第三章「焼け残りの少女」
「逃げろッ。灰禍の先触れだ。皆、東へ」
ガランが鐘を鳴らした。広場の人々が、荷を捨てて走り出す。
だが、俺は煙のほうを見て、すぐに気づいた。あれは、灰禍の本体じゃない。
本体はまだ、地平の向こうだ。今こちらへ迫っているのは、その先を走る、飛び火のほうだ。風に乗った火の粉が、手前の乾いた雑木林に落ちて、そこで新しい火が育っている。放っておけば、林を伝って、この集落まで焼ける。
延焼だ。前の世界で、俺が何百回と読んできた、あの広がりだ。
「ガラン。あの林、南の端はどうなってる」
「な、なんだと。逃げろと言ってるだろう」
「本体はまだ遠い。今来てるのは飛び火だ。林の手前で切れば、集落までは来ない。水の在りかを教えてくれ。いや、いい。もう視えてる」
俺は帳面を頭に浮かべた。さっき歩いて調べた水利図が、そのまま使える。集落の北に、湧きの強い泉が一つ。林との間に、涸れた溝が一本。
火を止めるには、火を止められる線を、先回りして作ればいい。
防火線というのは、火の通り道を先回りして断つ、その線のことだ。燃えるものを取り除くか、水で濡らすかして、火がそこから先へいけない帯を作る。火そのものと殴り合うより、この一本の線を引くほうが、ずっと多くを救える。
「溝がある。あれを使う。林側の枯れ草を、溝まで刈って、水を撒く。人手が要る。逃げられる奴じゃなく、動ける奴を、五人でいい」
ガランは、俺を睨んだ。片目に、迷いが揺れた。
「……正気か。灰禍に、逆らう気か」
「灰禍じゃない。飛び火だ。飛び火なら、消せる」
その一言が、効いたらしい。ガランは唇を噛み、それから鐘をもう一度、違う調子で鳴らした。逃げかけていた男が数人、足を止めて振り返った。
俺は泉へ走り、水を視た。掌をかざす。地下の筋から、水が湧きの口へ集まってくる。ガランと男たちが、桶で水を汲み、溝まで運んだ。俺は林側の枯れ草を、鉤棒で薙ぎ払っていった。土がむき出しになる。そこへ、水を撒く。黒く濡れた帯が、じわりと伸びていった。
飛び火が、林の南端に届いた。乾いた枝が、次々に赤くなる。パチパチと、乾いた音が連なった。火は溝に向かって、まっすぐ走ってきた。
風が、後押しした。炎が背を伸ばす。ガランが桶を取り落として、後ずさった。男たちの顔が、恐怖でこわばる。
「ヒヤマ、間に合わんぞ」
「水を、絶やすな。帯を、濡らし続けろ」
俺は泉に手をかざしたまま、地下の筋から水を引き上げ続けた。掌が冷える。指先の感覚が、少し遠くなった。それでも、水を止めなかった。
炎が、濡れた帯に届いた。じゅう、と音を立てて、白い蒸気が上がった。火の先が、黒い土の帯を舐める。
そして、濡れた帯の手前で、止まった。
燃えるものが、そこで尽きたからだ。火は行き場をなくして、細くなり崩れ、灰になった。
集落は、焼けなかった。
しばらく、誰も声を出さなかった。
ガランが、鉤棒を落とした。片目を見開いて、消えていく火の跡を見ていた。
「六十年、火番をやってきた」ガランの声が、震えていた。「灰禍の火が止まるのを見たのは、初めてだ。逃げるしか、ないと思っていた。ずっと、そう思ってきた」
「止まった……灰禍の火が、止まった。そんな馬鹿な」
「灰禍じゃないと言った。飛び火だ。燃えるものを断てば、火は進めない」
俺は当たり前のことを言ったつもりだった。だが、広場に戻ってきた人々は俺を見る目が、さっきまでと違っていた。井戸数えの変人を見る目じゃない。信じられないものを見る目だった。
「あの火を、止めた」「よそ者が……水で……」
ざわめきが広がる。俺は居心地が悪くて、帳面を開いた。防火線の位置と、使った水の量を書き込む。次に同じ状況が来たとき、また使えるように。
そのとき、焼けた林のほうから、小さな影がよろめき出てきた。
少女だった。歳は十四か五か。煤で真っ黒になった顔。腕に、赤い火傷の痕。片足を引きずって、こちらへ来ようとして、崩れ落ちた。
逃げ遅れだ。あの林の中に、一人いたのだ。
俺の体は、考えるより先に動いた。走って、少女を抱え起こす。息はある。熱い。だが、生きている。
「大丈夫だ。もう、火はこない」
少女が、うっすらと目を開けた。俺を見て、それから、怯えたように身をよじった。
「……離して。あたしに、触っちゃだめだ」
「なんでだ。怪我してる。水を飲め」
「あたしは、焼け残りだよ」
その言葉に、広場のざわめきが、ぴたりと止んだ。
助けようと駆け寄りかけていた人々が、足を止めた。さっきまで俺を称えていた目が、少女を見て、すっと冷たくなった。
「焼け残りか」「じゃあ、放っておけ」「触ると、火を呼ぶ」
ガランが、重い声で言った。
「ヒヤマ。その子は前に一度、灰禍に呑まれた集落の生き残りだ。焔の教えでは、灰禍に選ばれず生き残った者は、焼け残りと呼ばれる。焼かれるべきだったのに、焼かれ損なった者。次の灰禍を、呼び寄せる火種だとな。だから、誰も近づかん」
火種。焼かれるべきだった者。
俺は、少女の腕の火傷を見た。それから、その目を見た。怯えて、俺が手を離すのを待っている目だった。慣れているのだ。放っておかれることに。
俺は、水を掬った。掌に、冷たい水をためて、少女の唇に運んだ。
「飲め。焼け残りじゃない。逃げ遅れて、それでも、生き残ったんだろう。だったら、生き残りだ」
少女は、俺の掌の水を、しばらく見ていた。
それから、そっと口をつけた。喉が、こくりと鳴った。もう一口。もう一口。乾いた体が、水を吸っていくのが分かった。
飲み終えて、少女は、ぼろぼろの服の袖で口を拭った。そして、俺のふところから覗いていた帳面に、目を留めた。煤で汚れた指で、それを差した。
「……あんた。それ、何」
「水を書いてる。どこにどれだけあるか」
「なんで、そんなもの書くの」少女の声は、かすれていた。「水を覚えて、何になるの。この世界の火は、消せないのに。誰も、そんなもの見向きもしないのに」
俺は、その問いに、すぐには答えられなかった。
前の世界でも、同じことを、何度も聞かれた気がした。まだ井戸なんか数えてんのか。載ってないものは救えない。無駄だ。
「あんた、名は」
俺が聞くと、少女は少し迷ってから、小さく言った。
「……ネル」
「ネルか。俺はヒヤマだ」
ネルは、警戒したまま、俺を見ていた。誰かに名を聞かれることが、久しぶりなのだろう。焼け残りと呼ばれ放っておかれ、名を呼ばれることさえ、この子には縁遠かったのかもしれない。
俺は、ネルの腕の火傷を、もう一度見た。前の世界のあの窓の白い影が、頭をよぎった。俺が救えなかった、逃げ遅れ。あのとき伸びていた手と今、目の前にある煤けた手が、重なった。
あのときは、間に合わなかった。今度は、間に合った。ただ、それだけのことが、胸の奥を静かに熱くした。
「なんで、助けたの」ネルが、ぽつりと言った。「あたしは、火種だよ。みんなに嫌われてる。放っておけば、よかったのに」
俺は帳面を閉じて、少女の煤けた顔を見た。
「――さあな。でも、これがあれば次は、間に合うかもしれない」
少女は、まばたきをした。その目の奥で、何か小さなものが、揺れた気がした。
「次って……いつ」
「分からん。でも、備えとくんだ。備えてない奴に、火は容赦しない」
ネルは、しばらく黙っていた。それから、俺の帳面を、もう一度見た。汚れた指が、そっと、その角に触れた。
まるで、壊れやすい暖かいものにでも触れるように。
この子はこの帳面の意味をたぶん、この世界の誰よりも早く、分かりかけている。俺は、そんな気がした。




