10 空中の島
10 空中の島
静香
何度か電話を無視していた秀の携帯に、電話に出なかったことのお詫びと都合がいい時にもう一度、連絡して欲しいとメッセージを入れた。折り返し電話しろとでも言われない限り、わたしは自分から秀に電話したことはない。メッセージ自体もそんなに頻繁には送らない。用事がある時とか、たまに向こうから他愛もないメッセージが届いて、面白いものを見たとか、珍しいものを食べたとか、それに返信するくらい。
わたしたちにはいつも、これ以上は踏み込まないという距離があった。
その距離をきちんと守ってきたから、こんなに長く一緒にいられたのかもしれない。そんなことをぼんやり考えてると、携帯が震えた。
「静香?」
「はい」
電話の向こうで大きくため息の音がした。
「ごめん」
「別に謝んなくていい。俺には」
声を聞くと、泣きたくなった。
「無理に引き止めるとかはしないって、前から言ってただろ?だけど、人間なんだからさ、ちゃんと言葉で説明されたい。逃げ回られてもさ」
「向き合ってちゃんと話せる自信がなかったの」
「今はあるの?」
「たぶん」
秀が電話の向こうで笑った。
「あるって言えよ。そこは、嘘でも」
「……」
もう一度ごめんという代わりに黙った。
「お前の家に行けばいいのか?」
「その、あなたの便利な場所でいいから、どこか外にして」
「じゃあ、適当に考えて後で送るよ」
そして、都内のとある高いビルの天辺にあるお店を指定された。
わたしたちが外で会うのは本当に珍しかった。秀は周りの目をいつも気にしていて、わたしと外で会うのを避けていた。いつも彼が家に来て泊まっていく。そういう付き合いだった。でもたまに秀は仕事で地方に出ることがあって、そういう時、彼はわたしを呼び出した。そういう時だけ、まるで普通の恋人同士のように太陽の下でわたしたちは手を繋いで歩いた。
数日後、約束の日、花曇りの空。抜けるような空が広がる美しい日でなくてよかったと思う自分がいた。曖昧な色調の中でぼんやりと消してしまいたい。くっきりとした残像をわたしに残さないでほしい。思い出は綺麗すぎてはならない。忘れてしまうぐらいがちょうどいいの。
電車の中で、出会った頃を思い出していた。院生の時に友達になんかのパーティーに連れてかれた。学生が参加するようなものではなくて、業界の人とでもいうんだろうか?テレビとか雑誌とか……。場違いだった。立食形式のパーティーで、隅っこの方に飲み物を持って立ってた。友達とはぐれた。友達を見つけて、もう帰ると言おうと思って目で友達を探してた。
「君、若いね」
横を向くと、自分より歳上の男の人がいた。
「なにやってる人?」
「学生」
「えっ?」
目を丸くされた。
「なんか、かわいらしい人がいるなと思って見てたけど、ほんとにそんな若かったんだ」
「……」
「サメの群れの中にいるようなものだよ。悪いこと言わないから、早く帰りな」
「あなたも、そのサメの1人ですか?」
大笑いされた。片手で口をおさえて、もう片方の手でお腹抱えて。初対面だったけど、とても屈託のない人だった。
「なかなかしっかりとしたお嬢さんだな」
「ご心配いただかなくても、今帰るところです」
お辞儀をして行こうとしたら、手首を捕まえられた。びっくりして振り向いた。
「離してください」
「離すけど帰らないで」
「え?」
「君に興味が湧いた。取って食いはしないから、つきあってよ」
困って手首捕まえられたまま、相手をじろじろと見た。
「たしかに俺はサメですけど……」
そこで笑ってしまった。わたしが笑うとその人も、少しだけ照れ臭そうに笑った。そういう、立派な大人なのに、たまに子供のような表情をする。きっとそういうところが、女の人を惹きつけるのだと思う。いつまでも大人になりきらない悪ガキのような人。それが、神谷秀という男でした。
電車を降りて職場へ向かう。この時間、わたしと同じように職場に向かう人はまばらだった。
「静香先生、ちょっとこっち来て見て見て」
もう少しで定時になる時刻、まみちゃんがおいでおいでをする。窓際から下の道路を見てる。
「なに?」
お茶を飲んでたわたしはマグカップ片手に彼女の横に立つ。
「ベンツが停まってる。あそこ駐車禁止なのに」
「あ、ほんとだ」
「こんな路地裏になんの用でしょうね?もしかしてうち?お金持ちが心、病んじゃった?」
「お金持ちはもっと高級な先生のとこ行くんじゃない?うちみたいな良心的なお値段のとこじゃなくて」
「待合室にゴディバのチョコが山盛り置いてあるようなとこだ」
「なんかその光景だけで癒されるわ」
「すみませんね。庶民向けクリニックで」
「「わ!」」
振り向いたら、梶先生。
「なにを言ってるんですか。先生。癒しに庶民も金持ちも関係ありませんよ」
「そうですよ。先生」
一生懸命とりなす。
「君たち、今日はたまには早く帰りなさいよ」
「でも先生、最後の片付けは?」
「僕がやるから気にせず帰りなさい」
いつも穏やかで優しい梶先生。優しいお父さんを傷つけてしまった。今、二人、ちょっと歳の離れた姉妹のようでしたよ。ま、いっかとお言葉に甘えて帰り支度をする。立ち直りの早いのは若さの特権です。
「それでは先生、お先に失礼します」
2人で並んで階段をおりる。
「静香センセ、たまには女二人で飲みに行きません?」
「あ、ごめん。今日は先約あるの。また今度ね」
「静香」
まみちゃんのほうを向いてるわたしに向かって後ろから呼びかける声。ベンツの窓が下りて、秀が顔を覗かせた。頭が真っ白になりました。
「え?静香センセ、先約ってベンツ……」
「遠い親戚なの」
「へ?」
「親戚のおじさん。資産運用のことでいろいろ教えてもらってて」
すらすらとうそが出てくる。
「へぇ……」
若干まだ疑わしい目をしているまみちゃん。秀の顔をちらっと見ている。ここはもう逃げるしかない。
「あ、じゃあ、そういうことで、バイバーイ」
手を振ってから助手席に滑り込むと、秀がむっとした顔でつぶやいた。
「ひでぇな」
「親戚って嘘ついたこと?」
「違う」
わたしがシートベルトをすると、秀が車を出した。
「おじさん」
笑ってしまった。
「なによ。だって、まみちゃんから見たらおじさんだって」
「お前のおじさんって歳ではないだろ?」
「物理的には可能だって。親同士が歳の離れた兄弟なら」
しばらくしかめ面したまま黙って運転してる。たぶん今頭の中で計算してる。
「お店で待ち合わせだと思ってたのに、びっくりした」
「最後くらいはさ。お前、俺の運転する車、乗ったことなかっただろ?」
最後……。言葉が胸に迫る。人は不思議だ。秀のいない場面で、今のわたしはきっと泣かない。そして、きっとこれから、この人のいない場面で秀を思い出すことはあるだろう。そのとき、懐かしさはあってもわたしはきっと泣かない。春樹君がいればわたしはきっと泣かない。なのに、秀本人と会って顔を見ながら話していると、とても悲しい。この悲しさはどこから来るのだろう?
わたしはたぶんその答えを知っている。だけど、言葉にしたくなかった。
秀の選んだお店は高層ビルの天辺。夜景の中に浮かぶ空中の島のような、都会を歩いていた大人が、突然迷い込む異空間のようなとても素敵なお店で、ただ、高そうだった。まぁ、いいか。この人、金持ちだし。
「予約してんの?」
「してない」
「え?こんなお店、予約なしで入れるの?今日、金曜だよ?」
勢いで生きてる人だなと改めて思う。
「それが入れるんだな」
秀はお店の中にすいと入ると、出迎えたウェイターに言った。
「今、通せる席で一番いい席に通してくれない?2名」
「あの、ご予約はされてますか?」
ほら、見ろと思ってると、秀は笑った。
「君、最近入った子だね」
その言葉で気づいた。秀がそんなことするわけないと思ってたから思いつかなかった。
「フロアの責任者のところ行って、神谷ってお客さんが予約なしで来ていい席座りたいって言ってますけどって相談してごらん」
その若いウェイターの子は、怪訝な顔して奥にひっこんだ。
「もしかして、ここ……」
「あ、気づいちゃった?」
秀はそっとお店を見渡した。
「俺が独立して初めて手がけた店。愛すべき一号店」
「……」
「10年前、ここにこれ作った時はさ、10年後の自分がまさか、自分の店の子に顔も覚えてもらえなくなるくらいたくさんのお店経営するようになるとは思ってなかったなあ」
「こんなとこ、連れてきちゃってよかったの?」
「一回くらい平気だよ。姪だって言うさ。みんな俺の味方だしさ。ここにいる人達は」
泣いてしまいました。
「ばか、静香。姪はおじさんの前で泣かない。それはさすがにまずい。泣きやめ」
仕事が大好きな秀はいつも楽しそうに自分のいろいろなお店のことを話していて、でも、わたしはそれを写真でしか見たことがなかった。そこは足を踏み入れてはいけないところだと思っていたから。別の人と行くのも避けてました。
でも、本当はどこかで見たかった。この人が心血注いでいるものに触れてみたかったんです。言えなかった。言ったらきっと嫌がると思ってた。秀の一番大切な場所、職場に入れるのは特別な人だけで、自分はそういう存在ではないと思ってたから。
奥から上品な初老のおじさんが、滑るように出てきた。すごく焦って慌てて出てきてんだろうに、音も埃も立てないのがすごいなと思う。よく見ると横にさっきの若い男の子が、青い顔してくっついている。
「オーナー、何度言ったらわかるんですか?来る前に連絡してください」
「それじゃ、抜き打ち検査にならないじゃん。俺は準備してないみんなの日常が見たいのに」
「急に来られてもお席が用意できないことがあるんです。今日はたまたまキャンセルが出たからよかったものの」
そこまで捲し立てた後にそのおじさんはちらっとわたしを見て、表情をよそゆきに戻した。
「これは失礼いたしました。ご案内いたします」
入って正面と右手がガラス張りの個室に通された。正面には東京の夜景が見えて、右手は小さな箱庭に面してる。空中庭園。切り取られた小さな美しい世界。
「篠崎さん、さっきの若い子、叱らないであげてね。俺、最近あの遊び好きなの」
「もっとみんなが顔覚えられるくらい、うちにも来てくださいよ。オーナー」
「そうなんだけど、新しいお店のほうがいろいろトラブるからさ」
「お飲み物は何にされますか?」
「俺は車だから、彼女になにかおすすめのものを」
「かしこまりました。お嫌いなものや、アレルギーでお召し上がりになられないものはありませんか?」
おじさんがこちらを向いた。
「いえ、特には」
「この子、姪っ子だから」
秀がポケットからタバコを出しながら言う。
「俺の親父が、末っ子で、一番上のお姉さんが……」
「わざわざご説明されなくて結構です」
篠崎さんは恭しく礼をして出ていった。わたしは席を立って、窓辺に寄った。東京の街が宝石のようにきらきらしている。なんて綺麗で上品で、そして優しいお店なんだろう?
「これが秀が目指してる非日常的空間?」
振り向くと、秀はタバコを吸いながらじっとわたしを見ていた。
「その原点だな。真面目にコツコツと日常を生きている大人が、特別な時にちょっと背伸びして訪れる店。日常を一時的に忘れて癒される空間」
「すごく綺麗……」
「気に入ったか?」
「どうして今日はこんなに優しいの?」
「今までがひどかったみたいだな」
ひどくはなかった。頭では理解してた。忙しい人だからなかなか会えないのも。普通の恋人達のように外で会えないのも。自分が声を聞きたいと電話できないのも。
「やっと好きな人ができたんだろ?」
「……」
「その人もお前のことが好きで、愛し愛されみたいな普通の世界に戻ることにしたんだろ?」
普通の世界……
「今日はお前の卒業式だ」
突拍子もない言い方に笑ってしまった。
「なにそれ。何から卒業するの?」
「俺から」
「卒業?なんかちょっと違うな〜」
何かを教わっていたのではないような。
「じゃあ、リハビリが終わって退院」
「……」
「退院おめでとう。静香」
「長いリハビリ期間だったなぁ」
「忘れないうちに」
秀はポケットから鍵を出してテーブルに置いた。その鍵をわたしは見つめた。不意にコンコンとドアをノックする音がした。わたしは慌てて鍵を取って自分のポケットに入れた。
「お飲み物をお持ちしました」
篠崎さんが綺麗なピンク色のカクテルを持ってきた。よく見るとピンクよりももっと淡い色のお酒。そっとわたしの手元に置いた。
「日本の人の心にいつも咲く花。サクラという名前のカクテルで、始まりを祝う際に飲んでいただけたらという思いを込めたお酒です」
2人の終わりの日を、わたしの始まりの日だと言って祝う。
篠崎さんは、わたしにカクテルを、秀にガス入りの水とグラスを置いて去って行った。
「このお酒、注文したの?」
「いいや」
秀は笑いながら、吸っていたタバコをガラスの灰皿で揉み消して、ミネラルウォーターの蓋を開ける。
「あの人神様みたいにすごい接客するの。俺の知ってる中では一番だな」
自分のグラスに水を入れて秀はグラスを持ち上げた。
「乾杯。水だけど」
「……」
「静香、そんな顔すんなよ。笑って別れよう」
「……」
「これじゃ、俺がお前を振るみたいじゃねえか」
「なんでそんな冷静でいられるの?」
「なんでだろ?大人だからかな?」
わたしはグラスに手を伸ばした。グラスとグラスがぶつかる音が響く。
「これでお互いに都合のいい関係は解消だ。長い間、ありがとう、静香。楽しかったよ。幸せになれよ」
「おいしい」
わたしがそう言うと、秀は嬉しそうにした。
「そうだ。笑え。お前は涙より笑顔の方が似合う。終わりより始まりが。孤独より幸せがさ」
「詩人みたい」
「このくらいで詩人になれたら、苦労しないな」
次々と料理が来て、秀はその料理についていろいろ教えてくれた。
「綺麗でおいしい。でも、なんか不思議だね」
「なにが?」
「全然食べたことがないってわけではない味」
「そこが難しいんだよね。敷居が高いと感じさせないために、なんか食べたことがあるかもと、初めて食べたみたいなのが二つ同時にないと成功しない」
わたしは目を丸くした。
「そんなにいろんなこと考えるもんなの?」
「馬鹿だな、静香。このお値段取るんだ。これは遊びじゃないの。真剣勝負なの。真剣にやらないと負ける」
「負けたらどうなるの?」
「客足途絶えて、潰れる」
「そんな簡単な事じゃないんだ」
「そうだな」
お客さんはでも舞台裏の大変さは知らずに、この美しさと優しさを味わって帰るのか。
「秀ってすごいね。改めて思った」
「なんだ。初めてだな。そんなこと言うの。俺の事、すごいなんて思ってたの?」
「思ってたよ。でも、今日実際に目の当たりにした気がする」
「嬉しいな。静香に褒められた。連れてきた甲斐があった」
のんびり楽しく食事して、わたしたちはその綺麗な部屋を後にした。家まで送ると言う彼の申し出を断って、最寄りの駅まで送ってもらった。
「元気でね。今度こそ奥さん大切にね」
「お前の立場でそれを言うと、うちの奥さんにとって最大最悪の嫌味だな」
「それもそうか」
「そうだ。静香。場合によっちゃ刺されかねない。口には気をつけろ」
不道徳なことだが、そこで二人で笑った。
「じゃあね」
「じゃあな」
車の横に立って、彼はわたしを見送っていた。本当にもうこの人と二度と会わないのだろうか?永遠の別れってこんなにあっさりとしたもの?
電車に揺られながら、真っ暗な夜を眺めながら思う。秀の連絡先を、まだ消したくない。
だから、結局、まだ完全には別れられてないってことなのかもしれない。




