第80話 泣いている栞
その夜。
俺は、なかなか眠れなかった。
理由は分かっている。
栞の子。
ページの隙間で、今も第二幕本文を止めている誰か。
名前を消され。
役割を上書きされ。
本文と外側の間に固定され。
それでも、あの子は言った。
――まだ、止めたい。
――でも、止める以外を、選べるか知りたい。
俺たちは選択肢確認表を届けた。
残留継続・負荷軽減。
一時預託・発話拡張。
帰還。
保留。
別案提示。
そのどれも、今すぐ選ばなくていい。
そう伝えた。
そして返ってきたのは、答えではなかった。
――栞の子、泣いています。
それだけ。
それだけで、胸の奥が落ち着かない。
泣いているなら、助けたい。
そう思う。
だが、今すぐ走り出したら駄目だ。
泣いている人間に、こちらの正解を押しつけるな。
それは、今まで何度も学んだ。
学んだはずだ。
なのに。
身体は動きたがる。
心は答えを出したがる。
「……面倒くさいな」
自分に言った。
人間は、本当に面倒くさい。
助けたい気持ちも本物。
待つべき理由も本物。
焦りも本物。
恐怖も本物。
本物同士がぶつかると、何が正しいか分からなくなる。
神の台本なら、きっと簡単だ。
ここで主人公が立ち上がる。
仲間が止める。
それでも行く。
奇跡を起こす。
分かりやすい。
美しい。
でも、たぶん違う。
俺たちが守ろうとしているのは、奇跡ではない。
選択肢だ。
俺はベッドから起き上がった。
水を飲む。
リュミエルに言われたからではない。
自分で必要だと思ったからだ。
……いや、少しだけリュミエルのメモが効いている。
机の上には、昨日の紙がまだ置かれていた。
――起きたら水を飲むこと。
――勝手に旧記録保管庫へ行かないこと。
――本当に。
最後の一行の圧が強い。
俺は苦笑した。
「行かないよ」
誰もいない部屋で呟く。
本当に行かない。
今日は。
いや、今夜は。
そう言い切るのが大事だ。
俺はもう一度横になった。
目を閉じる。
今度は、少しだけ眠れた。
夢を見た。
本棚が並んでいる。
どこまでも続く本棚。
本の背表紙には、名前がない。
ただ、役割だけが書かれている。
勇者。
器。
盾。
炎。
影。
裏方。
観測者。
編集者。
その中に、一冊だけ、背表紙に何も書かれていない本があった。
白い本。
開こうとすると、どこからか声がした。
「まだ」
俺は手を止める。
「まだ、開けないで」
栞の子の声ではない。
ナツキの声でもない。
たぶん、帰還記述の声。
俺は本を開かなかった。
代わりに、そこへ栞を挟んだ。
人間ではない栞。
薄い金属の栞。
本が、少しだけ震える。
すると、背表紙に小さな文字が浮かんだ。
――未定。
俺は、その文字を見て安心した。
未定。
まだ決まっていない。
まだ、誰かが勝手に書いていない。
それだけで、救われることもある。
目が覚めると、朝だった。
今度は本当に朝。
窓から光が入っている。
学園の中庭が、薄く金色に染まっていた。
俺はしばらく、その光を見ていた。
夕暮れ色ではない。
朝の光。
始まりの色。
第三幕の側道とは少し違う。
でも、悪くなかった。
特異職科地下演習室に向かうと、すでに何人か集まっていた。
フィン先生。
カサンドラ副院長。
リュミエル。
ヴァイス。
ノルン。
トーヤは入口に立っている。
セリアは椅子に座って炎をいじっていた。
ミラは毛布つきで参加している。
「おはよ、アキトくん」
「おはよう」
「水飲んだ?」
「飲んだ」
「勝手に旧記録保管庫行った?」
「行ってない」
「本当に?」
「本当」
ミラは満足そうに頷く。
「よし」
「お前まで監督側に回るな」
「帰還者特権」
便利だな、それ。
リュミエルが俺を見る。
「眠れた?」
「少し」
「夢は?」
「本棚の夢を見た」
「危険そう?」
「たぶん大丈夫。開けるなって言われて、開けなかった」
リュミエルの目が少しだけ柔らかくなる。
「よろしい」
朝から判定が下った。
悪くない。
フィン先生が黒茶を置く。
相変わらず黒い。
朝からそれを飲むのか。
もはや尊敬に近い。
「今日の目的を確認する」
先生の声で、空気が締まった。
「栞の子への二度目の接触だ」
ノルンが少し緊張した顔になる。
「発話経路を、また開くんですか?」
「必要ならな。ただし、昨日とは違う。今日は返答を受ける可能性がある」
ミラが毛布を握る。
「選ぶかもしれないってこと?」
「選ばないかもしれない」
リュミエルが言った。
「それも含めて確認する」
そうだ。
今日は、選ばせる日ではない。
選べるかどうかを聞く日。
栞の子が、昨日届けた選択肢をどう受け取ったのか。
それを確認する。
「第二栞は?」
ヴァイスが保護ケースを机に置いた。
「仮修復済み。状態は安定している。ただし、長時間の本文停止には耐えない」
「どれくらい?」
「最大で百八十秒」
三分。
また三分か。
この世界、三分制限が好きすぎる。
「三分あれば、本人意思確認には足りる」
カサンドラ副院長が言う。
「ただし、説得には使いません」
「説得禁止」
俺は言った。
「説得ではなく確認」
「その通りです」
説得と確認。
似ているようで違う。
説得は、相手をどこかへ動かそうとする。
確認は、相手がどこにいるのか聞く。
今日は確認だけ。
「質問は何にする?」
セリアが聞いた。
「昨日の選択肢確認表、届いたんでしょ? なら、何を選ぶか聞くの?」
「それは強い」
リュミエルが首を横に振る。
「“今、答えられますか”から入るべき」
ノルンが頷く。
「はい。声を出せる状態かどうか、まず確認したいです」
ミラが手を挙げる。
「あと、泣いたことを責めない感じにした方がいい」
「責めるやつはいないだろ」
俺が言うと、ミラは首を振った。
「違う違う。泣いたって記録されるとさ、それだけで恥ずかしいことあるじゃん」
ああ。
そういうことか。
「泣いていたことには触れない」
ミラは言った。
「向こうが言わない限り」
重い助言だった。
ミラ自身も、帰還後に泣いた。
トーヤの一言で。
あれを誰かに記録され、突きつけられたら嫌だろう。
「分かった」
俺は頷く。
「泣いていることには触れない」
「うん」
「質問は三つまで」
フィン先生が言った。
「最初は、今話せるか。次に、選択肢確認表を受け取ったか。最後に、今選びたいことがあるか。それ以上は聞くな」
「帰りたいか、は?」
ノルンが聞く。
「聞かない」
フィン先生は即答した。
「それは選択肢の一つにすぎない。こちらから最初に出せば誘導になる」
なるほど。
帰りたいか。
その言葉は優しい。
でも、今の栞の子には強すぎる。
「今選びたいことがあるか」
俺は繰り返す。
「これなら、保留も別案も含められる」
「そうだ」
カサンドラ副院長が羊皮紙を開く。
「本人意思確認に際し、以下の発話を禁止します」
また規定が始まった。
頼もしい。
「本名質問。帰還誘導。残留誘導。役割称賛による自己犠牲誘導。急かし。感情的な救出宣言。本人を鍵、栞、道具として扱う発話」
刺さる。
感情的な救出宣言。
俺対策だ。
完全に。
リュミエルがちらりと俺を見る。
「重要」
「分かってる」
「本当に?」
「本当」
今日は何回目だ。
でも、必要だ。
「では、旧記録保管庫へ移動する」
フィン先生が言う。
「ただし、今回は少人数だ」
参加者は、俺、リュミエル、ノルン、ヴァイス、カサンドラ副院長。
第二栞を持つために副院長。
発話保護のためにノルン。
反転板のためにヴァイス。
精神保護のためにリュミエル。
そして、問いを届ける俺。
ミラは留守番。
当然、不満そうだった。
「私も聞きたい」
「聞くだけでも負担になる」
ノルンが優しく言う。
「昨日の発話経路は、ミラさんの残響にも反応していました」
「そうなの?」
「はい。微かにですが」
ミラは毛布を握った。
少し迷っている顔。
それから、小さく頷いた。
「じゃあ、待つ」
「助かる」
俺が言うと、ミラは少し笑った。
「待つのも、斥候の仕事ってことにしとく」
「そうだな」
「帰ってきたら教えて」
「必ず」
「本当に?」
「本当」
ミラは満足そうに頷いた。
「よし」
俺たちは旧記録保管庫へ向かった。
朝の廊下は、昨日より明るい。
生徒たちの声も聞こえる。
普通の朝。
その中を、俺たちは静かに歩く。
誰も知らない。
俺たちがこれから、ページの隙間にいる誰かの声を聞きに行くことを。
旧記録保管庫に入ると、空気が一気に冷えた。
昨日と同じ匂い。
古い紙。
封印。
乾いた時間。
カサンドラ副院長が保管室の前で立ち止まる。
「ここで行います」
「保管室の中?」
「いいえ。扉の外です」
「なぜ?」
「昨日の紙片は保管庫の奥から現れました。こちらが奥へ入りすぎると、栞の子の位置に近づきすぎます。今日は発話経路だけを開くため、扉の外で十分です」
確かに。
近づきすぎない。
大事だ。
ヴァイスが反転板を設置する。
ノルンが四隅に発話保護符を貼る。
リュミエルが精神保護を薄く張る。
カサンドラ副院長は第二栞の保護ケースを中央に置いた。
まだ開けない。
ケース越しに、薄い青い光が揺れる。
「アキト」
リュミエルが言う。
「目的は?」
「本人意思確認」
「何をしない?」
「本名を聞かない。帰還を誘導しない。残留を固定しない。助けると宣言しない。返答を急かさない」
「よろしい」
ノルンが深呼吸する。
「発話保護、始めます」
淡い光が広がった。
ヴァイスが反転板を起動する。
「発話経路、探索」
空気が震える。
昨日の紙片が落ちた場所に、淡い光が浮かんだ。
そこに、また紙片が現れる。
同じような古い紙。
ただし、昨日より少し薄い。
【発話経路、一時開放可能】
「条件は?」
俺が聞く。
紙片に文字が浮かぶ。
――第二栞、待機。
――発話保護、展開。
――本名質問禁止。
――誘導発話禁止。
――発話時間、六十秒。
「昨日より長い」
ノルンが呟く。
「選択肢確認表が届いたからかもしれない」
ヴァイスが言う。
「経路が少し安定している」
六十秒。
短い。
でも、昨日の倍だ。
「始めます」
カサンドラ副院長が規定を読み上げる。
「これは本人意思確認であり、選択強制ではありません。栞の子は、答える、答えない、保留する、別案を示す、いずれも可能です」
紙片が淡く光る。
ノルンが手を伸ばす。
「声を守ります」
発話経路が開いた。
遠くから、紙が擦れるような音。
そして、声。
「……また、聞こえますか」
俺は返事をしそうになって、止まる。
最初の質問。
「今、話せますか」
沈黙。
五秒。
十秒。
声が返る。
「少しだけ」
ノルンが小さく頷く。
発話保護が安定する。
二つ目。
「昨日の選択肢確認表は、届きましたか」
「届きました」
声は掠れている。
でも、昨日より少しだけ近い。
「読みましたか?」
言ってから、しまったと思った。
読む。
この言葉は危ない。
リュミエルの手が俺の腕を掴む。
だが、栞の子は静かに答えた。
「読みませんでした」
俺は息を止める。
「外側だけ、見ました」
胸が熱くなる。
そうか。
そうだよな。
栞の子は、読ませないための子だ。
外側を見ることを、知っている。
「外側だけで、十分でした」
ノルンの目が潤む。
ヴァイスもわずかに目を細める。
三つ目。
最後の質問。
「今、選びたいことはありますか」
長い沈黙。
残り時間は少ない。
でも、急かさない。
息を止める。
二十秒。
三十秒。
声がした。
「……選びたいことは、まだありません」
それは、保留に近い。
だが、声は続いた。
「でも、知りたいことがあります」
俺は返事をしない。
聞き返さない。
でも、発話保護が少しだけ道を開ける。
栞の子は言った。
「止める以外を選んでも、私が止めてきたものは、無駄になりませんか」
胸が痛んだ。
それか。
そこなのか。
自分が止め続けた時間。
自分が犠牲にしたもの。
自分が守ったもの。
もし降りたら、それは無駄になるのか。
そう思っている。
俺は答えたかった。
無駄じゃない。
絶対に無駄じゃない。
でも、これは質問か。
それとも、発話か。
答えていいのか。
リュミエルが小さく言う。
「事実だけ」
そうだ。
慰めではなく、事実。
俺は慎重に言った。
「あなたが止めたことで、篠原夏希関連記録は舞台袖へ退避しました」
栞の子の息が止まる気配。
「第二幕本文の流出も、一時停止しました」
俺は続ける。
「それは、記録として残っています」
感情ではない。
事実。
「無駄だったとは、記録されていません」
沈黙。
発話経路が震える。
時間が迫る。
栞の子の声が、少しだけ揺れた。
「……よかった」
それだけ。
その一言で、ノルンが涙をこぼした。
俺も危なかった。
だが、まだ続きがあった。
「今日は、まだ選びません」
はっきりした声だった。
「でも、次に聞く時は、第二栞を近くに置いてください」
カサンドラ副院長が目を細める。
「第二栞を?」
栞の子は言った。
「選ぶ前に、私が止めている場所を、少しだけ預けてみたい」
発話経路が大きく揺れる。
「全部ではなく、少しだけ」
「一時預託?」
俺は思わず呟く。
栞の子はすぐに言った。
「預託ではありません」
強い否定。
「試します」
そこで、経路が閉じた。
紙片の光が消える。
旧記録保管庫が静かになる。
試します。
預託ではなく、試す。
言葉が違う。
大事な違いだ。
黒鐘廊は、役割を降りる権利を一時預託と呼んだ。
綺麗な言葉で奪った。
だから、栞の子はその言葉を拒否した。
預けるのではなく、試す。
自分でやめられる形で。
自分で戻せる形で。
「……すごいな」
俺は呟いた。
「栞の子、自分で言葉を選んでる」
リュミエルが頷く。
「かなり重要」
ヴァイスも反転板を見る。
「状態更新」
紙片に管理通知が浮かぶ。
――本人意思確認、第二段階成立。
――現在状態:保留継続。
――次回希望:第二栞による部分保持試験。
部分保持試験。
なんとも地味な言葉。
でも、最高だ。
帰るでもない。
残るでもない。
全部預けるでもない。
少しだけ試す。
「これなら、できるかもしれない」
ノルンが涙を拭きながら言う。
「少しだけなら、声も守れます」
カサンドラ副院長が規定を記録する。
「部分保持試験。本人希望に基づく。預託ではなく試験。いつでも中断可能。本人意思を上書きしない」
ヴァイスが頷く。
「第二栞の調整が必要だ。全部引き受ける設計ではなく、負荷の一部だけを受けるようにする」
「できるか?」
「できるかどうかではない」
「やる、か」
「そうだ」
いつもの返し。
だが、今日は少し頼もしく聞こえた。
リュミエルが俺を見る。
「アキト」
「何だ?」
「今、助けたいと言わなかった」
「言いそうにはなった」
「でも言わなかった」
「うん」
「よろしい」
少しだけ褒められた気がした。
俺は深く息を吐く。
まだ道は長い。
栞の子はまだページの隙間にいる。
第二幕本文も止まったままではない。
黒鐘廊も、きっと次の手を打ってくる。
でも、今日の一歩は大きい。
栞の子は、自分の言葉で言った。
今日は選ばない。
でも、次は少しだけ試したい。
それは、誰かに書かれた台詞ではない。
本人の選択に近づくための、本人の言葉だ。
俺たちは旧記録保管庫を出た。
朝の光は、もう少し強くなっていた。
廊下に出ると、ミラが通信石越しにすぐ聞いてきた。
『どうだった?』
俺は答えた。
「今日は選ばないって」
『そっか』
「でも、次に第二栞で少しだけ試したいって言った」
通信石の向こうで、ミラが小さく笑った。
『いいじゃん。いきなり走らないの、えらい』
「誰が?」
『栞の子も、アキトくんも』
「俺もか」
『うん。今日はえらい』
素直に褒められると、ちょっと困る。
でも、悪くない。
「ありがとう」
『おお、素直』
「今日は成長日らしいからな」
通信石の向こうで、ミラが笑った。
その笑い声を聞きながら、俺は窓の外を見た。
空は晴れていた。
雲がゆっくり流れている。
止め続けること。
少しだけ試すこと。
今は選ばないこと。
それらは全部、物語の進行から見れば遅い。
でも、人間が自分の足で戻るには。
きっと、それくらいの遅さが必要なのだ。
俺は静かに息を吐いた。
次は、第二栞の部分保持試験。
栞の子が、止める以外を知るための最初の一歩。
地味で、遅くて、危なっかしい。
でも。
俺たちらしい一歩だった。




