第十二章「兜の下」
灰王は、しばらく、動かなかった。
やがて、黒い甲冑の手が、ゆっくりと兜にかかった。
兜が、外れる。
黒い金属が、火明かりの中で、ゆっくりと持ち上がった。その下から、白い髪が、こぼれた。次に、こけた頬が。そして、目が。
火明かりが、その素顔を、照らした。
俺は息を止めた。
心臓が一度大きく打って、それから速く、鳴り始めた。指先が、冷たくなる。まさかと、頭のどこかが、叫んでいた。まさか。まさか。だが、その顔を見間違えるはずが、なかった。
蒲生だった。蒲生隆興。前の世界で、俺を「使えない」と呼び続けた、あの司令。二度の火事で、俺を止めた、あの声の主。
だが、その顔は俺の知る蒲生より、ずっと老いていた。髪は白く、頬は、こけていた。長い歳月を、この世界で、生きてきた顔だった。
「……蒲生、司令」
俺がその名を呼ぶと、灰王の――蒲生の目が細くなった。
「その名で呼ぶ者が、この世界に、いるとはな」蒲生は、乾いた声で、笑った。「桧山か。あの井戸を数えていた、桧山。お前も、落ちてきたのか。あの火の中から、この世界へ」
「あんたも、だったのか」
「俺のほうが、ずっと先だ。お前が来るより、何十年も、前にな」蒲生は谷を見回した。「長かった。俺はこの世界で、一から、生き直した。そして、この大陸の頂点に立った。灰王として」
俺の頭が、混乱した。
同じ火の中から、落ちてきた。だが、蒲生は、何十年も前に。時が、ずれていた。
二度目の火事。天井が落ちたあの夜。俺の背後で、あいつは確かに、声を上げた。またお前は、と。あの声を最後に、俺はこの世界へ、落ちた。だが、蒲生はあの一瞬より、ずっと前にもうこの世界へ落ちていたのだ。同じ火が二人を、別々の時にこの世界の別々の場所へ運んだ。
俺が井戸を数え水を掬っていた、その何十年も前から、蒲生はこの大陸を焼いてきた。俺がネルを掬ったその一杯の水よりも、はるかに多くの命を、あいつは選別し切り捨ててきた。俺にとっては、天井が落ちた、あの一夜の出来事。だが、蒲生にとっては、それは遠い昔の始まりだった。
「なぜだ」俺は、絞り出すように、言った。「なぜ、この世界を、焼く。なぜ、水を奪って、人を選別する。あんたは、消防士だったろう。人を、火から、救う仕事を」
「消防士」蒲生はその言葉を、口の中で、転がした。懐かしむような憎むような目だった。「そうだ。俺は、誰よりも、現場に厳しかった。誰よりも、多く、救おうとした。だから、誰よりも多く、救えなかった。その意味が、お前に、分かるか」
俺は、答えられなかった。
「救おうとするほど、救えない者が、増えていく。手を伸ばして、届かなかった顔が、増えていく。その顔に俺は、何十年も夜ごと、責められてきた。お前も、そうだろう。あの窓の右端。忘れられまい。一生な」
蒲生は俺のいちばん深い傷を、正確に突いてきた。あの窓の右端。頭の地図から、消せなかった、あの一点。
「救う」蒲生の声が、冷たくなった。「救えると、思っていたか。桧山。お前はまだ、あの夢を、見ているのか」
蒲生は、俺に、近づいてきた。
「俺も、昔は、救おうとした。この世界に来て灰禍を、初めて見たとき、俺は消そうとした。前の世界の消防士のやり方で。だが、無理だった。灰禍は、消せない。水をどれだけ集めても、火は次から次へと、燃え広がる。俺は一つの町を、救おうとして、隣の町を見捨てた。全部は、救えない。どうやっても」
蒲生の目に、暗い光が、宿った。
「あるとき俺は、一人の子どもを、救えなかった。火に呑まれる、その手を俺は、掴めなかった。前の世界のあの窓と、同じだ。お前が燃やした、あの窓の逃げ遅れと。俺も、この世界で、同じ火を見た」
俺の心臓が、跳ねた。
同じ、傷だった。蒲生も、救えなかった一人を、抱えていた。俺と、同じように。
前の世界で、俺は蒲生をただ、冷たい男だと思っていた。人を、切り捨てることに、ためらいのない男。だが、違ったのかもしれない。あの冷たさの奥にも、救えなかった一人の焼けた顔が、あったのかもしれない。あの「切り捨てろ」という言葉はあいつ自身が、何度も自分に、言い聞かせてきた言葉だったのかもしれない。
それでも、と俺は思った。それでも、あいつは、間違えている。救えなかったからといって、これから救える者まで、切り捨てていい理由にはならない。
「そこで俺は悟った」蒲生は、言った。「全部を救おうとするから、全部を、失う。ならば、選べばいい。救う価値のある者を、選んで、救う。弱き者、逃げ遅れる者は、切り捨てる。焼くべきものは、焼く。そうすれば、強き者だけが、残る。世界は清められ、二度とあんな火に、怯えなくて済む。それが俺のたどり着いた、救いだ」
俺は言葉を失った。
蒲生の理屈は、狂っていた。だが、その根は俺と、同じ場所から生えていた。救えなかった一人。全部は救えないという、絶望。俺はその絶望から、自分を罰する道へ、進んだ。蒲生は、他人を切り捨てる道へ、進んだ。同じ傷から、逆の答えへ。
「お前の掬い方はな桧山」蒲生は俺の乾いてひび割れた唇を、見た。「いずれお前を焼く。全部を掬おうとして、お前は乾いて、割れる。俺と、同じだ。俺も昔、そうやって、燃え尽きかけた。だから、掬うのをやめた。切り捨てることを、覚えた。お前もいずれそうなる。掬う手が、多いほど、お前は乾く。俺には、分かる。お前は、俺の若いころだ」
その言葉が、俺の胸に深く、突き刺さった。
図星だったからだ。俺は何度も、乾いて、倒れた。全部を掬おうとして、割れかけた。蒲生の言うとおり、俺の掬い方は俺を、焼こうとしていた。
隠れ里の防火線でも、俺は乾いて、倒れた。ネルが代わりに、掬わなければ谷は、焼けていたかもしれない。俺は一人では、もう、限界だった。それは蒲生の言う、共倒れの一歩手前だった。
蒲生は、その道の先を、歩いた男だった。掬って掬って、乾いて割れかけて、それで掬うのをやめた。切り捨てることを、選んだ。あいつの今の姿は俺が、このまま進めば、たどり着く場所なのかもしれない。そう思うと、背筋が、冷たくなった。
俺は、答えられなかった。
蒲生は俺のその沈黙を、見て薄く笑った。
「答えられまい。お前も、心の底では、分かっているのだ。救えないものが、あることを。切り捨てなければ、共倒れになることを」蒲生は兜をまたかぶった。「今日は、見逃してやる。お前が乾いて、割れる日を、待とう。そのとき、お前は俺の言葉の正しさを思い知る」
蒲生は、背を向けた。兵たちが王に従い崖の上へ、退いていく。
谷にまた静けさが戻った。だが、さっきの守り切った静けさとは違った。俺の胸の中には、蒲生の言葉が火種のように、くすぶっていた。
お前の掬い方は、いずれお前を焼く。俺と、同じにな。
ネルが、俺の顔を、覗き込んだ。
「ヒヤマ……大丈夫」
「……ああ」
俺は、そう答えた。だが、声は、乾いていた。
ガランが俺の隣に来た。片目で崖の上の退いていく兵たちを、見ていた。
「あの王が、お前の知り合いだったとはな」ガランの声は、低かった。「同じ火から、落ちてきた、か。……ヒヤマ。あの男の言葉に、飲まれるな。あれは掬うのに、疲れた男の言い訳だ。掬うのをやめる理由を、ずっと、探してきた男の」
「……分かってる」
俺は、そう答えた。だが、本当に、分かっていたのか。
蒲生の言葉は、俺の中で、消えなかった。お前もいずれそうなる。掬う手が、多いほど、お前は乾く。それは、脅しじゃなかった。予言のように、俺の胸に、居座った。
蒲生の火は、谷を、焼かなかった。その代わりにあいつは、俺の心に火を、置いていった。
いちばん、消しにくい火を。
――自分の掬い方が、自分を焼くという、その疑いを。




