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恋の鱗は隠せない~満月の夜に、10年前の約束をもう一度~  作者: 猫塚ルイ


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3/10

第3話

深い静寂が満ちた次の瞬間、一筋のスポットライトの中に現れたのは、燕尾服に身を包んだシエルだった。


ポスターで見た通り……いや、実物はもっと、触れれば壊れてしまいそうなほど気高く


そしてどこか触れる者を拒絶するような孤独な空気を纏っていた。


かつての無邪気な少年の面影を残しながらも、その佇まいは「天才」と呼ばれるに相応しい重圧を背負っているように見えた。


彼が、静かに鍵盤に指を置く。


響いたのは、あの日


潮だまりで動けなくなっていた私に、彼が鼻歌で聞かせてくれたあの懐かしい旋律だった。


10年前と変わらない、透き通った水の音。


けれど、今の彼の指先から紡ぎ出されるその奥底には、深い海の底を這うような切なさと


ずっと探しものをしているような、誰かを強く求める熱情が宿っていた。


彼もまた、失われた時間を惜しむように、鍵盤を慈しみながら一音一音を深く丁寧に紡いでいく。


(ああ……シエル……)


彼の奏でる音が、陸の冷たさに凍え切っていた私の心に、じわりと熱を宿していく。


気づけば視界が歪んでいた。


頬を伝う涙が、膝の上に置いていたボロ布に落ちて、小さな染みを作っては弾ける。


彼が成長したのと同じように、その音色もまた


10年という長い長い歳月の重みを抱えて、美しく、そして深く成熟していた。


「会いたい」という一心だけで、血を流しながら歩いてきたこの旅の苦しみも


孤独も、すべてがその旋律に溶けて消えていくようだった。


やがて、最後の一音が夜の静寂に溶け込むと、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。


私は、彼に声をかける勇気もないまま


胸を締め付ける感情に耐えきれず、逃げるように会場を飛び出した。


「せめて、もう一度だけ、近くで顔を見たい……」


私は会場の裏手、冷たい風が吹き抜ける関係者専用の楽屋口が並ぶ路地の陰に身を隠した。


鼓動を鎮めながら、彼が出てくるのをじっと待つ。


けれど、運命はどこまでも私に過酷な試練を突きつける。



◆◇◆◇


先ほどの雨上がりから一転、夜空は低く垂れ込め


不気味な地鳴りのような雷鳴が王都の空に響き渡った。


次の瞬間


バケツをひっくり返したような猛烈な豪雨が、逃げる間もなく私を襲った。


「っ…………!」


屋根のない狭い路地。


体は瞬く間にずぶ濡れになり、服代わりの布が重く肌に吸い付く。


その瞬間、呪いの力が牙を剥いた。


冷たい雨粒が肌に触れるたび


皮膚の奥底から焼け付くような、引き裂かれるような灼熱の感覚が突き上げる。


足首から、膝へ。そして指先から、肩へ。


まるで隠していた偽りの皮が剥がれ落ち


本性が剥き出しになるように、虹色の鱗が次々と浮き上がってくる。


深い闇夜の中でも、それは隠しようのないほど美しく、そしてこの世界では「異形」とされる輝きを放っていた。


「消えて、消えて…………っ!」


私は濡れたレンガの壁に背中を預け、必死に自分の体を抱きしめて隠そうとした。


けれど、雨は容赦なく降り注ぎ、鱗の面積は刻一刻と広がっていく。


足元はすでに人魚の半分に戻りかけたように、奇妙な魔力に包まれて光を放っていた。


もし今、ここを誰かが通りかかったら。


私は「化け物」として捕らえられ、シエルと結ばれるという希望も


私の存在そのものも、この夜に消されてしまう。


10年越しの再会が、こんな絶望的な形で終わるなんて。


私はガタガタと震えながら、雨のカーテンの向こうを見つめた。


涙と雨が混ざり合い、視界が白く霞んでいく。


そのとき。


背後から、コツン、コツンと規則正しい、落ち着いた足音が聞こえてきた。


「……そこにいるのは、誰?」


低く、けれどどこか温かみのある、あの頃と変わらない深い声。


同時に、私の頭上を叩いていた激しい衝撃が消えた。


誰かが、私に傘を差している。


心臓が、凍りついたように止まった。


指先まで強張り、振り返ることができない。


見られた。


隠し通さなければならなかった、人間ではない、異形の姿を。


ゆっくりと、傘を差した男性が私の隣に並ぶ。


街灯の淡いオレンジ色の光に照らされた、その横顔。


吸い込まれるような深い蒼い瞳。


「ひどく濡れているじゃないか。大丈夫……?」


差し出された、白くて綺麗な手。


それは、10年前のあの夏の日、瀕死の私を救い上げてくれたあの温かな手だった。


「……シ、エル……?」


かすれた声で、祈るようにその名を呼んだ瞬間


シエルの瞳が驚愕に大きく見開かれた。


私の足元で、雨に濡れて煌々と、そして不吉なほど美しく輝く虹色の鱗。


そして、泣きじゃくる私の瞳。


「どうして僕の名前を……って、その鱗……人魚……っ? まさか───」


言葉が続かないシエルの蒼い瞳に、困惑と、そして信じられないものを見るような衝撃が走る。


二人の視線が、10年の時を飛び越えて、激しい雨の降る路地裏で重なり合った。



◆◇◆◇


「あ……っ!」


シエルの瞳に私の「正体」が映り込んだと悟った瞬間、私は弾かれたようにその場にしゃがみ込んだ。


頭が真っ白になり、指先が凍りつく。


ずぶ濡れになった重いドレスの裾を必死に手繰り寄せ、虹色に光る足首を


その罪悪の証を覆い隠そうと、爪が食い込むほど強く布を握りしめる。

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