第74話 査読要求を差し戻す
地下演習室へ戻るまでの廊下が、やけに長く感じた。
実際には、そんなに距離はない。
魔導科準備室から特異職科地下演習室まで。
学園の裏通路を使えば、数分で着く。
だが、今はその数分が重い。
第二断片。
直接査読。
対象、編集者本人。
つまり俺。
読ませる対象を、学園全体から俺一人に絞ってきた。
被害範囲が狭くなった。
それだけ聞けば、少しはマシに思える。
だが、違う。
黒鐘廊は、俺に読ませたい。
俺に代償を提示したい。
俺に役割を降りる権利を奪わせたい。
そして、おそらく。
俺を未完の編集者へ近づけたい。
「顔が悪い」
リュミエルが横から言った。
「元からだ」
「今は特に」
「最近それ多くない?」
「事実だから」
事実は強い。
強すぎてたまに凶器になる。
俺は小さく息を吐いた。
「大丈夫だ。今回は読まない」
「さっきも少し声を聞いた」
「……聞いた」
「なら、大丈夫ではない」
正しい。
すごく正しい。
鐘壁の裏側で、俺は少し食らった。
――あなたは、降りられない。
あの声は、まだ胸の奥に残っている。
俺は編集者を降りられない。
俺は理不尽を剥がし続けなければならない。
俺は誰かの選択を守り続けなければならない。
優しい呪いだ。
最悪なことに、俺自身が少し望んでいる呪いでもある。
「リュミエル」
「何?」
「もし俺が、編集者を降りられないって言い始めたら止めてくれ」
彼女はすぐに答えなかった。
ほんの少しだけ、歩幅が遅くなる。
それから、静かに言った。
「止める」
「助かる」
「でも、その前に聞く」
「何を?」
「あなたが本当に降りたいのか。それとも、降りられないと思わされているのか」
胸に刺さった。
さすがだ。
止めるだけではなく、問い直す。
リュミエルは俺を守るだけの存在じゃない。
俺の選択を、俺のものに戻す存在だ。
「……ありがとう」
「珍しく素直」
「今日は消耗してるからな」
「いつもそれくらいでいい」
「俺の通常運転が否定された」
「改善点」
厳しい。
だが、その厳しさが今はありがたい。
地下演習室の扉が見える。
中から、淡い光が漏れていた。
ノルンの発話保護。
セリアの照明炎。
カサンドラ副院長の保護規定。
ヴァイスの壊れた反転片の残光。
現実の光だ。
俺たちは扉を開けた。
中に入ると、全員がこちらを見た。
ミラは寝台の上で毛布にくるまっている。
焼き菓子の皿は、いつの間にか空に近い。
食べたな。
かなり食べたな。
まあいい。
帰還者特権らしい。
セリアは炎を掌に浮かべたまま、俺を見るなり眉を吊り上げた。
「顔、ひどいわよ」
「全員それ言うな」
「事実だから」
事実の暴力、二発目。
ノルンが心配そうに近づいてくる。
「アキトさん、精神汚染は?」
「少し声を聞いた。でも、本文は読んでない」
「少しでも声を聞いたなら、保護します」
ノルンはすぐに治癒符を一枚取り出した。
治癒符というより、精神安定用の護符に近い。
俺の胸元に貼られる。
ひんやりする。
「ありがとう」
「はい。無理はしないでください」
「善処する」
リュミエルが俺を見る。
「善処ではなく、約束」
「……無理はしない」
「本当に?」
「本当」
もうこの問答、儀式だ。
でも、言葉にするたびに少し戻れる。
だから必要なのだろう。
フィン先生は机の前に立っていた。
黒茶は置かれている。
飲んではいない。
つまり、状況は相当悪い。
あの先生が黒茶を飲まない時は、たぶん世界が少し傾いている。
「報告しろ」
フィン先生が言った。
俺は簡潔に話した。
魔導科準備室の裏側接続。
鐘壁裏側。
本文自動再生。
管理者不在を理由にした暴走。
注釈挿入による自動再生停止。
本文片の外部配布。
エリオットへの再閲覧誘導。
それを止めたこと。
そして。
第二断片が、編集者本人への直接査読要求に切り替わったこと。
話し終えると、地下演習室は静かになった。
ミラが小さく言う。
「査読って、何?」
「文章や論文を読んで、問題点を確認すること」
俺は答えた。
「前世だと、専門家が論文をチェックする時とかにも使う言葉だな。作品作りなら、原稿を確認して戻す感じ」
「つまり、読めってこと?」
「そう」
「最悪じゃん」
「最悪だ」
査読。
編集者に対して、この言葉を使ってくる。
第二断片は分かっている。
俺が何者か。
何に反応するか。
何を仕事としてきたか。
編集者に、査読要求を出す。
いかにも仕事っぽく。
責任っぽく。
お前の役目だと言わんばかりに。
「アキトさんに合わせた誘導ですね」
ノルンが言った。
「そうだと思う」
「読まない自由を守ったから、今度は“読む責任”を押しつけている」
リュミエルが続ける。
「悪質ね」
「かなりな」
読まない自由を守った者に、読む責任を突きつける。
編集者なら読め。
問題点を見つけろ。
直せ。
判断しろ。
そう言われたら、俺は反応しやすい。
いや。
反応したくなる。
「だが、応じないと言ったな」
フィン先生が言う。
「はい」
「なら、方針は一つだ」
「査読要求を差し戻す」
俺が言うと、フィン先生は頷いた。
「そうだ」
差し戻し。
前世なら、メール一本で済むこともある。
修正点を指摘して、再提出を求める。
条件を満たしていないから受理しない。
形式不備だから戻す。
だが今は、相手が呪われた第二断片だ。
メールではなく、命がけの差し戻し。
ブラック企業もびっくりだ。
「差し戻しの根拠が必要です」
カサンドラ副院長が言った。
柔らかい笑み。
目は笑っていない。
「ただ拒否するだけでは、第二断片は再要求を出し続けます」
「根拠か」
俺は考える。
査読要求を差し戻す理由。
まず、査読対象が本文であること。
本文は強制閲覧性があり、読者の役割を固定する危険がある。
対象者の本人意思確認がない。
管理者権限が凍結中。
本文自動再生処理は保留済み。
読まない自由を侵害する。
いくらでもある。
だが、それだけでは足りない気がした。
第二断片は、代償を示す断片。
黒鐘廊は、役割を降りる権利を奪う。
査読要求そのものが、俺を編集者という役割に固定する仕組みだ。
なら、差し戻し理由はそこだ。
「査読者の独立性がない」
俺は言った。
全員が俺を見る。
「査読ってのは、本来、読む側が自由に判断できなきゃ成立しない。読むことを強制されていたり、読んだ瞬間に役割固定されるなら、査読じゃない」
ヴァイスが腕を組む。
「つまり、第二断片の査読要求は、査読者を汚染する」
「そう」
「査読不成立か」
「そうだ」
論文でも原稿でも、査読者に利益相反があれば問題だ。
ましてや、読んだ瞬間に査読者の自由意思が壊れるなら論外。
査読以前の問題。
「それなら差し戻せる」
カサンドラ副院長が微笑む。
「査読者保護規定、査読独立性、強制閲覧禁止、本人意思確認不備。十分な根拠になります」
「異世界で査読倫理を使うことになるとは思いませんでした」
「知識は使える場所で使うものです」
頼もしい。
この人、たぶん裁判でも魔王を追い詰められる。
ミラが寝台から手を上げた。
「質問」
「どうぞ」
「差し戻したら、第二断片は怒らない?」
「怒ると思う」
俺は即答した。
「だよね」
「でも、読んでも怒る。保留しても怒る。なら、こっちが壊れない怒らせ方をする」
ミラは少し笑った。
「いいね。性格悪い」
「褒めてる?」
「褒めてる」
ならいい。
セリアが炎を強める。
「差し戻しって、具体的にどうやるの?」
「査読要求の外側を受け取って、本文は読まず、形式不備として返す」
「また地味ね」
「地味は強い」
「最近それ、口癖になってるわよ」
自覚はある。
でも、本当だから仕方ない。
フィン先生が机に指を置く。
「問題は、査読要求をどこで受けるかだ」
「旧地下聖堂の入口?」
「危険すぎる」
「地下演習室?」
「向こうから接続される可能性がある」
「なら?」
カサンドラ副院長が答えた。
「中継室を作ります」
「中継室?」
「査読要求を直接ここへ入れず、学園記録管理用の隔離室へ誘導します。そこに保護規定、発話保護、反転鏡、注釈枠を重ねて、要求だけを受ける」
「本文は?」
「遮断します」
頼もしい。
「隔離室はどこに?」
「旧記録保管庫の外郭室です」
一瞬、全員が黙った。
旧記録保管庫。
第一断片があった場所。
名無しの観測者――いや、帰還記述保管者の記録があった場所。
危険だ。
だが、同時に。
黒鐘廊や第二断片から見れば、そこは第三幕側に近い場所でもある。
「旧記録保管庫なら、学園側の記録権限が強い」
フィン先生が言った。
「神殿式だけでは押し切れない」
「さらに、帰還記述保管者の削除跡が残っています」
カサンドラ副院長が続ける。
「本人の本名は開示しません。ただ、記録改竄へ抵抗した痕跡を外側防壁として使える可能性があります」
「つまり、名無しの観測者の名前じゃなく、抵抗した痕跡を借りる」
「その通りです」
それなら、まだ安全寄りだ。
本名は開かない。
役割名も使わない。
削除跡と抵抗痕だけを、外側の防壁として使う。
「ミラの承認は?」
俺は聞いた。
「不要です」
副院長が即答した。
「本名開示に関わらないため、第一帰還者の承認は使いません」
ミラがほっとした顔をした。
「よかった」
「もちろん、あなたの残響も使いません」
「さらによかった」
それでいい。
ミラは休む。
今は、それが最優先だ。
「現地に行く者は?」
フィン先生が言った。
「アキト、リュミエル、カサンドラ、ヴァイス、ノルン」
「ノルンも?」
ノルンが少し驚く。
「発話保護が必要だ。査読要求は言葉で来る可能性が高い」
「はい。行きます」
「トーヤ、セリア、レオン、ミラは地下演習室待機」
セリアが不満げに眉を寄せる。
「また?」
「外側の防衛が必要だ。第二断片が迂回してくる可能性がある」
「分かったわよ」
セリアは炎を握る。
「今回は燃やしていい?」
「まず照らせ」
「はいはい」
レオンが頷く。
「神殿式反応を監視する」
トーヤも短く言った。
「ここを守る」
ミラが毛布の中から手を振る。
「私は寝ながら応援」
「それでいい」
俺が言うと、ミラは少しだけ笑った。
「帰還者特権でね」
「そうだな」
今回は、本当にそうだ。
準備が整うまで、少し時間がかかった。
カサンドラ副院長が旧記録保管庫外郭室の使用許可を通す。
フィン先生が全体指揮の通信線を作る。
ヴァイスが壊れた反転片の代わりに、学園備品の古い反転板を持ち出す。
ノルンが発話保護符を複数用意する。
リュミエルが精神保護結界を薄く張る。
俺は、その間に差し戻し文面を考えた。
第二断片への査読要求差し戻し。
なんだそれ。
異世界で一番書きたくないビジネス文書ランキングがあったら、上位に入る。
でも、必要だ。
俺は紙に書き出す。
いや、直接書くと危ない。
だから、空の注釈枠に条件だけを入れる。
【査読要求差し戻し案】
――査読対象本文に強制閲覧性が含まれるため、査読者の独立性が確保されていない。
――査読者本人の自由意思を侵害する恐れがある。
――読了時に役割固定、代償提示、降役権剥奪が発生する可能性がある。
――管理者権限凍結中につき、正式な査読依頼者が不在。
――よって、本文の査読要求は受理不能。
――本文を添付せず、管理情報のみで再提出せよ。
――再提出まで本件は保留。
いい。
かなり地味だ。
でも、地味でいい。
派手な拒絶は、向こうに反応される。
地味な手続きで詰まらせる。
これが今回の戦い方だ。
「文面、見てもいい?」
リュミエルが聞く。
「ああ」
彼女は注釈枠を外側から確認する。
「悪くない」
「褒めた?」
「ただし、一文足りない」
「どこ?」
「査読者は、査読を降りる権利を保持する」
俺は少し黙った。
それは大事だ。
査読者。
つまり俺。
俺が査読を受けるかどうか。
途中で降りるかどうか。
保留するかどうか。
その権利を明記する。
「入れる」
俺は文面に追加した。
――査読者は、査読開始前、査読中、査読後のいずれにおいても、査読を保留または辞退する権利を保持する。
リュミエルは頷いた。
「よろしい」
「やっぱり先生っぽい」
「あなたが生徒っぽいから」
「俺、学園生徒だしな」
「そうね」
少しだけ、空気が柔らかくなる。
旧記録保管庫外郭室へ移動する。
地下演習室とは違う、冷たい空気。
古い本。
乾いた紙。
封印された記録。
ここは、何度来ても落ち着かない。
記録は静かだ。
静かすぎる。
人間の声が吸い込まれるような場所だ。
外郭室には、大きな丸卓があった。
周囲に封印棚。
壁には学園の旧記録紋。
床には保護陣。
カサンドラ副院長が中央に立つ。
「ここを中継室とします」
ヴァイスが反転板を設置する。
ノルンが発話保護符を四隅に貼る。
リュミエルが精神保護の膜を張る。
俺は丸卓の前に立った。
「フィン先生、聞こえますか?」
通信石から声が返る。
『聞こえる。地下演習室側も準備完了』
「ミラは?」
『焼き菓子を食べている』
よし。
平和だ。
いや、平和ではない。
でも、少なくともミラはミラだ。
『セリア、トーヤ、レオンも待機中。エリオットは安定。第二断片反応は増加している』
「猶予は?」
『短い』
雑。
でも分かった。
「始めます」
俺は丸卓に手をかざす。
触れない。
査読要求の本文は受けない。
要求の外側だけを、隔離室へ誘導する。
【注釈枠】
――これは本文閲覧ではない。
――これは査読受理ではない。
――これは査読要求の形式確認である。
――本文、命令文、読者への呼びかけを遮断する。
――取得対象は、依頼者、依頼形式、承認権限、査読条件、添付本文有無に限定する。
――異常時は即時差し戻し。
――査読者は査読を保留または辞退する権利を保持する。
丸卓が淡く光る。
反転板が震える。
空気が重くなる。
来た。
旧地下聖堂の奥から、何かが伸びてくる。
黒い線。
封筒の形をしている。
封書だ。
黒い封書。
差出人欄には何もない。
宛名だけがある。
【編集者殿】
腹が立つ。
丁寧なのが腹立つ。
「開けない」
リュミエルが言う。
「分かってる」
ヴァイスが反転板を操作する。
「外側確認。差出人、第二断片。承認者、黒鐘廊管理者権限」
「管理者は凍結中だ」
俺は言う。
「承認不備だな」
「その通り」
カサンドラ副院長が微笑む。
「一点目、成立」
ノルンが小さく息を吐く。
だが、黒い封書は震えた。
差出人欄に、文字が浮かぶ。
【代理承認:編集者本人】
は?
「ふざけるな」
声が出た。
黒い封書がこちらを向く。
【編集者は本文を査読する権限を有する】
【よって、編集者本人の存在をもって査読承認とする】
なるほど。
俺自身を承認者にする気か。
俺がいるから、俺が読んでいい。
俺が編集者だから、俺が査読を承認したことにする。
乱暴すぎる。
「本人同意なき代理承認は無効」
カサンドラ副院長が即座に言った。
羊皮紙が光る。
「学園保護規定により、本人の存在をもって同意とみなす処理を拒否します」
ノルンが発話保護を重ねる。
「アキトさんは、まだ同意していません」
リュミエルが言う。
「むしろ拒否しています」
ヴァイスが反転板へ記録する。
「代理承認、不成立」
黒い封書が軋む。
【承認不備】
よし。
「次、添付本文の有無」
ヴァイスが言う。
黒い封書の背面に、厚い黒の層がある。
「あるな」
「本文添付あり」
「遮断」
俺は即座に言った。
【本文遮断】
黒い層が反転板の上で弾かれる。
だが、封書はまた震える。
【本文なし査読不可】
「なら査読不可で差し戻し」
俺は言った。
「本文を添付するなと言っている」
【矛盾】
「矛盾じゃない」
俺は低く言う。
「強制閲覧性のある本文は査読対象として不適格。本文そのものを送る前に、非汚染形式へ変換しろ」
黒い封書が止まる。
カサンドラ副院長が微笑む。
「管理情報のみでの再提出要求ですね」
「はい」
「妥当です」
黒い封書に、差し戻し文面を載せる。
【査読要求差し戻し】
――査読対象本文に強制閲覧性が含まれるため、査読者の独立性が確保されていない。
――査読者本人の自由意思を侵害する恐れがある。
――読了時に役割固定、代償提示、降役権剥奪が発生する可能性がある。
――管理者権限凍結中につき、正式な査読依頼者が不在。
――代理承認は本人同意なき承認偽装であり無効。
――査読者は、査読開始前、査読中、査読後のいずれにおいても、査読を保留または辞退する権利を保持する。
――よって、本文の査読要求は受理不能。
――本文を添付せず、管理情報のみで再提出せよ。
――再提出まで本件は保留。
完璧ではない。
だが、今出せる最善だ。
黒い封書が震える。
【差し戻し拒否】
来た。
「拒否理由は?」
俺が聞く。
黒い封書に文字が浮かぶ。
【編集者は読まなければならない】
胸が冷えた。
それは。
俺が一番反応しやすい言葉だった。
編集者は読まなければならない。
原稿を読む。
構造を見る。
矛盾を探す。
問題点を拾う。
それが仕事だ。
それが役目だ。
俺が前世から持っていた感覚。
「アキト」
リュミエルが俺の腕を掴む。
「違う」
分かってる。
でも、黒い封書は続ける。
【読まない編集者は、編集者ではない】
【読まない者に、救う資格はない】
【読まない者に、差し戻す資格はない】
胸の奥がざわつく。
読め。
読め。
読め。
声がする。
俺の声にも似ている。
「ノルン」
リュミエルが言った。
「発話保護」
「はい!」
ノルンの光が俺を包む。
カサンドラ副院長が言う。
「査読者への人格攻撃、権限誘導、職能固定を確認」
ヴァイスが反転板に記録する。
「差し戻し理由に追加できる」
フィン先生の声が通信石から飛ぶ。
『アキト、返せ』
「はい」
俺は息を吸う。
黒い封書を見る。
見すぎるな。
文字を読むな。
構造だけ。
それでも、今の文には返さなければならない。
「編集者は、読まなければならない」
俺はゆっくり言う。
「違う」
黒い封書が震える。
「編集者は、読む価値があるものを読む。読者を壊すものを、無条件には読まない」
胸の奥が熱い。
「そして、読まない判断も編集だ」
リュミエルの手が、少しだけ緩む。
俺は続ける。
「差し戻し理由に追加」
【追加理由】
――査読要求内に、査読者の職能固定および人格攻撃を確認。
――「編集者は読まなければならない」という記述は、査読者の降役権を侵害する役割固定文である。
――よって、当該要求は査読依頼ではなく、査読者誘導を目的とする敵性記述と判断する。
――本件、受理不能。
――差し戻し。
黒い封書が、激しく震えた。
【受理不能】
【差し戻し】
【保留】
【査読者誘導、失敗】
いける。
そう思った瞬間。
黒い封書が、ぱたりと閉じた。
静かになった。
勝ったのか?
いや。
そんなわけがない。
封書の表面に、新しい文字が浮かぶ。
【差し戻し受領】
俺は息を止めた。
受領?
本当に?
次の文字。
【再提出準備】
「……マジか」
思わず声が出た。
第二断片が、差し戻しを受けた。
つまり、手続きとして通った。
地味な勝利。
でも、勝利だ。
ノルンがほっと息を吐く。
ヴァイスもわずかに肩を下ろす。
リュミエルの手も少し緩む。
だが。
黒い封書は、最後にもう一文を出した。
【再提出形式:管理情報のみ】
よし。
それはこっちが求めたことだ。
さらに。
【添付:代償定義要約】
嫌な予感。
「要約も本文扱いか?」
ヴァイスが反転板を確認する。
「本文ではない。管理情報扱いだ」
「危険は?」
「ある」
ですよね。
要約。
本文ではないが、中身に近い。
危険だ。
でも、これを完全拒否すると、差し戻しの意味がない。
管理情報のみで再提出せよと言ったのは、こちらだ。
「読むな」
リュミエルが言った。
「まず外側だけ」
俺は頷く。
【要約情報・外側確認】
黒い封書の下に、短い管理文が浮かぶ。
本文ではない。
命令文でもない。
呼びかけでもない。
管理定義。
俺は慎重に、視線を最小限にする。
そこには、こう書かれていた。
【第二断片・代償定義】
【代償とは、役割を降りる権利の一時預託である】
一時預託。
「奪う、じゃないのか?」
俺が呟く。
エリオットは、奪われると言った。
だが、管理情報では一時預託。
言い方が違う。
ヴァイスが眉をひそめる。
「詐欺契約の文言に近いな」
「つまり?」
カサンドラ副院長の目が冷える。
「本人には一時的に預けるだけと説明し、実際には返還条件を満たせないようにする形式です」
最悪だ。
言葉が綺麗なほど悪質。
一時預託。
保管。
管理。
保護。
そういう言葉で、権利を奪う。
「返還条件は?」
俺が聞くと、黒い封書が揺れる。
【返還条件:役割完遂】
全員が黙った。
役割完遂。
つまり、役割を果たし終えるまで降りる権利は返されない。
だが、神殿や黒鐘廊が貼る役割に終わりはない。
器はいつまで器なのか。
盾はいつまで盾なのか。
編集者はいつまで編集者なのか。
観測者はいつまで観測者なのか。
終わらない役割なら、権利は永久に返らない。
「やっぱり奪ってるじゃない」
セリアの声が通信石から聞こえた。
「言葉で誤魔化してるだけ」
カサンドラ副院長が静かに言う。
「これは重要な証拠です」
フィン先生の声。
『保存しろ。ただし外側だけ』
「はい」
俺は要約の外側を保存する。
【保存】
第二断片・代償定義。
役割を降りる権利の一時預託。
返還条件、役割完遂。
これで分かった。
黒鐘廊の本質。
役割を降りる権利を預からせ、返さない。
神殿の台本に都合のいい人間を作る仕組み。
「差し戻しの追加根拠になる」
俺は言った。
「返還条件が不明確すぎる」
カサンドラ副院長が即座に頷く。
「はい。契約としても成立しません」
「契約で殴れる?」
「殴れます」
頼もしい。
本当に頼もしい。
俺は差し戻し文面に追記する。
【追加差し戻し理由】
――代償定義における「役割を降りる権利の一時預託」は、本人の自由意思に重大な制限を加える。
――返還条件「役割完遂」は定義不明確であり、無期限拘束に該当する恐れがある。
――よって、当該代償定義は本人同意の前提を欠く。
――査読対象として以前に、契約条件不備。
――再提出時は、返還条件、拒否権、保留権、降役権の保持条件を明示せよ。
――本件、再差し戻し。
黒い封書がまた震える。
【再差し戻し受領】
本当に受けるのか。
いや、受けざるを得ないのか。
管理情報形式にした以上、こちらの差し戻しも手続きとして処理される。
地味。
地味だが効いている。
黒い封書の黒さが少し薄くなる。
【第二断片査読要求、保留】
【代償定義、再提出待機】
【直接査読、一時停止】
俺は深く息を吐いた。
一時停止。
完全勝利ではない。
だが、止めた。
読まずに。
差し戻した。
「やった……?」
ノルンが小さく言う。
ヴァイスが反転板を見る。
「直接査読要求は止まった。少なくとも今は」
リュミエルが俺を見る。
「消耗は?」
「そこそこ」
「正直でよろしい」
「水ください」
「素直でよろしい」
先生が本当に増えている。
でも、今はありがたい。
俺は水を飲む。
手が少し震えていた。
黒い封書は、丸卓の上で薄くなっていく。
差し戻しを受けて、旧地下聖堂側へ戻っていくらしい。
最後に、封書の表面に一文だけ浮かんだ。
【査読者の降役権、確認】
何だ。
俺は身構える。
次の文字。
【編集者は、編集者を降りる権利を保持する】
地下演習室ではなく、旧記録保管庫外郭室が静かになった。
その一文は、攻撃ではなかった。
命令でもない。
誘導でもない。
ただの確認。
俺の胸の奥で、何かがほどけた。
編集者は、編集者を降りる権利を保持する。
そうか。
俺は。
降りてもいいのか。
今すぐ降りたいわけじゃない。
でも、降りられる。
その余白があるだけで、役割は呪いではなくなる。
リュミエルが静かに言った。
「よかった」
「ああ」
声が少し掠れた。
「かなり」
黒い封書が消えた。
丸卓の光も落ち着く。
カサンドラ副院長が記録を閉じる。
「査読要求、差し戻し完了。直接査読、一時停止。代償定義、再提出待機」
フィン先生の声が通信石から聞こえた。
『上出来だ』
珍しい。
本当に珍しい。
「先生が素直に褒めた」
通信石の向こうで、ミラの声がした。
『明日は雪?』
「ミラ、寝てろ」
『はーい』
戻っている。
みんな、戻っている。
少なくとも今は。
だが、終わってはいない。
第二断片は再提出待ち。
代償定義もまだある。
帰還記述保管者の本名は保留。
黒鐘廊の空席は凍結中。
問題は山積みだ。
でも、今日のところは。
読まなかった。
読まされなかった。
差し戻した。
それだけで十分だ。
そう思った瞬間。
反転板に、別の通知が浮かんだ。
黒くない。
夕暮れ色。
第三幕側の色。
文字は短かった。
――差し戻し確認。
――編集者の降役権、保持。
――第三幕・第一補助条件、達成。
「第一補助条件……?」
リュミエルが呟く。
夕暮れ色の文字が、さらに続く。
――帰還記述保管者の本名照合に必要な条件、残り二つ。
俺は息を止めた。
本名照合。
まだ先だと思っていた。
だが、条件が進んだ。
一つ目は、編集者の降役権保持。
つまり。
俺が編集者を降りる権利を守れたことで、帰還記述保管者の名前に近づいた。
「残り二つは?」
ヴァイスが反転板を見る。
夕暮れ色の文字が浮かぶ。
――第一帰還者の保留継続。
――第二断片閲覧者の証言完了。
ミラの保留。
エリオットの証言。
この二つ。
「……次は、エリオットか」
俺は呟いた。
リュミエルが頷く。
「でも今ではない」
「分かってる」
「本当に?」
「本当」
俺は丸卓に手を置いた。
今は追わない。
保留する。
差し戻しが通ったばかりだ。
こちらも休む必要がある。
編集者は、編集者を降りる権利を保持する。
なら、今日はもう降りてもいい。
少なくとも、一時的に。
俺は息を吐いた。
「戻ろう」
「地下演習室へ?」
「ああ」
俺は少しだけ笑った。
「ミラが焼き菓子を食い尽くしてないか確認しないと」
通信石の向こうで、ミラが小さく叫んだ。
『食べ尽くしてない! ちょっと残してる!』
「ちょっとかよ」
外郭室に、久しぶりに笑いが落ちた。
薄くて、疲れていて、それでも確かに人間の笑いだった。
神の台本には、たぶんこういう余白は書けない。
だから。
俺たちは、まだ負けていない。




