第五章「器が乾く」
四つ目の町で、俺は初めて、倒れた。
その町は、もう火が回りかけていた。灰禍の本体ではない。だが、飛び火がいくつも同時に落ちて、あちこちで小さな火が育っていた。井戸は、やはり塞がれていた。逃げ遅れた者が、何人もいた。
俺は、水を視た。地下の筋は、豊かだった。だが、井戸は封じられ、地上に水がない。開けている暇はなかった。火は、もう家々に届きかけていた。
だから、俺は地面から直接、水を呼んだ。
掌をかざし、地下の筋を、地上へ引き上げる。乾いた広場の土から、水が噴き出した。一箇所二箇所三箇所。俺はその水で、燃えかけた家を濡らし、逃げ遅れの通り道を作った。老人が、子どもが、その道を這って逃げた。
「もっとだ。まだ、奥に人がいる」
俺は、水を呼び続けた。もっと。もっと。奥の家から、赤子の泣き声がした。俺は、その家の周りに、水の壁を作ろうとした。
そのときだった。
掌が、熱くなった。
水を呼んでいるはずなのに、俺の手のほうが、乾いていく。指先から、水気が抜けていく感覚。喉が、砂を飲んだように渇いた。視界が、白く霞んだ。
唇が、かさついた。まばたきをしても、目が潤わない。心臓が、空回りするように、速く打った。前の世界で、脱水で倒れた同僚を、何人も見てきた。あの症状と、同じだった。だが、俺は水のそばにいる。水を、出し続けている。なのに、渇いているのは、俺のほうだった。
それでも、俺は止めなかった。赤子を、逃がすまでは。
水の壁が、家を囲んだ。母親が、赤子を抱えて、走り出た。逃げ遅れは、全員、火の手前で掬い出せた。
赤子の泣き声が、遠ざかった。逃げ切ったのだ。全員、掬い出せた。
そこで俺の膝が砕けた。
地面に倒れる。息ができない。体が、内側から、燃えるように熱い。汗も、出ない。出るだけの水が、体に残っていなかった。唇が、ひび割れて、血の味がした。
倒れた俺の頬に、広場の土の熱が伝わった。さっきまで水を噴いていた地面が、もう、乾き始めていた。俺が呼んだ水は、みんな逃げ遅れのために使い果たした。俺の中の水も、一緒に。
「ヒヤマッ」
ネルの声が、遠くで聞こえた。誰かが、俺の口に水を運んでくれた。木の椀だ。ガランが俺のふところから椀を出し、開いた井戸の水を汲んで、飲ませてくれた。
冷たい水が、喉を通る。少しずつ、視界が戻ってきた。
「馬鹿が」ガランが、俺を睨んでいた。「水を出すたびに、お前の中の水が、減っている。分からんのか。お前は、水の器だ。器の水を全部、外へ出しちまったら、どうなる。乾いて、割れる。それだけだ」
俺は、掌を見た。ひび割れた唇に、指で触れる。乾いている。ガランの言うとおりだった。
俺の力は、地下の水を、ただ動かしているんじゃない。俺自身の中の水を、通して、外へ出している。だから、大きく掬えば掬うほど、俺が乾く。
「その掬い方じゃ、お前が、先に燃え尽きる」
ガランの声が、重かった。
「一人で、全部を掬おうとするな。町ごとに逃げ遅れを、全員お前が救おうとすれば、お前の器はじきに空になる。次の町へ、たどり着く前に、割れる」
俺は、答えなかった。
一人で、全部を掬おうとするな。その言葉は、前の世界でも、聞いた気がした。救えないものを救おうとする奴が、現場を殺す。切り捨てろ。
だが、蒲生の言葉とガランの言葉は、似ていて違った。蒲生は、救うなと言った。ガランは、救い方を変えろと言っていた。俺には、その違いがまだ、うまく飲み込めなかった。
その夜俺たちは、開いた井戸のそばで、火にあたっていた。
俺は、迷っていた。
このまま町ごとに水を開けて、逃げ遅れを掬っていけば、ガランの言うとおり俺はじきに割れる。乾いて、死ぬ。それが分かっていて、続けるのか。
東へ逃げれば、いい。ガランが最初に言ったように。灰禍の届かない遠い東へ。そこで、静かに、この体を休めればいい。俺は、この世界の人間じゃない。この世界の火を、俺が背負う理由は、どこにもない。
そう考えている自分に、気づいた。
逃げようとしている。あの窓の右端から、逃げたように。今度もまた、切り捨てて、逃げようとしている。
「ヒヤマ」
ネルが、火の向こうから、俺を見ていた。煤の落ちた顔は、思ったより幼かった。
「あんた、東へ、逃げる気だろ」
俺は、どきりとした。ネルは、続けた。
「あたし、分かるんだ。逃げる目、してる人。ずっと、そういう目の大人に、囲まれて生きてきたから。逃げる前の大人は、みんなそういう目をする」
「……逃げても、いいだろう。俺は、この世界の人間じゃない」
「うん。逃げてもいいよ」ネルは、あっさり言った。「でも、あんたが逃げたら、この帳面どうなるの」
ネルが、俺の水利台帳を、指さした。この数日で開けた井戸と、調べた水源が、びっしり書き込まれていた。
「これがあれば、次は間に合うって、あんた言ったよね。あたしに。焼け残りのあたしに、生き残りだって、言ったよね」
ネルの声が、少し、震えていた。
「あの言葉あたし、生まれて初めて、言われた。ずっと、焼かれるべきだったって、言われてきた。火種だって。近づくなって。でも、あんただけが、生き残りだって言った。……あの一言であたしまだ、生きてていいのかもって、思えたんだ」
俺は、ネルの顔を見た。火に照らされたその目は、まっすぐ、俺を見ていた。
「あんたが逃げたら、あたしまた、焼け残りに戻るだけだよ」
胸の奥を、突かれた気がした。
ガランが、火に枝をくべながら、ぼそりと言った。
「一人で全部を掬うな、とは言った。逃げろ、とは、言っておらん。掬い方を、覚えろと言ったんだ。お前一人の器で足りんなら、器を、増やせばいい。水を汲む手を、増やせばいい。お前は、一人で燃え尽きるつもりで、水を出しているだろう。そこが、間違いだ」
一人で燃え尽きるつもりで。
その言葉が、胸に刺さった。図星だった。俺はいつも一人で全部を背負って、燃え尽きることでしかあの罪を、償えないと思っていた。
前の世界のあの窓。俺が動けなくて、燃やしてしまった一人。あれ以来俺は、心のどこかで、こう思っていた。次に火に会ったら今度こそ、この身を全部使って、償おう。燃え尽きて、初めて、許される。
それは、救いじゃなかった。ただの罰の続きだった。俺は救うふりをして、自分を、罰し続けていただけかもしれない。
ガランは、火を見つめたまま、言葉を継いだ。
「わしの親父は、一人で大河を運ぼうとはせなんだ。一杯ずつ、手渡した。こぼした分は、次の者が拾った。火番なんぞ、それしか、できん。だが、それで、救われた者がいる。……お前さんのその力は、火番の百倍だ。だが、心根が、火番になれておらん」
俺は、木の椀を握りしめた。ガランの親父が、逃がした者に、一杯の水を飲ませたという椀。一人で、大河を運んだわけじゃない。一杯ずつ、手渡した。それだけだ。
「――分かった」
俺は、立ち上がった。膝が、まだ震えていた。
「逃げない。町ごとに、水を開けていく。台帳に、書いていく。ただし、一人で、全部を掬おうとはしない。お前たちの手も、借りる。町の奴らの手も、借りる。それで、いいか」
ネルの顔が、ぱっと、明るくなった。ガランはふんと鼻を鳴らして、それでも口の端を、わずかに上げた。
「上等だ。役立たずの火番、道連れが、二人に増えた」
火がぱちりと爆ぜた。
その音がなぜか、前の世界の放水の音に、少しだけ似ていた。
俺は、木の椀に、井戸の水を汲んだ。一杯。それを、ネルに渡した。ネルは目を丸くして、それを受け取り、飲んだ。次に、ガランに汲んで、渡した。ガランも、無言で飲んだ。
一杯ずつ、手渡す。それだけのことが、その夜妙に、心に残った。
明日から俺は逃げない。掬い方を、変えていく。乾いて割れる前に、水を汲む手を、増やしていく。
そう決めて俺は、焦げた空の下で、目を閉じた。




