第十四章「同じ火」
王都まで、あと三日、という夜だった。
俺たちは、焼け跡の廃村で、火を焚いていた。かつて、灰禍に、呑まれた村だ。崩れた家の黒い柱が、墓標のように、立っていた。
その柱を、ガランがじっと、見ていた。片目に俺の知らない深い影が、差していた。
「ガラン」俺は、声をかけた。「あんたこの村に何か」
ガランは、長いあいだ、黙っていた。それから、乾いた声で、言った。
「……この村は、わしの生まれた村だ」
火がぱちりと爆ぜた。
「わしは、ここの火番だった。若いころな」ガランは崩れた柱を、見つめたまま、続けた。
「いい村だった。小さいが水が豊かでな。子どもらが、川で魚を、追いかけていた。夏は井戸の水で、瓜を冷やして、食った。女房はその井戸のそばで、洗い物をしながら、いつも鼻歌を歌っていた。……なんてこと、ない暮らしだ。だが、今思えばあれが、いちばん幸せだった」
崩れた柱の根元に、割れた水がめの、かけらが転がっていた。ガランはそれを、拾い上げ、掌でそっと撫でた。
「この井戸のそばで、女房は、歌っていた」「灰禍が、来た夜のことだ。わしは、鐘を鳴らして皆を、逃がそうとした。だが、逃げ道は一つしか、なかった。細い山道が、一本。そこをいっぺんに、全員は、通れなかった」
俺は、黙って、聞いていた。ネルも、息を、詰めていた。
「焔の教えの伝道師が、言った。焼け残りを、置いていけ、と。年寄りと病人と、足の悪い者を置いていけば、残りは助かると。……わしは」ガランの鉤棒を握る手が、震えた。「わしは、その言葉に、従った。逃げ道の入り口で、わしは、選んだ。この者は、通す。この者は通さぬと」
ガランの声が、かすれた。
「わしの女房は足が、悪かった。わしは……女房の手を、離した。逃げる者を、通すために。女房を、火の側へ、押し戻したんだ。この手で」
ガランはその震える手を、見た。空をつかむように、開いて、閉じた。何十年もその手のことを、責め続けてきた者の仕草だった。
その手がまだ、女房の手の感触を、覚えているのだと俺は思った。離した、その瞬間の指の離れていく感触を。人は掴んだ手より、離した手のほうを、長く覚えている。
ガランは、そこで言葉を、切った。喉の奥から何かを、押し戻すように、大きく息を吸った。泣くまい、としているのが、分かった。火番は、逃がすのが、役目だ。泣くのは、役目じゃない。ガランはずっとそう自分に、言い聞かせて、生きてきたのだろう。
「女房は、何も、言わなかった。ただ、わしを見て、笑った。行け、と。子どもらを、頼む、と。……だが、子どもらも、結局山道で、間に合わなかった。わしだけが、逃げた。火番のくせに。皆を逃がす役目の火番のくせに、わしだけが」
俺は、胸が、締めつけられた。
同じだった。ガランの傷は、俺の傷と蒲生の傷と、同じ場所から生えていた。救えなかった一人。切り捨てた手。逃げ道の細さ。全部は、通れないという、絶望。
「わしは、それから、火番を続けた」ガランは、言った。「逃がすことしか、できん役目。せめて逃がした者に、親父の椀で、水を一杯。それだけが、わしの償いだった。だが、償いきれん。女房を押し戻した、この手は何をしても、乾いたままだ」
火の向こうで、ネルが、うつむいていた。焼け残りと呼ばれ、選別で、置いていかれる側だった子だ。ガランの話はネルにとって、置いていかれた、その側の話でもあった。
俺はずっと、考えていたことが、一つの形になるのを感じた。
「ガラン」俺は、言った。「灰禍はなぜ、消えないか、分かった気がする」
ガランが顔を上げた。
「灰禍の燃料は、火じゃない」俺は、崩れた柱を、見た。「人の絶望だ。全部は救えないっていう、あの絶望。切り捨てるしかないっていう、あの諦め。それが、この火の薪なんだ。逃げ道が、細ければ細いほど、人は互いを切り捨てる。切り捨てるたびに、絶望が、生まれる。その絶望が、次の火を、育てる」
俺は自分の言葉に、自分で、気づかされていた。
「灰王は、それを、知ってるんだ。だから、水を奪う。逃げ道を、細くする。人が互いを、切り捨てるように、仕向ける。切り捨てが、増えれば、絶望が増える。絶望が増えれば、灰禍が、強くなる。灰王は選別で世界を清めてるつもりで、本当は自分の火の薪を、くべ続けてるんだ」
組織の火と、個人の火が同じ、一本の線で貫かれていた。
そして、俺は気づいた。この廃村で、俺自身も同じ火を、育てていたことに。
蒲生に飲まれまいとして、俺はネルの手を、締め出した。ガランの手を、遠ざけた。一人で、背負おうとした。それは、規模の小さな選別だった。俺は大切な者を、掬う列から切り捨てて自分だけを、火にくべようとしていた。俺の中で、絶望が、育っていた。俺の中でも、小さな灰禍が、くすぶっていた。
蒲生は大陸を乾かす。俺は、自分の心を、乾かす。向きは、違う。だが、燃やしている火は、同じだった。切り捨ての火。
灰王が大陸ぜんぶを、乾かして、切り捨てさせる。それが、大きな延焼。俺が仲間を、締め出して、一人で背負う。それが、小さな延焼。同じ火だった。切り捨ては、規模が違っても、同じ絶望を生む。同じ灰禍を育てる。
「じゃあ」ネルが、顔を上げた。「その火を、消すには」
「逆をやる」俺は、言った。「切り捨てるんじゃなく、掬う。手を、離すんじゃなく、繋ぐ。絶望の逆をやれば、火の薪が、なくなる。水の道を開けて、逃げ道を、太くする。誰も、切り捨てなくて、済むように」
ネルがぽつりと言った。
「あたし、置いていかれる側だった」火を見つめて、ネルは、言った。「灰禍のとき、大人たちに、置いていかれた。焼け残りだって。あんたの女房さんと、あたしは、同じ側だよガラン」ネルは、顔を上げて、ガランを見た。「でも、あたしあんたのこと、恨まない。だって、あんたもずっと、苦しんできたんでしょ。置いていった側も、置いていかれた側も、みんなあの細い逃げ道のせいだ」
ガランの片目が、揺れた。焼け残りの少女から、その言葉をもらうとは、思っていなかったのだろう。
ガランは、震える手を、見ていた。それから、俺を見た。
「わしのこの手でも……掬えるか。女房を、押し戻した、この手でも」
俺は木の椀に、水を汲んでガランに、差し出した。
「掬えるさ。あんたは逃がした者に、一杯の水を、渡し続けてきた。それも、掬うことだ。あんたの手は、乾いてなんか、ない。ずっと、水を、手渡してきた手だ」
ガランは、椀を、受け取った。皺だらけの手で、それを、握った。片目から一筋涙がこぼれた。だが、それきりだった。ガランは袖で、それを拭って、水を飲んだ。
「……うまい」ガランは、かすれた声で、言った。「親父の椀の水は、いつ飲んでも、うまい」
俺はその横顔を、見ながら、思った。
王都で水の道を開ける。それは、俺一人の償いのためじゃない。ガランの手のためだ。ネルの火傷のためだ。切り捨てられてきた、すべての者のためだ。
もう一人で、背負うのは、やめだ。
俺はネルと、ガランを、見た。二人とも俺を見返した。もう、誰も、うつむいていなかった。
「聞いてくれ」俺は、言った。「王都で水の道を開ける。だが、俺一人じゃたぶん、開けられない。あの空白は俺の目にすら、視えないほど、深く封じられてる。だから、お前たちの手を、借りる。この先も、ずっと。もう、下がってろとは、言わない。約束する」
ネルの顔が、ぱっと、明るくなった。ガランはふん、と鼻を鳴らしてそれでも、口の端を上げた。割れた水がめのかけらを、ふところにそっと、しまいながら。
「上等だ」ガランは、言った。「女房を、押し戻したこの手で、今度は誰かの手を掴む。それも、悪くない終わり方だ」
俺たちは皆で掬う。
その夜廃村の火は、いつもより長く、あたたかく燃えていた。




