第七章「火種と呼ばれて」
その町では、広場に、人だかりができていた。
黒い衣の男が、祭壇の上に立って、声を張り上げていた。焔の教えの伝道師だった。腕を大きく広げ、集まった人々を、煽り立てていた。
「灰禍が近い。なぜだか、分かるか。この町に、焼け残りが、紛れ込んでいるからだ。焼かれるべきだった者が、生き延び火を、呼び寄せている。焼け残りは、火種だ。火種を炙り出し、天に返せば、灰禍はこの町を見逃す」
人々が、ざわめいた。恐怖が、顔から顔へ、移っていく。
俺は、その光景を見て、ぞっとした。
これは、延焼だ。火の粉が人から人へ飛んで、燃え広がっていくのと、同じだった。恐怖と憎しみが、一人から次の一人へ、飛び移っていく。伝道師は、その火種を、まいているのだ。灰王が、水を奪って心を乾かした、その乾いた心に。
乾いた薪は、よく燃える。乾いた心も、同じだった。
前の世界でも俺は、こういう火を、見たことがある気がした。火事場じゃない。人の中で、燃える火だ。一人の噂が次の一人へ、また次へと伝わって、いつのまにか誰かを焼き尽くしている。顔も知らない相手を、みんなで、寄ってたかって。
あれも、延焼だった。誰も、最初の火をつけたつもりはない。ただ、隣の火に少しずつ、薪をくべていく。気づいたときには、もう、止められない大火になっている。
止められるのは、水を差す者だけだ。だが、水を差す者はたいてい次に狙われる。だから、みんな黙って、火が広がるのを見ている。
俺はその火を、何度も、黙って見てきた。前の世界で。あの窓の右端と、同じくらい忘れられない、いくつもの火を。
今度は、黙っていたくなかった。
「焼け残りを、探せ」「火傷の痕のある者だ」「炙り出せ」
人々が、たいまつを手に、動き出した。誰かを、探し始める。俺は、ネルの腕をつかんだ。ネルの腕には、あの赤い火傷の痕がある。
「ネル。袖を、下ろせ。俺の後ろに」
だが、遅かった。
一人の女が、ネルを指さした。
「あの子だ。あの子の腕、火傷の痕がある。焼け残りだ」
人々の目が、いっせいに、ネルへ向いた。恐怖と憎しみに、燃えた目。ネルの体が、こわばった。あの放っておかれることに慣れた顔ではなかった。今度は、狩られる側の顔だった。
「離して……ヒヤマ、あたし、逃げる」
「逃げるな」
俺は、ネルを、後ろにかばった。そして、人だかりの前に、立った。
たいまつを持った男たちが、俺を囲んだ。数は、二十人を超えていた。前の世界でもこの世界でも、二十人の憎しみを、拳で止めることはできない。俺は火を斬れないのと同じように、この人だかりも、殴っては止められない。
だから、俺は水を視た。
広場の隅に、涸れかけた水盤があった。地下の筋は、生きている。俺は、掌をかざした。喉が、渇き始める。それでも、水を呼んだ。
水盤から、水が、あふれ出した。
じわりと石畳を濡らし、人だかりの足元へ広がっていく。たいまつの明かりが、濡れた石畳に、揺れて映った。人々が、驚いて、後ずさった。
俺の喉は、もう、砂のように渇いていた。指先の感覚が、遠くなる。だが、倒れるわけには、いかなかった。ネルが、俺の背中に、しがみついている。この子の腕の火傷を、火種などと呼ばせて、たまるものか。
水の広がりが、人だかりの熱を、一瞬鎮めた。人々が、足元の水と、俺とを見比べた。
「な、なんだ」「水が」
「聞いてくれ」俺は、声を張った。「この子は、焼け残りじゃない。逃げ遅れて、それでも、生き残った子だ。この子が、火を呼んでるんじゃない。火を呼んでるのは、あんたたちのその憎しみのほうだ」
伝道師が、俺を睨んだ。
「よそ者め。焔の教えに、逆らう気か」
「あんたのやってることは、火つけと同じだ」俺は、伝道師を、まっすぐ見た。「憎しみを、人から人へ、燃え移らせてる。それが、延焼だ。あんたが、この町を、いちばん燃やしてる」
俺は、たいまつを持った男の一人に、木の椀を差し出した。水を、汲んで。
「飲め。喉が、渇いてるだろう。乾いた心は、よく燃える。水を飲めば、少しは、頭が冷える」
男は、たいまつを持ったまま、俺の椀を見た。それから、恐る恐るそれを受け取り、水を飲んだ。喉が、こくりと鳴った。たいまつを持つ手が、少し、下がった。
俺は、次の男にも、水を汲んだ。次の男にも。
水を飲んだ男は、たいまつを持つ手の力を、抜いた。喉を潤した者から順に、目の憎しみが、薄れていった。乾いた心に、一杯の水が入ると、火が少しだけ鎮まる。
一杯ずつ、手渡す。憎しみとは、逆の向きに。
これが俺にできる、たった一つの火の消し方だった。殴らない。斬らない。ただ、乾いた者に、水を渡す。それで延焼を、一人ぶんずつ、止めていく。
「焼け残りを、炙り出しても、灰禍は止まらない」俺は、言った。「止められるのは、水だけだ。逃げるしかないと、あんたたちに思い込ませてるのは、水を奪った灰王のほうだ」
人だかりが、静かになった。たいまつの火が、一つまた一つと地面に、伏せられていった。
伝道師だけが、まだ、俺を睨んでいた。その目に、憎しみとは違う、冷たい計算があった。
「……面白い。井戸を開けて回る、水の男。噂は、聞いていた」伝道師は、じり、と後ずさった。「灰王様に、お伝えせねばな。水で、火に逆らう者が、現れたと。お前の名は」
俺は、答えなかった。
伝道師は黒い衣をひるがえし、人だかりの間を、抜けて去っていった。
その背を見送りながら、ネルが俺の袖を、握っていた。
「ヒヤマ……あたし、狩られると、思った」
「もう、大丈夫だ」俺は、ネルの頭に、手を置いた。「言っただろう。お前は、焼け残りじゃない。生き残りだ。何度でも、言ってやる」
ネルの目に、涙が、盛り上がった。だが、こぼれる前に袖で、ぐいと拭った。焼け残りと呼ばれ続けた子は、人前で泣くことも、覚えなかったのだ。
「なあ、ネル」俺は、しゃがんで、ネルと目線を合わせた。「一つ、頼みがある」
「なに」
「もう、袖で、腕を隠すな。その火傷は、隠すもんじゃない。お前が、火の中から、生きて出てきた証だ。恥じるもんじゃない」
ネルは、自分の腕を、見た。赤い火傷の痕を。ずっと、隠して生きてきた痕を。
「……でもこれがあると、みんなあたしを、火種って」
「呼ばせておけ。呼ぶ奴の心が、乾いてるだけだ。お前は、生き残りだ。その痕は、生き残った勲章だ」
ネルは、しばらく、自分の腕を見ていた。それから、そっと袖を、まくった。火傷の痕が、火明かりに、さらされた。ネルは、それを、隠さなかった。初めて、隠さなかった。
その横顔を、ガランが、片目で見ていた。何か言いたそうに口を開き、そして、閉じた。
その夜ガランが、火をつつきながら、低く言った。
「伝道師は、灰王に告げるだろう。じきに兵が、お前を狙って、動き出す。今までは、ただの変人だった。だが、これからは、灰王の敵だ」
灰王の敵。
俺は、木の椀を、握りしめた。大陸の中央、あの空白のいちばん奥にいる王。すべての水を、俺の目から隠している、その王。
いつか、会うことになる。俺はそう直感した。
そして、もしその王が、俺の思っているとおりの男だったら。四本の縦線を刻む、あの几帳面な男だったら。俺は、あいつに、聞かなければならない。
なぜ、水を奪う。なぜ人を選別する。なぜ、この世界を、焼こうとする。
あの窓の右端を、俺はまだ、頭の地図から消せていない。だが、この世界では二度と、切り捨てるつもりはなかった。ネルもこの町の子どもたちも、焼け残りと呼ばれる者たちも、一人も。
火は、斬れない。だが、掬うことは、できる。
俺はそう自分に言い聞かせて、ひび割れた唇を、木の椀の水で湿らせた。
水は、冷たかった。その冷たさだけが、渇いた体のたしかな味方だった。




