3-1 横山研究室へ
夜が更けても、大学の建物は完全には眠らない。とくに人文系の棟には、昼の喧騒とは別種の遅い時間が残る。講義が終わり、学生の足音が絶え、清掃の音も遠のいたあとで、ようやく本来の静けさが出る。その静けさは、空になったから生まれるのではない。紙と書架と長年の蓄積が、もともとそこに備えていた沈黙が、周囲の雑音が引いたぶんだけ表へ出てくるのである。
舜一が横山研究室のある階へ上がったとき、廊下はほとんど無人だった。蛍光灯の光は均質で、床のワックスだけが妙に冷たく反射している。昼間なら、ゼミ室から漏れる笑い声や、閉まりきらない扉の音、コピー機の駆動音が混じっているはずだが、その夜はどれもなかった。研究室のプレートだけが、細い金属の縁に光を溜めている。人がいなくなったあとの大学には、しばしば病院に似た気配がある。機能が止まったのではなく、機能だけを残して人の体温が引いた場所の気配である。
主任教授に会う。恋人が意識不明で運ばれ、現場には不可解なノートだけが残った。ならばまず、そのノートを書いた人間が何を研究し、誰の指導のもとで動いていたかを確かめるべきである。頭ではそう整理できる。だが実際に扉の前に立つと、その自然さは少しだけ頼りなく感じられた。訪ねて何がわかるのか。横山は何を知っているのか。あるいは何も知らないのか。知っていたとして、どこまで話すつもりがあるのか。そのどれにも、まだ答えはなかった。
岩崎は舜一の半歩後ろに立っていた。大学という場所に気圧される様子はないが、余計なことも言わない。彼はこういうとき、自分が当事者ではないことを理解している。舜一が先に立ち、必要なときだけ入る。その距離の取り方は、昨夜会ったばかりの相手にしては妙に手馴れていた。取材の場数なのか、もともとの性格なのか、まだ判断できない。ただ、少なくとも今は、その抑制がありがたかった。
扉を叩く。すぐには返事がない。もう一度、今度は少し強く叩く。数秒置いて、「どうぞ」と低い声が返ってきた。舜一はノブに手をかけ、研究室へ入った。
最初に来たのは、紙の匂いだった。乾いた紙、古い糊、布張りの背表紙、コピー用紙の粉っぽさ、書庫に長く閉じた本が持つわずかな黴の気配。それらが混じり合って、一種の気圧のように部屋の奥に沈んでいる。研究室というより、小さな資料室に近かった。壁一面の書架。平積みの紀要。広げかけの地図。神社誌、地誌、都市計画資料、再開発事業の報告書らしき厚いファイル。学問の部屋であることに違いはない。だが同時に、机上だけで閉じる研究ではないことも、ひと目でわかった。外へ持ち出され、また戻された資料の痕跡がそこかしこにある。
横山は机の奥にいた。五十代の終わりか、六十に近いのか、年齢は輪郭だけでは読みづらい。痩せているが、神経質そうには見えない。眼鏡の奥の目が疲れていた。疲れているというより、長い時間、ある種の不快な現実に付き合わされてきた者の目だった。机には開きっぱなしの論文と、半分ほど冷めた紙コップのコーヒーがある。研究に没頭していたというより、何か別のことを考えながら、ページだけを捲っていたような気配があった。
「夜分に失礼します」
舜一がそう言うと、横山は椅子にもたれたまま軽く顎を引いた。舜一の顔を見、つづいて岩崎へ視線を移し、もう一度舜一へ戻す。その数秒の観察だけで、相手がいま何を抱えてこの部屋へ来たかを測ろうとしているのがわかった。
「三澤さんの……」
横山はそこで言葉を切った。絢美の名字を口にしたあと、続く語を選んだのである。学生、では足りない。指導生、でも不足する。事故に遭った人間として呼ぶには、まだ情報が足りない。そういうためらいだった。
「舜一です。高瀬舜一」
舜一は名乗った。教授の前でフルネームを言うのは、いつ以来か思い出せなかった。絢美の研究のことで何度か挨拶はしている。だが正式に座って話したことはなかった。横山にとって自分は、優秀な院生の周辺にいる私的な人間にすぎなかったはずだ。そう思うと、この部屋に立っていること自体が、すでに平常の外にあるとわかった。
「昨夜の件で」
舜一が続ける。横山は「ええ」とだけ言った。その一語があまりに短かったので、神経を逆撫でされた。知っているのか。知らされているのか。どこまで知っているのか。問いは浮かぶ。だがここで感情を先に出しても仕方がない。舜一はノートを持つ手に力を入れた。
「絢美は、まだ意識が戻っていません」
横山は、今度は少し長く沈黙した。机の上へ視線を落とし、また上げる。その動きは、哀悼の表明より先に、情報の重さを測っているようにも見えた。研究者としての顔か、指導教員としての責任か、それとももっと別の迷いか、まだ読めない。
「そうですか」
やがて横山はそう言った。声は静かだった。だが静かすぎて、少し硬く聞こえた。言葉を慎重に選んでいるのではない。むしろ、選ぶべき言葉の外側に立っている人間の声だった。
岩崎が横から名刺を出した。フリーライター、とそこにはある。記者ではない。ジャーナリストでもない。その曖昧さが岩崎らしかった。横山はそれを受け取ったが、机へ置くだけで深くは見ない。
「報道の方ですか」
「今は、昨夜の現場を追っています」
岩崎が答える。その言い回しは上手かった。取材対象として踏み込むのでなく、舜一に同行している立場を先に示している。横山はそれに対しても明確な歓迎を示さなかった。追っていますか、と小さく繰り返しただけである。その繰り返し方に、わずかな拒絶を感じた。大学の研究室という場所は、外部の人間を好まないことがある。とくに問題の匂いがする案件ならなおさらだ。
机の前に椅子が二つあった。横山が手で示し、二人は座った。舜一は腰を下ろしてすぐ、部屋のあちこちに散った資料の題名が目に入るのを感じた。渋谷区史。江戸近郊地誌。都市改造計画。神社合祀の記録。戦後再開発。土地利用変遷図。並びに規則があるようでいて、実際には絢美のノートと同じく、複数の関心が同時に走っている棚だった。学術資料の中へ、再開発企業のパンフレットや行政の説明資料が混じっている。その混ざり方に、かすかな違和感を覚えた。教授個人の関心だけではなく、外から持ち込まれた案件がこの部屋に出入りしていた痕跡がある。
「三澤さんは、最近ずいぶん外を歩いていました」
横山が先に口を開いた。言い訳とも、報告ともつかない始まり方だった。
「調査の一環で、渋谷周辺を」
「何を調べていたんですか」
舜一が訊く。横山は、そこでようやく本格的に言葉を濁した。視線が机上の書類へ一度落ち、それから壁の地図へ移る。考えている、というより、答え方を探しているように見えた。
「いくつか、重なっていたんです。神社、地誌、再開発後の歩行導線、古い伝承の残り方……そういうものを、彼女は一緒に見ていた」
答えはしている。だが輪郭はまだ曖昧だった。神社、地誌、歩行導線、伝承。学術用語としては筋が通っている。だが、その語の並びは昨夜の出来事とまだ結びつかない。横山自身も、その結びつきを説明する準備がないのだと。
「絢美は、何を立証しようとしてたんですか」
横山はすぐには答えなかった。指先で紙コップの縁を一度なぞる。冷めきったコーヒーを飲む気はないらしい。そのしぐさだけが、時間稼ぎのように見えた。
「それは……私にも、まだ完全には」
そこまで言って、横山は口を閉じた。舜一はその途切れ方を聞き逃さなかった。知らない、とは言わない。完全には、が挟まる。つまり一部はわかっているのか、あるいはわかりかけているのか。いずれにせよ、昨夜の異常をただの突発事故としては受け取っていない。
舜一は、それ以上言葉で押すのをやめた。代わりに、膝の上に置いていたノートを机の上へ出した。派手な動作ではない。だが部屋の空気は、その小さな音だけで少し変わった。表紙の擦れ、角の潰れ、路面の汚れ。昨夜の現場をくぐってきた紙片であることが、見ればわかる形でそこにあった。
「これ、絢美が持っていたものです」
横山の目が、初めてはっきり動いた。
それまで彼は、舜一の顔と岩崎の存在と、事故という事実の周辺を見ていた。だがノートが机に置かれた瞬間、その視線の焦点が変わった。それがわかった。研究者が資料を見る目だった。いや、もっと直截に言えば、予期していなかった証拠物件が自分の前へ戻ってきたときの目だった。
「現場に落ちていました」
舜一が言う。横山はノートへ手を伸ばしかけ、触れる寸前で止めた。その停止が短かったからこそ、かえって印象に残った。触れたい。しかし躊躇が先に立つ。単に遠慮しているのではない。そこに戻ってきてほしくないものが戻ってきた、そういう種類のためらいに見えた。
「見せてもらっても?」
横山の声は、さっきまでより低くなっていた。舜一はうなずいた。
教授はノートを開かなかった。まず表紙だけを見た。次に、路面の汚れを見た。紙端の折れを見た。そうしてようやく、表紙をめくる。その手順そのものが、もう十分に異様だった。普通なら、まず中身を見る。だが横山は、そのノートが昨夜の現場を通ってきた事実のほうを先に読んでいた。
頁を一枚、二枚とめくる。その途中で、横山の顔色が変わった。血の気が引く、というほど露骨ではない。だが目の奥の筋肉が、かすかに硬くなる。表情を崩すまいとして崩しきれない顔だった。舜一はその変化を見て、胸の奥で何かが冷えるのを感じた。
事故の話を聞いたとき、横山は言葉を選んでいた。だがノートを見た今、選ぶ前に身体のほうが反応している。
それだけで、舜一には十分だった。




