第八章「乾いた市場」
その都は、水を、売っていた。
大陸の南、乾いた盆地に開けた、商都だった。石造りの家がびっしりと肩を寄せ合い狭い路地に、露店が連なる。人も、物も、あふれている。だが、井戸という井戸に、鎖と錠がかかっていた。
水を汲むには、金がいる。都を仕切る商人組合が、水を、握っていた。
「一杯、銅貨三枚だ。飲みたきゃ、払いな」
市場の真ん中で、恰幅のいい男が、水がめの番をしていた。組合の水商人だ。喉を渇かせた旅人が、震える手で銅貨を払い、ひしゃくの水をあおる。払えない者は、乾いた口のまま露店の陰に、うずくまっていた。
俺は、その光景を、しばらく見ていた。
「ひどいもんだ」ガランが、吐き捨てた。「水を、金に換えおって。ここでは、貧しい者から順に、渇いて死ぬ」
ネルは、鎖のかかった井戸を、じっと見ていた。あの子にはあの鎖が、焼け残りを縛る別の鎖に、見えているのかもしれなかった。
俺は、水を視た。
この都の地下には、豊かな水が、流れていた。すべての井戸の底に、水がある。ただ、鎖と錠で、封じられている。灰王の兵が塞いだ井戸とは、違う。ここでは商人が、金のために水を、封じていた。
理屈は違う。だが、乾いているのは、同じだった。乾いた都は、乾いた薪だ。火が来れば、一気に燃える。
前の世界にも水を、金でしか買えない場所は、あった。だが、少なくとも火事のときには誰もが、ただで水を使えた。消火栓の水に、値札はついていなかった。困っている者に、水を渡すのは、当たり前だった。
この都では、その当たり前が、鎖につながれていた。渇いた者から順に、うずくまり、乾いていく。誰も、隣の渇きを、掬わない。掬えば、自分の銅貨が、減るからだ。
水を奪うことは、心を乾かすこと。灰王が水を奪って回る理由を、俺はまた一つ、目の前で見せられていた。ここでは灰王の兵ではなく、金がその役目を、果たしていた。
そして、火は来た。
市場の東の端で、露店の油に、火が移った。飛び火か、失火か。乾いた木の露店は、たちまち燃え上がった。狭い路地に、家が肩を寄せ合っている。延焼するには、これ以上ない条件だった。
「火事だッ」「水を、水を出せ」
人々が、水がめに殺到した。だが、水商人は、水がめの前に立ちふさがった。
「金を払え。火事でも、水は、銅貨三枚だ」
その一言に、俺は、頭に血が上った。
こんなときに、水を、売るのか。
だが、殴っても、火は止まらない。俺は市場を見渡した。頭の中の水利図を、開く。この都の地下の筋。井戸の位置。火の向き。風の向き。全部が、一枚の絵になった。
「ガラン、ネル。手伝ってくれ。火は、東から西へ、路地を伝う。西の四つ辻で、切る。あそこの井戸を、開ける」
「井戸は、鎖で」
「鎖なら、水のほうを、動かす」
俺は、西の四つ辻へ走った。鎖のかかった井戸に、掌をかざす。錠は開けられない。だが、俺が呼ぶのは、井戸の中の水じゃない。地下の筋そのものだ。
地面から、水を、噴き上げた。四つ辻の石畳が、割れんばかりに、水を吹いた。俺はその水を、路地の壁に、家々の屋根に撒いた。黒く濡れた帯が、路地を、横に断つ。防火線だ。
「西の路地の者、こっちへ水を運べ。手が空いてる者は、濡れた布で、屋根を叩け。火の粉を、消せ」
俺の声に、逃げ惑っていた人々が、動き出した。金を払えず、渇いていた者たちだ。彼らは、あふれた水を、桶で両手で運んだ。俺は、木の椀で水を汲み、手渡した。一杯ずつ。こぼした分は、次の手が、拾った。
炎が、路地を、まっすぐ走ってきた。乾いた木の家が、次々に、火を渡していく。悲鳴。焦げる匂い。俺の喉はもう砂だった。水を呼ぶたびに、体の水が、抜けていく。膝が、笑い始めた。
「ヒヤマ、無理するな」ガランが、俺の腕を支えた。
「まだだ。あと、少し」
俺は、木の椀の水を、一口だけ含んだ。ネルが、汲んでくれた水だ。喉がわずかに戻る。その一口で、俺はまた、水を呼んだ。一人なら、とっくに、倒れていた。だが、隣に水を汲む手が、あった。
火が、四つ辻に届いた。濡れた帯の手前で、行き場をなくし、細くなり崩れた。
市場の半分が焼けた。だが、西半分は残った。
火が収まると、市場は、静まり返った。生き残った西半分の人々が、俺を見ていた。あの信じられないものを見る目だった。
「水が……ただで……」「あの男水を噴かせた」
水商人が、水がめの前で、呆然と立っていた。彼の水がめより、地面から噴いた水のほうが、ずっと多かった。彼の商売の元手が、ただの乾いた石ころに、見えていた。
「き、貴様。何をした。都の水は、組合のものだ。勝手に、水を出すなど」
「水は、誰のものでもない」俺は水商人を見た。「地面の下を、流れてるだけだ。あんたが、鎖をかけて、金に換えてただけだ。火事のときくらい、ただで、飲ませてやれ」
俺は木の椀に水を汲み、露店の陰でうずくまっていた、渇いた老人に手渡した。老人は震える手で、それを受け取り、飲んだ。何度も、頭を下げた。銅貨は、一枚も、いらなかった。
その夜俺たちは、焼けなかった西の路地の宿にいた。
戸を、叩く音がした。開けると、さっきの水商人だった。恰幅のいい体を、縮めるようにして、立っていた。
「……礼を、言いに来た、わけじゃない」水商人は、目をそらした。「忠告だ。あんた、都の水を、ただで出しちまった。組合はあんたを恨んでる。だが、それだけじゃない。組合は、灰王の兵と、繋がってる」
「灰王と」
「水の在りかを、兵に、売ってるんだ。どこの井戸を塞げばいいか。どの都を、乾かせばいいか。その代わりに、組合は商売を、守ってもらってる」水商人は、声を落とした。「あんたが、井戸を開けて回ってること、組合はもう兵に伝えた。じきに、兵が来る。……逃げるなら、今のうちだ」
俺は水商人を見た。
「なんで、そんな大事なことを、俺に教える」俺は水商人を見た。「あんたは、組合の人間だろう」
水商人は、しばらく、黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「さっきあんたが、あの婆さんに、ただで水をやったろう。……俺のお袋も昔、そうやって、渇いて死んだ。銅貨が、三枚、なかったんだ」
水商人はそれだけ言うと、背を向けて闇の中へ、消えていった。
戸を閉めて、俺は木の椀を、握りしめた。
ネルが、部屋の隅から、俺を見ていた。
「あの人、さっきまで、水を売ってた人だよね」ネルが、小さく言った。「なんで、教えてくれたの」
「渇いて死んだ、母親のことを、思い出したんだと」
ネルは、しばらく、黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「水があると、みんな優しくなる。……水がなくても、優しくなれる人も、いるんだね」
その言葉に、俺は、はっとした。
そうだ。水商人は水がないところで、それでも俺に、水の在りかを教えてくれた。彼自身は、渇きの中で、母を亡くした男だ。乾いた心のはずだった。だが、彼の中にはまだ掬う心が、残っていた。
灰王は水を奪えば心は乾き、人は選別を受け入れる、と考えているのだろう。だが、それは半分しか、正しくない。乾いた土の底にも、水の筋は、流れている。人の心も、同じかもしれない。乾いて見えても、その底に掬う心の細い筋が流れている。
俺のやることは、その筋を地上へ、呼び戻すことだ。井戸の水を呼ぶように。
水を売る都。水の在りかを、兵に売る組合。灰王の手は思っていたより、ずっと深くこの世界に、伸びていた。
そして、その手はもう俺のほうへ、伸び始めていた。
窓の外都の門のほうから、馬の蹄の音が、近づいてくるのが聞こえた。
蹄の音は、一つや二つじゃなかった。地を鳴らして、こちらへ、来る。
灰王の兵だ。とうとう、追いついてきたのだ。
俺は、ネルとガランを見た。二人とももう、逃げる顔は、していなかった。




