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恋の鱗は隠せない~満月の夜に、10年前の約束をもう一度~  作者: 猫塚ルイ


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第2話

鼻を突く馬の匂いや、焼きたてのパンの香り、人々の喧騒が濁流のように押し寄せてくる。


「ねえ、知ってる? 今夜、王都から『天才』がやってくるんですって」


「ああ、シエル様だろう? あの若さで国王陛下に認められた、稀代の音楽家だ」


街の広場、人だかりができている掲示板に一枚の大きなポスターが貼られていた。


それを見た瞬間、私の呼吸は止まった。


そこには、10年前の面影を残しながらも、息を呑むほど端正な青年に成長した彼の姿があった。


涼やかな目元、意志の強そうな唇。


シエル。


あなたは今、そんなに遠い存在になってしまったのね。


眩しすぎるその姿に、胸の奥がキリリと痛む。


私は服の上から、守り刀のように大切にしている銀のボタンを握りしめた。


ポスターの隅に記された「王都・中央音楽堂」という文字を網膜に焼き付け


私はまた、重い足取りで歩き始めた。


けれど、陸の世界は私に優しくはなかった。


誰も、汚れにまみれ、素足にボロ布を纏った浮浪児のような少女に手を差し伸べてはくれない。


「邪魔だ」「こっちに来るな」


好奇の目に晒され、汚いものを避けるように道を開けられるたび、私は小さく肩を窄めた。


喉は灼けるように乾き、足の指からは滲んだ血が砂に混じる。


お父様の宮殿で守られていた頃には想像もしなかった「人間」として生きることの残酷なまでの厳しさが、重く私の肩にのしかかる。


「……っ」


そのとき、不意に生暖かい風が頬を撫でた。


先ほどまで晴れ渡っていた空を、意思を持ったような真っ黒な雲が急速に飲み込んでいく。


ポツリ、と私の鼻先に冷たくて重い衝撃が落ちた。


「……雨?」


最悪の予感に、全身の毛穴が逆立った。


瞬く間に空は暗転し、天の底が抜けたような激しい雨が地面を叩き始める。


「きゃあ!」「急げ、降り出したぞ!」


逃げ惑う人々。


私はパニックに陥り、心臓を突き上げるような恐怖に駆られながら、近くの古びた商店の軒下へと滑り込んだ。


けれど、遅かった。


跳ね返った泥水が、私の足首にいくつも付着していた。


ドクン、ドクンと心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打つ。


雨に触れた箇所の肌が、粟立つように不気味に震えだしたかと思うと


そこから内側から発光するような虹色の光が漏れ出した。


皮膚の下からせり上がるようにして現れたのは


かつての私を象徴していた、硬く滑らかな「人魚の鱗」。


「は、早く隠さないと…!」


必死に手のひらで鱗を覆い隠す。


けれど、拭っても拭っても、湿った空気のせいか、鱗の輝きは増していくばかりだ。


もし、今ここで誰かに見られたら。


『化け物だ!』と叫ばれ、私はシエルに会う前に


どこかに売り飛ばされるか、殺されてしまうかもしれない。


魔女の言っていた「結ばれなければ泡になる」という結末すら迎えられずに。


私は震える指で、纏っていたボロボロの布の端を使い、必死に足首を擦った。


皮膚が真っ赤に剥け、擦り切れるほど、何度も、何度も、狂ったように。


「……消えて。お願い、消えて……っ」


どれほど時間が経っただろう。


ようやく雨足が弱まり、乾いた布の裏側で水分を完全に取り去ると


鱗はまるで最初からなかったかのように、静かに肌の下へと沈んでいった。


私は冷たい壁にもたれかかり、荒い呼吸を整える。


全身から力が抜け、指先がガタガタと震えた。


今の私には、守ってくれる強固な鱗も、海を縦横無尽に泳げる尾びれもない。


たった一雫の雨で暴かれてしまう、あまりにも脆く不完全な、偽物の体。


人間社会の無関心さと、この体の危うさに、心が一気に折れそうになる。


冷たい雨に打たれ、一人ぼっちで消えてしまいたいという衝動がこみ上げた。


けれど、ふと顔を上げれば、雨上がりの雲の隙間から、王都の尖塔が夕陽を浴びて神々しく輝いていた。


あそこに、彼がいる。


たった一度、あの日の続きを告げるために、私はすべてを捨ててここへ来たのだ。


「……行かなくちゃ」


私は濡れて重くなった布を、肌に触れないよう慎重に絞り、再び歩き出した。


どんなに足が痛み、血を流しても。


空から降る雫に怯え、震えることになっても。


街の向こうから聞こえる風の鳴り方が、まるでシエルの奏でる調べのように


私を呼んでいる気がしてならなかった。



◆◇◆◇


王都の中央音楽堂は、まるでお城のように壮大で


近づくことさえためらわれるほどの威容を誇っていた。


石造りの外壁は街灯の光を反射して白く輝き


富と名声が凝縮されたようなその場所は、今の私にはあまりにも眩しすぎる。


着飾った貴族たちが豪華な馬車から降り立ち


華やかなドレスの裾を揺らしながら、談笑と共に中へ吸い込まれていく。


私は、その眩い列の影に身を潜めるようにして


裏口の搬入口の隙間からこっそりと会場へと忍び込んだ。


高い天井から吊り下げられたシャンデリアが、星屑を散りばめたように輝いている。


私は最後列の隅、重厚なカーテンの影に身を潜め


ステージの真ん中に置かれた一台のグランドピアノを見つめた。


やがて、会場の灯りが静かに落ちる。

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