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都市の語り  作者: usa
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7/10

2-3 街の小規模発症

 病院を出ると、夜気は思ったより冷えていた。渋谷の交差点であれだけの人いきれと光の圧に晒されたあとでは、外の空気はむしろ薄く感じられる。肺へ入る量は増えているはずなのに、どこか現実味が乏しい。

舜一は自動扉を抜け、数歩進んでから、ようやく自分が呼吸を止めがちになっていたことに気づいた。意識して息を吐くと、胸の奥で固まっていたものが少しだけほどけた。だが、ほどけたのは呼吸だけだった。胃の裏に貼りついた冷たさはそのまま残り、喉の奥もまだ完全には開ききらない。交差点を出たのに、身体だけがまだあそこに取り残されている感じがあった。

 時計はもうかなり夜へ寄っていたが、街はまだ眠る気配を見せていなかった。病院の前の通りにも車は走り、人は歩き、コンビニの灯りは平板に明るい。タクシーが客を拾い、信号は変わり、誰かが立ち止まって缶コーヒーを買う。ほんの数時間前まで、同じ都市の別の場所では説明のつかない崩れ方が起きていたとは思えない。

その普通さが、今夜は少し頼りなかった。頼りないというより、薄い膜みたいだった。触れば破れそうなのに、誰もそれに気づかないふりでその上を歩いている。舜一はその光景を見ているだけで、また下腹が冷えるのを感じた。昨夜の交差点で起きたことは、ただの一回きりの事故として片づいてくれないのではないか。そう思った瞬間、足の運びが少しだけぎこちなくなった。

 病院の脇を抜けたところに、小さな街頭ビジョンがあった。大型のサイネージではない。ドラッグストアの上に取り付けられた簡易な画面で、普段ならキャンペーン映像か地域ニュースを流している程度のものだ。その画面には、今も無関係な通販広告が映っていた。健康食品、化粧水、安い旅行プラン。どれも夜の街には溶けない類の明るさだった。

舜一はそれをぼんやり見上げ、次の瞬間、視線を戻しかけた。そのとき、通りの脇のタイルの継ぎ目が、一瞬だけ妙に深く見えた。段差があるわけではない。割れてもいない。線と線の噛み合い方だけが、ほんの少しずれているように見えたのである。舜一は足を止め、靴先でそこを軽くなぞった。すぐに何でもない舗道へ戻る。疲れているのだろう、と自分に言い聞かせたが、胸の奥のざらつきは消えなかった。こういうときに「疲れている」で済ませてはいけない、と身体のどこかがもう知ってしまっていた。

 画面が、一瞬だけ違う色を帯びた。ほんの一拍にも満たない時間だった。広告の切り替わりのノイズと見過ごせなくもない。だが舜一には、それがそうではないとわかった。光の沈み方が違ったのである。輪郭だけが急に深くなり、街の奥行きが不自然に湿る。

昨夜、巨大ビジョンで見たあの映像の、ごく小さな断片が差し込まれたのだと、身体のほうが先に理解した。ロゴもない。説明もない。ただ、見ている側の焦点を半歩だけずらす、あの質感だけがノイズに紛れて通り過ぎた。舜一はそこで立ち止まった。立ち止まった瞬間、足首の内側に嫌な力が走る。膝を折るほどではない。だが、次に地面を踏み直す位置を一瞬だけ忘れる。あの交差点で感じた、現実へ戻る手順の鈍さが、もう一度だけ足元から這い上がってきた。

 周囲の誰も、それに気づいたようには見えない。あるいは気づいても、画面の不具合と処理したのかもしれない。昨夜のことがなければ、舜一だってそう思っただろう。だが今の彼には、そういう偶然を偶然として扱うだけの鈍さが残っていなかった。問題は、映像そのものより、それがどこへでも混じり込めることだった。

巨大ビジョンではなくてもいい。街路の小さな画面でも、誰かのスマホでも、待合のテレビでもいい。流れるものなら混ざる。見られるものなら忍び込む。そのことを考えた途端、喉がまた狭くなった。大きな恐怖ではない。むしろ逆で、いつでもどこでも少しずつ来られることのほうが怖かった。

 少し先では、若い男たちがコンビニの前にしゃがみ込み、スマートフォンを覗き込んでいた。笑い声がする。動画を見せ合っているらしい。画面の中で、顔がやけに整っていた。輪郭が痩せ、瞳に不自然な光が入り、背景の道路標識や街灯までが、一段だけ意味ありげに見える。M-KADOだ、とすぐにわかった。わかるようになってしまった、と言うべきかもしれない。

「やっぱこれ、夜のほうがやばいな」

「背景まで映画っぽくなるの反則だろ」

「昨日の件あったのに、まだ使ってんの?」

「だからだろ。逆に試したくなるじゃん」

 笑いながら交わされるそのやりとりに、悪意はなかった。好奇心と虚勢だけがある。危ないかもしれない。だからこそ一度、自分の目で確かめてみたい。その軽さが、妙に嫌だった。嫌だと思った次の瞬間、舜一はその輪へ近づきかけている自分に気づいた。止まって見てしまう。何が映っているのか確かめたくなる。その半歩がすでに罠だと思っているのに、目だけが先に引かれる。舜一はそこで歯を食いしばり、視線を切った。切るのに、意識して首を動かさなければならなかった。

 少し先で、小さな泣き声が上がった。制服姿の少女が歩道の端に立ち尽くしていた。高校生か、中学生か、年齢は判然としない。手にはスマートフォンが握られている。画面はまだ点いていた。少女はそこから目を離せないまま、唇だけをわずかに震わせていた

隣にいた友人らしい娘が「どうしたの」と肩を揺する。揺すられたことで、少女は怯えたように身をすくめ、スマホを取り落としかけた。舜一はその場面を見た瞬間、喉の奥にまたあの冷たい閉塞が戻るのを感じた。少女の涙が怖いのではない。理由のない涙が、理由を持つより先に身体へ出ていることが怖かった。

 昨夜の交差点のような連鎖は起きない。周囲の人間の多くは、怪訝そうに一瞥するだけで、その場を離れていく。足を止める者もいるが、同じ方向へ視線を揃えるほどの圧はない。だから余計に始末が悪い。場全体が壊れないぶん、壊れかけた個人だけが小さく取り残される。大騒ぎにならない。警察沙汰にもならない。だが、そのならなさの中でだけ進んでいく異常がある。舜一は、そういうものを見せられている気がした。

 タクシーが一台、通りを曲がってきた。ごく普通の速度だった。だがその車体が、病院前の植え込みへ不自然に近づいた。急加速でも急ハンドルでもない。ほんの半拍だけ注意が外れたような寄り方だった。

タイヤが縁石へ軽く乗り、低い衝撃音がして車体が止まる。運転手が遅れてブレーキを踏む。派手な事故ではない。誰も轢かれていない。それでも、こういう半歩だけ外れる崩れが、今夜は妙に多い。舜一はその鈍い音を聞いた瞬間、肩が勝手に強張るのを止められなかった。大きな音ではない。なのに、身体は先に「来た」と反応する。昨夜からずっと、何かが起きる直前の筋肉の固まり方だけが残ってしまっていた。

 運転手はすぐにドアを開けて出てきた。顔をしかめ、車体を見て、それから手元を見た。カーナビ台の脇に固定されたスマートフォンの画面には、短い動画が止まっていた。細部までは見えない。だが、そこに映っている光の質感だけは見覚えがあった。

別の場所では、横断歩道の手前で若い男が立ち尽くしていた。スマホを持ったまま、信号が変わっても動かない。青に変わり、人が渡り始めても、男だけがその場に残る。誰かに肩をぶつけられても反応が遅い。

数秒後、男はようやく我に返ったように顔を上げ、周囲を見回し、自分が立ち止まっていたことに遅れて気づく。その遅れ方が、昨夜の交差点にいた何人かと同じだった。

 大きくは壊れない。だが、確実に何かがずれる。泣く。立ち尽くす。ハンドル操作が遅れる。視線が剥がれなくなる。どれも単独なら、疲労や偶然で片づけられなくもない。実際、第三者が見ればそう解釈するだろう。それでも舜一は、同じ夜に同じ種類のずれをいくつも見すぎていた。

しかも今夜は、その「ずれ」の一つひとつが他人事に見えない。少女の涙も、運転手の遅れも、立ち尽くす男の空白も、すべて自分の身体の延長にある気がした。昨夜の映像が一度開けたものは、もう完全には閉じていないのではないか。そんな考えがよぎるたび、視界の端がわずかに暗くなった。

 M-KADOは、街に浸透していた。アプリとして。遊びとして。映像の小道具として。若者の笑いの中へ、通知の中へ、待ち時間の視線の先へ。しかし単体では、昨夜のような大崩れには至らない。だからこそ、やっかいだった。

 舜一は歩きながら、昨夜の交差点を思い返した。巨大ビジョン。光の角度。人波の密度。交差点という導線の集中。あそこでは、いくつもの条件が同時に噛んでいた。病院の白い建物を振り返る。ついさっきまで、あの中でも異常は局所的に再発していた。外へ出れば街は普通に動いているように見える。だが、その普通の隙間にまで、すでに同じものが入り込んでいる。

舜一は足を止め、低く息を吐いた。吐いたはずの息が、最後までうまく抜けきらず、喉の奥にざらついて残る。昨夜と同じではない。だが、同じ方向だった。そう思った瞬間、またどこかの画面が光を変える気がして、舜一は思わず顔を上げてしまった。


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