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第73話 読まない自由

読まない自由を守る。


言葉にすると、妙に地味だった。


剣で敵を斬るわけでもない。

魔法で吹き飛ばすわけでもない。

神の台本を派手に破るわけでもない。


ただ、読まない。


読まされない。


それだけ。


でも、今の俺たちにとっては、それが戦いだった。


旧地下聖堂。

第二断片。

黒鐘廊。

本文暴走。


その単語だけで、地下演習室の空気は重くなる。


さっきまでミラが焼き菓子を食べていた空気とは別物だ。


甘いものの匂いがまだ残っているのに、世界の方が勝手に不穏になる。


空気を読め。


いや、読むな。


読まない自由。


今はそっちだ。


「第二断片本文の暴走予測を確認する」


フィン先生が言った。


机の上に、旧地下聖堂の簡易図が広がっている。


前に下見した入口。

第二幕通路。

黒鐘廊。

管理層。

扉の裏側。


そこに、ヴァイスが反転鏡で取った外側記録を重ねていく。


「本文自動再生の起点は、おそらく黒鐘廊そのものではない」


ヴァイスが言った。


「違うのか?」


俺が聞くと、ヴァイスは頷く。


「黒鐘廊は同期装置だ。役割固定と管理者権限の接続を行う場所。だが、本文をばら撒くには別の出力点が必要になる」


「スピーカーみたいなものか」


「何だそれは」


「音を広げる道具」


「なら近い」


なるほど。


旧地下聖堂のどこかに、第二断片の本文を学園側へ拡散するための出力点がある。


本文そのものを読まずに、そこを止める。


つまり、今回の目的は本文攻略ではない。


再生装置の停止。


編集というより、配信停止だ。


前世なら管理画面でボタン一つ。


この世界では命がけ。


文明ってありがたい。


「出力点の候補は?」


リュミエルが聞く。


ヴァイスは図面の一角を指した。


「旧地下聖堂の鐘壁」


「鐘壁?」


セリアが眉をひそめる。


「黒鐘廊とは別?」


「黒鐘廊の手前にある記録反響壁だ。鐘楼の代わりに音を空間全体へ反射する構造らしい。旧教材では、礼拝音響用とされていた」


「絶対嘘じゃない」


セリアが即答した。


「そうだな」


ヴァイスも否定しなかった。


「礼拝用というより、記録音声を拡散するための壁だろう。黒鐘廊が鐘音同期を行い、鐘壁が本文を反響させる」


「じゃあ、止めるべきは鐘壁か」


俺は図面を見る。


黒鐘廊の手前。

正面通路から少し逸れた場所。

第二幕本文の入口に入る前の区画。


「本文を読まずに届くか?」


「普通に行けば無理だ」


ヴァイスが言う。


「鐘壁に近づくには第二幕通路を通る必要がある。そこで読まされる」


ですよね。


だが、今回は手がかりがある。


扉の裏。

舞台袖・側道。

ミラの退避線。


そして、外側管理記録。


「裏側から鐘壁へ行く」


俺は言った。


「旧地下聖堂の本文側ではなく、管理側から」


フィン先生が頷く。


「そのための経路を作る」


「誰が行く?」


その問いで、全員の視線が動いた。


俺は先に言う。


「俺は行く」


リュミエルがすぐにこっちを見る。


「理由」


「本文を止めるには注釈が必要になる。再生装置を壊すだけなら他の誰かでいいけど、第二断片の本文をばら撒く処理には、たぶん条件文がある」


「それを読むつもり?」


「読まない」


俺は即答した。


「条件文そのものは読まない。外側から、再生処理に注釈を入れる」


「危険」


「知ってる」


「でも、必要?」


「たぶん」


リュミエルはしばらく黙った。


それから、静かに言った。


「私も行く」


「だよな」


「止めても無駄だから諦めた、みたいな顔をしないで」


「顔、また喋ってた?」


「かなり」


駄目だ。


顔面の守秘義務が緩い。


トーヤが前に出る。


「俺も行く」


「盾として?」


「道を守る者として」


言い直した。


大事だ。


盾という役割ではなく、本人が選んだ同行理由。


「今回はトーヤが必要だと思う」


俺は言った。


「鐘壁に近づく間、退避経路を固定する必要がある」


セリアが不満げに炎を揺らす。


「また留守番?」


「今回は外側の照明が重要だ」


「外側?」


「本文がばら撒かれそうになったら、学園側で影や役割固定の兆候が出るかもしれない。セリアの炎で、最初の影を照らしてほしい」


セリアは少しだけ唇を噛んだ。


「現場に行けないの、嫌なんだけど」


「分かる」


「分かる、じゃなくて」


「でも、外側を守る人がいないと戻れない」


セリアは黙った。


炎が小さく揺れる。


それから、彼女は乱暴に息を吐いた。


「分かったわよ。外で燃や……照らす」


「今、燃やすって言いかけたな」


「言いかけただけ。成長してるでしょ」


「してる」


「素直に言われると腹立つわね」


理不尽。


でも、セリアらしい。


レオンが言った。


「俺も外側で神殿式反応を監視する。鐘壁が旧神殿式なら、外からでも反応を拾える」


「頼む」


「もし本文が漏れたら?」


「読むな」


「分かっている」


レオンは頷いた。


「俺は、自分の剣を抜かずに使う」


その言葉が、前より自然に聞こえた。


ノルンは両手を胸の前で握った。


「発話保護を繋ぎます。もし中で誰かの声が奪われそうになったら、外から支えます」


「助かる」


「あと、エリオットさんの監視もします。第二断片と繋がっているなら、本文暴走に反応するかもしれません」


確かに。


エリオットは第二断片本文閲覧者だ。


本文が暴走すれば、彼にも影響が出る可能性がある。


「ミラは休む」


フィン先生が先に言った。


ミラは寝台の上で手を上げかけて、止まった。


「まだ何も言ってない」


「言う前に止めた」


「ひどい」


「現実を見ろ。お前は帰還直後だ」


「正論が痛い」


ミラは毛布にくるまったまま、少しだけ頬を膨らませた。


だが、無理に立とうとはしなかった。


成長している。


いや、疲労が勝っているだけかもしれない。


「でも」


ミラは俺を見た。


「私の退避線の残響、使えるなら使って」


「使わない」


俺は即答した。


ミラが目を丸くする。


「え?」


「今は使わない。お前の残響を使うと、舞台袖側にまた接続されるかもしれない」


「でも、役に立つかも」


「休め」


俺は言った。


「お前の仕事は今、休むことだ」


ミラは黙った。


珍しく、茶化さなかった。


それから、小さく言った。


「……それも、役割?」


胸が少し痛む。


休むことが役割になったら、それもまた変だ。


俺は少し考えて、言い直した。


「違う。お願い」


ミラの目が揺れた。


「ミラ自身が戻るために、今は休んでほしい」


ミラは毛布を少し引き上げた。


「お願いなら、聞く」


「助かる」


「甘いもの追加もお願いしていい?」


「それはトーヤに」


トーヤが頷いた。


「任せろ」


任せるのか。


まあいい。


カサンドラ副院長が学園保護規定を展開する。


「旧地下聖堂への接近にあたり、今回は三層の保護を設定します」


羊皮紙の光が広がる。


「第一。本文非閲覧規定。第二断片本文を、学園生徒および教職員に対して強制閲覧させることを禁止」


「規定で止まるんですか?」


俺が聞くと、副院長は微笑む。


「止まりません」


「ですよね」


「ですが、止める根拠になります」


なるほど。


物理的な盾ではない。

でも、後から注釈や封印を通すための法的外枠になる。


本当に、規定で殴る人だ。


「第二。帰還保護規定。今回の接近者は、本人意思に基づき進入し、本人意思に基づき撤退可能であることを明記」


リュミエルが頷く。


「降りる権利」


「はい」


副院長が続ける。


「第三。保留保護規定。判断不能、本文汚染、役割固定の兆候が出た場合、即時保留を選択できる」


保留。


ここでも出てくる。


今の俺たちの武器。


「つまり、迷ったら止まれ」


フィン先生が言った。


「進むな。読むな。決めるな。保留しろ」


「分かりました」


「本当に?」


リュミエルが言う。


「本当」


「今回は特に」


「分かってる」


「あなたは、仲間が危険だと保留を忘れる」


刺さる。


その通りだ。


ミラの時も危なかった。

ナツキの手に掴まれた時も危なかった。


俺は誰かが危険だと、すぐに決めようとする。


助ける。

切る。

帰す。

書き換える。


それは、俺の弱点だ。


「忘れたら止めてくれ」


リュミエルは短く言う。


「止める」


迷いがない。


ありがたい。


少し怖い。


準備が進む。


ヴァイスは半壊採取具から、使える部品だけを外した。


「完全な反転鏡はもう使えない」


「どうする?」


「小型の反転片として使う。鐘壁の表面ではなく、裏側の反響痕だけを拾う」


「どれくらい保つ?」


「長くて三分」


短い。


「短いな」


「贅沢を言うな。半壊だ」


「はい」


三分。


その間に鐘壁の裏側に到達し、本文再生処理を確認し、注釈を入れて止める。


無茶だ。


だが、無茶ではなく最低条件。


フィン先生が言いそうだ。


先に言われる前に飲み込んでおく。


「経路は?」


俺が聞くと、ヴァイスが図面に線を引いた。


「正面通路は使わない。旧地下聖堂入口の手前、魔導科準備室から伸びていた裏側接続痕を辿る」


「魔導科準備室?」


「エリオットが承認印偽造に使った経路だ。そこから黒鐘廊管理層へ接続していた。逆に辿れば、鐘壁の裏側に出られる可能性がある」


「敵が使った道を使うのか」


「危険だが、正面よりはましだ」


確かに。


正面は読まされる。


裏道は罠かもしれない。


どちらも危険。


なら、読まない可能性がある方を選ぶ。


「魔導科準備室には誰が入れる?」


ヴァイスが手を上げた。


「私の権限で入れる」


「エリオットの件で警戒されてないか?」


「されている。だが、私の承認印が偽造された被害者でもある。調査名目なら通る」


カサンドラ副院長が微笑む。


「通します」


強い。


「では、現地班はアキト、リュミエル、トーヤ、ヴァイス」


「ヴァイスも行くのか?」


「当然だ」


ヴァイスが言った。


「裏側接続痕を扱えるのは私だ。貴様だけで行けば、絶対に変なものを読む」


「否定しきれないのが悔しい」


「否定できる行動をしろ」


正論。


腹立つ。


でも、ヴァイスが来るのは助かる。


魔導科準備室、反転片、魔力痕跡。


今回は彼の領域だ。


外側班は、フィン先生、カサンドラ副院長、ノルン、セリア、レオン、ミラ、エリオット。


ミラは休憩。

エリオットは監視対象。

ノルンは発話保護。

セリアは照明炎。

レオンは神殿式反応。

副院長は規定。

フィン先生は全体指揮。


役割が整理されていく。


でも、俺は意識して言い直す。


役割ではない。


選んだ担当。


降りられる担当。


大事だ。


「出発前に、現在記述を確認する」


リュミエルが言った。


「俺たちの?」


「そう」


リュミエルは俺を見る。


「アキト・アオキ」


「俺は異物ではなく、人間だ」


何度も言ってきた言葉。


でも、今は少しだけ変える必要がある気がした。


「勝手に貼られた理不尽を、本人と共に剥がす」


そこで止める。


「そして、本人が選べる余白を守る」


リュミエルの目が少しだけ動いた。


「追加?」


「ああ」


今の俺には必要な一文だ。


剥がすだけでは足りない。


剥がした後、何を選ぶか。


そこは本人のものだ。


リュミエルが頷く。


「登録」


登録と言われると少し怖い。


でも、彼女の声なら大丈夫だ。


次にリュミエル。


彼女は自分の右手首を見た。


「私は器ではない」


声は静かだった。


「私は、自分で選ぶ自由を望む者」


少し間を置いて、続ける。


「そして、選ばない自由も守る者」


俺は彼女を見た。


リュミエルも、変わっている。


神に器と呼ばれた彼女が、今は選ばない自由を言葉にした。


その変化が、妙に眩しい。


トーヤが言う。


「俺はただの盾ではない」


低い声。


「守る相手を選べる盾だ」


そこから、少し考えた。


「そして、退く道も守る」


トーヤらしい。


短い。

重い。

強い。


ヴァイスは腕を組み、嫌そうに顔をしかめた。


「私もやるのか」


「やった方が安全」


俺が言うと、ヴァイスは舌打ちした。


「私は最大火力を誇示する魔導師ではない」


少し早口。


「私の魔術は、制御によって価値を示す」


それから、視線を逸らして続けた。


「そして、事実を曲げる記録を許さない」


おお。


いいじゃないか。


「いいな」


「黙れ」


褒めたのに。


でも、耳が少し赤い。


たぶん効いている。


ノルンの発話保護が、四つの現在記述を淡く包む。


「保護しました」


「ありがとう」


「皆さん、気をつけてください」


ノルンの声は震えている。


でも、逃げていない。


セリアが炎の小瓶を渡してくる。


「これ、持って行きなさい」


「照明炎?」


「そう。影が出たら照らす。燃やすのは最後」


「成長してる」


「うるさい」


小瓶の中で、白橙の炎が揺れている。


セリアの炎。


ミラの帰り道を照らした炎。


「助かる」


「絶対戻ってきなさいよ」


「戻る」


「本当に?」


「それ、みんな使うようになったな」


「便利だから」


便利らしい。


レオンは短く言った。


「神殿式反応が出たら、すぐに通信する」


「頼む」


「アキト」


「何だ?」


「黒鐘廊が俺の剣を使おうとした時、お前は俺を信じた」


「ああ」


「今度は、俺が外から止める」


その言葉は、静かに響いた。


「頼りにしてる」


レオンは少しだけ目を伏せた。


「任せろ」


ミラは寝台から手を振った。


「アキトくん」


「何だ」


「読まない」


「読まない」


「走らない」


「走らない」


「甘いもの忘れない」


「それは今関係あるか?」


「ある」


「分かった。忘れない」


ミラは満足そうに頷いた。


「よし」


何がよしなのか分からない。


でも、ミラがよしならよしだ。


俺たちは地下演習室を出た。


廊下は静かだった。


学園の夜。


いや、もう夜なのか朝なのか分からない。


時間感覚が狂っている。


窓の外は暗い。


遠くで風が木々を揺らしている。


こんな普通の夜の下で、旧地下聖堂の本文が暴走しようとしている。


世界は普通の顔で異常を隠す。


本当に厄介だ。


魔導科準備室へ向かう道中、ヴァイスが先頭を歩いた。


いつものように背筋が伸びている。


ただ、少しだけ歩幅が速い。


「焦ってる?」


俺が聞くと、ヴァイスは振り返らずに言った。


「焦っていない」


「顔には出てないけど、歩幅に出てる」


「貴様まで観察するな」


「リュミエルに鍛えられた」


「迷惑な技能だ」


リュミエルが横で静かに言う。


「便利よ」


「本人の前で言うな」


ヴァイスは少しだけ息を吐いた。


「魔導科準備室は、私の領域だ」


「うん」


「そこで承認印を偽造され、黒鐘廊への接続に使われた」


「うん」


「不愉快だ」


「だろうな」


ヴァイスの声は冷たい。


だが、その奥にあるのは怒りだけではない。


責任。


自分の管理下で起きたことへの責任。


「取り戻せばいい」


俺は言った。


ヴァイスが横目で俺を見る。


「簡単に言う」


「簡単ではない。でも、やることはそれだ」


ヴァイスは少しだけ黙った。


「……貴様は、たまに腹立たしいほど単純だな」


「褒めてる?」


「半分だけ」


半分もあれば上等だ。


魔導科準備室に着く。


重い扉。

魔導式の錠。

承認印の確認台。


ヴァイスが自分の印章を取り出す。


少しだけ手が止まった。


偽造された印。


利用された権限。


それをもう一度使う。


嫌だろう。


でも、ヴァイスは逃げなかった。


「ヴァイス・ローレン。魔導科上位生徒権限により、準備室を開錠する」


印章が光る。


扉の魔導錠が反応する。


一瞬、黒い線が混じった。


リュミエルが目を細める。


「汚染」


「分かっている」


ヴァイスは反転片をかざす。


「表ではなく、裏を見る」


黒い線は扉の表面ではなく、鍵穴の裏側へ逃げる。


俺は注釈枠を薄く重ねた。


――これは入室許可であり、黒鐘廊接続許可ではない。

――承認印の使用は、魔導科準備室への開錠に限定する。

――裏側接続痕への自動同期を禁止する。


黒い線が弾けた。


扉が開く。


中は普通の準備室だった。


棚。

魔導具。

演習用の制御石。

記録板。

薬品瓶。

予備の杖。


一見、何もおかしくない。


だが。


「匂いが変だ」


トーヤが言った。


「匂い?」


「古い紙の匂いが混じっている」


俺は息を吸う。


確かに。


魔導薬品の匂いの奥に、乾いた紙の匂いがある。


旧記録保管庫や舞台袖で感じた匂い。


「接続痕は?」


ヴァイスが床の一角を指した。


「ここだ」


何もない床。


だが、反転片をかざすと、薄い黒線が浮かんだ。


魔導科準備室から、旧地下聖堂の裏側へ伸びる線。


エリオットが使った道。


いや、使わされた道。


「ここから入る」


ヴァイスが言う。


「入るといっても、物理的に潜るわけではない。管理層へ一時的に接続し、鐘壁裏側へ転写する」


「転写?」


「身体ごと移動するのではなく、位置情報を裏側に重ねる」


「それって危なくないか?」


「危ない」


即答。


「もっと安心できる説明は?」


「ない」


ですよね。


リュミエルが精神保護を広げる。


「接続時間は?」


「三分」


ヴァイスが言う。


「三分を超えたら、裏側から戻れなくなる可能性がある」


「分かりやすい制限だ」


俺は息を吐く。


三分。


その間にやること。


鐘壁裏側へ到達。

本文再生処理の外側確認。

注釈挿入。

遮断。

帰還。


「行こう」


俺は言った。


「走らないで」


リュミエルが言う。


「分かってる」


「読まないで」


「分かってる」


「迷ったら?」


「保留」


「よろしい」


ヴァイスが床に反転片を置く。


トーヤが盾を構える。


俺はセリアの灯火を手にした。


白橙の炎が揺れる。


魔導科準備室の床が、紙のように薄くなる。


黒い線が裏返る。


次の瞬間。


俺たちは、旧地下聖堂の裏側に立っていた。


そこは通路ではなかった。


壁の裏。


いや、世界の裏。


石壁の背面に、無数の文字列が走っている。


表側では聖堂の装飾に見えるものが、裏側では命令線になっていた。


祈りの文。

神託の文。

処分記録。

役割固定。

校閲済み。

閲覧誘導。


全部、壁の裏で絡んでいる。


吐き気がするほど整っている。


「見るな」


リュミエルが言った。


「見てない」


正確には、見えそうになるのを外側へ逸らしている。


本文ではない。


構造だけ。


表面だけ。


ヴァイスが反転片を見た。


「鐘壁まで三十歩」


「三分で?」


「急げ。だが走るな」


難しい注文だ。


俺たちは足音を抑えて進む。


壁の裏側には、細い赤い光が走っている。


本文再生準備。


時間がない。


だが、焦るな。


焦れば読む。


読むな。


読まない自由を守れ。


前方に、大きな壁が見えた。


鐘壁。


裏側から見たそれは、巨大な楽器のようだった。


無数の溝。

反響管。

刻まれた記録線。

中央に、黒い鐘の紋。


その奥で、文字が震えている。


本文だ。


今にも広がりそうな、黒い文章の塊。


見てはいけない。


「視線を外せ」


リュミエルが言う。


俺は目を細め、文字ではなく輪郭だけを見る。


ヴァイスが反転片を掲げる。


「再生処理、起動前。猶予、九十秒程度」


「十分……ではないな」


「十分にする」


ヴァイスが言う。


「アキト、外側だけだ。本文に触れたら終わる」


「分かってる」


俺は鐘壁の裏側に手をかざす。


触れない。


距離を保つ。


注釈を入れるのは、本文ではない。


再生処理。


その条件部分。


【第二断片本文】

【自動再生準備】

【対象:学園内役割保持者】

【配布形式:鐘壁反響】

【目的:代償提示】


読めそうになる。


危ない。


俺は視線を逸らす。


目的までは見ない。


いや、今見た。


まずい。


胸の奥に、声が響く。


――あなたは、降りられない。


違う。


読んでない。


まだ読んでない。


リュミエルの手が俺の腕を掴む。


「アキト」


「大丈夫」


「嘘」


「少し食らった」


「下がって」


「まだいける」


「下がって」


声が鋭い。


俺は一歩下がる。


悔しい。


でも、正しい。


「ヴァイス」


俺は言った。


「条件文の外枠だけ拾えるか?」


「拾っている」


「読み上げるな。構造だけ教えろ」


ヴァイスは反転片を睨む。


「本文再生には三条件。鐘音同期、管理者不在、代償未確定」


「管理者不在?」


「空席を凍結した影響だ。管理者がいないため、本文が自動再生で代償を確定しようとしている」


最悪だ。


空席を凍結したことで、本文が暴走に移った。


俺たちの手が、次の罠を動かした。


だが、後悔している暇はない。


「なら、管理者不在を理由に再生するのを止める」


「どうやって」


リュミエルが聞く。


俺は息を整える。


「管理者不在だからこそ、再生不可にする」


ヴァイスが目を細める。


「逆条件か」


「そう。管理者がいないなら、本文配布の承認者もいない」


カサンドラ副院長がいれば、もっと綺麗な規定文にできたかもしれない。


でも、今ここに副院長はいない。


なら、俺がやる。


「注釈を入れる」


リュミエルが俺を見る。


「短く。外側だけ」


「分かってる」


俺は鐘壁の裏側に向き直る。


黒い本文は見ない。


反響管だけを見る。


再生処理だけを見る。


【注釈挿入】


――ただし、管理者権限が空席または凍結状態にある場合、第二断片本文の自動再生は承認不能とする。

――ただし、本文配布対象者の本人意思確認なしに、代償提示を行ってはならない。

――ただし、役割を降りる権利を奪う記述は、学園保護規定および帰還空欄条件に抵触する。

――ただし、読者への強制呼びかけ、命令文、役割固定文は、本文ではなく敵性配布物として隔離する。

――本文再生は、全対象の読まない自由を侵害するため、保留。


魔力が一気に抜けた。


重い。


思ったより重い。


鐘壁が震える。


黒い本文が、こちらを向いた気がした。


読むな。


読むな。


読むな。


文字が目の端で暴れる。


――君は。

――あなたは。

――お前は。


「見るな!」


リュミエルが俺の視線を手で遮る。


白い指が視界を塞ぐ。


現実の温度。


助かる。


鐘壁が唸る。


【承認不能】

【本人意思未確認】

【読まない自由】

【処理保留】


入った。


だが、まだ止まらない。


黒い鐘の紋が震える。


【代替承認者検索】


「来るぞ」


トーヤが言った。


壁の裏から、黒い手が伸びる。


狙いは俺ではない。


ヴァイス。


魔導科上位生徒。

準備室権限者。

反転片保持者。


代替承認者にする気だ。


「ヴァイス!」


俺が叫ぶ前に、ヴァイスは歯を食いしばった。


「私は承認しない!」


黒い手が彼の腕に絡む。


【魔導科権限】

【準備室管理】

【承認印】


「違う!」


ヴァイスの声が響く。


「私の権限は、事実を曲げるためにあるのではない!」


反転片が光る。


「私の魔術は、制御によって価値を示す!」


黒い手が揺らぐ。


だが、消えない。


トーヤが盾で割り込む。


「下がれ」


黒い手が盾に絡む。


【盾】


「俺はただの盾ではない」


トーヤが言う。


「退く道も守る」


盾が床に固定される。


黒い手の進路が塞がる。


リュミエルが精神保護を広げる。


「承認の偽装を拒否します」


彼女の声は静かだった。


「本人意思なき承認は、承認ではありません」


鐘壁が大きく震えた。


【代替承認失敗】


よし。


止まる。


そう思った瞬間。


黒い鐘の紋が割れた。


中から、紙片が落ちる。


白い紙。


帰還空欄に似ている。


だが、違う。


これは黒い縁取りがある。


ヴァイスが叫ぶ。


「見るな!」


俺は反射で目を逸らす。


紙片が勝手に開く。


見ていないのに、声が聞こえた。


「なら、読まない者に読ませよう」


名無しの観測者の声。


いや。


違う。


黒鐘廊が使う、役割名の声。


「読まない自由を守る者ほど、読まされた時によく壊れる」


背筋が凍る。


紙片の文字が、こちらではなく外へ向かって放たれる。


地下演習室。


外側班の方へ。


まずい。


「外へ飛んだ!」


俺は通信石に叫ぶ。


「セリア! ノルン! 本文片が行く!」


通信石の向こうで、セリアの声。


『見えてる!』


ノルンの声。


『発話保護、展開します!』


レオン。


『神殿式反応、急増!』


フィン先生の声が飛ぶ。


『全員、読むな! セリア、照らせ!』


セリアが叫ぶ。


『照らす!』


通信石の向こうで、炎の音がした。


紙片の気配が一瞬止まる。


しかし。


別の声が混じった。


弱い声。


エリオット。


『僕が……読みます』


「駄目だ!」


俺は叫んだ。


エリオットは第二断片本文閲覧者だ。


もう一度読めば、完全に持っていかれる。


『僕なら、もう読んでいるから……』


「違う!」


俺は鐘壁の裏側で叫ぶ。


「それは黒鐘廊の理屈だ!」


一度傷ついた者なら、もう一度傷ついてもいい。


一度読まされた者なら、また読める。


一度裏方だった者なら、また裏に回ればいい。


違う。


絶対に違う。


「エリオット、お前は本文のゴミ箱じゃない!」


通信石の向こうが静まる。


「読んだからって、また読む役になる必要はない!」


沈黙。


ノルンの声が震える。


『エリオットさん、読まなくていいです!』


ヴァイスが通信石に向かって叫んだ。


「エリオット・ベイル!」


声が鋭い。


「貴様は証言者だ! 本文閲覧者ではない!」


その言葉が届いた。


通信石の向こうで、エリオットの息を呑む音がした。


『……はい』


セリアの炎が強くなる。


『燃や……照らす! この紙、影が濃い!』


レオンが言う。


『神殿式を押さえる!』


フィン先生。


『ノルン、発話保護をエリオットへ。セリア、紙片を照らし続けろ。ミラ、見るな』


ミラの声が遠くで聞こえる。


『見ない! 甘いもの見てる!』


こんな時に。


いや、それでいい。


甘いものを見ろ。


本文を見るな。


鐘壁の裏側で、黒い再生処理が揺らぐ。


外側班が抑えている。


今だ。


「ヴァイス、反転片!」


「残り二十秒!」


「十分!」


十分ではない。


でも、十分にする。


俺は鐘壁の再生処理へ、最後の注釈を入れる。


【追加注釈】


――一度本文を読まされた者を、再閲覧対象として優先してはならない。

――読まされた経験は、再度読ませる許可ではない。

――本文閲覧者は、本文の容器ではない。

――証言者を閲覧媒体として扱うことを禁止する。

――本文片の外部配布を即時停止。

――未配布本文片は隔離保存。

――配布済み本文片は照明炎および発話保護により無効化。

――全処理、保留。


鐘壁が軋む。


黒い鐘の紋がひび割れる。


【本文配布停止】


【自動再生不能】


【代償提示不能】


【処理保留】


入った。


今度こそ。


鐘壁の震えが止まる。


黒い本文の塊が、奥へ沈んでいく。


読まれないまま。


俺は膝をつきそうになった。


トーヤが支える。


「立てるか」


「たぶん」


「たぶんは駄目だ」


「少し無理」


「なら支える」


短い。


ありがたい。


リュミエルが俺の顔を覗き込む。


「目は?」


「読んでない」


「本当に?」


「少し、声は聞いた」


「影響は?」


「腹が立ってる」


「それはいつも」


「なら大丈夫かも」


「大丈夫ではないけど、戻ってはいる」


厳しい判定だ。


ヴァイスが反転片を見る。


「帰還する。時間切れだ」


旧地下聖堂の裏側が崩れ始める。


鐘壁の裏。

命令線。

反響管。

黒い紋。


全部が遠ざかる。


魔導科準備室へ戻るための線が、薄く光った。


俺たちはその線に乗る。


足元が紙みたいにめくれる。


次の瞬間。


魔導科準備室へ戻っていた。


空気が違う。


薬品の匂い。

棚。

魔導具。

現実。


俺はその場に座り込んだ。


リュミエルが隣に膝をつく。


トーヤが盾を下ろす。


ヴァイスは反転片を見て、顔をしかめた。


「完全に壊れた」


「半壊から?」


「ああ。全壊だ」


「すまん」


「謝るな。仕事はした」


それは、たぶん最高評価だ。


通信石が光る。


フィン先生の声。


『状況』


「鐘壁の自動再生を止めました。本文配布も停止。そっちは?」


『本文片一枚を照明炎と発話保護で無効化。エリオットは読んでいない。ミラも無事だ』


力が抜けた。


よかった。


本当に。


『ただし』


フィン先生の声が低くなる。


やめてほしい。


この「ただし」はだいたい悪い。


『鐘壁停止の直後、旧地下聖堂の第二幕通路が開いた』


「は?」


『正面入口ではない。内側からだ』


リュミエルの表情が変わる。


ヴァイスも顔を上げる。


フィン先生は続けた。


『そして、入口に文字が出ている』


「内容は?」


『管理通知だ。本文ではない』


少しだけ安心する。


だが、次の言葉で消えた。


『第二断片、本文再生失敗』


一拍。


『代替処理として、直接査読を開始する』


直接査読。


嫌な響きだった。


「対象は?」


俺は聞いた。


通信石の向こうで、フィン先生が少し黙った。


それから答えた。


『学園全体ではない』


よかった。


そう思ったのは一瞬だった。


『対象は、お前だ。アキト』


魔導科準備室の空気が凍った。


通信石から、最後の通知が響く。


『第二断片は、編集者本人への査読要求に切り替わった』


俺は目を閉じた。


読ませるのを止めた。


ばら撒きも止めた。


エリオットに再閲覧させることも止めた。


だから。


次は、俺に直接来る。


本当に、しつこい。


いや。


これはもう、執念だ。


リュミエルが俺の手首を掴んだ。


「行かせない」


声が静かだった。


でも、強かった。


俺はゆっくり息を吐く。


「行かない」


全員が俺を見る。


「査読要求には応じない」


自分でも驚くくらい、はっきり言えた。


「でも、要求の外側は見る」


リュミエルの目が細くなる。


「また危ない言い方」


「分かってる」


俺は通信石を見る。


「第二断片は、俺に読ませたい。なら、読む必要はない」


胸の奥で、何かが静かに燃えていた。


怒りではない。


たぶん、もっと面倒なものだ。


「査読要求を、差し戻す」


ヴァイスが小さく笑った。


「貴様らしい地味な反撃だな」


「地味は強いんだよ」


俺は立ち上がる。


少しふらついた。


リュミエルが支える。


今度は、素直に借りた。


「戻ろう」


俺は言った。


「地下演習室へ」


第二断片。


直接査読。


編集者本人。


いいだろう。


読んでほしいなら、読まない。


選ばせたいなら、保留する。


書かせたいなら、空欄のまま返す。


次の戦いは、査読要求の差し戻しだ。


異世界に来てまで、まさか差し戻しで戦うとは思わなかった。


でも。


俺は編集者だ。


差し戻しは、得意分野である。

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