2-4 岩崎との接触
舜一が再び歩き出したのは、立ち止まったままでいると、目の前に散った小さな異常のひとつひとつを必要以上に拾い続けてしまいそうだったからだ。見ているだけでは何も進まない。だが、ではどこへ向かうのかと問われると、まだ答えは持っていない。病院へ戻るには早すぎる。家へ帰るには、頭の内側が騒がしすぎる。都市の中で足を動かしているほうが、まだ思考を保てる気がした。
通りを折れ、比較的人通りの少ない歩道へ出たところで、背後から声がかかった。
「昨日、あの交差点にいたよな」
舜一はすぐには振り向かなかった。名を呼ばれたわけではない。だが、その言い方には確認の響きより、確信の響きがあった。足だけが半歩止まり、次にゆっくり振り向く。そこにいたのは三十代半ばほどの男だった。背は高すぎず低すぎず、痩せているが弱そうには見えない。黒っぽいジャケットの襟元が少し乱れ、肩から提げたバッグは型崩れしかけていた。きちんとしているのか、雑なのか、一見では決めにくい印象だった。だが目だけはよく働いていた。相手の顔色と手元と周囲の人通りを、同時に見ている目だった。
「倒れた子を抱えてた」
男はそう続けた。言葉は短い。慰めでも詮索でもない。ただ事実だけを置く。舜一はその瞬間、この男が自分を見たのは現場ではなく、現場のあとだと悟った。ニュース映像だ。繰り返し流されたあの映像のどこかに、自分の姿も入っていたのだろう。そう考えると、妙な寒気がした。昨夜のあれは、舜一にとっては私的な惨事だった。だが街にとっては、すでに編集され、切り取られ、反復される映像の一部に過ぎない。その落差を、男の一言が急に現実へ引き戻した。
「……誰だ」
舜一がそう言うと、男は肩をすくめるほどの動きで名乗った。
「岩崎。フリーで記事を書いてる」
記者、という語を彼は使わなかった。だが話し方の間合いに、それに近い職業の匂いがあった。相手の反応を見ながら、詰めすぎず、引きすぎず、必要な分だけ事実を出す。質問を重ねるより前に、まず相手にこいつは何を見ているかを測らせる。その慎重さは取材慣れした人間のものだった。
岩崎は視線を少しだけ舜一の手元へ落とした。ノートがある。すぐにまた顔へ戻る。その一往復が短かったので、警戒した。露骨に見るより、短く見て見なかったふりをするほうが、人の習慣はよく出る。
「俺も昨日の映像、洗ってる。で、あんたの顔を覚えた」
「ニュースの映像を?」
「それだけじゃない。現場にいたやつが上げた短いのもある。消えたのもあるけど、残ってる断片はまだ結構ある」
舜一は黙った。消えたのもある、という言い方が気になった。自発的に削除されたのか、運営に落とされたのか、本人が怖くなって消したのか。昨夜の現場なら、どれもありえた。むしろ消えているものが多いという事実のほうが、生々しく思えた。映像は残る。だが残った映像の総量が、出来事そのものの総量を保証するわけではない。人は見たくないものをすぐ消すし、説明できないものには保存の手が止まる。
「どうして、この病院だと」
舜一は聞いた。
「そこは仕事柄と考えてくれ」
「何が言いたい」
舜一の声は、自分でも少し硬かった。岩崎はそれを意に介した様子もなく、むしろ当然だという顔でうなずいた。
「事故にしちゃ、妙なんだよ」
そう言って、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出す。画面には動画編集アプリのタイムラインが開いていた。止まっているのは、スクランブル交差点を斜め上から撮った短い映像だった。縦位置の粗い動画で、画面は揺れ、音も割れている。撮影者は最初、ただ祭りめいた街の様子を撮っていただけなのだ。だが途中から、カメラの向きが不自然にぶれる。何かを見て、撮る手のほうが先に怯えた揺れ方だった。
岩崎は映像を再生し、すぐに停止し、数コマずつ送った。最初、その操作に何の意味があるのかわからなかった。見えるのは、交差点、人の頭、ビジョンの光、乱れた動きだけだ。だが数回止めたあとで、岩崎が画面の一角を指した。
「ここ」
舜一は目を凝らした。画面の右上寄り、巨大ビジョンの光が歩道へ落ちる境目のあたりに、線のようなものが走っていた。ノイズと言われればノイズに見える。圧縮の乱れ、レンズの傷、光の反射。そのどれでも説明できそうな細い線だった。だが説明できそうでいて、そうと断じるには妙な癖がある。線はただの乱れではなく、どこか折れ、どこか繋がり、単なる偶然以上の骨格を持っていた。
「別の動画でも、同じようなのが混じる」
岩崎がそう言って、今度は別角度からの短い映像を開いた。こちらはもっと短い。三秒ほどで終わる。しかしやはり、ある一拍だけ、同じような線が現れる。形は一致しない。位置も違う。だが、それが別物なのに同じ系統のものだとわかった。
気づくより先に、手が動いていた。舜一はノートを開いた。先ほど読んだ頁ではない。もっと前、絢美の走り書きが密なあたりをめくる。頁の余白に、線の束があった。図とも文字ともつかない走り書き。交差点の動画に混じっていた線と、それは完全には一致しない。だが一致しないからこそ、かえって近いものに見えた。元の骨格は同じで、そこへ別の手が加工を加えたようなずれ方だった。
岩崎がノートへ視線を落とし、それから短く息を吐いた。
「やっぱりか」
舜一はその言い方に反発を覚えた。やっぱり、というほど、この男はまだ何も知らないはずだ。だが同時に、その短い吐息の中に、安堵に近いものが混じっていることにも気づいた。自分の見つけた異常が、ただの見間違いではなかった。その確認を、岩崎もまた求めていたのである。
「これは絢美のノートだ」
舜一が言う。岩崎はうなずく。
「見ればわかる。問題は、そこにある線が、昨日の映像の中にも混じってるってことだ」
「偶然かもしれない」
「もちろんそうだ。一本だけならな」
岩崎は言葉を急がなかった。こういうときに勢いで断定しないところが、少し意外だった。もっとも、断定しないからこそ、この男は今ここで舜一に声をかけている。
「現場映像を何本か洗った。ビジョンのフレームを抜いた。ニュースで流れた編集済みのやつにも、個人が上げた生の動画にも、似た線が混じる。ただし全部違う。完全一致しない」
岩崎は画面を舜一へ向けたまま続けた。
「だから最初は、圧縮のノイズか、画面の焼き付きかと思った。でも違う。違うっていうか、ノイズにしては骨がある。で、あんたのそのノートにある線も、同じく完全一致じゃないのに、妙に似てる」
骨がある。舜一はその言い方を頭の中で反芻した。たしかにそうだった。ただ乱れた線ではない。何かの痕跡というには意味を持ちすぎ、意味を持つ図形というにはまだ崩れすぎている。その中途半端さが、逆に嫌だった。もし明らかな模様なら、誰かが意図して入れたと言える。だがここにあるのは、意図と偶然の境目へ押し込まれたような線だった。
「絢美は、これを調べてたのかもしれない」
舜一の口から出た言葉は、自分で思ったより弱かった。かもしれない。そこまでしかまだ言えない。ノートの断片は、順路、坂、重なる、そうした言葉ばかりで、図形そのものを主題にしているとは限らない。だが少なくとも、彼女が追っていた何かと、昨夜の映像の中へ混じっている何かが、全く無関係だとはもう思えなかった。
岩崎はスマートフォンを下ろした。
「事故だった、で済ませるには無理がある」
その言い方は抑制されていた。煽りでも、陰謀めいた響きでもない。ただ、これを偶然の一語へ押し込むには材料が揃いすぎている、という実務的な口調だった。
舜一は、夜の街を一度見回した。人はまだ歩いている。車も走る。スマホの画面はあちこちで光る。病院の白い外壁は静かで、交差点の狂騒はここまでは届いていないように見える。だが実際には、同じ方向の裂け目がもう街の中へ散り始めている。ノート。映像。M-KADO。昨夜の異常。病院での再発。
「事故じゃない」
舜一は低く言った。
「少なくとも、ただの事故じゃない」
岩崎はその言葉を否定もしなければ、安易に肯定もしなかった。ただ一度だけ、確かめるようにうなずいた。そのうなずきが、奇妙に重く感じられた。言葉を交わしただけなのに、もう自分はこの男と同じものを見始めている。その感覚があった。
人の手が加わった異常かもしれない。
その一文にしてしまえば簡単だった。だが簡単にした瞬間、そこから先に続く厄介さまでが軽く見えてしまう。人の手が加わる、とはどういうことか。誰が。どこまで。何のために。答えはまだひとつもない。だが、答えがないことと、異常がないことは同義ではない。舜一はその最低限の確信だけを、ようやく岩崎と共有した。
それが、この夜の二つ目の始まりだった。




