1-3 スーツケース
破れた、と思った瞬間には、もうどこが最初の裂け目だったのかわからなくなっていた。
悲鳴が先だったのか、何か硬いものが路面を打つ音が先だったのか。舜一には判別できなかった。ただ、交差点にあった人の流れが、その一点を境に流れでなくなったことだけはわかった。
押される。戻る。避ける。ぶつかる。誰かの肩が別の誰かの胸を突き、よろめいた足が白線の上を滑る。さっきまで一つの方向を持っていた群衆が、ばらばらの恐怖に引かれて裂けていく。
交差点の中央寄りで、若い男がスーツケースを振り回していた。
黒い、四輪の大型ケースだった。男はそれを片手で引きずるように持ち上げ、腰の高さより低い位置で横へ払った。車輪が宙で跳ね、角が人の膝をかすめる。誰かが短く叫んだ。
男は誰かを狙っているようには見えなかった。目は開いている。男の視線の高さが、ビジョンの縁と同じ角度で固定されていた。だが、そこに映っているものは、舜一たちのいる交差点ではなかった。男は目の前に迫る何かを払っている。その何かには形がない。位置もない。だからスーツケースの軌道も定まらない。左へ振った腕が、次の瞬間には右へ戻る。よけた者のほうへ、遅れて角が追ってくる。
男の周囲に空白ができていた。だが完全な空白ではない。逃げようとした者同士がその縁で詰まり、背中と胸を押し合っている。誰かがビジョンを見上げたまま後ずさりし、誰かがしゃがみこみ、誰かが転んだ人間を跨いだ。広いはずの交差点が、急に狭くなっていた。
舜一は絢美の手首を掴んだ。
「絢美」
自分では叫んだつもりだった。だが声は低く擦れ、喉の途中で潰れた。さっきから続いている息苦しさが、まだ残っている。胸は動くのに、空気が奥まで入らない。
絢美は振り向かなかった。
彼女の視線は、男ではなく、人の詰まり方を追っていた。どこから押され、どこで逃げ場が潰れ、どの線を越えれば誰かが倒れるのか。そんなものを見ている顔だった。顔色は白い。唇がわずかに開いている。恐れていないわけではない。ただ、恐怖より先に見る癖が出ている。
舜一は手首を引いた。絢美の身体が半歩だけ動く。だが、その半歩を群衆が塞いだ。後ろから誰かの肩がぶつかり、舜一の足が白線の上で滑る。立て直したとき、男の腕がもう一度振り抜かれるのが見えた。
低い軌道だった。
スーツケースの黒い角が、白線の上をなぞるように横へ来た。
舜一は腕を伸ばした。絢美の肩に指がかかる。引ける、と思った。だがその前に、ケースの角が届いた。
鈍い音がした。
絢美の側頭部が打たれ、首が不自然に横へ振れた。髪が遅れて揺れる。目が一瞬だけ開いたまま揺れた。何かを見ようとしたようにも、何も見えていないようにも見えた。
舜一の指が、絢美の肩から滑った。
膝が折れた。絢美の身体がその場に落ちる。腕をつく余裕もなかった。舜一は腰を落とし、肩口を支えようとしたが、重みが先に沈んだ。路面に膝が当たる音がした。続いて、誰かの靴がすぐ脇を踏んだ。
「絢美!」
今度は声が出た。
舜一は彼女の上へ覆いかぶさった。肩と背中で、流れてくる足を受ける。横から膝が当たり、肋骨のあたりに痛みが走った。誰かのバッグが耳を掠める。靴底がすぐ目の前を通る。地面の近くでは、匂いが違った。埃、濡れた布、アスファルトの熱、靴底のゴム。
その中に、鉄の臭いが混じった。
絢美の額の脇、髪の生え際のあたりから、黒い筋が流れていた。ビジョンの光で黒く見えているだけかと思った。違った。血だった。頬へ向かって、遅く、重く流れている。
舜一は絢美の肩を抱いた。頭を持ち上げかけ、すぐに止めた。首を動かしていいのか、わからなかった。だが、このままでは踏まれる。足が来る。誰かの踵が、彼女の手のすぐ横に落ちた。
舜一は身体をずらし、絢美の頭を自分の胸の側へ寄せた。片手を後頭部に添える。もう片方の腕を背中へ差し入れる。完全には抱き上げられない。人が多すぎる。腰を入れる隙間がない。
絢美の唇が、かすかに動いた。
舜一は顔を近づけた。声は聞こえなかった。唇だけが、何かの形を作りかけて、またほどけた。
「大丈夫だ。出るぞ」
言いながら、自分でも何が大丈夫なのかわからなかった。絢美の目は閉じていない。だが焦点がない。呼吸はある。浅い。血は止まっていない。
背後で誰かが笑った。笑い声のまま泣き始めた。別の場所で「来るな」と同じ言葉が繰り返された。土下座したまま動けない男の背を、誰かが乱暴に跨いでいく。片方の靴を失くした女が、裸足で白線の上に立っていた。
巨大ビジョンの中では、まだ笑顔が続いていた。
整った顔。整った夜景。整った光。
その光が、絢美の血の筋にかかった。黒かったものが、一瞬だけ赤く見えた。
舜一は歯を食いしばった。
ここから出す。それ以外のことは、あとでいい。
絢美の身体を半身だけ起こす。頭が揺れないように、後頭部を支える。肩を自分の胸へ預けさせる。人ひとりの重みが腕に来た。絢美の身体はまだ温かかった。その温かさが、妙に生々しく、舜一を急がせた。
横から誰かがぶつかった。
「すみません」
声だけが通り過ぎた。顔は別の方を向いていた。その目は舜一も絢美も見ていなかった。何か、自分だけに見えるものを避けながら、謝罪の言葉だけを置いていった。
舜一は身体で絢美を囲うようにして立ち上がろうとした。
そのとき、足元の少し先で、紙がめくれる音がした。
絢美のノートだった。アスファルトの上に開いて落ちている。角が折れ、頁が靴の風圧で震えていた。黒い靴がそのすぐ横を踏む。次の足が、開いた頁の端をかすめた。紙が一枚、白線の上へ反り返る。
舜一の手が、一瞬だけ浮いた。だが絢美の頭がわずかに傾いた。舜一はすぐにその手を戻し、後頭部を支え直した。
ノートの頁が、また一枚めくれた。そこに何か文字が見えた気がした。読めなかった。次の瞬間、誰かの靴が表紙を踏み、ノートは路面の上で少しずれた。
舜一は視線を切った。
駅側は駄目だ。人が詰まりすぎている。センター街のほうも流れが折れている。なら脇へ出るしかない。神社側。絢美がさっき見ていた方向。
舜一は絢美の身体を抱え直した。肩に腕を回し、半ば支え、半ば引きずる。足元が定まらない。誰かの肘が背中に入る。絢美の髪が舜一の手の甲に貼りついた。血で湿っていた。
巨大ビジョンの光が、もう一度切り替わった。
その瞬間、交差点の別の場所で悲鳴が上がった。今度の声には迷いがなかった。見間違いでも、勘違いでもなく、そこに何かがいると信じ切った人間の声だった。
人の流れが、さらに折れた。
押し寄せる肩の波に、舜一の膝が沈む。絢美の身体がずれかける。彼は奥歯を噛み、片腕で彼女の背中を抱え直した。
ここで止まれば、踏まれる。ここで倒れれば、終わる。
舜一は前へ出た。




