第89話 走らないための記憶
体育館の記憶は、消えなかった。
雨の日の木の床。
跳ねる球の音。
自分で動く楽しさ。
そして、誰かと繋がる感覚。
黒鐘廊は、それを不要情報として破棄しようとした。
失敗すると、今度は転用しようとした。
自分で動く喜びを、単独行動の衝動へ。
仲間と繋がる記憶を、ひとりで走れという命令へ。
本当に性格が悪い。
いや。
性格というより、構造が悪い。
黒鐘廊は、人間の記憶を人間のまま扱わない。
役に立つなら使う。
邪魔なら消す。
使えそうなら歪める。
それだけだ。
だから、怖い。
俺たちが大事にしているものほど、向こうにとっても利用価値がある。
始点記述は、防御になる。
だが、同時に狙われる。
そのことを、俺の体育館の記憶が証明してしまった。
「アキトさん、まだ顔色が悪いです」
ノルンが言った。
地下演習室の椅子に座らされた俺は、発話保護符を三枚貼られていた。
胸元。
左肩。
右手首。
やりすぎではないかと思ったが、さっき記憶を直接削られかけたばかりだ。
文句は言えない。
「大丈夫」
俺は言った。
「嘘です」
ノルンが即答した。
強くなったな。
「少し、きつい」
言い直すと、ノルンは頷いた。
「正直でよろしいです」
「リュミエルみたいなこと言う」
「見習っています」
リュミエルが横で静かに頷いた。
「よい傾向」
俺の周囲に監督者が増殖している。
いや、ありがたい。
本当に。
今の俺は、たぶん少しでも目を離すと、反省という名の自己分析に沈んでいく。
そして、そのまま次の対策を考え始める。
それが危ない。
フィン先生は黒茶を置き、俺を見た。
「今日は作業終了と言った」
「はい」
「だが、整理だけはする」
「終了とは」
「整理は治療だ」
また強引な理屈だ。
でも、分かる。
何が起きたか分からないまま休むと、逆に怖さが残る。
最低限の整理は必要だ。
「今回の攻撃で分かったことは三つ」
フィン先生は指を立てた。
「一つ。黒鐘廊は始点記述を直接破棄しようとする」
俺は頷く。
「二つ。破棄できない場合、始点記述を行動誘導へ転用しようとする」
胸の奥が少し冷える。
自分で動け。
仲間を待つな。
走れ。
書き換えろ。
編集者は止まるな。
あの黒い文字。
「三つ。相互証言環は破棄処理への防御として機能した」
カサンドラ副院長が続ける。
「さらに、転用処理に対しても、本人による再解釈と仲間の証言が有効でした」
「再解釈?」
俺が聞くと、副院長は頷いた。
「あなたは、体育館の記憶を“単独行動衝動”ではなく、“自分で動き、他者と繋がる記憶”として訂正しました」
「ああ」
「それが重要です」
ヴァイスが反転板を見ながら言った。
「始点記述は固定された文章ではない。本人が意味を確認し直せる。黒鐘廊はそこを嫌がった」
「意味を確認し直せる……」
ミラが呟く。
「じゃあ、始点記述って、昔の記憶をそのまま保存するだけじゃないんだ」
「たぶん違う」
俺は言った。
「今の自分が、その記憶をどう受け取るかも含めて守るものなんだと思う」
雨の日の体育館。
昔の俺は、ただ楽しかった。
今の俺は、それを思い出して、自分で動くことと一人で暴走することの違いを確認した。
同じ記憶でも、意味は少し変わる。
いや。
深くなる。
「だから、美談化も危険だな」
リュミエルが言った。
「そうだな」
「始点記述を“こういう意味だ”と外側が固定すると、それも役割になる」
「うん」
ミラの甘いパンの記憶も同じだ。
逃げ道には甘さがある。
でも、それを周りが勝手に「ミラは必ず逃げ道を用意する優しい斥候」と固定したら、また呪いになる。
始点は、支えだ。
でも、鎖にもなり得る。
扱いが難しい。
「つまり、始点証言環にも注釈が必要だ」
俺は言った。
「始点記述の意味は、本人が更新できる」
カサンドラ副院長が微笑む。
「良いですね」
「入れましょう」
リュミエルが即座に言う。
「あなたが今言ったことも、忘れないうちに」
俺は頷く。
注釈枠を作る。
ただし、今日は疲れている。
だから短く。
【始点証言環・追加注釈】
――始点記述は、過去の感覚を固定するものではない。
――始点記述の意味は、本人が現在の自分として確認し直すことができる。
――他者は、始点記述の意味を勝手に決定してはならない。
――始点記述を、美談化、義務化、行動誘導、役割固定へ転用してはならない。
――始点証言環は、本人が戻るための外側証言であり、本人を縛るための記録ではない。
軽い頭痛。
でも、大丈夫。
リュミエルが俺を見る。
「ここまで」
「はい」
「本当に」
「本当」
今日は逆らわない。
ノルンが発話保護符を調整する。
「今の注釈も保護しました」
「ありがとう」
「でも、今日はもう注釈禁止です」
「禁止?」
「はい」
強い。
「ノルンが禁止した」
ミラが面白そうに言う。
「成長してる」
「ミラさんも今日は無理禁止です」
「え、私も?」
「はい」
「ノルンちゃんが強い」
ノルンは少し赤くなった。
でも、引かなかった。
「二人ともです」
俺とミラが同時に返事をする。
「はい」
地下演習室に、少し笑いが起きた。
こういう笑いが戻るだけで、だいぶ違う。
黒鐘廊に記憶を消されかけた直後なのに。
人間は案外しぶとい。
いや。
しぶとくなければ、こんな世界で生きていけない。
「しかし」
ヴァイスが反転板を見つめながら言った。
「次の問題がある」
「やっぱりあるのか」
俺は言った。
「当然だ」
「でしょうね」
平和は長続きしない。
知ってた。
「始点証言環が防御として機能したことで、黒鐘廊は次に証言者側を狙う可能性がある」
空気が締まる。
「証言者側?」
ノルンが聞く。
「本人の記憶を消せないなら、周囲の証言を崩す。たとえば、ミラ・クロウが“アキトの体育館の記憶を聞いた”という証言を曖昧にする」
ミラの表情が少し硬くなる。
「私が忘れさせられるってこと?」
「忘却とは限らない」
ヴァイスは言う。
「疑念を入れる可能性がある」
「疑念?」
「本当に聞いたのか。重要だったのか。自分が勝手に作ったのではないか。証言する資格があるのか」
うわ。
嫌な攻撃だ。
かなり嫌だ。
記憶を消すのではなく、証言を疑わせる。
自分の声を信じられなくする。
「証言崩し」
カサンドラ副院長が言った。
「あり得ます」
「対策は?」
リュミエルが聞く。
副院長は少し考えた。
「証言者自身の始点記述も、順番に証言環へ入れることです」
「つまり、証言者も守る」
「はい」
「だからミラの甘いパンを先にやったのは正解だった?」
ミラが言うと、副院長は頷いた。
「かなり」
ミラは少し得意げになる。
「ほら、私すごい」
「すごい」
リュミエルが即答した。
ミラがまた照れる。
「だから、真面目に褒めないでって」
「真面目にすごいから」
「うう……」
このやり取り、少し好きだ。
「全員分の始点証言環を作る必要があるな」
レオンが言った。
「ただし、一気にはやらない」
俺が言うと、全員がこっちを見る。
「学んだんだよ」
「よろしい」
リュミエルが頷く。
フィン先生も頷いた。
「一日一人。多くても二人だ」
「今日は俺とミラでもう二人やった」
「だから終わりだ」
「はい」
本当に今日は終わりらしい。
いや、終わりにしなければならない。
証言環が強いと分かった。
だから一気に全員分作りたい。
その気持ちはある。
でも、それをやるとまた人間の速度を超える。
「明日は誰にする?」
セリアが聞いた。
「明日決める」
フィン先生が言った。
「今決めないんですか?」
「決めると、その者が今日の夜から構える」
ああ。
それはある。
明日、自分の始点記述を証言環にする。
そう決まると、その人はずっと考えてしまう。
緊張する。
怖くなる。
逃げたくなる。
あるいは、言わなきゃと自分を追い込む。
「明日、その時に希望者を聞く」
フィン先生は言った。
「保留も可」
「保留の使い方が板についてきましたね」
俺が言うと、先生は黒茶を持ち上げた。
「便利だからな」
ミラが笑う。
「先生も保留派」
「現実派だ」
「同じじゃない?」
「違う」
地下演習室に、また少し笑いが落ちる。
だが、俺の胸の奥にはまだ冷たいものが残っていた。
黒鐘廊は次に、証言者を狙うかもしれない。
俺の記憶を守るために、ミラたちの証言が攻撃されるかもしれない。
自分の記憶を守るということは、他人を巻き込むことでもある。
それが怖い。
俺が黙っていると、リュミエルが隣に来た。
「また考えすぎ」
「今回は、顔?」
「肩」
「肩までか」
「今日は肩が重い」
なるほど。
身体の情報漏洩が止まらない。
「俺の記憶を守るために、みんなが狙われるかもしれないと思った」
「そうね」
否定しない。
リュミエルらしい。
「でも、あなたの記憶だけではない」
「うん」
「私たちは、互いに証言し合う。誰か一人のために全員が犠牲になる構造ではない」
「分かってる」
「本当に?」
「今、分かろうとしてる」
リュミエルは少しだけ表情を緩めた。
「その答えは良い」
少しだけ、胸が軽くなった。
分かっている、と言い切るより。
分かろうとしている。
その方が今の俺には近い。
「相互証言って、負担の押しつけじゃなくて、支え合いなんだな」
「ええ」
「でも、支え合いもやりすぎると鎖になる」
「だから撤回権と保留権がある」
「便利だな」
「必要だから」
本当に。
撤回できる。
保留できる。
修正できる。
その余白がない支え合いは、すぐ義務になる。
「アキトくん」
ミラが呼んだ。
「何?」
「私、自分で証言したからね」
「うん」
「巻き込まれたんじゃないよ」
言われて、胸が詰まった。
ミラはまっすぐこっちを見る。
「私が、体育館の話を覚えておくって言った。対価は甘いものだけど」
「そこは取るのか」
「取るよ。大事」
「でも」
ミラは少しだけ真面目な顔になる。
「私が選んだ」
その一言は、強かった。
俺が彼女を巻き込んだのではない。
彼女が選んだ。
その事実を、俺はちゃんと受け取らなければならない。
「ありがとう」
俺は言った。
「甘いものは高いやつにする」
ミラは満足そうに頷いた。
「よろしい」
また判定された。
今日は判定が多い。
「では、今後の予定を整理する」
フィン先生が言った。
「一。今日は休息。始点証言環の追加作業はしない」
「はい」
「二。明日、希望者がいれば始点証言環を一件、最大二件まで作る」
「はい」
「三。栞の子への次回接触は、始点記述破棄処理に関する報告を受けるかどうかの確認から始める」
「はい」
「四。第二栞の部分保持試験、役割緩和の提示は、その後。焦るな」
「はい」
「五。黒鐘廊の証言崩しに警戒する。各自、自分の証言に違和感が出たら即申告」
「はい」
全員が頷く。
かなり整理された。
地味だが、前進している。
「以上。解散」
フィン先生が言った。
ミラが驚く。
「本当に?」
「本当に」
「今日は早い」
「早く終わる日もある」
「先生、成長してる」
「燃やされたいか?」
「ごめんなさい」
先生の冗談は黒茶より黒い。
でも、少しだけ場が和んだ。
地下演習室を出る前に、俺は机の上の帰還空欄を見た。
夕暮れ色の光は、もう落ち着いている。
俺の体育館の記憶は守られた。
でも、これで終わりではない。
証言者が狙われるかもしれない。
栞の子の記憶もまだ危うい。
帰還記述保管者の本名も保留のままだ。
第二断片も再提出待ちだ。
山積み。
相変わらず山積み。
でも。
俺は今日、消されかけた記憶を仲間の声で取り戻した。
それは、俺一人ではできなかった。
体育館の記憶。
自分で動く楽しさ。
それが、一人で走ることではなく、誰かと繋がることだったと確認できた。
だから、次もたぶん大丈夫だ。
いや。
大丈夫とは言い切れない。
でも、言い直せる。
次も、みんなとなら行ける。
俺はそう思いながら、廊下に出た。
夕方の光が、窓から差し込んでいる。
床に長い影が伸びていた。
その影を見て、ふと思う。
影も、光があるからできる。
黒鐘廊がどれだけ影を伸ばしても。
俺たちは、光の位置を忘れなければいい。
朝の礼拝堂の光。
雨の後の石。
甘いパン。
湿った体育館の床。
そういう小さな光を。
不要ではないものを。
ひとつずつ、守っていけばいい。
たぶん、それが。
神の台本には書けない、人間の戦い方だ。




