第5話
けれど、私の心には常に、魔女のあの言葉が冷たい楔のように突き刺さっている。
(水に濡れれば鱗が現れ、彼と結ばれなければ、私は消えてしまう……)
分かっていたけれど、結構な至難な道かもしれないと今更後悔しそうになる。
それでも、私はシエルに会いたかった。
なら、頑張らなきゃ。
◆◇◆◇
そんなある日の夕暮れ───
シエルが真剣な面持ちで私の部屋を訪れた。
その手には、雪のように白い封筒が握られている。
「王宮から、仮面の舞踏会の招待状が届いた。僕も演奏家として招かれているんだけど、ラム、君を僕のパートナーとして連れていきたい」
「王宮の……舞踏会に、私が?」
思わず息を呑んだ。
華やかな場所への憧れよりも、真っ先に恐怖が込み上げる。
もし、あんな大勢の人がいる場所で雨に降られたら。
もし、誰かに飲み物をかけられでもしたら。
「…ただでさえ人間界に慣れてないのに、急にこんなふうに誘われても怖いよね」
シエルは私の不安を察したように、そっと私の手を包み込んだ。
「でも、仮面の舞踏会だから顔は隠せるし、僕がずっと君の側にいる。君に、この国の最も美しい景色を見せてあげたいんだ。君を一人にしておく方が、僕はよっぽど心配だから」
彼の真摯な瞳に見つめられ、私は小さく頷いた。
彼がそこまで言ってくれるのなら、信じてみたい。
舞踏会の当日、シエルが用意してくれたのは
深海の底で揺らめく光のような、深い青のドレスだった。
「とても綺麗だ…ラム」
仮面をつけたシエルが、私の腰に手を添える。
会場となる王宮の大広間は、数え切れないほどのキャンドルが灯され、黄金の装飾が光り輝いていた。
人々は色とりどりの仮面をつけ、正体を隠したまま優雅にステップを踏んでいる。
「少し、踊ろうか」
シエルの誘いに導かれ、私は夢心地でダンスの輪に加わった。
オーケストラの調べ、揺れるドレスの裾。
仮面で顔を隠しているせいか、自分ではない誰かになれたような気がして
私は一時、呪いのことさえ忘れて彼の腕の中で微笑んでいた。
けれど、幸福な時間は、あまりにも唐突に終わりを告げる。
「……あ」
ダンスが一段落し、シエルが挨拶のために少し離れたときだった。
背後から、慌てたような足音が聞こえたかと思うと、冷たい感触が私の背中を襲った。
「申し訳ございません! 粗相を……!」
給仕の持つトレイから、氷のように冷えたシャンパンが大量に溢れ
私のドレスの背中を、そして肌を、ぐっしょりと濡らしたの
(ど、どうしよう……っ……!)
背中の皮膚が、焼け付くように熱くなる。
仮面の下で、私の顔は一瞬にして血の気が引いた。
ドレスの薄い生地の下で、硬い鱗が広がり
皮膚を突き破らんばかりに輝き始める感覚が伝わってくる。
「申し訳ありません!今、拭くものを……」
「い、いい、来ないで!!」
駆け寄ろうとする給仕を、私は悲鳴のような声で拒絶した。
人々が驚いたようにこちらを振り返る。
その視線が、針のように私の肌を刺す。
背中のドレスは濡れて透け、虹色の異形な光を漏らし始めていた。
「ラム!?」
異変に気づいたシエルが人混みを割って駆け寄ってくる。
けれど、私は彼にさえ、今の姿を見られるのが怖かった。
私は濡れた背中を庇うように抱きしめ
人々の好奇の目を逃れるように、夜風が吹き抜けるテラスへと必死に駆け出した。
背後に広がるオーケストラの調べと、着飾った人々の華やかな喧騒を振り切り
私は逃げるようにして夜の冷気が支配するテラスへと飛び込んだ。
石造りの冷たい手すりを掴み、肺が焼けるような荒い呼吸を繰り返す。
けれど、背中の皮膚に感じるあの悍ましい「異変」は、冷たい夜風に当たっても収まるどころか
脈動に合わせてますますその熱を増していく。
ドクンドクンと、肌の内側から何かが突き破ろうとしているような、恐ろしい感覚。
「ああ、嫌……嘘よ、こんな……っ」
ドレスの背中から腰にかけて、零されたシャンパンの水分を含んだ生地が
冷たくぴたりと肌に張り付いている。
そこには、人間にはあるはずのない、硬質で滑らかな手触り
月光を反射して不気味なほど鮮やかな虹色の光を放つ人魚の鱗が、幾重にも重なり合って現れていた。
仮面で顔を隠し、人間として振る舞っていても
この体が「異形」であることはもはや隠しようがない。
「ラム!」
重厚な扉が開く音と共に、聞き慣れた、けれど今は誰よりも聞くのが恐ろしい足音が近づいてくる。
私は逃げ場を失い、テラスの角で、剥き出しの背中を壁に強く押し付けた。
冷たい石の感触が、鱗の持つ異常な熱を余計に際立たせ、私の罪悪感を煽る。
「ごめん、シエル…シャンパンがかかっちゃって……少し、服を乾かしたいの。しばらくは、中へは戻れそうにないかも……」
震える声で、精一杯の嘘をつく。
顔を伏せ、彼と視線を合わせないように必死で虚勢を張る。
けれど、肩を震わせ
今にも泣き出しそうな私の様子がおかしいことは、誰の目にも明らかだった。
シエルは私の拒絶に一瞬だけ足を止めた。




