1-4 搬送と夜のニュース
明治通り側へ抜ける。
そう決めた瞬間、舜一は絢美の身体を抱え直した。肩の下へ腕を差し込む。後頭部を押さえる。血で湿った髪が、手の甲に貼りついた。
人が押してくる。
背中。肘。鞄。誰かの肩。
足元が見えない。白線が歪む。靴底が滑る。絢美の身体がずれかけるたび、舜一は奥歯を噛み、腕に力を入れた。
「どいてください」
声は出た。だが人波に吸われた。
もう一度言う。
「どいてください!」
誰かが振り返る。すぐに別の方向を見る。その目は舜一も絢美も見ていない。自分だけに見える何かを避けている。
右から肘が入った。舜一の脇腹に当たる。息が詰まる。絢美の頭が揺れる。舜一は慌てて支え直した。
「すみません、けが人です!」
今度は近くの女が気づいた。顔が青くなる。半歩下がる。その隙間へ舜一は身体をねじ込んだ。
狭い。広い交差点のはずだった。だが今は、肩幅一つ分の道もない。逃げる足。止まる足。しゃがみ込む身体。仮装のマントが足に絡む。誰かのスマートフォンが路面で光っている。踏まれて、画面にひびが走る。
音が遠い。悲鳴はある。怒鳴り声もある。信号音も聞こえる。けれど全部が一枚膜の向こうにある。近いのに遠い。耳元で鳴っているのに、届くまでに半拍遅れる。
絢美の呼吸だけが、近かった。浅い。細い。途切れそうで、途切れない。
頬に血が流れている。額の脇から、顎のほうへ。噴き出してはいない。けれど止まらない。舜一の指にもつく。拭えない。拭う手がない。
「絢美」
返事はない。
瞼は閉じきっていない。目の焦点がない。舜一はその目を見ないようにして、前だけを見た。
前へ。とにかく前へ。
通りの脇で、ようやく声がまとまり始めた。
「救急! こっち、人が倒れてる!」
「下がってください!」
「押さないで!」
警備員の反射材が揺れる。無線の声。赤い誘導灯。誰かの手が伸び、すぐに引っ込む。触れていいのかわからない顔だった。
舜一は壁際のわずかな空きへ絢美を寄せた。
座らせるべきか。寝かせるべきか。首は動かしていいのか。答えが出る前に、絢美の身体が傾いた。舜一は膝をつき、自分の胸で支える。片手を後頭部へ。もう片方の腕を肩へ。
手が震えていた。止まらない。
「絢美、聞こえるか」
唇が動いたように見えた。
舜一は顔を近づける。何も聞こえない。呼気だけ。浅い息。血の匂い。アスファルトの熱。人の靴のゴム臭。
すぐそばで、誰かが泣きながら笑っていた。別の声が、同じ言葉を繰り返している。
「来るな、来るな、来るな」
巨大ビジョンの光が、まだ背中に届く。
振り向かない。振り向いたら、また引かれる。
赤いライトが近づいた。救急隊だった。
反射材。白い手袋。担架の金属音。開く音。車輪が路面を叩く音。
「負傷者こちらですか」
「頭を打っています」
舜一はそう言ったつもりだった。声が掠れた。
「意識は」
「戻ってません」
「名前は」
「絢美。三澤絢美」
「年齢は」
舜一は答えた。正しく答えたはずだった。だが自信がない。質問が短く飛ぶ。打撲部位。出血。嘔吐。既往歴。服薬。舜一は言葉を探し、途切れ途切れに返す。
大型ビジョン。映像。群衆。スーツケース。頭。
言葉にすると、それだけになる。
違う。そう思った。
違う、あれはそんな単純なものじゃない。だが救急隊員は必要な言葉だけを拾っていく。手順がある。順番がある。絢美の瞳を見る。呼吸を見る。首を固定する。傷の位置を確認する。
「動かします」
舜一は手を離した。
離した瞬間、絢美の重さが腕から消えた。その軽さが怖かった。
担架へ移される。ベルトが締められる。絢美の身体が一度、小さく揺れた。
その拍子に、コートの脇から何かが落ちた。
小さなノートだった。アスファルトに角から当たり、開きかける。路面の汚れが表紙についている。頁の端が折れている。舜一はしゃがんだ。
拾う。指が震えて、うまく掴めなかった。もう一度、表紙を押さえる。開きかけた頁に、走り書きが見えた。
――正面では見えない。先に現地。坂。重なる。
それだけが、やけにはっきり読めた。
誰かが肩越しに言った。
「付き添いの方、乗れますか」
舜一はノートを閉じた。胸の内ポケットへ入れかけ、やめた。手に持ったまま、救急車へ向かった。
後部ドアが開いている。車内の照明は明るかった。明るすぎた。血の赤。包帯の白。手袋の青。金属の銀。全部が容赦なく見える。
絢美の顔だけが、遠かった。
すぐそこにいる。手を伸ばせば届く。なのに、一枚向こうへ行ってしまったものを見る距離だった。
ドアが閉まった。外の音が一段落ちる。サイレンが鳴る。車体が揺れる。隊員の声が続く。血圧。呼吸。意識レベル。病院への連絡。
舜一は座席に腰を下ろした。
膝の上にノートがある。表紙の角が潰れている。爪の間に路面の汚れが入っていた。親指で表紙を押さえる。紙の感触がある。開けば、さっきの続きが見える。
舜一は開かなかった。
救急車の揺れで、頁が少しだけ浮く。
指で押さえる。それだけだった。
絢美の意識が戻らないうちに、その中を見ることが、どうしてもできなかった。
いや、それだけではない。あの文字を見た瞬間、舜一は思い出していた。
正面では見えない。先に現地。坂。重なる。
絢美は、あの場で何かを見ていた。
起きてから気づいたのではない。起きる前から、何かが重なりかけていることを見ていた。
救急車が曲がる。身体が横へ振られる。舜一はノートを押さえた。表紙の下で、薄い紙が擦れる音がした。
昔の声が、ふいに戻った。
「今、また気にしたでしょ」
駅の階段だった。
前に、絢美と並んで階段を上がっていたときのことだ。舜一は段の端のわずかな沈みを、無意識に避けた。ほんの数センチ。自分でも気づかないくらいの動きだった。
だが絢美は見ていた。
「何を」
「段の端。ちょっと避けた」
図星だった。
たしかに気づいていた。沈み方が気持ち悪かった。踏んでも崩れるわけではない。誰も気にしない。けれど、足を置く気になれなかった。
「そういう言い方すんなよ」
きつめに返した。
絢美はあっさり謝った。
「ごめん」
それで終わると思った。だが階段を上がりきったあと、彼女はまた言った。
「別に変じゃないよ」
「……何が」
「そういうの気づくの」
舜一は返事をしなかった。
絢美は、おかしいとも、考えすぎだとも言わなかった。ただ、そういうふうに世界を受け取る舜一を、最初から知っているような顔をしていた。
救急車の中で、その顔を思い出した。
舜一は膝の上のノートを見下ろした。
開かない。開けない。
親指だけが、表紙の潰れた角を押さえていた。
病院へ着いてからの時間は、途切れ途切れだった。
受け入れ。名前の確認。処置室。検査。手術の可能性。待機の指示。電話をかける相手。書類。ボールペン。硬い椅子。
舜一は一つひとつに応じた。応じたはずだった。順番がわからない。
蛍光灯が白い。床が冷たい。時計だけが正確に動いている。
ノートは膝の上にあった。
何度か開きかけた。というより、揺れで頁が少し浮いた。そのたびに舜一は押さえた。読むためではない。閉じておくためだった。
自動扉が開く。閉まる。
閉まりきる手前で、弱く擦れた。少し遅れて密着する。
その半拍が耳に残った。
――半端に開いたものは、夜のうちに戻しておきな。
祖母の声だった。
戸のことだったのか。窓のことだったのか。それとも別の何かだったのか。今もわからない。ただ、その言い方だけが残っていた。
舜一は顔を上げた。待合のテレビでは、すでにニュースが始まっていた。
スクランブル交差点。巨大ビジョン。一部での転倒者。複数の負傷者。原因不明。テロの可能性は確認中。薬物使用の有無は不明。機材トラブルとの関連も調査中。
同じ映像が繰り返される。
交差点の俯瞰。規制線。救急隊。群衆の混乱。大型ビジョンの光。
音量は絞られている。映像も報道用に加工されている。現場で見たものとは違う。違うはずだった。
それでも、画面の奥に、またあれが混じる気配があった。
湿った夕方。遠くの怒声。白いはずのものが灰色に見える光。名前を与えずに沈めてきた記憶。
舜一はテレビから目を逸らした。
膝の上のノートに視線が落ちる。
表紙は閉じている。だが中の文字は、もう見えてしまっている。
正面では見えない。先に現地。坂。重なる。
画面の中では、交差点の光がまた切り替わった。
舜一は目を閉じた。
あれは、もう単なる広告ではない。
そう思った瞬間、病院の白い廊下のどこかで、自動扉がまた遅れて閉まった。




