第四章「封じられた井戸」
次の町の井戸は、石で塞がれていた。
分厚い蓋がされ、その上に、大きな岩が乗せてある。念の入ったことに、蓋の縁は、乾いた土で目張りまでしてあった。誰かが、この井戸を、二度と使えないようにしたのだ。
俺は蓋に手をかざした。水を視る。井戸の底には、確かに水がある。地下の筋も、生きている。水は、ある。ただ、封じられている。
「なんだ、これは」
俺の隣で、ネルが町を見回した。あの集落を離れて、三日。ガランも、なぜか一緒についてきた。役立たずの火番のままで死ぬのは、いやになった、と言って。
町は、静かすぎた。人の気配はある。だが、みな家に閉じこもって、井戸には近づかない。広場の真ん中に、焔の教えの祭壇があった。黒い石の上に、灰が盛られている。
一人の老人が、家の陰からこちらを窺っていた。俺が近づくと、怯えたように身を引いた。
「井戸に、触れるな。あれは、王様の兵が塞いだものだ」
「王様の兵。なんで、井戸を塞ぐんだ」
俺の問いに、老人は、しばらく口をつぐんだ。それから、家の奥をちらりと見て、声をさらに落とした。誰かに聞かれるのを、恐れているらしかった。
老人は、しわがれた声で言った。
「灰禍が来る前に、兵が来る。そして、町じゅうの水を、塞いでいく。水があると、逃げずに、火に逆らう者が出る。逆らえば、選別の邪魔になる。だから、水を、奪っていくのだ」
俺は、その言葉を、何度か頭の中で繰り返した。
灰禍が来る前に、水を塞ぐ。逆らわせないために。
つまり、この世界の火は、ただの天災じゃない。誰かが水を奪い人を逃げるしかない状態に追い込んで、そのうえで火に呑ませている。焼くべきものを焼く。焔の教えの言うとおりに、世界が焼けていくよう、誰かが手を回している。
背筋に、冷たいものが走った。
前の世界の火事は、少なくとも、悪意ではなかった。火の不始末や、事故だった。放火であっても、それは一人の狂気だった。だがこの世界の火には、制度としての意志がある。人を選び、切り捨てるための大きな仕組みが。
俺は、消防士だった。火を消し、逃げ遅れを掬うために、何年も歩いてきた。その俺に、この世界は、真逆の顔を見せていた。火を、道具として使う世界。人を焼くために、水を奪う世界。
胸の奥で、静かに、何かが立ち上がった。怒りとも違う。もっと冷たくて、深いものだった。
これは、消さなきゃいけない火だ。天災じゃない。人が起こしている火なら、人が、止められるはずだ。
「王様、というのは」
「灰王様だ」老人は、声をひそめた。「この大陸を、灰禍から統べるお方。焔の教えの頂点。強き者だけを残し、弱き者を焼いて、世界を清める。そう説くお方だ。逆らってはならん。逆らえば、真っ先に焼かれる」
ガランが、鉤棒を握りしめた。片目に、暗い色が差した。この老人は、灰王のことを、口にするのも恐ろしいという様子だった。
俺は、塞がれた井戸に、もう一度向き合った。
塞ぐくらいなら、水は、まだ生きている。塞ぎを解けば、使える。俺はガランと二人で、蓋の上の岩を退けた。目張りの土を、鉤棒で削る。ネルが、驚いた顔で俺を見た。
「やめなよ。兵が来たら、殺される」
「水がなきゃ、火が来たとき、この町は逃げるしかない。逃げられない奴は、焼ける。それを、放っておけない」
「なんで。あんたの町じゃないのに」
「俺の町じゃなくても、燃える町は、燃える町だ」
俺は蓋をこじ開けた。井戸の底から、湿った空気が立ちのぼる。水の匂いがした。冷たく、澄んだ匂い。
家々の戸が、少しずつ開いた。中から、痩せた顔が覗く。井戸が開くのを、信じられないものを見るように、みな見ていた。
「水が……使えるのか」
一人の女が、桶を抱えて、おそるおそる出てきた。俺はうなずいた。俺は水を視て、掌をかざし、水位をそっと上げた。渇いていた井戸が、また、使えるようになった。
女は桶に水を汲み、それを胸に抱えて、涙をこぼした。声もなく、ただ、水の入った桶を抱きしめていた。この町の人々は水を奪われて、逃げる準備だけをして、生きてきたのだ。
その底で、何かが光った。
蓋の裏に、印が彫ってあった。兵が、封じた証に残した紋章らしい。俺は身を乗り出して、それを見た。
炎を象った、印だった。
だが、俺の目を引いたのは、炎の形じゃない。その下に、小さく刻まれた、線の並びだった。四本の縦線と、それを横切る一本。数を数えるときの記号のような。
俺は、その並びに、見覚えがあった。
胸が、ひとつ、大きく鳴った。
前の世界で、火災の記録に、よく使われた。出動の回数を、正の字ではなく、この線で数える者がいた。几帳面で冷たくて、誰よりも現場に厳しかった、あの男の癖だ。
まさか。
俺は首を振った。そんなはずはない。ここは、別の世界だ。あの男が、ここにいるはずがない。
だが、天井が落ちたとき、確かに背後であの声はした。またお前は、と。あの声を最後に、俺はこの世界へ落ちてきた。もし、あの男も、同じように落ちてきていたら。
もし、あの男が、この世界で――「強き者だけを残す」などと説く、王になっていたら。
考えすぎだ。俺は自分に、そう言い聞かせた。あの几帳面な線の癖くらい、この世界にだって、あってもおかしくない。偶然だ。ただの偶然だ。
そう思おうとした。だが、胸の鼓動は、収まらなかった。
「ヒヤマ。どうした。顔が、白いぞ」
ガランが、俺を覗き込んだ。俺は、印から目を離した。
「……なんでもない。気のせいだ」
そう言いながら、胸の奥では、鼓動が速くなっていた。あの線の並び。あの几帳面な冷たさ。もし、もしも、あの男がこの世界のどこかにいるなら。そして、もしもこの井戸を塞いだのが、あの男の系譜なら。
俺は、いやな予感を、振り払うように立ち上がった。
そのとき、ガランがふところから何かを取り出して、俺に差し出した。
古い木の椀だった。縁が欠けて、色が抜けている。だが、丁寧に磨かれていた。
「持っていけ。あんた、水を、手で掬うだろう。手より、椀のほうが、こぼさん。わしの火番の親父の形見だ」
ガランの声は、いつもより低かった。片目が、遠くを見ていた。
「親父も、火番だった。逃がすことしか、できん役目だ。だが、親父は逃がした者の数だけ、この椀で水を飲ませてやった。焼ける前に、一杯だけでもと。……気休めだ。だが、その一杯を、覚えている者がいる」
俺は、その椀を受け取った。掌に、木の温もりがあった。井戸の水を、椀で掬ってみる。手で掬うより、ずっと多くの水がこぼれずに、椀の中に収まった。
「……ありがとう」
「礼はいい。無駄な力だと、まだ思っている。だが」ガランは、片目で、開いた井戸を見た。「無駄なことを、無駄と知って続ける奴を、久しぶりに見た。悪くない。じつに、悪くない」
俺は、椀の中の水を、そっと飲んだ。冷たかった。
その冷たさが、さっきのいやな予感を少しだけ、洗い流してくれた気がした。
ネルが、俺の袖を引いた。
「ヒヤマ。あんた、これから、どうするの」
俺は、開いた井戸を見た。水を汲む女を見た。怯えて閉じこもっていた町が、少しずつ、動き出していた。
「町ごとに、水を確かめる。塞がれてたら、開ける。台帳に、書いていく。火が来る前に、備えられるように」
「兵に、狙われるよ」
「かもな。それでも、やる。誰も、逃げるしかないなんて、決まってない」
ガランが、鉤棒を担ぎ直した。片目に、久しぶりに、光のようなものが差していた。
「面白い。役立たずの火番の最後の道連れには、ちょうどいい」
俺は、木の椀をふところに収めた。掌に残った、木の温もり。ガランの親父が、逃がした者に飲ませたという、一杯の水。
俺は、その温もりを、忘れないようにしようと思った。
だが、蓋の裏のあの線の並びだけは、頭から消えなかった。
四本の縦線と、それを横切る、一本。あの男の几帳面な冷たい癖。
――この世界の火のいちばん奥に、誰がいる。




