大、いや、やっぱりこの兄弟か?え?父さん、隠し子いたの?でも、顔が似てないような……。
「こういう言い方じゃやっぱりわかんないか」
その時雷に打たれたように意味がわかりました。続けて神谷さんが何か言おうとしている。まずい。俺は慌てて立ち上がった。
「あ、あの、場所変えましょう」
「え?ここはだめなの?」
「ええっと、出たら説明しますから」
受付に外で打ち合わせすると言って、神谷さんを携えてエレベーターでフロアを降りる。エレベーターは2人っきりだった。
「何か俺、まずいことした?」
「いや、ぎりぎり大丈夫でした」
「ふうん」
「あそこ、録画されてんです」
「えっ!」
「普通はなにに使うこともないですけど。それに、最初から記録として使う予定がある時はもちろん相手にも録画してること教えますし」
確率としては低いけれど、あそこでした会話は第三者に聞かれる可能性がある。一週間くらいでデータが上書き更新されるまでアクセス可能で、必要あれば永久保存できる。しばらく2人で黙る。
「危なかったな」
「まったくですよ」
エレベーターが一階についた。事務所の入ってるビルを出て、昼間のオフィス街を歩く。近くの適当なカフェに入ってコーヒーを頼んだ。
「まずい」
「お口にあいませんか?」
「ああ、ごめん。気にしないで。俺の口に合うようなもの出してる店なんてめったにないからさ。でも、この値段でこの味はないな」
「豆が悪いんですかね?」
「いや、違う」
神谷さんは即座に否定した。
「豆はそこそこいいの使ってる。マシーンもね」
神谷さんはちらっと店のカウンターの奥の方を見た。
「じゃあ、なんで?」
「人だよ。ちゃんと教育してないんだろ。淹れ方が下手なんだ。器具の手入れとかね」
「へー」
専門の人って一口飲んだだけで、ここまでわかるもんなんだ。
「あ、ごめん。職業病だな」
「ああ、いや」
そして、ちょっとの沈黙。それから唐突に話し出す。
「普通はさ、別れた男がのこのこ出てきたら俺の女を返せとかそういう話をするもんなのかもしれないけど、そういうのではないから」
やっぱり。この人、静香さんの訳ありの男だ。
「あ、ちなみに言うと、ナイフとかも忍ばせてないから。安心して」
「はぁ」
神谷さんはじっと俺のことを見る。
「身体検査とかする?」
「いや、まさか」
かなり変わった人だな……。
神谷さんはそこでため息をついた。
「ここ禁煙席ではないよね?ごめん。タバコ吸っていい?」
「あ、どうぞ」
神谷さんが懐からタバコを出して火をつけて吸うのを俺は見ていた。高そうな綺麗な腕時計をしていて、それもよく似合っていた。表情も仕草も大人の男の人だった。
「正直なこと言っていい?」
「どうぞ」
「こんな若い人だと思ってなかったから、かなり動揺したわ」
「はぁ、すみません」
「いや、謝る必要はないけど」
そして、一口また吸って、ふぅーっと吐き出す。明るくて清いカフェの薄水色と白い空間に立ち昇る煙を見るとはなしに見る。
「いつから?」
「8年前に……」
「え?8年前って君、何歳?」
「高校生です」
神谷さんが固まった。
「静香、高校生に手、出してたの?」
「いやいやいや」
何か話が違う方向へいっている。
「知り合ったのが8年前ってだけで」
「なんだ。被ってるなー」
ちょっとほっとしていた。聞かないほうがいいのかなと思いつつ、でも、聞いてしまった。
「神谷さんはいつから?」
「大体10年だなぁ」
10年……
「ま、でもね。俺は利用されてただけで、君と違って愛されてはなかったからさ。長いは長いけど」
「利用される?」
神谷さんは俺を見て、笑った。それは少し苦いものの混ざった笑顔で、だけどとてもいい顔でした。
「普通は俺が結婚してて、付き合ってるんだから、俺が利用してることになるんだろうな」
「……」
「静香は、普通の恋愛ができなくなってたからさ。出会った頃」
「どうしてですか?」
少し短くなったタバコを持ったまま、俺のことをじっと見た。
「そういう話はまだ知らないんだね」
その言葉に自分の心はざわざわとした。
「でもそれは本人から聞いたほうがいいと思う」
そう言って、神谷さんはまだ結構残ってるタバコをゆっくりと揉み消した。
「俺から言ったんだ。俺なら傷つける心配しなくてもいい。愛をもらった分、愛を返さなきゃみたいな責任を感じずに、お互いがお互いを利用しよう。静香が、まともな恋愛をもう一度したいと思う時までのつなぎだって、そう言って口説いた」
まずいと言ったコーヒーには手をつけず、両手を拝むように合わせて、神谷さんは軽く目を閉じた。この人は、傷ついているとその時、思った。とても傷ついている。そしてそれに耐えている。
「武士の情けで、今から言う話を聞いてくれないかな?静香には絶対に話さないって約束で」
「はい」
「本当にいい?君は聞きたくない話かもしれない」
「大丈夫です」
「ごめんね。この話は話せる相手がいなくって」
自分がかわいければ、聞かないほうがいい話なんだろう。でも、突き放せなかった。
「本当は愛してた。心から。本人には絶対言わなかったけど」
神谷さんは両手で顔を覆った。俺はなにも言えずにただ、それを聞いていた。
「俺はね。男に惚れられて、結婚した男なんだよ」
「え?」
神谷さんは両手を外して笑った。
「まだサラリーマンだった頃に、義理の父が俺のこと気に入って、家族になったら資金を援助してやるって言われて、迷わず妻と結婚した。そうじゃなきゃ、今頃もまだ、会社に不満を持ちながらつまらないサラリーマンしてたと思うよ」
「……」
「義父はね、俺の人生で最大の恩人なの。絶対に裏切れない人。でもね、人生はさ、うまくできてるんだよ。人は何かを手に入れたら、代わりに何かを失う。どちらも持っている人なんていないんじゃないかな?少なくとも、俺の知っている中ではいない。俺は自分の夢を手に入れた後に、好きになってはいけない人を好きになった」
その時、神谷さんはとても悲しい目をしていた。
「その好きな人は、恩人を裏切り、夢をあきらめなければ手に入らない人だった。出会わなければよかったと何度も思ったよ。でも、ほっとけなかった。だから言ったんだ。お互いに利用し合おうと。彼女が俺を愛してないことを承知で、俺を利用させたんだ」
「伝えたいとは思わなかったんですか?」
「伝えれば彼女は俺が彼女を愛してるのに、彼女が俺を愛してないことで、罪悪感を覚えるだろ?それはできなかった。だから、精一杯演じたんだ。いい加減な男というやつを」
「そんな……」
10年という時間を思う。自分の8年よりも長い。
「男の人の優しさというものは女の人にとっておいしい水のようなものだと思うんだよね。一回飲んだらもっと欲しくなる。でも、俺は静香が飲みたいと思うだけ、飲ませてやることができない。結婚してるからね。だから、本当はもっと優しくしてやりたかったけど、できなかった。中途半端な優しさが傷つけるとわかってたから。愛してなんていないふりをずっと続けてきたんだ」
ツンと刺すような感覚を覚えた。それはきっとこの人の心の痛みを俺が感じたから。
「経験した人間にしかわからないと思う。心から愛してる人に一度も愛してるということのできない辛さ。幸せにしてあげたいのに、なにもしてあげられない辛さ」
「でも、静香さんはあなたのことを愛してたと思いますよ」
彼女の抜け殻のようになって帰って来た様子を思い出す。でも神谷さんは寂しそうに笑ってそれを否定した。
「それはないさ」
「言葉にされなくても、神谷さんの愛情は伝わっていて、それで、静香さんもあなたを愛してたと思う」
「なんだか不毛な論争をしているな。君は自分の立場上、そんなことを言ってもしょうがないだろう?」
「それはそうですが……」
「でも、百歩譲って静香が俺を愛してたとしても、事態は変わらない。俺は静香を幸せにしてやれない」
「……」
「俺はね、上条先生。今、ほっとしてるんです」
そう言った顔は穏やかだった。
「え?」
「静香には幸せになってほしいんだ。いきなり俺から逃げ出して君のところに行った。無茶苦茶悲しかったけど、でも静香にやっと好きな人ができて安心してるんです。俺はなにもしてやれないから」
自分の愛している人が他の男のところに行って安心しているなんて……。俺には想像すらできない心境だ。
「僕は利用されてるだけなんじゃないですかね?」
「え?」
「神谷さんから別れるための踏み台みたいな物で、用が済んだら捨てられるんじゃ……」
神谷さんはため息をついた。
「俺がいうのも変な話だけどさ」
「はい」
「頑張れよ。君にはちゃんと資格があるじゃないか」
「資格?」
「独身なんだろ?」
「……はい」
そして、神谷さんは淡々と続ける。
「俺が今日ここに来たのは、静香がもう俺がいなくても、というか俺といた時以上に幸せになれるっていうのを自分の目で確認したかったからなんだ」
「……」
「本当に疲れたんだ。静香にも嘘ついて、自分の家族にも嘘ついて、それでもゴールなんかないやりとりに。でも、だからといって、あいつをひとりぼっちになんてできない。何度も俺と別れて1人になりたがったけど、絶対に手を離さなかった」
きっと自分はずっとこの時の神谷さんの目を忘れられないと思う。この澄んだ目を。これから自分は静香さんの横にいて、居続けて、この人以上に深く静香さんのことを愛せるだろうか。
「約束してくれないか?」
「なにをですか?」
「静香を絶対に1人にしないって」
「僕から離れることは絶対にありません」
「静香から離れようとしても、絶対に逃さないで」
「え?」
「静香はときどき自分から1人になろうとすることがあるんだよ。でも、本当はすごく寂しいんだ。できるだけ一緒にいてあげて」
「それで、本当にいいんですか?」
思わず聞いてしまった。もう一度、神谷さんは寂しそうに笑った。
「俺は静香を幸せにしてやれない。資格がないんだ」
そして、その人は帰って行った。
自分には強烈な印象が残った。それは、壮絶な苦しみだったんだろうか。自分は経験をしたことがない苦しみだけれど、でも、自分もまた、静香さんに受け入れてもらえなかったら、少し種類は違っても、同じように苦しむ。紙一重のところにいるのだと思う。
自分はたしかに、子供だったのだと思う。ただ一方的に彼女を想っていたほんの少し前まで。そこから一歩踏み出て、愛とは何かというような迷路に迷い込んだ。そして、見たこともないようなものを見ている。それはただ綺麗なわけでもなく、いつも喜ばしいものでもない。
時にはひどく悲しくて苦しい。
その日の夜、妹に電話した。
「お兄ちゃん?珍しいじゃん」
「お前、神谷秀って知ってる?」
「あの、神谷秀?マジの?」
妹はすぐに反応した。
「名前だけでわかるんだ」
「本人は会ったことないけど、名前は知ってる。飲食関係の間では有名な人だよ」
「え、そうなの?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「ああ、仕事の絡みで会ったからさ」
「えぇっ!」
暎万のボルテージが一気に上がった。
「いいなぁ。わたしも会いたい!会わせて!」
「無理。絶対無理」
はっきりきっぱり断った。
「けちっ!」
暎万にケチといわれるぐらい慣れている。
「で、どんな人なの?」
「食の芸術家って言われてる」
「芸術家?」
「わたし的には最初はこの人は空間プロデューサーだと思ってて」
「空間?」
「お店がとっても綺麗なんだよ。レストランという名の独特な空間を作り出してしまう人」
「へー」
「でね、料理も、綺麗なの。わたし、美味しくて綺麗なのは好きだけど、綺麗で味いまいちなのは認めてないからさ」
「ああ、うん」
「この人はきっと見かけの人で、わたしとは合わないと思ったの」
「うん」
その後、妹は声に力を込めた。
「でもね。おいしかったんだよ。わたしが言うんだから、ほんと」
「へー」
「お兄ちゃん、へーしか言えないの?」
すみませんね。
「ただ、綺麗な箱を作るだけじゃなくてね。簡単に言えば、味もそうだけど料理が冷めないようにってサービスにも気を配ってて、料理は綺麗でおいしくて、で、独特ででも懐かしい」
「なんだそりゃ?」
暎万がからからと笑った。
「こればっかりは食べてみないとわかんないと思うけど。マジは無理だけど、古めのお店なら予約できるよ。奢ってくれるならついてく」
「まぁ、また今度な」
「お兄ちゃんのまた今度は当てにならないなー」
バレてたか。
「会いたいなら、取材申し込んだらいいんじゃない?」
「グルメ雑誌より経済誌がいいんじゃない?ゴージャスな物作るだけじゃなく、きちんと儲け出してるってのも、着目されてる原因らしいよ」
ため息が出た。
「つまりは非の打ち所がない経営者ってことか」
「なんでそこでお兄ちゃんが落ち込むわけ?」
なんでだろうね。
電話を切ってぼんやりとする。静香さん、そんなすごい人と付き合ってたんだ。男として勝てないだけではなかった。愛情の深さでも勝てる気がしない。唯一、自分には枷がない。奥さんがいないだけ。そこだけ、勝ってる。
ソファーに転がって、天井を見上げた。
静香さんは、俺を捨てて、神谷さんのとこには行かない。というか、行けないんだ。
俺は神谷さんの代わりなのかな?
どんどん嫌な方向に考えが流れていく。そして、その時、俺は静香さんの泣き顔を思い出した。駅で追いかけた時、泣いていた顔。あの時、彼女は俺と会えなくなるから泣いていた。それなのにすぐにわたしのことを忘れてくださいと言った。それは、今日、神谷さんが言った言葉と一致した。静香はときどき自分から1人になろうとする。
どうしてなんだろう?
わからなかった。そうだ。自分は静香さんのことをよく知らない。身体は重ねたけれど、彼女はまだ俺に心を開いていない。愛してる?と悲しそうに聞いた顔も思い出した。そして、神谷さんの絶対に1人にするなという言葉。
神谷さんはそばにいられない。もし自分が離れてしまったら、静香さんは1人になってしまう。
それはできない。
自分が傷つきたくなくて、最初離れようと思った。でも、それでも頑張ろうと思ったのは、自分のためではなくて彼女のためのはずだった。泣かないで、笑ってほしい。ただそれだけ。
自分はまだなにも頑張ってなんかいないじゃないか。
誰かの代わりでもいい。
それで彼女が笑えるのなら。




