第86話 不要ではないもの
温かい飲み物の湯気が、地下演習室に立ち上っていた。
二度目の湯気だ。
最初の杯は、冷めた。
黒鐘廊が、栞の子の始点記述を破棄しようとしたからだ。
雨の後の石。
温かい飲み物。
その記憶を。
役割固定に不関与。
非戦闘情報。
非能力情報。
ノイズ。
そう分類して、消そうとした。
俺たちは、それを遅延させた。
止めた、とは言えない。
完全に防いだわけではない。
ただ、保留にした。
第一対象、栞の子。
始点記述破棄処理、遅延。
本人確認未了につき、保留。
また保留だ。
地味だ。
本当に地味だ。
でも、その地味な二文字が、今は誰かの記憶を守っている。
「黒鐘廊ってさ」
ミラが杯を両手で持ちながら言った。
「本当に嫌な整理の仕方するよね」
「整理?」
「うん」
彼女は湯気を見つめる。
「使えるものと使えないものに分ける感じ。役に立つかどうかだけで見る感じ」
「ああ」
「そういうの、ちょっと分かるんだよね」
ミラの声は軽くなかった。
「斥候って、役に立つ道を探すでしょ。危ない道、通れない道、意味のない道を切る。それ自体は必要なんだけど」
少し間。
「でも、人間までそれで分けたら終わりだよね」
地下演習室が静かになる。
ミラの言葉は、やけにまっすぐだった。
「甘いパンの記憶が、戦闘に役立つかって言われたら、多分役立たない。でも、私にとっては逃げ道が怖いだけじゃないって思えた記憶だから」
ミラは小さく笑った。
「それ消されたら、私、逃げ道担当じゃなくて、ただ逃げるだけのやつになる気がする」
ただ逃げるだけのやつ。
それは、ミラが一番嫌がりそうな言葉だった。
仲間に逃げ道を残す斥候。
その現在記述の奥には、雨宿りした軒下と甘いパンがある。
逃げ道にも温かさがあると知った記憶。
それを消されれば、現在記述の根っこが削られる。
「不要じゃない」
トーヤが言った。
短い。
でも、重い。
「甘いパンは、不要じゃない」
ミラが目を丸くする。
「盾が甘いパンの重要性を語ってる」
「重要だ」
「そ、そうだね」
ミラが少し照れている。
トーヤは真顔だ。
たぶん本気で言っている。
「逃げ道に、甘いものがあるなら」
トーヤは続ける。
「逃げる者は、戻る理由を持てる」
静かだった。
地下演習室が、また少し黙る。
ミラは毛布を引き寄せた。
「……今日の盾、強い」
「いつも強い」
「そういう意味じゃないんだよなあ」
でも、ミラは笑っていた。
今の言葉は届いたのだろう。
レオンが杯を置いた。
「俺も、濡れた土の匂いを不要とは思わない」
彼は自分の剣を見た。
「もしそれを失えば、剣を振る理由が、神の命令だけになる」
その声は低い。
「それは、危険だ」
神の剣。
役割に忠実な剣。
そこから外れるためには、役割以前の感覚が必要だ。
楽しかったこと。
好きだったこと。
ただ、やってみたいと思ったこと。
「神殿は、そういうものを軽く見る」
レオンは言った。
「感情は揺らぎ。個人的記憶は不純物。役割に不要なものは削るべきもの。そう教えられた」
「今は?」
俺が聞くと、レオンは少しだけ目を伏せた。
「今は、それが間違いだったと分かる」
はっきりした声だった。
「揺らぎがなければ、剣は止まれない」
剣は止まれない。
その言葉は、妙に重かった。
抜かないことで守る剣。
止まれる剣。
それが今のレオンだ。
ノルンも杯を持ったまま、小さく言った。
「私も、薬草室の匂いを消されたくないです」
声は震えていた。
でも、消えない。
「治癒師の役割だけ残ったら、私はまた、治さなければならない人になってしまう気がします」
「治したい、じゃなくて?」
ノルンは頷いた。
「はい。治せるかもしれないって嬉しかった気持ちがあるから、今も怖くても声を出せます」
彼女の目に光が揺れる。
「それがなかったら、私はきっと、ただ失敗してはいけない治癒師になります」
沈黙した治癒師。
その役割に戻らないための始点。
乾いた薬草。
温かい布。
嬉しさ。
それが、ノルンの声を支えている。
セリアは炎を指先で揺らしていた。
「私の焼いた果実も、不要じゃないわね」
「うん」
俺が言うと、セリアは少しだけ照れくさそうに目を逸らした。
「火は、燃やすだけじゃないって思えたから」
彼女の炎が柔らかくなる。
「もしそれを忘れたら、私はまた、燃やすか燃やさないかだけで考えると思う」
燃やす炎。
照らす炎。
温める炎。
セリアが今、燃やす前に照らせるのは、その始点があるからだ。
「黒鐘廊は、本当に分かってない」
セリアは低く言った。
「役に立つかどうかじゃないのよ」
炎が、静かに光る。
「役に立たないと思われるものが、人を止めることもある」
その通りだ。
止まるための記憶。
戻るための記憶。
役割に飲まれないための記憶。
黒鐘廊からすればノイズでも、人間からすれば命綱だ。
リュミエルは、朝の礼拝堂の光を思い出しているのか、少しだけ静かだった。
俺が声をかける。
「リュミエル」
「何?」
「光の記憶、消されたら嫌か?」
彼女は少し間を置いた。
「嫌」
短い。
でも、はっきりしていた。
「理由は?」
「神のためではない光だったから」
胸に響いた。
「礼拝堂の光なのに?」
「ええ」
リュミエルは自分の右手首を見る。
神約の呪印。
「神の場所で、神のためではなく、ただ綺麗だと思った。その瞬間の私は、器ではなかった」
その声は、静かに強い。
「だから、消されたくない」
「うん」
俺は頷いた。
「消させない」
リュミエルは俺を見る。
「一人で?」
「いや」
俺はすぐに言い直した。
「みんなで」
リュミエルは頷いた。
「よろしい」
また判定された。
でも、今のは正しい。
一人で守るなんて言ったら、また役割固定に近づく。
俺は編集者だ。
でも、全員の始点を一人で背負う者ではない。
「相互証言の防御形式を完成させる必要があります」
カサンドラ副院長が言った。
「黒鐘廊の破棄処理を遅延させた今のうちに、始点記述を正式な保護形式へ移します」
「正式な保護形式?」
俺が聞くと、副院長は頷いた。
「仮称ですが、“始点証言環”と呼びましょう」
「始点証言環」
ヴァイスが反転板を覗き込む。
「環か。連結記録ではなく、循環記録にするのか」
「はい」
副院長が答える。
「一方向に誰かが記録を管理するのではなく、互いに聞いた事実を支え合う形です」
「誰か一人が倒れても、全部消えない」
俺が言うと、ヴァイスは頷く。
「だが、危険もある。環の一部が汚染されれば、他に広がる可能性がある」
「対策は?」
「各証言に撤回権と保留権を付ける。さらに、証言内容を感覚そのものではなく“聞いた事実”に限定する」
「それなら、汚染が深く入りにくい」
「そうだ」
ヴァイスはすぐに式を書き始めた。
かなり速い。
こういう時の彼は頼もしい。
素直ではないが、仕事は正確だ。
「始点証言環を作る場合、誰の記録から始める?」
ノルンが聞いた。
「普通なら、栞の子」
ミラが言う。
「でも、今はまだ本人同意がないから駄目」
「そうだな」
「じゃあ、私たちのから」
ミラは自分の胸に手を当てた。
「まず、こっちで安全に作れるか試す」
実験台になる、とは言わなかった。
言い方を選んだのだろう。
「試す」
俺は頷いた。
「預託じゃなくて」
ミラがにやっと笑う。
「そう。試す」
言葉の使い方が、少しずつ変わっている。
この変化も、きっと重要だ。
「誰から?」
セリアが聞く。
一瞬、みんなが黙った。
なんとなく視線が俺に来る。
「俺?」
「言い出しっぺっぽいし」
ミラが言う。
「いや、始点記述を言い出したのは栞の子だろ」
「でも、体育館の話をしたのはアキトくん」
「みんな話しただろ」
「じゃあ、みんなで一斉に?」
「危ない」
ヴァイスが即答した。
「最初は一人分で構造を確認するべきだ」
「なら俺でいい」
言ってから、少しだけ怖くなった。
前世の記憶を、外側に証言環として置く。
しかも、この世界の仲間たちに。
でも。
俺は、これを消されたくない。
編集者でもなく、外れ職でもなく、主人公候補でもない俺。
雨の日の体育館で、湿った木の床を踏み、ボールを追っていた俺。
それを覚えておきたい。
「俺の始点記述で試す」
リュミエルが俺を見る。
「本当に?」
「本当」
「怖くない?」
「少し怖い」
「なら、保留できる」
「うん。でも、今は試したい」
リュミエルは少しだけ目を細めた。
「分かった」
カサンドラ副院長が確認する。
「始点記述の内容を再確認します。アキト・アオキ。前世由来の記憶断片。雨の日の体育館、湿った木の床、跳ねる球の音。自分で動くことが楽しいと感じた記憶」
「はい」
「この記憶そのものを他者へ譲渡しません。味、匂い、音、感情の詳細は本人のものです」
「はい」
「特異職科の仲間および保護記録管理者は、“アキトがその記憶を語った”という事実のみを相互証言として保持します」
「はい」
「後から撤回、修正、保留できます」
「はい」
「実施しますか?」
少し息を吸う。
「実施します」
羊皮紙が光る。
ノルンの発話保護が、俺の声を包む。
リュミエルの精神保護が、外側を支える。
ヴァイスの反転板が、証言環の形を作る。
円。
細い光の円が、机の上に浮かんだ。
その円の中心に、俺の始点記述が置かれる。
ただし、中身ではない。
俺が語ったという事実だけ。
ミラが最初に言った。
「私は、アキトくんが雨の日の体育館の記憶を語ったことを聞いた」
セリアが続ける。
「湿った木の床と、跳ねる球の音って言ってた」
ノルンが言う。
「自分で動くことが楽しかった、と言っていました」
トーヤが言う。
「それは、役割以前の記憶だ」
レオンが言う。
「編集者でも外れ職でもない、本人の始点として聞いた」
ヴァイスが少し嫌そうに、でも正確に言う。
「当該証言は、本人を固定するためではなく、本人が役割以前の自己を確認するための外側証言である」
カサンドラ副院長が頷く。
「記録します」
最後に、リュミエル。
彼女は俺を見た。
「私は、アキトがその記憶を消されたくないと選んだことを聞いた」
胸が鳴った。
そこまで言われると思っていなかった。
でも、そうだ。
俺は選んだ。
消されたくないと。
光の円が、静かに閉じた。
【始点証言環・試験成立】
反転板に表示が出る。
痛みはない。
頭も重くない。
ただ、胸の奥が少し温かい。
「どう?」
ミラが聞いた。
「変な感じ」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ成功寄り」
ヴァイスが言う。
「成功寄りではなく、試験成立だ」
「そこ大事?」
「大事だ」
大事らしい。
俺は少し笑った。
「ありがとう」
全員へ言った。
ミラがにやにやする。
「おお、素直」
「今日はそういう日だ」
「成長日、多いね」
「成長期なので」
「十六歳設定だもんね」
設定じゃない。
いや、転生後はそうなのか。
ややこしい。
「次は誰にする?」
セリアが聞く。
「今日は俺だけでいい」
俺は言った。
全員が少し驚く。
「一気にやらない」
リュミエルが少しだけ微笑んだ。
「よろしい」
「さすがに学んだ」
「少し」
少しらしい。
「始点証言環は成立した」
ヴァイスが反転板を見ながら言う。
「黒鐘廊の破棄処理が来た場合、この記録は直接破棄しにくい。本人記録ではなく、複数の証言に分散しているからだ」
「分散バックアップ成功?」
「言い方は気に入らないが、近い」
「よし」
これを他のみんなにも適用する。
ただし、一人ずつ。
本人同意を取りながら。
急がず。
「栞の子にも、いつか使える」
ノルンが言った。
「はい」
カサンドラ副院長が頷く。
「ただし、本人が望む場合のみ」
「もちろん」
栞の子が、雨の石と温かい飲み物を相互証言にしてほしいかどうか。
それは、まだ分からない。
まずは選べるようにする。
今日、黒鐘廊はその記憶を消そうとした。
俺たちは遅延させた。
そして、始点証言環という新しい守り方を試した。
小さいが、確実な前進だ。
その時。
帰還空欄の保護封筒が、また淡く光った。
全員が身構える。
だが、今度は夕暮れ色だった。
黒は混じっていない。
俺は注釈枠を開く。
【管理通知のみ】
文字が浮かぶ。
――始点証言環、確認。
――編集者の始点記述、外側証言化。
――黒鐘廊の破棄処理に対する防御値、上昇。
防御値。
ゲームみたいな言い方だ。
だが、分かりやすい。
さらに文字が続く。
――第三幕・補助機能解放。
全員が黙る。
補助機能。
また新しいものが出た。
――帰還未完了者に対し、始点記述を用いた役割緩和が可能。
「役割緩和……?」
ノルンが呟く。
帰還空欄の文字は、さらに続いた。
――対象候補:栞の子。
――ただし、本人同意必須。
――次回接触時、提示可能。
俺は息を吐いた。
また選択肢が増えた。
栞の子に、始点記述を使って役割緩和を提示できる。
ただし、本人同意必須。
当然だ。
「提示できるだけだ」
リュミエルが言った。
「実行ではない」
「分かってる」
「本当に?」
「本当」
今日は走らない日。
ミラの言葉を思い出す。
提示できる。
でも、今すぐやらない。
できることと、やることは違う。
「次回、栞の子に伝える内容が増えたな」
フィン先生が言った。
「ただし、まとめろ。情報を増やしすぎるな」
「選択肢が迷路になる」
俺は頷く。
「そうだ」
始点記述を守る。
始点証言環を試す。
役割緩和を提示する。
やれることは増えた。
でも、増えた選択肢を全部ぶつけたら、栞の子を潰す。
人間の速度。
忘れるな。
ミラが杯を持ち上げた。
「じゃあ、今日はこれで勝ち?」
「勝ちではない」
ヴァイスが言う。
「試験成立だ」
ミラが俺を見る。
「勝ち寄り?」
「試験成立寄り」
「何それ」
みんなが少し笑った。
その笑いの中で、俺は自分の胸に手を当てる。
雨の日の体育館。
湿った木の床。
跳ねる球の音。
その記憶は、俺の中にある。
そして今は、みんながそれを聞いた事実もある。
それは縛りではない。
戻るための糸だ。
黒鐘廊が不要だと言うなら、何度でも言い返す。
不要ではない。
役に立つかどうかではない。
それがあったから、俺は俺になった。
その事実だけで、守る理由としては十分だった。




