第81話 部分保持試験
第二栞の部分保持試験。
名前だけ聞けば、学園の魔導実験みたいだった。
いや、実際には魔導実験に近いのかもしれない。
ただし、実験対象は道具ではない。
栞の子。
第二幕通路の奥。
本文と本文の間。
ページの隙間にいる誰か。
その子が、止めているものを少しだけ第二栞に預ける。
いや。
預ける、ではない。
試す。
ここは間違えてはいけない。
黒鐘廊は「一時預託」という言葉で、役割を降りる権利を奪った。
だから、栞の子は言った。
――預託ではありません。
――試します。
たぶん、その違いが命綱だ。
預けると、返ってこないかもしれない。
試すなら、やめられる。
戻せる。
保留できる。
たった一語の差。
でも、そこに人間の自由がある。
「……言葉って怖いね」
ミラが言った。
地下演習室の寝台の上。
もう毛布は薄く肩にかけているだけだ。
顔色もだいぶ戻っている。
ただし、ノルンの許可が出るまでは全力移動禁止。
本人は不満そうだが、甘いものは許されている。
つまり、まあまあ機嫌はいい。
「一時預託と試す、でそんなに違うんだ」
「違う」
俺は答えた。
「一時預託は、相手に管理権を渡す言葉だ。試すは、自分が主導権を持つ言葉」
「なるほど」
ミラは小さな焼き菓子を指でつまむ。
「じゃあ、私は“食べすぎ”じゃなくて“糖分補給試験”って言えばいい?」
「それは違う」
「何で?」
「都合がよすぎる」
「言葉って難しいね」
本当に難しい。
だが、今の軽口は少し助かった。
言葉を間違えれば、人は縛られる。
けれど、言葉を選べば、少しだけ自由になれる。
この戦いは、そういう戦いでもある。
ヴァイスは机の上で第二栞を調整していた。
青白い光が、薄い金属片の表面を走っている。
隣には反転板。
その横には、カサンドラ副院長の規定羊皮紙。
ノルンの発話保護符。
リュミエルの精神保護用の小さな結晶。
かなり厳重だ。
栞一本にここまでやるのか、という感じもする。
でも、人間を栞にしないためなら、やりすぎくらいでいい。
「調整は?」
フィン先生が聞く。
黒茶を片手に。
朝から黒茶。
昼でも黒茶。
夜でも黒茶。
この人の体内は、たぶん黒茶で循環している。
「部分保持用の制御は組めた」
ヴァイスが言う。
「ただし、難しい」
「何が?」
「第二栞は本来、危険本文の位置を固定する道具だ。固定することに向いている。部分的に受けて、すぐ戻すという使い方は想定されていない」
「つまり、不器用な道具を繊細に使う感じか」
「貴様にしては理解が早い」
「褒めてる?」
「半分だけ」
最近、半分褒めが増えている。
上出来だ。
「保持時間は?」
リュミエルが聞いた。
「初回は十秒」
短い。
「十秒で何ができる?」
セリアが眉をひそめる。
「何もしない」
ヴァイスが答えた。
「今回の目的は、第二栞が栞の子の位置保持を一部受けられるか確認することだ。長く保持する必要はない」
「試すだけ」
ノルンが言った。
「はい。試すだけです」
その言葉に、全員が少し静かになる。
試すだけ。
それは甘く聞こえる。
でも、今回はとても大事だ。
いきなり全部を動かさない。
いきなり帰還させない。
いきなり役割を降ろさない。
少しだけ試す。
やめられる範囲で。
戻せる範囲で。
「栞の子への確認文を作る」
俺は言った。
「また表?」
ミラが聞く。
「今回は試験条件の確認書だな」
「異世界なのに書類が増えてる」
「神殿と黒鐘廊が書類みたいな呪いを使うからな」
「じゃあ書類で殴り返すしかないね」
「そういうこと」
地味だ。
だが、地味は強い。
俺は注釈枠を展開する。
【部分保持試験・確認事項】
――これは預託ではない。
――これは譲渡ではない。
――これは役割の移転ではない。
――これは栞の子本人が、止めている位置の一部を第二栞に短時間だけ試させるための確認である。
――試験時間は十秒。
――栞の子は、いつでも中止を選べる。
――中止の発話、沈黙、拒否反応はいずれも有効とする。
――第二栞は、栞の子を置き換えてはならない。
――第二栞は、栞の子の意思確認のための補助具である。
――試験後、状態を本人に確認する。
書いてから、リュミエルを見る。
「どう?」
「“沈黙”を有効にしたのは良い」
「声が出ない可能性があるからな」
「もう一つ足して」
「何を?」
「“泣いても中断理由にしない”」
俺は少し黙った。
ミラも、ノルンも、セリアも、少しだけ表情を変えた。
泣いたら即中断。
それは一見、優しい。
でも、泣くこと自体を危険反応にしてしまう。
泣いたら試せない。
泣いたら選べない。
泣いたら保護されすぎる。
それもまた、本人の自由を狭める。
「入れる」
俺は頷いた。
――涙、恐怖、迷いは、それだけをもって試験中断理由としない。
――ただし、本人が中断を望む場合は即時中断する。
リュミエルが頷いた。
「よし」
ミラが小さく言う。
「それ、いいね」
「経験者?」
「うん。泣いてるからって、全部止められると、それはそれできつい時ある」
重い。
でも、大事だ。
ノルンも頷いた。
「発話保護にも入れます。泣いていても、声が出なくても、意思が消えたと決めつけないように」
「頼む」
カサンドラ副院長が羊皮紙へ規定を重ねる。
「学園保護規定としても記録します。涙、恐怖、迷いをもって判断能力の喪失とは見なさない。ただし、本人による中断希望は最優先」
頼もしい。
これで、栞の子は泣いてもいい。
迷ってもいい。
怖がってもいい。
その上で、試せる。
「では、旧記録保管庫へ移動する」
フィン先生が言った。
「今回は誰が行く?」
俺が聞くと、先生は即答した。
「アキト、リュミエル、ノルン、ヴァイス、カサンドラ。護衛にトーヤ。ミラは待機」
ミラが口を開きかける。
セリアが先に言った。
「待機」
ミラは口を閉じた。
「……はい」
偉い。
本当に偉い。
「言う前に止められた」
「顔に出てたわよ」
セリアが言う。
ミラが俺を見る。
「アキトくん、顔に出る仲間だね」
「嬉しくない仲間だな」
でも、仲間ではある。
出発前、ミラは俺に小さな包みを渡した。
「これ」
「何?」
「甘いもの」
「今?」
「栞の子に渡すわけじゃないよ。アキトくん用」
「俺用?」
「疲れると判断雑になるでしょ」
「否定できない」
「だから、終わったら食べな」
包みは小さい。
中には、焼き菓子が一つ入っているらしい。
俺はそれを受け取った。
「ありがとう」
「帰還者特製」
「作ったの?」
「買った」
「特製とは」
「選んだ」
「なるほど」
少し笑った。
こういうものがあるだけで、帰る理由が増える。
旧記録保管庫へ向かう。
昨日より足取りは重くない。
ただ、油断はできない。
第二栞の部分保持試験。
十秒。
その十秒で、栞の子の状態がどう変わるか分からない。
痛みが出るかもしれない。
第二幕本文が揺れるかもしれない。
黒鐘廊が割り込むかもしれない。
でも、やる。
本人が望んだから。
「アキト」
リュミエルが横から言う。
「今日は、試験するだけ」
「分かってる」
「結果を急がない」
「分かってる」
「本当に?」
「本当」
「泣いても、怖がっても、助けると言わない」
「言わない」
「中止希望が出たら?」
「即中断」
「沈黙したら?」
「事前に決めた時間までは保持。ただし、異常反応が出たら中断」
「よろしい」
完全に試験前チェックだった。
でも、助かる。
自分だけだと、どこかで熱くなる。
旧記録保管庫に到着する。
冷たい空気。
古い紙の匂い。
昨日と同じ場所。
保管室前に、紙片はない。
まだ反応していない。
ヴァイスが反転板を設置する。
ノルンが発話保護符を四隅へ置く。
カサンドラ副院長が保護規定を展開する。
トーヤが入口を守る。
リュミエルが精神保護を広げる。
俺は第二栞の保護ケースを見た。
カサンドラ副院長が慎重に開く。
青い光。
薄い金属片。
人間ではない栞。
「始めます」
ノルンが言った。
発話保護が広がる。
紙片が、昨日と同じ場所に現れる。
【発話経路、一時開放可能】
条件が浮かぶ。
――第二栞、準備。
――発話保護、展開。
――本名質問禁止。
――誘導発話禁止。
――部分保持試験、本人確認必須。
――発話時間、九十秒。
少し伸びた。
経路が安定している。
ノルンが息を整える。
「声を守ります」
発話経路が開く。
紙の隙間から、細い声が届く。
「……聞こえます」
昨日より、少しだけ近い。
俺は言った。
「部分保持試験の確認事項を届けます」
返事はない。
でも、発話経路は開いている。
俺は確認事項を、声に出さず、管理情報として紙片に乗せる。
栞の子へ届く。
数秒。
沈黙。
それから、声。
「読みません。外側だけ見ます」
胸が締めつけられる。
この子は本当に、ずっとそうやって自分を守ってきたのだろう。
「確認しました」
栞の子が言った。
「これは、預けるのではありません」
「はい」
ノルンが優しく答える。
「試すだけです」
「中止できますか」
「できます」
ノルンの声は震えなかった。
「声が出なくても?」
「事前に決めた中止反応を使えます」
ヴァイスが反転板を操作する。
「第二栞に中止反応を登録した。強い揺れを二回送れば中断する」
「二回」
栞の子が繰り返す。
「はい」
「分かりました」
沈黙。
俺は言いたいことを飲み込む。
大丈夫だ。
怖くない。
俺たちがいる。
全部言いたい。
でも、言わない。
今必要なのは励ましではない。
選べる条件だ。
栞の子が言った。
「試します」
空気が変わった。
第二栞が青く光る。
ヴァイスが短く言う。
「接続開始。保持率、一割」
一割。
栞の子が止めている位置の、ごく一部。
第二栞が受ける。
保管室の奥から、低い音がした。
本が閉じるような音。
「三秒」
ヴァイスが言う。
ノルンの発話保護が強まる。
「声、届いています」
栞の子の呼吸が聞こえる。
震えている。
でも、声は消えていない。
「五秒」
リュミエルの精神保護が安定する。
トーヤが入口で盾を構える。
外側の空気が少し重くなる。
第二幕本文が動こうとしているのか。
だが、第二栞が止めている。
「七秒」
栞の子の声がした。
「……軽い」
その一言で、胸が痛くなった。
軽い。
そう感じるほど、今まで重かったのか。
ノルンの目に涙が浮かぶ。
でも、保護は揺れない。
「九秒」
ヴァイスの声が鋭くなる。
「十秒。終了」
第二栞の光がゆっくり弱まる。
保持が解除される。
保管室の奥の音も止まる。
発話経路はまだ開いている。
「状態確認」
カサンドラ副院長が静かに言う。
「栞の子。今、話せますか」
沈黙。
五秒。
十秒。
俺の胸が締めつけられる。
だが、急かさない。
やがて、声が届いた。
「話せます」
ノルンが小さく息を吐く。
「痛みはありますか」
「あります」
全員が少し身構える。
「でも、いつもの痛みと違います」
「どう違いますか」
「戻ってきた痛みです」
意味が一瞬分からなかった。
栞の子は続ける。
「止めている間、痛いことにも慣れていました」
声が震える。
「今、少し軽くなって、痛かったことを思い出しました」
誰も言葉を発せなかった。
痛みに慣れていた。
それは、痛くないという意味ではない。
感じないようにしていただけ。
十秒だけ軽くなって、痛みを思い出した。
「中止したいですか」
ノルンが聞く。
栞の子は少し黙った。
「今日は、終わりたいです」
「分かりました」
ノルンは即答した。
「今日は終わります」
発話経路が少し揺れる。
栞の子が言った。
「でも」
全員が耳を澄ます。
「また、試したいです」
その声は、怖がっていた。
でも、確かに本人の声だった。
「今度は、もう少しだけ」
俺は奥歯を噛む。
言葉が出そうになる。
よかった。
頑張った。
次もやろう。
全部飲み込む。
代わりに、事実だけを返す。
「今日の試験は十秒。第二栞の部分保持は成功。あなたの中止希望に従って終了します」
少し間を置いて、続ける。
「次回の希望は、記録しました」
栞の子の声が、小さく返る。
「はい」
「今日は、ここまでです」
ノルンが優しく言った。
「声を閉じます。あなたの声は、消えていません」
沈黙。
それから。
「……ありがとう」
発話経路が閉じた。
紙片の光が消える。
旧記録保管庫に、静寂が戻る。
誰もすぐには動かなかった。
十秒。
たった十秒。
でも、その十秒で、栞の子は軽さを知った。
痛みを思い出した。
今日は終わりたいと言えた。
また試したいと言えた。
大きい。
これは、大きい。
「状態通知」
ヴァイスが反転板を見る。
紙片に文字が浮かぶ。
――部分保持試験、成功。
――保持率一割、十秒。
――本人希望により終了。
――次回希望:延長試験。
――状態:選択肢確認継続。
よし。
帰還でも残留でもない。
選択肢確認継続。
今は、それで十分だ。
ノルンがその場に座り込みそうになる。
俺が支えようとするより早く、リュミエルが支えた。
「大丈夫?」
「はい……少し、力が抜けました」
「よく守った」
リュミエルが言うと、ノルンは泣きそうな顔で頷いた。
「声、消えませんでした」
「うん」
俺は言った。
「ノルンのおかげだ」
ノルンの目から涙が落ちた。
「よかった……」
ヴァイスは第二栞を確認している。
「栞の損耗は軽微。次回、保持率を二割に上げることは可能だ」
「すぐやる?」
俺が聞くと、全員が俺を見た。
「いや、言ってみただけ」
リュミエルが目を細める。
「今日はここまで」
「分かってる」
「本当に?」
「本当」
ミラが通信石越しに言う。
『アキトくん、今のは危なかったね』
「聞こえてたのか」
『聞いてた。すぐやる?は駄目でしょ』
「反省してます」
『よろしい』
監督が増えた。
でも、今回ばかりは俺が悪い。
栞の子がまた試したいと言ったからといって、すぐ次へ進むのは違う。
本人が今日は終わりたいと言った。
なら、終わる。
これが最優先だ。
カサンドラ副院長が第二栞を保護ケースに戻す。
「本日の試験結果を記録します。部分保持成功。ただし、本人希望により終了。次回希望あり。次回実施日は未定」
未定。
いい言葉だ。
今はそのくらいでいい。
俺たちは旧記録保管庫を出た。
外の廊下に出ると、空気が少し温かい。
さっきまでいた場所が冷たすぎたのだろう。
俺は、ミラからもらった焼き菓子の包みを思い出した。
終わったら食べな。
そう言われていた。
ポケットから取り出す。
小さな焼き菓子。
少し割れている。
俺は一口食べた。
甘い。
思ったより甘い。
でも、悪くない。
「どう?」
通信石からミラの声が聞こえる。
見てたのか。
「甘い」
『高いやつ?』
「たぶん」
『よし』
「何がよしなんだ」
『帰ってくる理由、回収完了』
なるほど。
そういうことか。
俺は少し笑った。
確かに、帰ってきた。
栞の子も、いつか何かを食べられるだろうか。
甘いものじゃなくてもいい。
温かいスープでも。
水でも。
普通のパンでも。
ページの隙間ではなく、外側で。
そんな日が来るかは、まだ分からない。
でも、今日。
十秒だけ。
あの子は、自分が軽くなれることを知った。
痛かったことを思い出した。
終わりたいと言えた。
また試したいと言えた。
それは、たぶん。
帰るより前に必要な一歩だった。
俺は焼き菓子の残りを食べる。
甘さが、喉の奥に残る。
第二栞は、人間ではない栞として機能した。
栞の子は、少しだけ自分を取り戻した。
そして俺は。
すぐ次へ進みたがる自分を、また一つ止めた。
地味だ。
遅い。
でも。
この遅さこそが、人間を道具にしないための速度なのだと思った。




