2-1 病院の廊下
病院の夜は、静かだ。音が、役目ごとに切り分けられているから静かに感じられる。足音は床材に吸われ、話し声は低く抑えられ、機械音は必要以上に感情を持たぬよう均されている。自動扉の開閉、遠くで鳴るコール、カートの車輪、ナースステーションの短い応答。どれも消されてはいない。ただ、どの音も、自分の範囲を越えて他の音を侵さないように整えられている。その整いが、人を疲れさせることがあると、舜一はこの夜、初めて知った。
集中治療室の前の廊下は、白いというより、やや青かった。照明の色温度のせいかもしれないし、窓の外にまだ街の夜が残っているせいかもしれない。壁際には簡素な椅子が並び、見舞客たちが等間隔で腰を下ろしていた。誰も大きな声は出さない。泣いている者もいない。病院という場所では、悲しみもまた順番を待たされる。医師の説明の前に泣くわけにはいかず、処置の最中に取り乱すわけにもいかない。その我慢が、廊下全体を薄く張りつめさせていた。
舜一は、その椅子の一つに腰を下ろしていた。座っている、というより、膝を折ってそこに留まっている感覚だった。身体は重い。脇腹の鈍い痛みが遅れて出てきていたし、肩のあたりには、人にぶつかられた衝撃がまだ残っている。だが、その程度の痛みはどうでもよかった。痛みとして認識するには、もっと優先すべきものが前にありすぎた。絢美の意識は戻っていない。検査は続いている。頭部外傷。経過観察。必要なら処置。説明は受けた。言葉は理解した。だが理解したことと、受け入れたことのあいだには、まだかなりの距離があった。
膝の上には、あのノートが置かれていた。表紙の角はつぶれ、路面で擦れた痕が汚れとなって残っている。開こうと思えば開けた。だが舜一はまだ開かなかった。開けば何かがわかるかもしれない。その可能性を認めることが、今は怖かった。絢美が目を覚まして、自分の手で説明するより先に、彼女が見ていたものを先取りする。そのことへのためらいもあったし、もっと単純に、このノートを開いた瞬間、もう後戻りできなくなる予感もあった。
廊下の端には小さな待合スペースがあり、壁掛けのテレビが音量を絞ってつけられていた。ニュース番組はまだ、渋谷の件をトップで扱っている。スクランブル交差点、巨大ビジョン、負傷者多数、原因不明。どの局も断定を避けていた。避けざるを得ないのだ。テロ、薬物、電波障害、機材トラブル、群衆心理の暴走。見出しとして並べられる語は増えているのに、そのどれも出来事の中心へ届いていないのが、舜一には見て取れた。
映像が切り替わる。交差点の俯瞰。規制線。救急隊。繰り返される群衆の混乱。その繰り返しの中に、問題の大型ビジョンがほんの数秒だけ再び映った。報道用に編集され、音も絞られ、全体の露出も抑えられている。あの現場で見たものとは、明らかに違う。違うはずだった。
その瞬間、待合の空気がわずかに止まった。
何か大きな音が鳴ったわけではない。誰かが叫んだわけでもない。だが、そこにいた数人の身体から、同時に、別々の緊張が立ち上がるのが見えた。テレビの近くにいた中年の男が、急に壁のほうへ顔を向けた。視線の高さが妙だった。壁紙の模様を見ているのではなく、もっと奥に、そこにあるはずのないものを見ている顔だった。その男は、指先で壁紙の端をつまみ、爪を立てて引いた。最初は無意識の動作のように見えた。だが次の瞬間には、明らかな意思を持っていた。めくる。剥がす。何かを表へ出させまいとするように、あるいは壁の裏に閉じ込められたものを確かめようとするように。
数席離れたところでは、年配の女が小さく首を振っていた。声は出ていない。だが口元が動いている。舜一は最初、祈っているのかと思った。そうではなかった。女は誰かに話しかけていた。誰もいない椅子へ向かって、まるでそこに幼い子どもでも座っているかのように、ゆっくり何かを言い聞かせている。表情は穏やかですらあった。それがかえって不気味だった。取り乱しているのではない。本人には、おそらく何もおかしなことは起きていないのだ。
看護師がそれに気づき、足早に近づいた。だがその足取りは慌てていなかった。病院で働く者は、異常を見てもまず速度を上げすぎない。患者や見舞客の不安を増幅させないための職業的な身振りである。声の高さも変えず、「大丈夫ですか」と問いかける。壁紙を剥がそうとしている男の肩に、そっと手を置く。動作は正しい。落ち着いている。だが、その正しさが届く前に、男のほうがびくりと身体を震わせ、振り向きざまに看護師の腕を払いのけた。
その払い方には、敵意より恐怖があった。触れられたことで、自分がいま見ているものへ他人まで侵入してきたと感じた者の反応だった。その瞬間、交差点で見た顔を思い出した。土下座していた男。笑いながら泣いていた若者。靴を失ったまま立ち尽くしていた女。反応の形は違っても、壊れ方の核が同じだった。見えているものが、他人と共有されない。その孤立が、人をさらに追い詰める。
だが、ここは渋谷ではない。交差点ではない。巨大ビジョンも、人波の圧も、信号の切り替わりもない。条件が違う。その違いは、舜一にもはっきり感じ取れた。異常は起きる。だが臨界までは行かない。空気全体が破れるのではなく、一人ずつの内部だけが小さく裂ける。その程度で留まっている。留まっている、という言い方が適切ならばだが。交差点のあの一夜と比べてしまえば、この廊下の異常はたしかに局所的だった。
看護師がもう一人来た。テレビの音量がさらに絞られる。誰かがリモコンで電源を切ろうとしたが、一瞬遅かった。
年配の女が、ふいに何かを見失った顔をして口を閉じた。壁紙を引いていた男の指先だけが、なお執拗に紙の端を探っている。
舜一は立ち上がりかけ、また座った。自分が何をすべきなのかわからなかった。助けに入るべきか。看護師へ伝えるべきか。あるいは、ただ見ているべきか。判断が遅れる。
そのとき、テレビの下に伸びる配線カバーの端が、ほんの少し浮いているのが見えた。
白い壁に白いカバー。普通なら目に入らない程度のずれだった。だが舜一には、その数ミリの隙間が妙に気になった。片側だけが噛んでいない。黒い線が、細く開いている。
今はそんなものを見ている場合ではない。そう思ったのに、指先がわずかに動いた。
押せば嵌まる。その感覚だけが、やけにはっきりあった。だが舜一は動けなかった。足元に置いたノートの重みと、処置室の奥にいる絢美のことが、同時に身体を椅子へ縫い止めていた。
次の瞬間、テレビは消された。画面が黒くなり、待合にいる者たちの顔だけが薄く映り込む。壁紙を探っていた男の手が、少し遅れて止まった。年配の女も、誰もいない椅子から目を外し、膝の上の自分の手を見下ろした。
だが、舜一はまだテレビの下を見ていた。
配線カバーの端は、浮いたままだった。
その黒い隙間だけが、画面が消えたあとも閉じていないように見えた。
舜一は膝の上のノートへ目を落とした。表紙のざらつきが、指先にわずかな抵抗を返す。その抵抗だけが、いまは妙に現実的だった。テレビが消えたあとも、廊下の空気は完全には戻らなかった。誰も大騒ぎはしない。看護師たちも迅速に対処している。だが、ほんの数秒前までそこになかった種類の不信が、場の底へ沈んでいる。映像は終わっていない。交差点で終わらなかったものが、編集され、切り取られ、薄められた形で、なお人の中へ入り込んでくる。
舜一はそのことを、理屈より先に知った。
あの画面は、ただ映ったのではない。何かを開いたのだ。




