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第88話 体育館の記憶

第二対象。


編集者。


つまり、俺。


帰還空欄に浮かんだその文字を見た瞬間、地下演習室の空気が変わった。


さっきまで、俺たちは始点証言環の成立を確認していた。


ミラの甘いパン。

俺の雨の日の体育館。


役割以前の記憶を、相互証言として外側に置いた。


それが黒鐘廊への防御になる。


そう分かった直後に、これだ。


――始点記述破棄処理、再試行予定。

――第二対象:編集者。


黒鐘廊は、待ってくれない。


こちらが一歩進めば、向こうも一手を打つ。


本当に律儀だ。


嫌な意味で。


「アキト」


リュミエルが俺の袖を掴んでいた。


「顔が悪い」


「顔の話、多すぎない?」


「今は特に」


「そんなに?」


「かなり」


かなりらしい。


俺は小さく息を吐いた。


落ち着け。


対象は俺だ。


俺の始点記述。


雨の日の体育館。

湿った木の床。

跳ねる球の音。

自分で動くことが楽しかった記憶。


前世の記憶だ。


この世界では、誰も体育館を知らない。

誰もバスケットボールを知らない。

俺以外、本当の音も匂いも知らない。


だから、消されても分かりにくい。


そこが怖い。


もし黒鐘廊が、その記憶を少しだけ削ったら。


俺は気づけるのか。


体育館という言葉は残っていても、床の匂いだけ消えるかもしれない。

球の音だけ薄れるかもしれない。

楽しかった、という感覚だけが抜け落ちるかもしれない。


そうなった時。


俺は、まだ俺だと言えるのか。


「アキトくん」


ミラが言った。


毛布を肩にかけたまま、椅子から俺を見ている。


「今、先に怖がってるでしょ」


「分かるのか」


「分かるよ」


ミラは少しだけ笑った。


「消されたらどうしようって顔してる」


「顔、そんなに喋る?」


「うん。今日の顔はかなり多弁」


最悪だ。


顔面が長文を出している。


「怖いよな」


ミラは言った。


軽くはなかった。


「私も、黒鐘廊で怖かった。自分が自分じゃなくなる感じって、かなり怖い」


「……ああ」


「だから、先に言っとく」


ミラは指を一本立てた。


「雨の日の体育館。湿った木の床。跳ねる球の音。自分で動くのが楽しかった」


胸が、少し震えた。


「忘れたら、私が言う」


セリアが続けた。


「私も言うわよ。正直、体育館ってよく分からないけど」


「分からないのに?」


「分からないけど、あなたが大事だって言ったことは分かる」


その言葉は、強かった。


セリアは炎を灯す。


「だから消されたら、照らす」


「燃やすじゃなくて?」


「まず照らす」


成長している。


いや、今は冗談ではない。


でも、その言葉で少し呼吸が戻った。


ノルンも発話保護符を握って言う。


「私も覚えています」


声は震えている。


でも、はっきりしていた。


「雨の日の体育館。湿った木の床。跳ねる球の音。自分で動くことが楽しかった記憶」


「ありがとう」


「それは、アキトさんが編集者になる前の記憶です」


ノルンは続ける。


「もし声が揺れたら、私が守ります」


胸が熱くなる。


トーヤが盾を立てた。


「俺も覚えている」


短い。


「体育館は分からない」


「だろうな」


「だが、湿った木の床と、跳ねる球の音は覚えた」


トーヤは真っ直ぐ言う。


「それは、お前の戻る場所の一つだ」


戻る場所。


そうか。


始点記述は、戻る場所でもあるのか。


レオンが剣の鞘に手を置いた。


「俺も聞いた」


彼は静かに言う。


「編集者でも外れ職でもなく、自分で動くことを楽しんだ記憶として」


「レオン」


「役割以前の記憶を失う危険は、俺にも分かる」


レオンの声は低かった。


「お前の記憶を、神の台本にも黒鐘廊にも渡さない」


重い。


かつて俺を追放した勇者候補が、俺の体育館の記憶を守ると言っている。


人生、何があるか分からない。


いや、転生してる時点で何でもありか。


ヴァイスは反転板を構えながら、少しだけ不機嫌そうに言った。


「私も記録している」


「ありがとう」


「礼は不要だ。これは防御構造上、必要な相互証言だ」


「でも、助かる」


「……勝手にしろ」


耳が少し赤い。


たぶん、ヴァイスなりに心配している。


そう思っておく。


カサンドラ副院長が羊皮紙を展開する。


「始点証言環、編集者対象の防御を強化します」


「方法は?」


「本人の始点記述に対する相互証言を、学園保護規定で一時補強します。ただし、記憶そのものには触れません」


「俺の中身を勝手に守るわけじゃない?」


「はい。あなたが語ったことを、我々が聞いたという外側事実だけを守ります」


「お願いします」


副院長は頷いた。


「では、確認します。アキト・アオキ。あなたは、当該始点記述の外側証言防御を継続しますか?」


「はい」


「撤回、修正、保留の権利を保持しますか?」


「はい」


「黒鐘廊からの破棄処理に対し、相互証言環による防御を使用しますか?」


少しだけ喉が詰まる。


怖い。


でも、選ぶ。


「使用します」


羊皮紙が淡く光った。


リュミエルの精神保護が、俺の周りに薄く広がる。


彼女は俺の袖を掴んだまま言った。


「私は、あなたがその記憶を消されたくないと選んだことを覚えている」


「うん」


「あなたが忘れかけたら、言う」


「助かる」


「ただし」


「ただし?」


「その記憶を理由に、あなたを縛らない」


胸が鳴った。


それが一番大事だった。


体育館の記憶は俺の始点だ。


でも、それがまた別の役割になってはいけない。


前世の自分。

バスケットボールをしていた自分。

自分で動くことが楽しかった自分。


それは、戻るための糸であって、縛る縄ではない。


「ありがとう」


俺は言った。


「本当に」


リュミエルは少しだけ目を伏せた。


「どういたしまして」


その時、帰還空欄が黒く震えた。


来た。


空気が重くなる。


机の上に浮かんだ文字が、ゆっくりと形を取る。


【始点記述破棄処理】

【第二対象:編集者】

【対象分類:前世由来感覚記録】

【判定:役割固定に不関与】

【処理:不要情報破棄】


胸の奥が冷えた。


前世由来感覚記録。


不要情報。


その言い方だけで、腹が立つ。


でも、怒りで突っ込むな。


怒りは燃料になる。

同時に、視界を狭める。


「注釈枠」


俺は低く言った。


【注釈枠】


――これは始点記述破棄処理への応答であり、本文閲覧ではない。

――対象記録は、本人が外側証言防御を選択した始点記述である。

――対象記録を、不要情報、ノイズ、役割外情報として分類することを拒否する。

――取得対象は、破棄処理の外側条件、削除理由、処理経路に限定する。

――前世記憶の中身を展開してはならない。

――本人の感覚記録を黒鐘廊管理層へ移してはならない。

――相互証言環を、防御に限定して使用する。

――異常時は即時保留。


ヴァイスが反転板を起動する。


「処理経路、来るぞ」


黒い線が、帰還空欄から伸びる。


俺へ。


いや、俺の胸の奥へ。


そこにある記憶へ。


雨の日の体育館。


やめろ。


黒い線が、細い針のように伸びる。


【非能力情報】

【非戦闘情報】

【編集者職能に不関与】

【異世界適応に不要】


「違う」


俺は言った。


声が少し震えた。


「不要じゃない」


黒い線が揺れる。


【前世記録】

【現職能と不一致】

【削除により編集者適合率上昇】


適合率。


嫌な言葉だ。


俺を編集者という型に合わせるために、体育館の記憶を削る。


「ふざけるな」


低い声が出た。


リュミエルの手に力が入る。


「アキト」


「大丈夫」


「怒りすぎない」


「分かってる」


本当に、分かっている。


でも、これは腹が立つ。


編集者適合率。


俺は編集者でいたい。


でも、編集者に適合するために、体育館の記憶を捨てるなんてあり得ない。


それは編集じゃない。


削除だ。


校閲済みの名を借りた、ただの殺人だ。


「相互証言環、展開」


カサンドラ副院長が言った。


羊皮紙が光る。


俺の始点証言環が、机の上に浮かび上がる。


細い光の円。


その円に、みんなの証言が並ぶ。


ミラの声。


――私は、アキトくんが雨の日の体育館の記憶を語ったことを聞いた。


セリアの声。


――湿った木の床と、跳ねる球の音って言ってた。


ノルンの声。


――自分で動くことが楽しかった、と言っていました。


トーヤの声。


――それは、役割以前の記憶だ。


レオンの声。


――編集者でも外れ職でもない、本人の始点として聞いた。


ヴァイスの声。


――本人が役割以前の自己を確認するための外側証言である。


リュミエルの声。


――アキトがその記憶を消されたくないと選んだことを聞いた。


黒い線が止まった。


証言環の光が、俺の胸の手前で壁になる。


黒鐘廊の文字が乱れる。


【他者証言】

【本人記憶ではない】

【破棄対象外】


「そうだ」


ヴァイスが言った。


「本人記憶ではない。貴様には破棄できない」


【証言削除】


「拒否します」


カサンドラ副院長が即座に言った。


「当該証言は本人同意に基づく学園保護記録です。黒鐘廊に削除権限はありません」


【証言はノイズ】


「ノイズではありません」


ノルンが言った。


声は震えていた。


でも、強い。


「本人が声に出し、私たちが聞いた事実です」


【役割固定に不要】


「だから必要なのよ」


セリアが炎を掲げる。


「役割しか見てないから分かんないんでしょ」


黒い線が、今度は俺の内側へ潜ろうとする。


証言環を避けて、直接。


まずい。


胸の奥に、冷たい針が入る感覚。


雨の日の体育館が、遠くなる。


木の床の匂いが薄れる。


ボールの音が、少し小さくなる。


「アキト!」


リュミエルの声。


俺は歯を食いしばる。


思い出せ。


木の床。

湿った空気。

雨の音。

ボールが床に当たる音。


ドン。

ドン。

ドン。


いや。


音が薄い。


思い出せ。


「アキトくん!」


ミラが叫んだ。


「体育館!」


その言葉が、線になる。


「雨の日! 湿った木の床! 跳ねる球の音!」


セリアも続ける。


「自分で動くのが楽しかったんでしょ!」


ノルンの声。


「編集者になる前の記憶です!」


トーヤの低い声。


「戻る場所だ」


レオンの声。


「役割以前の始点だ」


ヴァイスの声。


「削除対象ではない。防御対象だ」


最後に、リュミエルの声。


「あなたは、それを消されたくないと選んだ」


胸の奥で、音が戻る。


ドン。


床に球が跳ねる。


ドン。


雨の音。


ドン。


息が上がる。

足が動く。

手のひらにボールの感触。

体育館の床が、少し滑る。


楽しい。


ただ、楽しい。


誰かに命じられたわけじゃない。

役に立つからでもない。

物語を進めるためでもない。


自分で動くことが、楽しかった。


「……戻った」


俺は呟いた。


黒い針が、弾かれる。


証言環の光が強くなる。


帰還空欄に文字が走る。


【始点記述破棄処理】

【直接削除失敗】

【相互証言環により復元】

【不要分類、拒否】


よし。


だが、黒鐘廊はまだ止まらない。


【再分類】

【編集者の始点記述】

【行動衝動として転用可能】


「転用?」


嫌な予感がした。


黒い線が、形を変える。


体育館の記憶を消すのではなく。


使おうとしている。


自分で動くことが楽しかった。


その記憶を。


勝手に。


行動衝動へ変換する気だ。


【自分で動け】

【仲間を待つな】

【走れ】

【書き換えろ】

【編集者は止まるな】


胸が熱くなる。


さっきまで消されそうだった記憶が、今度は暴走の燃料にされる。


やり方が汚い。


本当に汚い。


「違う」


俺は言った。


「俺の体育館は、暴走のための記憶じゃない」


黒い文字が迫る。


【動く喜び】

【単独行動適性】

【自己判断優先】


「違う!」


俺は叫んだ。


「バスケは一人でやるものじゃない!」


地下演習室が静まる。


自分でも少し驚いた。


でも、言葉は止まらなかった。


「自分で動くのは楽しかった。でも、一人で全部やるって意味じゃない」


胸の奥に、体育館の光景が戻る。


パス。

声。

味方の動き。

スクリーン。

リバウンド。

誰かのシュート。

誰かのミス。

走る音。

声を出す仲間。


「俺が楽しかったのは、自分で動いて、誰かと繋がることだ」


黒い文字が止まる。


「勝手に単独行動の根拠にするな」


リュミエルが小さく息を吐いた。


ミラがにやっと笑う。


「そうだよね。球技っぽいもんね」


「球技だからな」


「知らないけど」


「知らないのに乗るな」


でも、その軽口で少し戻る。


俺は黒い文字を見る。


「差し戻し理由、追加」


【追加注釈】


――当該始点記述は、単独行動衝動ではない。

――当該始点記述は、本人が自分で動く喜びを感じた記憶であると同時に、他者との連携、声、動き、関係性を含む。

――当該記憶を、孤立、暴走、単独判断の根拠として転用してはならない。

――始点記述の使用目的は、本人が役割以前の自己を確認するために限定される。

――行動誘導への転用を拒否する。

――保留。


黒い文字が割れる。


【転用失敗】

【破棄失敗】

【対象防御継続】


帰還空欄が、夕暮れ色に変わる。


――第二対象:編集者。


――始点記述破棄処理、失敗。


――相互証言環、防御成立。


――転用処理、拒否。


地下演習室に、息が戻った。


俺はその場に膝をついた。


リュミエルがすぐに支える。


「アキト」


「大丈夫」


「嘘」


「少し、きつい」


「正直でよろしい」


全身が重い。


胸の奥がまだ熱い。


体育館の記憶は戻った。


消されなかった。


でも、一度薄れた感覚が怖かった。


ボールの音が消えかけた瞬間。


俺は本当に、何かを失うところだった。


「アキトくん」


ミラの声。


「覚えてる?」


「何を?」


「体育館」


俺は目を閉じる。


雨の音。

木の床。

ボールの跳ねる音。


ドン。


「覚えてる」


「楽しかった?」


少し笑う。


「楽しかった」


ミラは満足そうに頷いた。


「よし」


トーヤが言った。


「戻ったな」


「たぶん」


「ならいい」


短い。


でも、ありがたい。


ノルンが発話保護符を俺に貼る。


「しばらく安静にしてください」


「はい」


「本当に」


「本当」


今度は素直に言える。


フィン先生が黒茶を置いた。


「今日の作業は終了だ」


「まだ……」


リュミエルの視線が刺さる。


「終了です」


俺は言い直した。


「よろしい」


先生が二人いる。


いや、もっといる。


カサンドラ副院長が記録を閉じる。


「編集者の始点記述、防御成功。相互証言環による復元成立。転用処理拒否」


ヴァイスが反転板に追記する。


「重要だ。始点記述は、破棄されるだけでなく、行動誘導に転用される危険がある」


「次から注意だな」


「そうだ」


消すだけではない。


使われる。


始点記述は強い。


だからこそ、敵も利用しようとする。


体育館の記憶は、俺を暴走させるために転用されかけた。


自分で動く喜びを、一人で突っ走る衝動に変えられかけた。


本当に油断できない。


「でも」


リュミエルが静かに言った。


「あなたは訂正できた」


「ああ」


「自分で動くことは、一人で動くことではない」


「うん」


「覚えておいて」


「もちろん」


ミラが横から言う。


「忘れたら言うよ」


「頼む」


「高いけど」


「甘いものだろ」


「分かってるね」


くだらない。


でも、救われる。


帰還空欄が最後に小さく光った。


――始点証言環、機能確認。


――第三幕・役割緩和補助、安定化。


――栞の子への提示精度、上昇。


つまり、俺が攻撃を受けたことで、始点証言環の防御が実証された。


栞の子にも、より安全に提示できる。


皮肉だ。


でも、無駄ではない。


俺は床に座り込んだまま、深く息を吐く。


体育館の記憶は、まだある。


雨の日の木の床。

ボールの音。

自分で動く楽しさ。

仲間と繋がる感覚。


黒鐘廊は、それを不要だと言った。


次に、暴走の燃料にしようとした。


どちらも間違いだ。


この記憶は、俺を役割に閉じ込めるためのものじゃない。


俺が俺に戻るためのものだ。


そして。


俺が一人で走らないための記憶でもある。


そう思ったら、少しだけ笑えた。


異世界に来て、神の台本と戦って。


まさか、バスケに助けられるとは思わなかった。


でも、悪くない。


むしろ、かなり俺らしい。

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