第十一章「防火線」
崖の上から、火の雨が、降ってきた。
松明が、いくつも、宙を舞った。谷の乾いた草地に、次々と、突き刺さる。乾いた草が、たちまち、燃え上がった。あちこちで、赤い火が、生まれた。
「来たぞ。持ち場につけ」
俺は、叫んだ。
すでに、防火線の位置は、決めてあった。谷を、三つの帯で、区切ってある。集落を守る、いちばん内側の帯。畑を守る、真ん中の帯。草地のいちばん外の帯。俺は、頭の中の水利図のとおり、そこに水を集めていた。
火が外の帯に届く。
俺は、地面に、掌をかざした。地下の筋から、水を、引き上げる。草地に水が噴いた。濡れた土の帯が、伸びる。炎が、濡れた土に、届いた。じゅう、と白い蒸気が、噴き上がる。火の先が黒い帯を舐めた。
一瞬火が、帯を、越えようとした。風が、後押しした。俺は、水を、絶やさなかった。帯を、濡らし続けた。
火が、その帯の手前で、止まった。燃えるものが、尽きたからだ。
崖の上で、兵の一人が、叫んだ。信じられない、という声だった。灰禍の火を止める者など、この世界には、いないはずだった。だが、谷の火は、消えていた。
「内側の火は、桶で消せ。手渡しだ。川から、手から手へ」
集落の者たちが、動いた。川から桶が、手渡しで、運ばれる。一人が、汲む。隣が、受け取る。また隣へ。水は途切れずに、火のそばまで、届いた。誰も、走り回らない。誰も、一人で、大河を運ばない。一杯ずつ。こぼした分は、次の手が、拾う。
火が、消えていく。
だが、崖の上の兵は、次の松明を投げた。また、次を。火は、際限なく、降ってきた。
俺は、水を、呼び続けた。外の帯へ。真ん中の帯へ。火の落ちる場所へ、先回りして、水を噴かせる。
火の雨は、やまなかった。一つの帯を守れば、別の帯に、火が落ちる。俺は谷を駆けた。掌をかざす。水を、噴かせる。また、次の場所へ。
前の世界で俺は、水利図を握って、火の前に立った。今は、その図が、頭の中にある。どこに水があり、どこで火を切れるか。体が勝手に動いた。何年も、井戸を数えて、覚えて歩いてきた。その全部が今この谷を、守るために、使われていた。
そのたびに、俺の喉が、渇いた。
指先の感覚が、遠くなる。まばたきをしても、目が、潤わない。唇が、ひび割れて、血の味がした。体の中の水が、どんどん、抜けていく。ガランの言った、あの警告。器の水を、全部出せば、乾いて割れる。
だが、止められなかった。火は、まだ、降っている。
「ヒヤマ、休め。顔が、真っ白だ」ガランが、叫んだ。
「まだ、だ。あと、一箇所」
俺は、いちばん激しく燃える、真ん中の帯に水を集めた。掌から体の水が、根こそぎ、抜けていく感覚。視界が白く霞んだ。
火が、消えた。真ん中の帯が、守られた。
そこで俺の膝が砕けた。
地面に、倒れる。息が、できない。体が内から、燃えるように、熱い。汗も、出ない。俺は、乾いて、割れかけていた。
「ヒヤマッ」
ネルが、駆け寄ってきた。だが、火はまだ、降っている。俺が、倒れれば、水は止まる。防火線は、破られる。谷は、焼ける。
俺は、掌を、上げようとした。だが、腕が、動かなかった。
そのとき、ネルが俺の手から、木の椀を取った。
「あたしが、やる」
ネルが、川へ走った。椀で、水を汲む。だが、それだけじゃない。ネルは、地面に、掌をかざした。俺が、いつもやるように。
ネルの細い指先に、力がこもった。眉を寄せ、歯を、食いしばる。俺が、いつも、そうするように。
水が、にじみ出した。
ほんのわずかだった。俺のように、噴き上げることは、できない。だが、確かに乾いた土から、水が湧いた。ネルは俺の力を、見よう見まねで、盗んでいた。焼け残りと呼ばれた子が、水を、呼んでいた。
「みんなあたしに、続いて。手渡しだよ。こぼした分は、次の手が、拾う」
その言葉は、俺が、いつも言っていた言葉だった。ネルは、俺の力だけじゃなく、俺の言葉まで覚えていた。
ネルの声に、集落の者たちが、動いた。手渡しの列が、また、動き出す。ネルの呼んだわずかな水と、川の水を繋いで、火のそばへ運ぶ。
俺が倒れても、水は、止まらなかった。
俺は、地面に倒れたまま、その光景を見ていた。
手渡しの列が、動いている。俺が、いなくても。一人の英雄が、大河を運ぶんじゃない。掬った者が、次を掬う。ネルが、俺の代わりに、掬っている。子どもたちが、火傷の手で桶を、渡している。
俺はずっと、一人で、掬おうとしてきた。あの窓の右端を、この身一つで、償おうとしてきた。強くなれ、と蒲生は言った。強くなれない奴は、立つな、と。だから俺は、強くなって一人で、全部を掬えるようになろうとした。
だが、違った。
俺が倒れても、水は、止まらない。ネルがいる。ガランがいる。集落の焼け残りたちがいる。掬う手は、一人じゃない。俺が割れても、次の手が、拾う。
胸の奥が、熱くなった。乾いた熱じゃ、なかった。
これだ。これが、答えだ。
どれだけの時が、過ぎただろう。
火が、鎮まっていく。崖の上の兵の松明が尽きたのか、動きが止まった。最後の一本の火が、防火線の手前で、細くなり崩れ灰になった。
谷に静けさが戻った。
さっきまで火の爆ぜる音と、人の叫びで埋まっていた谷が、しんと静まった。聞こえるのは、川の水音と、荒い息づかいだけ。焦げた匂いの向こうに、湿った土の匂いが、した。
谷は、焼けなかった。焼け残りたちの最後の里は、守られた。
集落の者たちが、桶を、下ろした。互いの顔を、見合わせた。誰も、燃え尽きていなかった。誰も、欠けていなかった。手渡しで、守り切ったのだ。若い男が、こぶしを、天に突き上げた。女が、子どもを、抱きしめた。
「守った……逃げずに、守ったぞ」
ネルが、俺のそばに、しゃがんだ。木の椀に、水を汲んで、俺の口に運んだ。
「飲んで、ヒヤマ。今度はあたしが、あんたを、掬う番だ」
冷たい水が、喉を、通った。少しずつ、視界が、戻ってきた。
「……上手く、なったな」俺は、かすれた声で、言った。「水の呼び方」
「あんたを、見てたから」ネルは、笑った。泣きそうな笑いだった。
だが、その歓声は長くは、続かなかった。
そのときだった。
川の水音が、ふと遠くに、聞こえた。集落の者たちの声が、止まった。空気が、重く、張りつめた。何かが、来る。獣が、身を伏せるときのあの気配。
谷の入り口に、一つの影が、立った。
火明かりを、背に受けた、大きな影。全身に、黒い甲冑をまとい顔を兜で覆っていた。兵たちがいっせいに、その影の後ろに、退いた。ひれ伏す者も、いた。
灰王だった。
この世界を焼く火のいちばん奥にいる、王。すべての水を俺の目から隠していた、その王がとうとう、俺の前に姿を現した。
灰王はゆっくりと、谷の中へ、足を踏み入れた。甲冑が、火明かりに、鈍く光る。兵たちは、後ろに退いたまま、近づこうとしなかった。まるで王のその火に、触れるのを、恐れているように。
守り切ったばかりの集落の者たちが、また、凍りついた。ネルが俺の腕を握った。
兜の奥から、低い声が、響いた。
「――水で、火を止める男が、いると聞いた。愚かなことだ」
その声を、俺は、知っている気がした。
体の芯が、冷たくなった。この世界で、初めて聞くはずの声。だが、どこかで確かに、聞いた声。井戸を塞いだ、あの几帳面な線の癖と、同じ気配をその声はまとっていた。
「火は、消すものではない」灰王は、続けた。「焼くべきものを、焼く。弱き者を、古き者を、余分な者を。そうして、世界は、清められる。お前は、その理に、逆らっている。焼かれるべき者を、掬い火を、止めて。……なぜだ。なぜ、そんな無駄なことをする」
無駄。
その言葉を、俺は何度も、聞いてきた。前の世界でも、この世界でも。まだ井戸なんか数えてんのか。載ってないものは救えない。無駄だ。
胸の奥であの几帳面な線の癖が、ざわりと疼いた。
俺は、震える膝で、立ち上がった。そして、兜のその奥を、見据えた。
「その顔を、見せろ」俺は、言った。「あんたが、誰なのか。俺は、確かめなきゃ、ならない」




