第二章「井戸を数える男」
目を開けると、空が焦げていた。
青くない。灰と朱の混じった、煮えたような色だ。遠くの地平で、黒い煙がゆっくりと立ちのぼっている。焚き火の煙じゃない。あれは、街が一つ燃えている煙だ。長く火事場を見てきた俺には、それが分かる。
俺は乾いた土の上に倒れていた。起き上がると、体が軽い。作業着でも防火衣でもない粗い布の服を着ていた。手を見る。俺の手だ。だが、少し若い。三十四だった俺より、いくつか若く見えた。
ここはどこだ。
問いかけた瞬間、目の前に文字が浮かんだ。誰も書いていないのに、光る文字が、宙に。
【水を視る力を得ました】
俺は息を止めた。文字はしばらく光って、静かに消えた。
夢か。いや、夢にしては、風が冷たすぎる。焦げた匂いが、はっきりと鼻を通る。俺は死んだはずだ。天井が落ちて、白く燃えて、それから。
それから、水の音がした。
立ち上がって、あたりを見回した。乾いた荒れ地の先に、石造りの低い家々が並んでいる。城壁のようなものも見えた。人の姿もある。だが、その全部より先に、俺の目には別のものが映っていた。
水だ。
地面の下を、水が流れているのが視える。細い筋になって、集落の井戸へ泉へ、地下の水がめへと繋がっている。どこにどれだけ水があるか。触れなくても、掘らなくても、それが視えた。
水を視る力。さっきの文字は、そういうことか。
不思議と、恐怖はなかった。むしろ、体に馴染む感覚だった。俺は前の世界で、街じゅうの水の在りかを歩いて覚える男だった。その仕事が、そのまま力になっただけだ。
俺は、ふらつく足で集落へ向かった。
近づくと、石畳の広場に人が集まっていた。粗末な服の男女。荷を積んだ牛のような獣。市が立っているらしい。俺が現れると、何人かがこちらを見た。見慣れない顔だと、目で分かる。
俺はまず、井戸を探した。
体に染みついた癖だった。知らない土地に着いたら、まず水を確かめる。どこに、どれだけ、水があるか。それを知らずに、火のそばには立てない。俺は広場の井戸を覗き、水位を確かめ、地下の筋を目で追った。次の井戸へ歩き、また覗く。集落の外れの泉まで見て、頭の中に地図を描いた。
水利。前の世界で、俺たちはそう呼んでいた。
水利というのは、消火に使える水の在りかのことだ。井戸泉水がめ川。火が出たとき、どこから水を引けるか。それを前もって調べ、覚え、書き留めておく。地味な仕事だ。だが、この備えがある者だけが、火に手を出せる。俺はそれを、体で知っていた。
ふところを探ると、粗末な帳面と、炭のような筆が入っていた。誰が入れたのか。俺は迷わず、それを開いた。
集落の名は分からない。だから「焦げ空の下の集落」とだけ書いた。井戸が三つ。泉が一つ。地下の筋は、南の丘のほうから来ている。水位、湧きの強さ。俺は歩きながら、それを一つずつ書き込んでいった。
「おい、あんた」
しわがれた声がした。
振り向くと、老人が立っていた。片目に古い火傷の痕がある。腰に、煤で黒くなった鉤棒を差していた。火消しの道具だ、と俺は直感した。前の世界の鳶口によく似ていた。
「何を書いてる。この非常時に、井戸なんぞ覗いて」
「水を、調べてます。どこにどれだけあるか。火が来たときに、要るので」
老人は、片方だけの目を細めた。それから、乾いた笑いを漏らした。
「火が来たとき、か。あんた、旅の者だな。だったら教えてやる。この世界の火は、消せん」
「消せない」
「灰禍だ。空の向こうから、じきに来る。町を一つ、また一つと呑んでいく、あの火だ。誰にも消せん。逃げるしかない。それも、選ばれた者だけが、逃げる」
灰禍。焦げた空の色を、老人は顎で示した。
「井戸を数えて、どうする。灰禍の前じゃ、水なんぞ屁でもない。あんたのやってることは、無駄だ。悪いことは言わん。旅の者なら、東へ逃げろ。まだ間に合ううちに」
俺は、老人の言葉を聞いていた。半分は、耳を素通りした。
消せない火。逃げるしかない。選ばれた者だけが。
その言い方は、前の世界のどこかで聞いた気がした。救えないものを救おうとする奴が、現場を殺す。切り捨てろ。強くなれない奴は立つな。
俺は帳面を閉じ、老人に頭を下げた。
「忠告、どうも。でも、もう少し数えます。癖なので」
老人は、あきれたように肩をすくめた。広場の何人かが、こちらを見て笑っていた。井戸を覗いて回る、みすぼらしい旅の男。井戸数えの変人。そういう目だった。
前の世界と、同じだった。まだ井戸なんか数えてんのか。あの声が、耳の奥でよみがえる。
それでも、俺は次の井戸へ歩いた。
途中で、力を試してみた。地下の筋のいちばん浅いところに手をかざす。すると、掌の先に冷たい気配が集まってきた。地面から、水がにじみ出す。ほんのわずかだが、確かに、乾いた土が濡れた。
【水を視る】は、視るだけの力じゃないらしい。視た水を、呼べる。
俺はその水を、両手で掬った。
掬うというより、器のように手のひらを合わせて、こぼれないように受けた。冷たい水が、掌にたまる。前の世界で、ホースの水圧に何年も耐えた手だ。だが今のこの手は、思ったより頼りなかった。前なら片手で持てた樽を、両手でも上げられない気がした。体が若くて細い。
近くにいた子どもが、俺の掌の水を見て、目を丸くした。母親らしい女が、慌てて子を引き寄せた。
「触るんじゃないよ。よそ者の水だ」
女は俺を、汚いものを見る目で見た。俺は掌を開いて、水を土に返した。
老人が、いつのまにか隣に来ていた。片目で、俺の手のあたりを見ていた。
「妙な力だ。だが、無駄な力だ。水を出せて、どうする。灰禍は、水では消えん。あれは、消すものじゃない。焼くべきものを、焼くための火だ」
「焼くべきもの」
「焔の教えだ。この世界の者なら、みな知っている。灰禍は、天の掃除だとな。弱い者古い者、余分な者を焼いて、世界を清める。だから逆らってはならん。逃げられる者だけが逃げ、逃げられぬ者は、焼かれて当然。それが、この世界の理屈さ」
俺は、老人の顔を見た。片目の火傷の痕が、朱い空の下で、より深く見えた。
「あんたは、それを信じてるのか」
老人は、答えなかった。しばらく黙って、それから、低く言った。
「信じてなきゃ、やってられん夜が、この世界にはある」
その言い方に、俺は覚えがあった。前の世界のあの報告室。書類にペンを走らせながら、蒲生が言った言葉。強くなれない奴は、現場に立つな。あれも、信じていなければ言えない言葉だったのかもしれない。
「あんた、名は」
「桧山。桧山恭介だ」
「ヒヤマ、か。妙な名だ」老人は鉤棒の柄を握り直した。「わしはガラン。この集落の火番だ。火が来たら、鐘を鳴らして、皆を逃がす。それだけの役立たずの役目さ」
火番。前の世界でいえば、火の見櫓の番人のようなものか。逃がすことだけが役目の火消し。
俺はもう一度、帳面を開いた。ガランが、あきれた顔をした。
「まだ書くのか」
「癖なので」
俺は井戸の三つ目を覗き、水位を書き込んだ。ガランは何か言いかけて、やめた。広場の人々は、相変わらず俺を横目で笑っていた。井戸数えの変人。よそ者の無駄な男。
それでいい、と俺は思った。無駄でいい。地図さえあれば、次は動ける。前の世界で、俺はそれだけを信じて歩いてきた。ここでも、同じことをするだけだ。
そのときだった。
地平の煙が、太くなった。
さっきより、確かに近い。黒い煙の下に、赤い揺らめきが見えた。風は、こちらへ吹いていた。焦げた匂いが、一段濃くなる。
老人の顔から、笑いが消えた。
「――来やがった。予定より、早い」
広場がざわめいた。誰かが叫んだ。荷を捨てて逃げ出す者がいた。
俺は煙のほうを見た。そして、体が動いた。
火は、斬れない。だが、この目には、水が視える。




