第75話 証言を終える者
地下演習室へ戻ると、焼き菓子は本当に少しだけ残っていた。
皿の端に、三つ。
いや。
二つ半。
一つは半分かじられている。
「……ちょっと残してるって言ったよね?」
ミラは毛布にくるまりながら、真顔で言った。
「それは残したとは言わない」
俺は言った。
「残ってるじゃん」
「理屈はそうだけど」
「じゃあ勝ち」
何に勝ったんだ。
たぶん、糖分との戦いだ。
いや、負けている気もする。
セリアがミラの横で腕を組んでいた。
「ノルンが食べすぎるなって言ってたでしょ」
「治癒には糖分が必要」
「それ誰が言ったのよ」
「私」
「根拠が自分!」
ノルンが困ったように笑う。
「えっと……少量なら、気力回復にはいいと思います」
「ほら」
ミラが勝ち誇る。
「少量って言ってたわよ」
セリアが皿を見る。
「これは少量?」
「帰還者基準では少量」
「便利な基準ね」
いい。
このくだらない会話が、今は必要だ。
第二断片。
査読要求。
代償定義。
降役権。
さっきまで俺たちは、そんな言葉と殴り合っていた。
だからこそ。
焼き菓子の残量で揉めるくらいが、ちょうどいい。
人間は、ずっと深刻な顔をしていると壊れる。
たぶん。
俺は椅子に座った。
身体が重い。
派手に倒れるほどではない。
だが、芯に疲れが残っている。
査読要求の差し戻しは成功した。
第二断片の直接査読は一時停止。
代償定義は再提出待機。
そして、第三幕側の通知。
――編集者の降役権、保持。
――第三幕・第一補助条件、達成。
――帰還記述保管者の本名照合に必要な条件、残り二つ。
――第一帰還者の保留継続。
――第二断片閲覧者の証言完了。
つまり、次の焦点はエリオットだ。
第二断片閲覧者。
証言を完了させる必要がある。
ただし、急げば壊れる。
フィン先生は黒茶を置き、エリオットの方を見た。
「ノルン。状態は」
ノルンはエリオットの額に触れた。
「安定しています。発熱は下がりました。黒鐘廊の残響も、さっきより薄いです」
「話せるか」
「短時間なら」
ノルンは少しだけ迷った。
「ただ、今日はかなり負担が大きいと思います」
「なら今日やるべきではない」
リュミエルが言った。
静かな声。
でも、はっきりしていた。
「アキトも消耗している。ミラも帰還直後。エリオットも回復途中。今、証言を急ぐのは、黒鐘廊の急かしに乗るのと同じ」
正論。
強い。
しかも、俺が言うより説得力がある。
「同感だ」
フィン先生が言った。
「証言は明日。いや、正確には休息後だ」
「休息後?」
俺が聞くと、フィン先生は俺を見た。
「お前の時間感覚は狂っている。今は夜明け前だ」
「え」
窓のない地下演習室にいると分からない。
夜明け前。
つまり、俺たちはほぼ徹夜で黒鐘廊とやり合っていたらしい。
そりゃ身体が重いわけだ。
「全員、休め」
フィン先生が言った。
「本格的な証言は昼以降にする」
「でも、第二断片が再提出してきたら?」
俺が聞くと、フィン先生は即答した。
「読むな」
「いや、そうですけど」
「保留だ」
「便利すぎません?」
「便利だから使え」
それはそう。
保留は武器。
今の俺たちには、それがある。
カサンドラ副院長が羊皮紙を開く。
「第二断片からの再提出通知が来た場合、学園保護規定により、休息時間中の受理を拒否します」
「そんなの通るんですか?」
「通します」
強い。
法務の剣豪か。
「理由は?」
「査読者、証言者、第一帰還者の健康状態が不十分。本人意思確認を適切に行えない状況では、いかなる査読、証言、承認も無効です」
完璧だった。
黒鐘廊がどれだけ急かしても、こちらはこう言える。
今は健康状態不十分。
判断能力保護のため保留。
再提出は受付時間外。
受付時間外。
異世界の呪い相手に営業時間で戦うことになるとは思わなかった。
でも、強い。
「じゃあ、寝る?」
ミラが毛布の中から聞いた。
「寝ろ」
全員が言った。
ミラは目を丸くした。
「今日、私の扱いひどくない?」
「帰還者だから大事にされている」
トーヤが真面目に言う。
「これが?」
「そうだ」
「トーヤが言うと、なんか納得しそうになる」
「納得しろ」
「圧がある」
トーヤは本当にミラの横で見張りに入った。
守る相手を選べる盾。
今は、ミラの睡眠を守る盾になっている。
かなり局地的だ。
でも重要だ。
セリアもその横に座る。
「私もここにいる」
「寝ないの?」
ミラが聞く。
「寝るわよ。あなたが動かないか見ながら」
「怖い」
「動いたら分かる」
「怖い」
セリアは毛布を整えた。
動きは乱暴だが、手は優しい。
ミラは少しだけ笑い、目を閉じた。
ノルンが治癒符を調整する。
「ミラさん、しばらく眠ってください」
「甘い夢がいい」
「が、頑張ります」
それはノルンの領域なのか。
ミラは薄く笑ったまま、今度こそ眠りに落ちていった。
早かった。
相当限界だったのだろう。
軽口で隠していたが、身体も心も削れている。
ミラが眠ると、地下演習室の空気が少し静かになった。
今度は、怖い静けさではない。
休むための静けさ。
フィン先生が指示を出す。
「交代で休む。第一番、アキト、リュミエル、ミラ、エリオット、ノルン」
「ノルンも?」
ノルンが驚く。
「お前は働きすぎだ」
「で、でも」
「治癒師が倒れたら終わりだ。休め」
「……はい」
ノルンは小さく頷いた。
かなり疲れている顔だった。
それでも自分を後回しにしようとする。
優しさは強さだ。
だが、限度を超えると自傷になる。
ここも保留が必要なのかもしれない。
助けたい気持ちを、一度保留する。
難しい。
でも、必要だ。
「リュミエル」
俺は声をかけた。
「何?」
「先に休んでいいぞ」
彼女はじっと俺を見た。
「あなたも休むのよ」
「いや、俺は少し整理してから」
「休むのよ」
二回目。
強い。
「メモだけ」
「休むのよ」
三回目。
これはもう命令に近い。
「……はい」
「よろしい」
完全に先生だ。
フィン先生が少しだけ口元を動かした。
笑ったのか?
いや、気のせいかもしれない。
俺は簡易寝台に座った。
その瞬間、身体が重さを思い出した。
眠気が一気に来る。
精神が張っている時は気づかなかったが、かなり限界だったらしい。
リュミエルが隣の椅子に腰掛ける。
寝る気があるのか怪しい。
「お前も休めよ」
「休む」
「目を閉じる気ある?」
「あなたが寝たら」
「見張り?」
「念のため」
「俺、そんな危ない?」
リュミエルは少しだけ間を置いた。
「危ないというより、狙われている」
それはそう。
第二断片の査読対象。
役割を拒んだ編集者。
降役権を保持した者。
今の俺は、黒鐘廊から見れば非常に面倒な存在だろう。
いや、面倒なのはお互い様だ。
「分かった」
俺は横になる。
「十分だけ」
「最低一時間」
「長い」
「短い」
「じゃあ三十分」
「一時間」
「交渉の余地は?」
「ない」
強い。
俺は諦めた。
目を閉じる。
地下演習室の音が遠くなる。
セリアの炎。
ヴァイスが道具を片付ける音。
トーヤの足音。
ノルンの小さな息。
ミラの寝息。
エリオットの浅い呼吸。
現実の音。
それを聞いていると、少しだけ安心する。
だが。
眠りに落ちる直前。
耳元で、声がした。
――編集者は、編集者を降りる権利を保持する。
黒鐘廊ではない。
第二断片でもない。
たぶん、帰還空欄の通知。
俺は、目を閉じたまま呟いた。
「今は降りない」
声は返らない。
「でも、降りられることは覚えておく」
それだけ言って、意識が沈んだ。
夢を見た。
白い空間だった。
何も書かれていない紙のような場所。
そこに、机が一つある。
椅子が一つ。
その椅子には、誰も座っていない。
黒鐘廊の空席ではない。
ただの椅子。
たぶん、俺の椅子だ。
編集者として座る椅子。
いつか、降りてもいい椅子。
机の上には、原稿が置かれている。
開かれていない。
白紙でもない。
黒い本文でもない。
閉じた原稿。
表紙には、一行だけ書かれていた。
――読むかどうかは、あなたが決めていい。
俺は、その原稿を見た。
手を伸ばさなかった。
開かなかった。
ただ、机の横に立っていた。
それだけで、夢の中の白い空間が少し穏やかになる。
遠くから、誰かの声がした。
「それでいい」
ナツキの声に似ていた。
でも、本人ではない。
帰還記述の声。
俺は聞いた。
「君は帰りたいのか?」
答えはない。
白い空間に、風が吹く。
ページが一枚だけめくれる。
そこには何も書かれていなかった。
空欄。
その空欄を見て、俺は少しだけ安心した。
まだ書かれていない。
まだ決まっていない。
なら、まだ間に合う。
目が覚めた時、地下演習室の空気は少し明るくなっていた。
夜明けが近いのかもしれない。
俺はゆっくり起き上がる。
身体はまだ重い。
でも、さっきよりはましだ。
隣で、リュミエルが椅子に座ったまま目を閉じていた。
眠っている。
珍しい。
肩に薄い毛布がかけられていた。
たぶん、ノルンかセリアだろう。
起こさないように、俺は静かに起きようとした。
「どこへ行くの」
目を閉じたまま、リュミエルが言った。
怖い。
「水」
「本当に?」
「本当」
「行っていい」
許可制になっている。
だが、今は仕方ない。
水を飲む。
喉が少し痛い。
それから、机の方を見る。
保護封筒。
帰還空欄。
反転板。
差し戻し記録。
全部、静かだ。
第二断片からの再提出は来ていない。
受付時間外が効いているのか。
それとも、向こうも次の手を練っているのか。
考えても仕方ない。
今は休息後の証言だ。
エリオット。
第二断片閲覧者。
彼の証言を完了させる。
それが、帰還記述保管者の本名照合条件の一つ。
ただし。
証言は、彼を追い詰めるためのものではない。
彼の罪を切るためでもない。
彼が、自分の言葉で何を見て、何を選び、何を見逃したのかを話すためのものだ。
罪ごと戻る。
俺はそう言った。
今度は、それを聞く側になる。
数時間後。
地下演習室に、朝の気配が入ってきた。
実際に日光が入るわけではない。
でも、学園の上層から人の動きが伝わってくる。
授業準備。
廊下の足音。
遠くの鐘。
普通の朝。
その普通の朝の下で、俺たちは異常の続きを始める。
エリオットが目を覚ました。
ノルンが状態を確認する。
「話せますか?」
エリオットはゆっくり頷いた。
顔色は悪い。
だが、昨日より目に焦点がある。
「はい」
声は弱い。
でも、本人の声だ。
カサンドラ副院長が羊皮紙を開く。
「これより、エリオット・ベイルの証言を保護記録として扱います」
フィン先生が頷く。
「目的は、責任追及ではなく事実確認だ。罪の判断は後で行う」
ヴァイスが少し離れて立っている。
腕を組み、険しい顔。
だが、逃げてはいない。
ミラは寝台で半身を起こしていた。
ノルンに怒られたが、聞くと言って譲らなかった。
「寝てても聞けるし」
「それ、寝てないだろ」
「細かい」
細かくない。
でも、本人が聞きたい理由は分かる。
エリオットは、黒鐘廊に回収されかけた者。
ミラは、実際に回収された者。
どちらも、第三幕の条件に関わっている。
ノルンが発話保護を展開する。
淡い光がエリオットを包んだ。
「エリオットさん。話したくないことは、保留できます」
エリオットが少し驚いた顔をした。
「保留、ですか」
「はい」
ノルンは頷いた。
「無理に話さなくていいです。でも、話したいことがあれば、声を守ります」
エリオットは目を伏せる。
「……ありがとうございます」
カサンドラ副院長が言う。
「証言者エリオット・ベイル。あなたは、第二断片本文を閲覧しましたか」
「はい」
「閲覧時の状況を、本文内容ではなく、外側の事実として説明できますか」
エリオットは深く息を吸った。
「できます」
地下演習室が静まる。
証言が始まる。
「僕は、合同演習の準備期間中、魔導科準備室で承認印管理を補助していました」
ヴァイスの表情が硬くなる。
「本来、ヴァイス様の承認印に触れる権限はありません」
「様はいらない」
ヴァイスが低く言う。
エリオットは少しだけ笑った。
「……分かりました。ヴァイス」
少し呼び慣れていない感じがあった。
だが、その呼び方だけで、何かが変わった気がした。
「僕は、印章保管箱の不備に気づきました。鍵が一度、完全に閉じていなかった」
ヴァイスが眉を寄せる。
「誰が開けた」
「分かりません。ただ、そこに神殿式記録票が挟まっていました」
「神殿式記録票……」
レオンが低く呟く。
エリオットは続ける。
「その記録票には、合同演習の安全制御に関する修正依頼が書かれていました。形式は正規のものに見えました」
「誰の署名?」
カサンドラ副院長が聞く。
「神殿派遣監査補助官、ルグラン・セイム」
全員の視線がルグランへ向きかけた。
彼は別の寝台で眠っている。
まだ意識は戻っていない。
「ただし」
エリオットは声を震わせる。
「今なら分かります。あの署名は、本物に見せた偽装です」
「なぜ気づかなかった」
ヴァイスの声が硬い。
エリオットは目を閉じた。
「気づきました」
空気が止まる。
「気づいたんです。でも……見なかったことにした」
声が震える。
「理由は」
フィン先生が聞く。
エリオットは唇を噛んだ。
「疲れていました」
その答えは、あまりにも人間だった。
「毎日、準備の修正が入りました。教師からも、生徒からも、神殿側からも。誰も全体を把握していませんでした。僕が直さなければ、演習は回らないと思っていました」
「それで?」
「署名に違和感があっても、正式な記録票として処理すれば、作業が進む。止めれば、また僕が説明しなければならない」
エリオットの拳が震える。
「だから、通しました」
沈黙。
誰もすぐには責めなかった。
それが逆に重い。
「そして、その時にヴァイスの承認印を使った」
ヴァイスが言う。
エリオットは頷いた。
「はい。最初は、一時処理のつもりでした。後で正式確認を取ればいいと」
「取らなかった」
「はい」
エリオットの声が細くなる。
「その後、黒鐘廊の声が聞こえるようになりました」
ノルンの発話保護が少し強くなる。
「どんな声ですか?」
「僕を責める声ではありませんでした」
エリオットは言った。
「むしろ、優しかった」
嫌な予感がする。
優しい声ほど危ない。
「君がやらなければ誰も回せない。君は裏方ではなく、構造を支える者だ。君には見る権利がある。誰も評価しないなら、自分で記録すればいい」
エリオットの目が濡れる。
「その言葉が、嬉しかった」
地下演習室が静まる。
「嬉しかったんです」
彼はもう一度言った。
「それが一番、嫌なんです」
痛い。
分かる。
敵の言葉に救われたと感じてしまうこと。
それが後から毒だと分かること。
自分の弱さを突かれたと知ること。
それは、ただ操られたよりもきつい。
「僕は、第二断片を読みました」
エリオットは続ける。
「本文内容は話しません。ただ、形式だけ言います」
フィン先生が頷く。
「言え」
「それは、僕の人生の台本のように見えました」
リュミエルの目が細くなる。
「本人用に変換されていた?」
「はい」
エリオットは頷く。
「第二断片は、読む者に合わせて本文を変える。たぶん、固定された文章ではありません」
重要情報。
第二断片本文は、読者ごとに変化する。
だから危険なのか。
それぞれの傷に合う文章を出す。
「そこには、僕が見逃した小さな不正が、すべて書かれていました」
エリオットの声が震える。
「誰かのミスを直したこと。間違った申請を黙って処理したこと。上位生徒の不備を僕が埋めたこと。教師の確認漏れを、僕が勝手に修正したこと」
「それは善意では?」
ノルンが小さく言う。
エリオットは首を横に振った。
「最初は。でも途中から違いました」
彼は自分の手を見る。
「僕は、頼られることに酔っていたんです。表に出ない不満を抱えながら、僕がいなければ回らないと思っていた」
胸が痛くなる。
裏方の誇り。
裏方の不満。
裏方の孤独。
それを黒鐘廊は観測者候補へ変えた。
「第二断片は言いました」
エリオットは一度止まる。
「内容に触れない範囲で」
フィン先生が促す。
「分類だけだ」
「はい」
エリオットは頷いた。
「僕に提示された代償は、“裏方を降りる権利”でした」
「降りる権利?」
「はい」
エリオットの声が細い。
「僕が裏方を降りたいなら、その権利を預けろ、と。預ければ、観測者になれる。誰かのために準備する者ではなく、誰を舞台に上げるか見る者になれる、と」
最悪だ。
降りるために、降りる権利を預けさせる。
詐欺にもほどがある。
「それを受けたのか」
ヴァイスが聞く。
エリオットは黙った。
そして、小さく頷いた。
「はい」
ノルンの発話保護が揺れる。
エリオットは涙をこぼした。
「僕は、裏方を降りたかった」
その一言は、重かった。
「誰かに見てほしかった。評価してほしかった。僕がやってきたことを、なかったことにされたくなかった」
ヴァイスの顔が歪む。
エリオットは続ける。
「だから、預けました。僕が裏方を降りる権利を」
「その結果」
フィン先生が言う。
「降りられなくなった」
「はい」
エリオットは頷く。
「裏方を降りたはずなのに、今度は観測者候補を降りられなくなった」
地獄だ。
役割から逃げようとして、別の役割に閉じ込められる。
黒鐘廊の本質そのもの。
「そして、管理者権限を渡された」
「はい」
「誰の空席だった」
エリオットは震える。
「帰還記述保管者」
反転板が薄く光る。
条件に関係する証言だ。
「本名は?」
「見ていません」
「なぜ」
「目を閉じろと言われたからです」
「ナツキの帰還記述か」
「たぶん」
エリオットは頷く。
「その声は、こう言いました。本名を見れば、君は空席に座る。座れば、もう降りられない。だから、まだ見るな、と」
ナツキ側の防御だ。
やはり、帰還記述保管者の名前は危険すぎる。
開けば進む。
同時に、誰かを座らせる。
「その後、僕は黒鐘廊から戻れなくなりました」
エリオットは声を落とす。
「でも、皆さんが呼び戻してくれた」
彼はヴァイスを見る。
「あなたが、僕の仕事は無価値ではなかったと言った」
ヴァイスは黙る。
エリオットは続ける。
「遅いです」
ヴァイスの肩がわずかに動く。
「本当に、遅いです」
「ああ」
ヴァイスは逃げなかった。
「遅かった」
エリオットの目から涙が落ちる。
「でも、聞けてよかった」
ヴァイスは目を伏せた。
「……そうか」
その一言が、やけに重かった。
カサンドラ副院長が静かに言う。
「証言を続けられますか」
エリオットは深く息を吸った。
「はい。最後に、言わなければならないことがあります」
地下演習室の空気が少し張る。
「黒鐘廊は、僕を観測者候補にしただけではありません」
「他にも候補がいるのか」
フィン先生が聞く。
エリオットは頷く。
「はい」
嫌な予感。
かなり嫌な予感。
「候補条件は複数ありました。役割を拒んだ編集者。第一帰還者の承認を得た者。第二断片本文閲覧者。そして……」
彼は言葉に詰まる。
ノルンが発話保護を強める。
「大丈夫です。保留してもいいです」
エリオットは首を横に振った。
「言います」
彼は俺を見た。
「帰還記述保管者の本名を、一度でも呼ぼうとした者」
俺は息を止めた。
「呼ぼうとした者?」
「はい」
エリオットは震えながら言う。
「完全に読まなくても、呼びたいと思っただけで候補に近づく」
全員の視線が、ほんの一瞬だけ俺に集まる。
まあ。
そうなる。
俺は見たいと思った。
本名を取り戻したいと思った。
でも、開かなかった。
「思うだけで候補になるなら、危なすぎる」
リュミエルが言う。
「だから、本名照合は保留で正しい」
「はい」
エリオットは頷いた。
「そして、もう一つ」
まだあるのか。
「黒鐘廊は、本名を呼ばせるために、帰還未完了者を使います」
胸が冷える。
「どういう意味だ」
俺が聞くと、エリオットは目を伏せる。
「帰還未完了者の中に、帰還記述保管者と関係のある者がいます」
「ナツキか?」
「それもあります。でも、もう一人」
エリオットの声が震えた。
「本名を知っている者」
地下演習室が凍る。
「誰だ」
フィン先生が聞く。
エリオットは答えた。
「旧地下聖堂に残された、最後の臨時記録官補助」
「補助?」
「はい。帰還記述保管者の弟子のような存在だったと、黒鐘廊の管理情報にありました」
新しい人物。
帰還記述保管者の補助。
本名を知る者。
そして、おそらく帰還未完了者。
「名前は?」
カサンドラ副院長が聞く。
エリオットは首を横に振る。
「分かりません。名前は伏せられていました。ただ、呼称だけが」
「呼称は?」
エリオットは言った。
「栞の子」
栞の子。
静かな言葉だった。
だが、なぜか胸に引っかかった。
栞。
本の途中に挟むもの。
続きを忘れないための目印。
帰還記述保管者の補助が、栞の子。
「その子は、どこにいる」
フィン先生が聞く。
エリオットは答えた。
「旧地下聖堂、第二幕通路の奥」
最悪だ。
正面から読まされる場所。
「でも、本文内ではありません」
エリオットは続ける。
「本文と本文の間。ページの隙間にいる、と」
ページの隙間。
舞台袖に似ている。
本文ではなく、余白。
そこに、栞の子がいる。
帰還記述保管者の本名を知る者。
「黒鐘廊は、その子を使って本名を呼ばせようとしています」
エリオットの声が小さくなる。
「帰還未完了者として、助けを求めさせる形で」
俺の胸が冷える。
またか。
助けを求める声。
俺が一番弱いところ。
「アキト」
リュミエルが静かに呼ぶ。
「分かってる」
「まだ何も言ってない」
「でも、言いたいことは分かる」
俺は息を吐く。
「助けを求められても、すぐには行かない」
「本当に?」
「本当」
言える。
今は言える。
でも、その場で声を聞いたらどうか。
そこは自信がない。
だから、先に言葉で縛る。
自分を縛るのではない。
保護する。
「栞の子を、すぐに助けに行くことはしない」
俺は言った。
「まず、その子が本当に本人か、帰還意思があるか、黒鐘廊の誘導ではないかを確認する」
リュミエルが頷く。
「よろしい」
エリオットが震える声で言う。
「これが、僕の知っている外側情報です」
カサンドラ副院長が羊皮紙に記録する。
「証言完了と見なしてよいですか?」
エリオットは深く息を吸う。
そして、頷いた。
「はい」
ノルンの発話保護が強く光る。
反転板が反応する。
帰還空欄の保護封筒も淡く光った。
管理通知が浮かぶ。
――第二断片閲覧者の証言完了。
その下に、もう一行。
――条件達成。
さらに。
――帰還記述保管者の本名照合に必要な条件、残り一つ。
全員の視線が、ミラへ向いた。
ミラは毛布にくるまったまま、目を開けていた。
「……第一帰還者の保留継続、だよね」
誰も急かさない。
誰も促さない。
ミラはしばらく黙った。
それから、小さく笑った。
「保留、継続で」
帰還空欄が光る。
――第一帰還者の保留継続を確認。
――条件達成。
息が止まる。
保留することが、条件だった。
承認ではなく。
開示でもなく。
保留を続けること。
ミラが自分で、今は決めないと選び続けること。
それが、本名照合の条件だった。
帰還空欄に夕暮れ色の文字が浮かぶ。
――帰還記述保管者の本名照合、全条件達成。
地下演習室の空気が震えた。
ついに。
名前に届いた。
だが、誰も動かなかった。
誰も「見よう」と言わなかった。
ミラが保留を選んだ。
エリオットが証言を終えた。
俺は編集者を降りる権利を保持した。
条件は揃った。
だからこそ。
急いではいけない。
帰還空欄は、最後にこう表示した。
――本名開示は、任意。
――今は開かなくてもよい。
俺は、その一文を見て、静かに息を吐いた。
ああ。
これが第三幕か。
開けられる。
でも、開けなくていい。
選べる。
でも、選ばなくてもいい。
それこそが、選択の保護。
ミラが小さく言った。
「今は、開けない」
俺は頷いた。
「同感だ」
リュミエルも頷く。
「今は、休む」
フィン先生が黒茶を持ち上げる。
「現実的だな」
「先生」
俺は言った。
「それ、褒めてます?」
フィン先生は、珍しくほんの少しだけ笑った。
「かなりな」
地下演習室に、静かな息が広がった。
帰還記述保管者の本名は、すぐそこにある。
けれど、まだ呼ばない。
俺たちは、呼べる名前を持ちながら。
呼ばない自由を選んだ。
その余白の奥で。
神の台本が、静かに軋んだ気がした。




