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第87話 始点証言環

始点証言環。


名前だけ聞くと、かなり仰々しい。


だが、やっていることは単純だ。


誰かが、自分の始まりを語る。


他の誰かが、それを聞いたと証言する。


記憶そのものを奪わない。

中身を勝手に保存しない。

美談にも、武器にも、鍵にも変えない。


ただ。


その人が、その記憶を大事にしていると聞いた。


そう残す。


それだけ。


でも、その「それだけ」が、黒鐘廊に対する防御になる。


――始点証言環、確認。

――編集者の始点記述、外側証言化。

――黒鐘廊の破棄処理に対する防御値、上昇。

――第三幕・補助機能解放。

――帰還未完了者に対し、始点記述を用いた役割緩和が可能。

――対象候補:栞の子。

――ただし、本人同意必須。

――次回接触時、提示可能。


帰還空欄の通知は、そう告げた。


役割緩和。


また新しい言葉だ。


本当に、次から次へと出てくる。


この世界、専門用語の在庫が無限なのか。


「役割緩和って、何?」


ミラが聞いた。


毛布を肩にかけたまま、温かい飲み物を両手で持っている。


もう寝台ではない。


椅子に座っている。


それだけで、少し回復した感じがある。


「役割解除ではない」


ヴァイスが反転板を見ながら言った。


「役割を完全に降ろす処理ではなく、役割の圧を弱める処理だろう」


「圧?」


「栞の子は、現在“止める者”として固定されている。栞化状態だ。そこへ始点記述を当てることで、“止める者”以外の本人性を思い出させる」


「つまり、栞じゃなくて人間だった頃を思い出す?」


「雑に言えばそうだ」


「雑で分かりやすい方が好き」


「貴様の好みは聞いていない」


「ひどい」


いつもの調子に戻りつつある。


ヴァイスは相変わらず素直じゃないが、説明はかなり丁寧になっている。


エリオットの件以降、彼は人の役割固定にかなり敏感になっている。


いい変化だ。


たぶん。


「役割緩和は、帰還より前の段階ですね」


ノルンが言った。


「声を出しやすくする。痛みを感じても壊れないようにする。選択肢を選ぶ前に、選べる自分を少し取り戻す」


「それだ」


俺は頷いた。


「いきなり帰還じゃない。いきなり解除でもない。まず、栞の子が“栞だけじゃない”状態を作る」


リュミエルが静かに言う。


「そのために、始点記述を使う」


「雨の石と温かい飲み物」


セリアが呟いた。


「それを思い出すと、栞じゃない自分が少し戻るってこと?」


「可能性はある」


カサンドラ副院長が答える。


「ただし、本人が望む場合のみです」


「当然ね」


セリアは炎を小さく揺らした。


「思い出したくない時もあるもんね」


その通りだ。


始点記述は大事だ。


でも、大事だからといって、無理に思い出させていいわけではない。


記憶は救いにもなる。


同時に、痛みにもなる。


黒鐘廊が破棄しようとしたから守る。


それは正しい。


でも、守った記憶を本人に押しつけたら、また違う檻になる。


「次回接触時に提示可能」


俺は帰還空欄の文字を見た。


「提示可能であって、実行可能ではない」


リュミエルが言う。


「そう」


「提示するかどうかも、まず考えるべき」


「うん」


提示できるものを、全部提示すればいいわけではない。


選択肢が多すぎると迷路になる。


フィン先生の言葉が頭に残っている。


多すぎる選択肢は、選ばせないための迷路になる。


「栞の子に次回伝えることを整理する」


フィン先生が言った。


「情報量を絞れ」


「はい」


俺は机に向かう。


紙は使わない。


注釈枠に外側だけ整理する。


次回の目的。


一つ。

前回の始点記述破棄処理について知らせるかどうか。


二つ。

第二栞の状態と、部分保持試験の次をどうするか。


三つ。

始点記述による役割緩和を提示するかどうか。


多い。


明らかに多い。


「多すぎる」


自分で言った。


「分かっているならいい」


フィン先生が言う。


「次回は、何を優先する」


俺は考える。


破棄処理があったことを知らせる。


これは重要だ。


本人の記憶に関わる重大事実を、こちらだけで握るのは危険。


だが、いきなり伝えれば怖がらせる。


部分保持試験。


栞の子は、今日は試したくないと言った。

次に試す時は、匂いを思い出せるくらい、とも言った。


ただ、次回すぐ試すとは限らない。


役割緩和。


これは新しい選択肢。

ただし、まだ説明が難しい。


全部は無理だ。


なら。


「次回は、破棄処理の事実だけを慎重に伝える」


俺は言った。


「試験の話と役割緩和は、向こうが望むまで出さない」


リュミエルが頷く。


「妥当」


「理由は?」


フィン先生が聞く。


「栞の子の記憶が狙われたことは、本人に関わる重大情報だから隠し続けるのはよくない。でも、こちらが守ったことを強調しすぎると、恩を着せる形になる」


「続けろ」


「だから、伝え方は事実だけ」


俺は言葉を組み立てる。


「あなたの“雨の石と温かい飲み物”の記録に対し、外部から破棄処理がありました。こちらで一時的に遅延しました。今後、その記録をどう扱うかは、あなたが選べます」


「“こちらで守りました”とは言わないの?」


ノルンが聞いた。


「言わない方がいいと思う」


「なぜ?」


「守ったと言うと、栞の子が“感謝しなきゃ”って思うかもしれない」


ミラが小さく頷いた。


「分かる」


「助けられる側ってさ、感謝しなきゃって思うことあるよね」


「ある」


ミラの声は少しだけ低い。


「ありがたいんだけど、感謝しなきゃってなると、選択肢が狭くなる」


「だから、守った事実は言うけど、感謝を求める言い方はしない」


リュミエルが言う。


「保護処理を行った。これで十分」


「そう」


事実だけ。


温度は低め。


でも、冷たくはしない。


難しい。


本当に難しい。


「では、次回の伝達文を作ります」


カサンドラ副院長が羊皮紙を開く。


俺も注釈枠を展開する。


【栞の子・始点記述破棄処理に関する伝達案】


――これは報告であり、選択要求ではない。

――あなたが外側保護を依頼した始点記述に対し、外部から破棄処理が確認されました。

――当該処理は、本人確認未了として一時遅延されています。

――この記録を今後どう扱うかは、あなたが選べます。

――今日、返答する必要はありません。

――怖い、分からない、保留したい、聞きたくない、いずれも可能です。

――この報告を聞かないことも選べます。


「最後、大事」


ミラが言った。


「聞かないことも選べる」


「そうだな」


「怖い話を聞かされるのも、けっこうしんどいから」


本当に経験者の言葉は強い。


「伝える前に、聞くかどうか聞く」


リュミエルが言った。


「つまり、報告の前に予告」


「はい」


カサンドラ副院長が頷く。


「“あなたの記憶に関する外部処理の報告があります。今聞きますか、後にしますか、聞かないこともできます”」


いい。


かなりいい。


俺は追記する。


――あなたの始点記述に関する外部処理の報告があります。

――今聞く、後で聞く、聞かない、保留する、いずれも可能です。


これなら、情報を受け取るかどうかも本人が選べる。


「役割緩和は次回出さない?」


ノルンが聞く。


「出さない」


俺は答える。


「破棄処理の話だけで重い。そこへ役割緩和まで出したら、選択肢が多すぎる」


「賛成」


リュミエルが言う。


「段階を分けるべき」


ヴァイスも頷いた。


「第二栞の次回試験も保留でいい。まずは破棄処理の報告を受けるかどうか」


フィン先生が黒茶を持ち上げる。


「ようやく速度が合ってきたな」


「褒めてます?」


「かなりな」


おお。


かなり、いただきました。


珍しい。


ミラが笑う。


「アキトくん、今日はすごいじゃん」


「成長期なので」


「何回使うの、それ」


「便利だから」


便利な言葉は使う。


ただし、役割固定にならない範囲で。


その日は、始点証言環の試験をもう一人分だけ行うことになった。


理由は単純。


俺だけでは、防御形式として弱い。


ただし、一気に全員はやらない。


今日の二人目は、ミラ。


本人が希望した。


「甘いパンの記録、防御しておきたい」


そう言った。


軽く見せているが、本人にとっては大事なのだろう。


カサンドラ副院長が確認する。


「ミラ・クロウ。始点記述。雨宿りした軒下、知らない店の人にもらった甘いパン。逃げ道には怖さだけでなく、甘さもあると知った記憶」


ミラは少しだけ照れた。


「はい」


「この記憶そのものを他者に譲渡しません」


「はい」


「特異職科の仲間および保護記録管理者は、あなたがその記憶を語ったという事実のみを相互証言として保持します」


「はい」


「後から撤回、修正、保留できます」


「はい」


「実施しますか?」


ミラは毛布を握った。


そして、俺を見た。


「アキトくん」


「何だ?」


「これ、ちょっと恥ずかしいね」


「分かる」


「でも、消されたくない」


「うん」


ミラは深く息を吸った。


「実施します」


羊皮紙が光る。


ノルンの発話保護がミラの声を包む。


リュミエルの精神保護が外側を支える。


ヴァイスの反転板が、二つ目の証言環を形成する。


今度は、俺たちが証言する。


俺が最初に言った。


「俺は、ミラが雨宿りした軒下と甘いパンの記憶を語ったことを聞いた」


セリアが続ける。


「逃げ道には、怖さだけじゃなく甘さもあるって言ってた」


トーヤが言う。


「その記憶は、ミラが逃げ道を残す理由の一つだと聞いた」


ミラの顔が赤くなる。


「盾、言い方が真っ直ぐすぎる……」


トーヤは真顔だ。


「事実だ」


ノルンが言う。


「その記憶は、ミラさんを影の獣ではなく、人間として支えるものだと聞きました」


ミラの目が少し潤む。


レオンが静かに言う。


「逃げることが敗北だけではないと示す記憶として聞いた」


ヴァイスが少し間を置いて言う。


「当該証言は、斥候という役割固定のためではなく、本人が逃げ道の意味を選び直すための外側証言である」


最後にリュミエル。


「私は、ミラがその記憶を恥ずかしいと思いながらも、消されたくないと選んだことを聞いた」


ミラは毛布で顔を隠した。


「リュミエルちゃん、それ強いって……」


「事実」


「事実が強すぎる」


光の円が閉じる。


【始点証言環・第二試験成立】


帰還空欄が淡く光った。


――始点証言環、二件成立。


――黒鐘廊の破棄処理に対する防御値、上昇。


よし。


防御が上がった。


少しずつ。


本当に少しずつ。


でも、確実に。


「今日はここまでだ」


フィン先生が言った。


「まだ午前だけど?」


ミラが聞く。


「ここまでだ」


「最近、先生すぐ止めるね」


「止めるのも仕事だ」


いい言葉だった。


止めるのも仕事。


栞の子と同じだ。


止めることは、進まないことではない。


止めることで守れるものがある。


その時だった。


帰還空欄の保護封筒が、淡く震えた。


また通知か。


俺たちは身構える。


ヴァイスが反転板を向ける。


「黒鐘廊式あり。だが弱い」


俺は注釈枠を開く。


【本文遮断】

【管理通知のみ】


文字が浮かぶ。


――始点記述破棄処理、再試行予定。


やはり。


黒鐘廊は諦めない。


さらに一行。


――第二対象:編集者。


地下演習室の空気が凍った。


俺。


来ると思っていた。


栞の子の次は、俺。


雨の日の体育館。


湿った木の床。


跳ねる球の音。


自分で動くことが楽しかった記憶。


それを消しに来る。


黒鐘廊からすれば、俺を編集者に固定するには、役割以前の記憶が邪魔なのだろう。


「アキト」


リュミエルが俺の袖を掴む。


「大丈夫」


俺は言った。


でも、声が少し低くなった。


大丈夫。


本当に?


自分に問い返す。


消されたくない。


かなり、消されたくない。


「次は俺の始点記述か」


フィン先生が言う。


「そうですね」


「焦るな」


「はい」


「一人で守ろうとするな」


「はい」


「始点証言環がある。使え」


「はい」


三回目のはい。


俺は机の上を見る。


さっき作った、俺の始点証言環。


みんなが聞いてくれた記録。


俺一人の中だけではない。


黒鐘廊が俺の記憶を消そうとしても、みんなが“俺がそれを語った”と覚えている。


戻るための糸がある。


「アキトくん」


ミラが言った。


「雨の日の体育館、忘れたら言ってあげる」


「ありがとう」


「湿った木の床、跳ねる球の音、自分で動くのが楽しかった」


胸が熱くなる。


「高いよ」


「対価は?」


「甘いもの」


「分かった」


ミラは笑った。


「契約成立」


リュミエルが静かに言う。


「私も覚えている」


「うん」


「あなたが、それを消されたくないと選んだことも」


それが一番効いた。


記憶の中身だけじゃない。


俺が消されたくないと選んだこと。


それを覚えてくれている。


「……助かる」


声が少し掠れた。


フィン先生が言った。


「次の対策は決まったな」


「はい」


俺は頷く。


「始点証言環が本当に防御になるか、試されます」


「そうだ」


「でも、今回は一人じゃない」


リュミエルの手が、袖を離さない。


ノルンが発話保護符を握る。


ヴァイスが反転板を構える。


セリアが炎を灯す。


トーヤが盾を立てる。


レオンが剣を抜かずに手を添える。


ミラが毛布の中から、まっすぐ俺を見る。


この全員が、俺の雨の日の体育館を聞いている。


馬鹿みたいな話だ。


異世界で、黒鐘廊と戦うために、バスケットボールの記憶を守ることになるなんて。


でも。


それが俺だ。


編集者になる前の俺。


青木明登になる前も後も、どこかに残っている俺。


「不要ではない」


俺は言った。


「俺の体育館も」


声が少し震えた。


でも、続けた。


「みんなの記憶も」


帰還空欄が淡く光る。


黒鐘廊の文字が揺らぐ。


そして、通知が一つ浮かんだ。


――第二対象への破棄処理、準備中。


来る。


次は、俺の番だ。


でも。


今度は、少し違う。


俺の記憶を、俺一人で守らなくていい。


それだけで、十分戦える気がした。

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