2-2 ノートの断片
待合の空気がようやく表面だけ静まったあとも、舜一はしばらくノートを開かなかった。
テレビが消え、看護師たちがそれぞれの持ち場へ戻り、壁紙を引っかいていた男も別室へ案内されていった。年配の女は、何事もなかったように膝の上で手を組み直し、俯いている。廊下の秩序は回復したように見えた。けれど数分前、そこに何か別のものが混じった気配だけは、まだ床のあたりに残っているようだった。
病院という場所では、時間は時計で刻まれる。だが不安は時計に従わない。
検査結果が出るまで三十分と言われても、その三十分は均等には流れない。舜一は椅子に座り直し、ノートを膝の上へ置いた。開くべきだとは思っていた。絢美があの夜、交差点へ持って行ったものだ。無関係であるはずがない。
それでも、開けば何かが決定してしまうような気がして、指先だけがためらった。
ようやく表紙をめくる。
紙は少し波打っていた。湿気を吸い、乾きかけた紙独特の手触りだった。几帳面な調査ノートだ。頁の端には書き直しの跡があり、矢印が重なり、同じ単語が別の筆圧で何度も書かれている。論文の下書きでも、報告書のメモでもなかった。考えが言葉へ変わる、その少し手前の場所を、そのまま紙へ押しつけたような頁だった。
最初の数頁には、日付と地名らしきものがあった。
渋谷。金王。坂上。裏。視認。
古い表記と今の略記が混ざっている。資料から引いたような字もあれば、現地で立ったまま急いで書いたような文字もある。きれいに一つの調査対象へ向かっている感じではなかった。何枚もの薄い紙を重ねたみたいに、層ごとに少しずつずれている。
さらに頁を繰ると、文章らしい文章はほとんどなくなった。
あるのは断片だけだった。
正面では見えない。先に現地。坂。重なる。語りは場所ではなく順路に宿る。
どれも一行か、せいぜい二行しかない。説明はない。主語もない。なぜそう言えるのか、その根拠もない。
しかも、字がいつもと少し違っていた。乱れているわけではない。酔ってもいないし、焦って走り書きしただけの崩れ方でもない。むしろ逆で、余計な線を省きすぎたときの字だった。絢美は考えがまとまらないうちは、もっと書く。矢印も多いし、あとから自分で読み返すための言い訳みたいな補足も入れる。だが、本当に嫌なところまで見えてしまったときだけ、急に字が短くなる。短くなるのは、言えないからじゃない。言うと開くからだ
その癖を、舜一は知っていた。以前、古い団地の取り壊し前調査に付き合わされたときもそうだった。絢美は最初、窓の向きや通路の幅や住戸番号の並びまで細かく書いていたのに、途中から急に「西側だけ遅い」「見下ろす位置が先」とだけ書いて黙り込んだ。あとで聞くと、そこから先は書くより先に確かめたくなったのだと言っていた。つまりこのノートの断片は、単なる整理不足ではない。絢美の中で何かが先に繋がり、その速さに字のほうが置いていかれているときの形だった。
舜一は目で追ったあと、頁から顔を上げた。待合の白い壁が、一瞬だけ遠く見えた。
絢美はこういう書き方をするときがある。頭の中でかなり先まで行ってしまったときだ。迷っているうちはもっと長く書く。書いて、消して、また書く。ここまで削れているときは、逆にその手前に長い思考がある。
舜一は最初の一行へ目を戻した。
正面では見えない。
神社のことかもしれない。
文様のことかもしれない。
映像のことかもしれない。
どれとも取れるし、どれでもないのかもしれない。
舜一はそこを二度読んで、三度目でやめた。言葉の意味を考え始めると、却って逃げる気がした。
次の頁に指を移す。
先に現地。
絢美らしい、と思った。資料を読む前に歩く。説明を立てる前に立ち止まる。そういう順番を、彼女はよくやる。それがいいのか悪いのか、舜一にはわからない。ただ、彼女はたしかにそういうやり方をする。
坂。
この一語だけは、妙に残った。渋谷に坂が多いことは、今さら書き留めるようなことでもない。なのに、ここだけ切り出してある。
舜一はその字面を見ながら、昨夜の交差点とは別に、自分たちがこれまで何度も歩いてきた渋谷の坂をいくつか思い出した。上るときと下るときでは、街の見え方が違う。立ち止まる位置も違う。そんなことは、考えれば当たり前のはずなのに、その当たり前がこの頁の上では少し嫌な意味を帯びていた。
重なる。
そこだけ、手触りが悪かった。何が何に重なるのかが書かれていない。
地図と現地か。過去と現在か。神社と都市開発か。あるいは、もっと別の何かか。
舜一はその語を見ているうちに、昨夜、巨大ビジョンの向こうに自分の過去の断片を見た瞬間を思い出した。あれも、何かが何かに重なったのではなかったか。
そう思ったところで、舜一はノートから目を逸らした。考えがそちらへ滑るのを止めたかった。
最後の一文だけが、他の断片よりわずかに長かった。
語りは場所ではなく順路に宿る。
その行のところで、舜一の指が止まった。
語り。絢美がその語を使うとき、それは昔話や伝承をそのまま指しているわけではない。だが、だからといって何を指しているのか、いまの舜一にはうまく言えない。
わからないまま、その一文だけがやけに重かった。場所ではなく、順路。そこへ至るまでの通り方。その順番。その角度。その通り抜け方。そこまで考えたあたりで、背中の奥がすっと冷えた。
頁をめくる。
地誌や順路のメモに混じって、妙に筆圧の強い一行があった。
土地じゃない。反応のほうを見ている。
その下に、少し間を置いて、
住ませるのでなく、読ませようとしている。
舜一には意味がわからなかった。だがそれは調査の走り書きというより、誰かへの警戒に見えた。
相手の名前はない。何に怒っているのかもわからない。それでも、この二行だけは、それまでの頁より温度が違った。
後ろへ行くほど、字は乱れていた。急に筆圧が強くなる箇所がある。逆に、ひどく小さく縮む箇所もある。考えが進んだというより、進みながら何度も引き返していた跡に見えた。
余白には、略号みたいなものが増えている。
K.O.
KNO
S坂
裏
南西
二つ目
矢印と丸で結ばれているが、地図の記号という感じではない。むしろ、「そこから見たとき」とか「そこを通ったあと」とか、そういう順番を本人だけの書き方で封じた記号だった。
舜一はしばらく、その頁を見つめた。意味は読めない。だが、意味が読めないまま重要であることだけが伝わってくる。そういう字だった。
ノートを持つ手が、少し汗ばんでいることに気づく。待合は空調が効いていて、寒いくらいなのに、指先だけが湿っていた。頁をめくるたび、紙の端が皮膚へ貼りつく。
絢美は何かへ近づいていた。それだけはわかった。だが、何に近づいていたのかまでは、まだ読めない。読めないまま、嫌な感じだけが先にこちらへ来る。それがいちばんまずい種類のノートだと、舜一は思った。
彼はそっと頁を閉じた。
全部を一度に読むべきではない気がした。読めば読むほど、このノートは単なる遺留品ではなくなる。絢美が見ていたものの入口になる。
その入口へ、まだ自分はうまく立てていない。そう感じた。けれど同時に、もう戻れないこともわかっていた。




