第76話 呼ばない自由
帰還記述保管者の本名は、すぐそこにある。
開けようと思えば、開けられる。
呼ぼうと思えば、呼べる。
たぶん、それは強力な鍵になる。
黒鐘廊の空席。
第三幕。
ナツキ・シノハラ。
栞の子。
旧地下聖堂の第二幕通路。
絡まった糸の中心に、その名前がある。
だが。
俺たちは、呼ばなかった。
地下演習室には、静かな時間が流れている。
珍しい。
本当に珍しい。
誰かが倒れかけているわけでもない。
黒い鐘が鳴っているわけでもない。
壁に不穏な日本語が浮かんでいるわけでもない。
いや、帰還空欄は机の上で淡く光っている。
十分不穏か。
感覚が麻痺してきた。
「……呼べるけど、呼ばない」
ミラが毛布にくるまりながら呟いた。
「なんか、すごい贅沢だね」
「贅沢?」
俺は聞き返す。
「だってさ、今まではずっと逆だったじゃん」
ミラは焼き菓子の最後の欠片を見つめている。
食べるか残すか迷っている顔だ。
世界の命運より、菓子の欠片。
いいぞ。
そのくらいでいい。
「呼ばれる。読まされる。選ばされる。舞台に上げられる。そういうのばっかだった」
「……ああ」
「でも今回は、呼べるのに呼ばない。開けられるのに開けない」
ミラは少し笑った。
「それって、けっこう強くない?」
強い。
たぶん、かなり強い。
選ばないこと。
保留すること。
呼ばないこと。
神の台本が嫌う余白。
それを、俺たちは手にした。
「ミラ」
リュミエルが静かに言った。
「あなたの保留が、それを可能にした」
ミラは一瞬、目を丸くした。
「私?」
「そう」
「いやいや、私はただ、今は無理って言っただけだよ」
「それが重要だった」
リュミエルは淡々と言う。
「帰還直後のあなたが、本名開示を承認しないと自分で決めた。その保留を続けた。それが第三幕側の条件だった」
「……なんか、私すごくない?」
「すごい」
リュミエルが即答した。
ミラが固まった。
褒められる準備ができていなかった顔だ。
「え、待って。そこはちょっと茶化してくれない?」
「茶化さない」
「照れるじゃん」
「照れていい」
「強いなあ……」
ミラは毛布に顔を半分埋めた。
尻尾が少しだけ動いている。
元気が戻ってきたらしい。
トーヤがその横で、静かに頷く。
「ミラはすごい」
「盾まで追撃してくる」
「事実だ」
「そういうところだよ……」
ミラは困ったように笑った。
セリアが腕を組みながら、ふんと鼻を鳴らす。
「まあ、今回は認めてあげる」
「セリアちゃんも素直じゃないねえ」
「燃やすわよ」
「照らす方でお願いします」
「調子戻ってきたわね」
ノルンがほっとしたように微笑む。
「よかったです」
「ノルンちゃんもありがとね。声、届いてた」
ミラが言うと、ノルンの目が潤んだ。
「本当ですか?」
「うん。暗いところで、声が細く聞こえた。帰りたいって言った時も、たぶんノルンちゃんの保護がなかったら消えてた」
ノルンは両手を胸の前で握った。
「よかった……」
その声は小さい。
でも、確かに届く。
沈黙した治癒師ではない。
命のために声を守る治癒師。
ノルンもまた、自分の現在記述を生きている。
レオンは壁際で静かに立っていた。
エリオットの証言が終わってから、ずっと考え込んでいる。
勇者候補。
神の剣。
役割を降りる権利。
その言葉が、彼に刺さらないはずがない。
俺は声をかける。
「レオン」
彼は顔を上げた。
「何だ」
「考え込んでる顔してる」
「……お前も人の顔を見るようになったな」
「リュミエルに鍛えられた」
「なるほど」
レオンは少しだけ苦笑した。
珍しい。
「役割を降りる権利について考えていた」
「勇者候補を?」
「ああ」
彼は自分の剣を見る。
鞘に収まったままの剣。
「俺は、勇者候補であることを誇りだと思っていた。神の剣と呼ばれることも、どこかで望んでいた」
逃げない言葉だった。
「だが、その役割の中で、お前を追放した。正しさを疑わなかった」
「今は疑ってる」
「そうだ」
レオンは頷く。
「だから、勇者候補を降りたいのかと聞かれたら、まだ分からない」
「保留でいいんじゃないか」
俺が言うと、レオンは少し驚いた顔をした。
「保留か」
「ああ。今すぐ降りる必要も、続ける必要もない。自分で決められる状態を守る。それが大事なんだろ」
レオンは黙った。
そして、ゆっくり頷いた。
「そうか」
短い。
でも、その声は少し軽くなっていた。
「俺は、勇者候補を保留する」
「いいと思う」
「ただし、剣は抜かずに使う」
「それもいいと思う」
レオンは小さく息を吐いた。
「不思議だな。答えを出していないのに、少し楽になる」
「保留、意外と強いぞ」
「学んだ」
俺たちは顔を見合わせる。
かつて追放した側と、追放された側。
その関係が、完全に消えたわけではない。
罪は消えない。
だが、今は同じ場所に立っている。
それで十分だ。
今は。
ヴァイスは反転板の記録を見直していた。
壊れた道具の破片を横に並べながら、何かをぶつぶつ言っている。
「ヴァイス」
俺が呼ぶと、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「何だ」
「お前も何か考えてる?」
「貴様に話す義務はない」
「じゃあ話さなくていい」
「……そう言われると腹が立つな」
難しいな、こいつ。
ヴァイスは少し黙った後、反転板を机に置いた。
「エリオットの証言について考えていた」
「うん」
「私は、優秀な者が優秀に働くのは当然だと思っていた」
その言葉は、さっきも聞いた。
だが、今度は少し違う。
自分に向けている。
「できる者がやる。能力がある者が処理する。それが合理的だ。魔導科では、それが普通だった」
「今もそう思う?」
「半分は」
正直だ。
「能力がある者が力を出すこと自体は間違っていない。だが、そこに評価と休止の権利がなければ、役割固定に近づく」
評価と休止の権利。
ヴァイスらしい言い方だ。
「エリオットは、便利な裏方として固定されていた」
「そうだな」
「私も、その固定に加担した」
ヴァイスの声は硬い。
逃げていない。
「だから?」
俺は聞く。
「だから、次からは記録に残す」
「何を?」
「誰が何を処理したか。誰の調整で演習が成立したか。誰が裏で支えたか」
ヴァイスは真っ直ぐ言った。
「事実を曲げないために」
おお。
かなりいい。
「それ、エリオットにも伝えた方がいい」
「本人が回復したらな」
「うん」
「貴様に言われるまでもない」
はいはい。
でも、たぶん伝えるだろう。
ヴァイスは素直じゃない。
でも、逃げない方向に変わっている。
エリオットは、寝台の上で目を閉じていた。
証言を終えた後、また眠った。
ただ、顔は少し穏やかになっている。
罪は消えていない。
責任も残っている。
これから調査も処分もある。
でも、証言した。
自分の口で。
それは大きい。
カサンドラ副院長が、エリオットの保護記録を閉じた。
「彼の証言は、学園側の正式な記録として保護します」
「神殿側に渡すんですか?」
俺が聞くと、副院長は微笑んだ。
「渡しません」
即答だった。
強い。
「必要な部分だけ、こちらで要約して提示します」
「また情報整理」
「はい」
「便利ですね」
「便利だから生き残るのです」
この言葉、強い。
本当に。
神殿相手には、綺麗事だけでは勝てない。
記録。
契約。
保護規定。
情報整理。
そういう地味な武器が必要だ。
フィン先生が黒茶を飲む。
「現時点の成果を整理する」
全員の視線が先生へ向く。
「一つ。ミラ・クロウは帰還した。第一帰還者として第三幕側道の存在を確認」
ミラが小さく手を振る。
「第一帰還者でーす」
「寝てろ」
「はい」
フィン先生は続ける。
「二つ。帰還空欄を取得。帰りたいと言える者の選択を保持する外側管理具と推定」
俺は頷く。
「三つ。黒鐘廊管理者権限の空席を凍結。本人の降役権と発話保護なしに着座不可とした」
ヴァイスが反転板に記録を追記する。
「四つ。第二断片の自動再生および直接査読要求を一時停止。代償定義を管理情報として引き出した」
「役割を降りる権利の一時預託」
リュミエルが静かに言う。
「返還条件は役割完遂。実質的な無期限拘束」
「その通りだ」
フィン先生は頷く。
「五つ。エリオット・ベイルの証言により、第二断片本文は読者に合わせて変化することが判明。裏方を降りたいという願いを利用し、観測者候補へ誘導していた」
「六つ」
カサンドラ副院長が続ける。
「帰還記述保管者の本名照合条件が全て達成されました。ただし、開示は任意。今は開かないという判断をしています」
全員が静かに頷く。
今は開かない。
それが、俺たちの現在の選択だ。
「そして七つ」
フィン先生の声が少し低くなる。
「栞の子」
空気が変わる。
甘いものの余韻が、少し遠ざかった。
栞の子。
旧地下聖堂、第二幕通路の奥。
本文と本文の間。
ページの隙間にいる存在。
帰還記述保管者の本名を知る者。
黒鐘廊が、本名を呼ばせるために使おうとしている帰還未完了者。
「次の焦点は、その子だ」
フィン先生は言った。
「ただし、すぐに行かない」
俺が先に言う。
フィン先生が少し目を細めた。
「分かっているならいい」
「助けを求められても、すぐに行かない」
自分に言い聞かせるように言う。
「まず、本人確認。帰還意思確認。黒鐘廊の誘導ではないことの確認」
リュミエルが頷く。
「そして、名前を呼ばせる罠を警戒する」
「そう」
栞の子が本当にいるなら、助けたい。
帰還未完了者なら、帰りたいと言える場所を作りたい。
でも。
その子が帰還記述保管者の本名を知っているからといって、名前を聞き出すために使ってはいけない。
それをやった瞬間、俺たちは黒鐘廊と同じになる。
「栞の子を、本名の鍵として扱わない」
俺は言った。
「人間として扱う」
ミラが寝台の上で頷く。
「それ大事」
「経験者が言うと重いな」
「鍵扱い、気分悪いからね」
軽く言っている。
でも、その言葉は重い。
ミラも一度、第三幕の入口を開く鍵にされかけた。
本人が帰りたいと言えたから戻れた。
だから、栞の子にも同じことをしなければならない。
「栞の子について分かっていることは少ない」
ヴァイスが言う。
「呼称のみ。旧地下聖堂第二幕通路の奥。本文と本文の間。帰還記述保管者の補助。おそらく本名を知る者」
「性別も年齢も不明か」
「不明」
「人間かどうかも?」
ヴァイスは少し黙った。
「不明だ」
人間かどうかも分からない。
だが、呼称は子。
栞の子。
それが本人を指すものなのか、役割名なのか、黒鐘廊が付けた名前なのか。
そこからして不明。
「調査方法は?」
カサンドラ副院長が言った。
「旧地下聖堂に直接行く前に、旧記録保管庫側で栞に関する記録を探します」
「栞って、記録管理の道具としてあるんですか?」
「あります」
副院長は頷く。
「旧記録保管庫では、危険記録の途中位置を保持するために、記録栞という道具が使われていました」
「危険記録の途中位置?」
「読み進めてはいけない記録を、どこまで確認したか外側だけ記録するためのものです」
なるほど。
栞。
読むためではなく、読まないための目印。
今の俺たちに合っている。
「栞の子は、その記録栞に関係している可能性があります」
「道具の名前から付いた呼称か」
「はい」
もしそうなら、栞の子は人名ではない。
役割名でもなく、記録管理上の呼称。
ただし、本人性はまだ不明。
「旧記録保管庫で、記録栞の管理台帳を見る」
フィン先生が言った。
「本名は開かない。第二幕本文も見ない。栞の子に関する外側記録のみを探す」
「また外側」
俺が言うと、ミラが毛布の中から笑った。
「アキトくん、外側マスターになりつつある」
「嬉しくない称号だな」
「外側編集者」
「ちょっとマシか?」
「いや、地味」
地味。
でも、やはり地味は強い。
「今日はそこまでやるんですか?」
ノルンが不安そうに聞く。
フィン先生は首を横に振った。
「今日はやらん」
全員が少し驚いた。
「休む」
フィン先生は短く言った。
「証言は完了した。差し戻しも通った。本名開示は保留。栞の子の調査は次だ」
「先生が休むって言った」
ミラが目を丸くする。
「本当に明日は雪かも」
「寝ろ」
「はい」
フィン先生は俺を見る。
「特にお前だ、アキト」
「俺?」
「お前が一番動きそうだからだ」
「動きません」
「本当に?」
リュミエルと声が重なった。
俺は二人を見た。
「俺、どれだけ信用ないんですか」
「ある」
リュミエルが言う。
「だから確認する」
フィン先生と同じ理屈。
もう反論する気もなくなってきた。
「動かない。今日は調査しない。栞の子にも触れない。本名も開かない」
俺は両手を上げる。
「これでいい?」
「よろしい」
リュミエルが頷く。
「完全に監督者だな」
「必要なら」
必要らしい。
その日は、本当に休むことになった。
地下演習室から一度、それぞれの部屋へ戻る。
ただし、完全解散ではない。
交代で見張り。
通信石の常時接続。
帰還空欄と保護封筒はカサンドラ副院長が管理。
ミラとエリオットは医療棟の保護室へ移送。
ルグランも同じく保護継続。
俺には、リュミエルとトーヤの同行がついた。
護衛という名の監視。
分かっている。
必要だ。
廊下を歩く。
学園はもう昼に近かった。
生徒たちの声が聞こえる。
普通の会話。
授業の話。
昼食の話。
合同演習の噂。
俺たちが黒鐘廊や第二断片とやり合っていたことなど、ほとんどの生徒は知らない。
それでいい。
知らない自由もある。
読まない自由があるなら、知らされない自由もあるのかもしれない。
いや。
また難しいことを考え始めている。
今日は休む。
俺は頭を振った。
「アキト」
リュミエルが言う。
「考えすぎ」
「顔?」
「歩き方」
「歩き方まで?」
「少し右に寄る」
そんな癖あるのか。
怖い。
「休む」
俺は言った。
「今度こそ」
トーヤが短く頷く。
「見ている」
「それ、安心と圧が半分ずつなんだよな」
「そうか」
「まあ、助かる」
自室に戻る。
久しぶりの自室だった。
簡素な机。
ベッド。
本棚。
学園支給の制服。
窓の外に見える中庭。
普通の部屋。
異世界に来てから、普通というものの価値が上がりすぎている。
俺はベッドに座った。
身体が沈む。
リュミエルは扉の近くに立つ。
トーヤは廊下側。
「ここまで見張るの?」
俺が聞くと、リュミエルは当然のように言った。
「寝るまで」
「寝顔まで管理されるのか」
「必要なら」
「必要ないと思いたい」
トーヤが真顔で言う。
「寝言で本文を読み始めたら止める」
「怖いこと言うな」
でも、あり得ないと言い切れない。
俺は靴を脱ぎ、横になる。
リュミエルが部屋の明かりを少し落とした。
「おやすみ」
その声が、妙に優しかった。
「リュミエル」
「何?」
「ありがとう」
彼女は一瞬だけ黙った。
「どういたしまして」
短い返事。
でも、少しだけ温かかった。
目を閉じる。
今度は、すぐに眠れた。
夢は見なかった。
少なくとも、覚えていない。
それがありがたかった。
次に目を覚ました時、窓の外は夕方だった。
かなり寝たらしい。
身体の重さは少し残っているが、頭は昨日より澄んでいる。
部屋には誰もいなかった。
いや。
机の上に、小さな紙が置いてある。
一瞬、嫌な予感がした。
だが、紙は普通の学園用紙だった。
リュミエルの字。
短く書かれていた。
――起きたら水を飲むこと。
――勝手に旧記録保管庫へ行かないこと。
――本当に。
最後の一行に圧がある。
俺は少し笑った。
水を飲む。
そして、紙の裏を見る。
もう一行あった。
――夕食後、栞の子について作戦会議。
なるほど。
休息は終わり。
次は、栞の子。
本名を知る者。
帰還未完了者かもしれない者。
黒鐘廊が利用しようとしている存在。
俺は紙を机に置き、窓の外を見る。
夕方の光が、中庭を淡く染めていた。
夕暮れ色。
第三幕側道の色に似ている。
その光の中で、俺は静かに息を吐く。
呼べる名前を呼ばない自由。
読める本文を読まない自由。
決められることを保留する自由。
そして、次は。
助けを求める声に、すぐ飛びつかない勇気。
難しい。
本当に難しい。
でも、やるしかない。
栞は、本の続きを忘れないために挟むものだ。
なら、栞の子はきっと。
誰かが途中で閉じた物語の、続きを示す存在なのだろう。
ただし。
その続きを読むかどうかは、こちらが決める。
いや。
本人が決める。
俺は立ち上がった。
水をもう一杯飲む。
リュミエルに見つかった時のためではない。
自分で必要だと思ったからだ。
少しだけ、笑う。
こういう小さな選択を、自分で積み重ねる。
たぶん、それが。
神の台本から外れる、最初の一歩なのだと思う。




