第4話
けれど、一度溢れ出した魔力は無情にも止まってはくれない。
濡れた布地を透過して、呪いの鱗は闇夜を切り裂くほど美しく、そして異形な輝きを放ち
そこに私の本性があることを残酷に主張し続けていた。
つい、顔を伏せてしまう。
10年間、片時も忘れず、ただこの日のためだけにすべてを捨てて生きてきた。
けれど、いざ目の当たりにした彼は、あまりにも気高く、完璧な「人間」だった。
こんなおぞましい鱗に覆われた姿を見られたら
彼は私を「化け物」だと怯え、拒絶するのではないか。
恐怖で全身の震えが止まらず、歯の根がガチガチと鳴り、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになる。
しかし、私の予想に反して、シエルは逃げ出すことも、恐怖に満ちた拒絶の言葉を吐くこともなかった。
代わりに聞こえてきたのは、激しい雨音を切り裂くような、切実で、どこか確信に満ちた深い呼吸の音。
「ラム……。君、なんだよね? ラムなんだろう?」
震える私の肩に、大きな、温かな手がそっと置かれる。
シエルは私の震えに構うことなく、迷いのない力強さで私の腕を掴んだ。
そして、壊れ物を扱うような慎重さと
決して離さないという意志の強さで、私を地面から助け起こした。
「み……見ちゃダメ……っ! 見ないで……!」
私は必死に抵抗し、顔を背けようとした。
こんな光を放つ醜い足を、彼の清らかな瞳に映したくなかった。
けれど、彼は離さなかった。
次の瞬間、私の視界は彼の燕尾服の漆黒に覆い尽くされた。
シエルが雨に打たれて芯まで冷え切った私の体を、折れそうなほど強くその腕の中に抱き寄せたのだ。
彼の胸からは、雨の匂いに混じって
先ほどまでステージで放っていた情熱の名残のような、熱い体温が伝わってくる。
その鼓動は驚くほど速く、私の胸の音と重なって響いた。
「シエル…わ、私のこと、覚えてるってこと…?」
私の掠れた問いかけに、シエルは抱きしめる力をさらに込めた。
「…当たり前だよ。忘れるはずがない。でも、まさか……本当に、わざわざ僕の元に来てくれたんだね」
耳元で囁かれた声は、微かに震えていた。
驚愕よりも、恐怖よりも先に
彼は私との「再会」を心から喜んでくれている。
その慈しみに満ちた体温に触れた瞬間、私の胸は張り裂けそうなほどの愛おしさで締め付けられた。
「とにかく、ここにいたら危険だ。今の君の姿を誰かに見られたら、どんな目に遭うか分からない」
シエルは周囲の暗がりに鋭い視線を巡らせ、追っ手や野次馬がいないかを確認すると
持っていた傘を惜しげもなく放り捨てた。
そして、自分の上着を脱ぐと、それを私の頭からすっぽりと被せてくれた。
彼の残り香と体温に包まれ、冷たい雨の世界から切り離される。
「僕の馬車がすぐそこにある。そこで、ゆっくり話を聞かせて」
彼は私の肩をしっかりと抱き寄せ、半分人魚の体に戻りかけて感覚を失いつつある私の足
まともに歩けないその歩調に寄り添いながら、慎重に路地を抜けていった。
待機していた漆黒の馬車に、彼は私を壊れ物を扱うように座らせてくれると
御者に向けて手短に屋敷へ戻るよう命じた。
自らも素早く飛び乗り、扉を重々しく、けれど固く閉ざした。
激しい雨音が、馬車の屋根を無数に叩く。
外界から遮断された、密閉された二人だけの空間。
隣に座るシエルは、すぐさま座席に備え付けてあった厚手の毛布を手に取り、私を包み込んでくれた。
「寒かったよね。……ごめん、もっと早く君を見つけていれば。こんな思いをさせずに済んだかもしれないのに」
彼は私の隣にぴったりと寄り添い、震える私の手を自分の大きな両手で包み込むようにして温めてくれる。
膝にかけた上着の隙間から、私の足首が覗く。
そこにはまだ、消えきらない鱗が痛々しいほど鮮やかに光っていた。
シエルはそれを忌々しそうに見るどころか
まるで神聖なものに触れるような、深い慈愛を湛えた瞳で見つめていた。
「10年前、あの浜辺で君と指を絡めた時から、僕は一瞬たりとも君との約束を忘れたことはなかった」
「……君がどんな姿をしていようと、そんなことは関係ない。僕にとっては、君だけが唯一の代わりのいない大切な人なんだ」
馬車の揺れに合わせて、彼のしっかりとした肩が私の細い肩に触れる。
その確かな重みと、私を肯定してくれる言葉の温もりが呪いに怯え
孤独に震えていた私の心を、ゆっくりと、けれど確実に解きほぐしていった。
◆◇◆◇
シエルの邸宅は、彼が奏でる音楽のように静謐で、気品に満ちていた。
馬車を降りてからというもの、彼は私の足元を隠すように抱きかかえ
誰の目にも触れさせぬまま、広々とした客間へと私を運び入れた。
「しばらくはここで過ごすといい。君が必要なものは、すべて僕が用意するから」
シエルはそう言って、私に絹のように滑らかな寝衣と、温かい紅茶を与えてくれた。
そこから数日間
私は彼の屋敷で夢のような時間を過ごした。
彼は演奏会の合間を縫っては私の元を訪れ、10年間の空白を埋めるように語り合ってくれた。




