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第72話 保留という武器

保留。


その二文字が、地下演習室に残っていた。


帰還空欄の保護封筒には、淡い文字が浮かんでいる。


――承認判断:保留。

――第三幕側承認、未成立。

――本名開示、延期。


延期。


未成立。


保留。


普通なら、前に進んでいない言葉だ。


決断していない。

答えを出していない。

問題を先送りにしている。


でも、今は違った。


これは逃げではない。


ミラが、自分の意思で選ばなかった結果だ。


選ばないことを選んだ。


黒鐘廊や神殿が一番嫌うやつだ。


あいつらは決めたがる。

役割を与えたがる。

台本に書き込みたがる。


器。

神の剣。

沈黙した治癒師。

影の獣。

外れ職。

主人公候補。

次期観測者候補。


どれもこれも、本人より先に決められた名前だ。


なら。


保留は、立派な抵抗になる。


「……保留が武器になるとはな」


俺が呟くと、フィン先生が黒茶を飲んだ。


「現実を見ろ。決めない権利は、決める権利と同じくらい重要だ」


「先生、たまにまともなこと言いますよね」


「たまにとは何だ」


「黒茶で感覚が麻痺してるのかと」


「飲むか?」


「遠慮します」


即答した。


あれは飲み物というより、精神修行だ。


ミラは寝台の上で、軽めの焼き菓子を食べていた。


トーヤが本当に買ってきた。


いや、買ってきたというより、学園厨房から正式な許可を取って運んできたらしい。


盾の行動力、方向を間違えると怖い。


「これ、いいね」


ミラが小さく言った。


「口当たり軽い」


トーヤが頷く。


「必要量か」


「うん。必要量」


「追加するか」


「今はいい」


「分かった」


何の会話だ。


でも、少し安心する。


ミラの声は、まだ弱い。

でも、さっきより戻っている。


ノルンの治癒符も効いている。


セリアはミラの枕元に座り、腕を組んでいた。


「食べたら寝なさいよ」


「お母さん?」


「燃やすわよ」


「それはお母さんじゃない」


「じゃあ監視役」


「怖い監視役だなあ」


セリアは怒った顔をしている。


でも、ずっとミラのそばから離れない。


分かりやすい。


ヴァイスは少し離れた場所で、半壊した採取具を修理していた。


「半壊は壊れていない」と言っていたが、どう見ても壊れている。


金属板は割れ、反転鏡にはひびが入り、魔導文字は一部焦げている。


それでも、ヴァイスは細い工具で修復を続けていた。


「それ、直るのか?」


俺が聞くと、ヴァイスは顔を上げずに言った。


「直す」


「質問の答えになってない」


「直すと言った」


「はい」


強い。


職人と意地っ張りは、紙一重だ。


レオンは壁際で静かに立っていた。


剣は抜いていない。

鞘に収めたままだ。


ただ、手は柄に近い。


いつでも抜ける位置。

だが、抜かない位置。


彼なりの緊張感がある。


エリオットはまだ寝かされている。


短い証言の後、また意識を落とした。


ノルンによると、命に別状はない。


ただし、黒鐘廊の残響が神経と記録層に絡んでいるらしい。


説明が怖い。


神経と記録層。


普通の怪我よりずっと嫌だ。


「エリオットは、次にいつ話せる?」


フィン先生が聞く。


ノルンは少し考えた。


「半日後なら、短時間。安全を取るなら一日置きたいです」


「一日置く」


フィン先生は即答した。


「急がないんですか?」


ノルンが少し驚いた顔をする。


「急いで壊した証言は使えない」


フィン先生は淡々と言った。


「それに、黒鐘廊は急がせたがる。なら、こちらは急がない」


なるほど。


敵が急かすなら、立ち止まる。


敵が決めさせるなら、保留する。


敵が読ませるなら、読まない。


地味だ。


だが、かなり強い。


俺たちは派手な必殺技で勝っているわけではない。


読まない。

選ばない。

急がない。


そんな消極的に見える行動で、どうにか足場を作っている。


なろう系主人公としては地味すぎる。


だが、俺は主人公じゃない。


編集者だ。


いや。


今は、それすら保留でもいいのかもしれない。


「何を考えているの?」


リュミエルが横から聞いてきた。


「顔?」


「目」


「目まで情報漏洩するのか」


「あなたは分かりやすい」


もう諦めよう。


「編集者って役割も、降りられるべきなのかなって思った」


リュミエルは、すぐには答えなかった。


少しだけ、目を伏せる。


「降りたいの?」


「今すぐではない」


「なら、今は考えすぎない」


「雑じゃない?」


「今のあなたには必要」


そうかもしれない。


役割を降りる権利。


エリオットが証言した、黒鐘廊の代償。


一度代償を払うと、その人は自分で役割を降りられなくなる。


それは、怖い。


自分で選んだはずの役割でも、降りられなくなった瞬間に呪いになる。


俺は編集者でいたい。


でも、編集者でしかいられなくなったら。


未完の編集者。


あの空っぽの俺に近づく。


「アキト」


リュミエルの声が少し柔らかくなる。


「あなたは、今ここで編集者を降りる必要はない」


「うん」


「でも、降りてもいいという余白は、持っていていい」


その言葉で、胸の奥が少し軽くなった。


降りなくていい。

でも、降りてもいい。


たったそれだけで、役割は呪いではなくなる。


「リュミエルも?」


俺は聞いた。


「私も?」


「器ではない者、って条件に呼ばれた。でも、それを否定し続けるのも役割になるかもしれない」


リュミエルの右手首。


神約の呪印。


彼女はそれを静かに見た。


「そうね」


短い返事。


でも、重い。


「私は器ではない。でも、器ではない者として戦い続けることも、別の檻になるかもしれない」


「……ごめん」


「なぜ謝るの?」


「俺が言うことじゃなかったかもしれない」


「いいえ」


リュミエルは首を横に振った。


「必要な指摘」


それから、少しだけ口元を緩めた。


「ただし、今は降りない」


「そうか」


「ええ。今は、あなたを止める役が必要だから」


「それも役割では?」


「仮契約」


「便利な言葉だ」


「カサンドラ副院長に教わった」


副院長が遠くで微笑んだ。


聞こえていたらしい。


怖い。


柔らかい笑みで情報収集するな。


「さて」


カサンドラ副院長が、保護封筒を机の中央に置いた。


「次に確認すべきは、黒鐘廊管理者権限の一部空席です」


ミラが菓子を持った手を止める。


「また不穏なやつ」


「不穏です」


副院長は否定しない。


「ですが、本名開示を保留した以上、空席が誰かに埋められる前に、空席そのものへ保護措置をかける必要があります」


「空席に保護?」


俺は聞き返す。


「はい。誰も座らないようにするための保護です」


空席を守る。


面白い発想だ。


普通なら、空いた席は埋めるものだ。


だが、今回は違う。


黒鐘廊の管理者権限。


そこに誰かが座れば、役割固定される。


エリオットは座りかけた。

俺も危なかったかもしれない。

ミラの承認で本名開示すれば、また動く可能性がある。


なら、空席のまま固定する。


保留と同じだ。


「未定席として保護するのか」


俺が言うと、副院長は頷いた。


「その通りです」


フィン先生が黒茶を置く。


「ただし、問題がある」


「何です?」


「空席を保護するには、席の輪郭を知らなければならない」


嫌な予感。


「つまり?」


「黒鐘廊管理者権限の外側を確認する必要がある」


ですよね。


また見るやつだ。


ただし、中身ではない。


外側。


最近、そればかりだ。


本文は読まない。

本名は見ない。

管理情報だけ。

外側だけ。

削除跡だけ。

輪郭だけ。


地味だ。


でも、その地味さが命綱だ。


「俺が見る必要は?」


「ある」


フィン先生が言った。


「ただし、お前一人ではない」


リュミエルが隣で頷く。


「私が精神保護」


ヴァイスが半壊採取具を掲げる。


「私が反転鏡」


ノルンが言う。


「私が発話保護」


レオンが言う。


「俺が神殿式反応監視」


カサンドラ副院長が言う。


「私が学園保護規定」


トーヤが言う。


「俺が退避固定」


セリアが言う。


「私が照明」


ミラが焼き菓子を持ち上げる。


「私は糖分担当」


「寝てろ」


全員に言われた。


少しだけ笑いが起きた。


ミラはむっとした顔をしたが、どこか嬉しそうだった。


たぶん、全員から同時に突っ込まれるくらいには戻ってきた、ということだ。


「ミラはどうする?」


俺が聞くと、フィン先生は即答した。


「休む」


「でも、第一帰還者ですし……」


「休む」


二回目。


強い。


ミラも肩をすくめる。


「はいはい。休みますよー」


「本当に」


ノルンが言う。


「本当に」


ミラが真似した。


リュミエルが俺を見る。


「あなたが言われている気持ち、分かった?」


「少し」


「よろしい」


本当に先生が増えた。


いや、俺の問題かもしれない。


準備が始まった。


保護封筒は開かない。


その表面に反転鏡を向ける。


封筒の中にある帰還空欄には直接触れない。


見るのは、通知の外側。


黒鐘廊管理者権限、一部空席。


その文言がどこから来たのか。


空席の輪郭だけを採取する。


「注釈枠を作る」


俺は言った。


全員が静かになる。


【注釈枠】


――これは黒鐘廊管理者権限を取得するための閲覧ではない。

――これは空席に着座するための閲覧ではない。

――これは空席を保留し、誰も役割固定されないよう保護するための外側確認である。

――本名、本文、命令文、読者への呼びかけを取得してはならない。

――取得対象は、空席の輪郭、接続条件、着座誘導線、権限移譲痕に限定する。

――観測者、管理者、候補者という呼称への反応を保留する。

――異常時は即時遮断。

――空席は、空席のまま保持する。


最後の一文を入れた瞬間、保護封筒がわずかに震えた。


反応した。


ヴァイスが目を細める。


「よし。枠は通った」


「危険反応は?」


レオンが言う。


「神殿式、微弱。黒鐘廊式、中程度。だが、接続は浅い」


浅い。


今のところは。


「始めるぞ」


フィン先生が言った。


反転鏡が光る。


保護封筒の表面に、薄い線が浮かぶ。


黒い椅子。


そう見えた。


実体ではない。


記録上の席。


座面は空白。

背もたれには文字がない。

脚の部分に、複数の線が絡んでいる。


旧記録保管庫。

黒鐘廊。

舞台袖。

第三幕外側記録。

神殿旧式記録官封印。


線が複雑に絡んでいる。


その中心だけが、空いている。


誰かが座るための場所。


いや。


座らせるための場所。


「気持ち悪いな」


俺は呟いた。


「同感だ」


レオンが言う。


「勇者候補補強式に似ている。役割の席を先に作り、人間をそこへ合わせる構造だ」


「人間用の椅子じゃなくて、椅子用の人間を作る感じか」


「そうだ」


最悪だ。


椅子に合わせて骨を曲げるようなものだ。


役割固定の本質が、少し見えた気がした。


役割が先。

人間が後。


神殿の世界観では、それが正しいのだろう。


神が決めた台本。

その役に人間が入る。


俺は逆がいい。


人間が先で、役割は後。


しかも、降りられるべきだ。


「空席の接続条件は?」


フィン先生が聞く。


ヴァイスが鏡面を読む。


「候補条件が複数ある」


「表示して。ただし本文以外」


「分かっている」


鏡面に条件が浮かぶ。


【名前を失った記録官】

【帰還未完了者を観測した者】

【第三幕側道に接触した者】

【役割を拒んだ編集者】

【第一帰還者の承認を得た者】

【第二断片本文閲覧者】


多い。


そして、嫌なことに。


候補が俺たちの周りに多すぎる。


帰還未完了者を観測した者。

それは俺。


第三幕側道に接触した者。

俺、リュミエル、トーヤ、ミラ。


役割を拒んだ編集者。

俺。


第一帰還者の承認を得た者。

ミラが承認した誰か。


第二断片本文閲覧者。

エリオット。


空席は、俺たちの誰かを狙っている。


「候補を多く設定して、誰かが座るまで待っているのね」


リュミエルが言った。


「いやらしい」


「黒鐘廊らしいな」


俺は言う。


「席が空いている限り、誰かを誘える」


「なら、空席のまま封じる必要がある」


フィン先生が言った。


「方法は?」


「候補条件を無効化するか、着座処理を保留し続けるか」


無効化。


候補条件を切る。


できそうだ。


だが、危ない。


条件に俺たちの経験が含まれている。


下手に切れば、ミラの帰還やエリオットの証言まで傷つける可能性がある。


「切らない」


俺は言った。


「条件は消さない」


リュミエルが頷く。


「消せば、記録そのものが壊れる」


「だから、注釈を入れる」


フィン先生が俺を見る。


「どんな」


俺は椅子の輪郭を見る。


座らせるための席。


なら、座れないようにするのではなく。


座る前に本人確認と同意確認を必須にする。


いや、それだけでは弱い。


黒鐘廊は同意を偽造する。


エリオットは望んだと思わされた。


本人意思が汚染される。


なら。


「本人が、降りる権利を保持していない限り、着座不可」


俺は言った。


全員が静かになる。


「黒鐘廊の代償は、役割を降りる権利を奪うことだった。なら逆に、降りる権利が守られていない者は、管理者権限に座れないようにする」


ヴァイスが目を細める。


「空席の条件と矛盾するぞ」


「だから効く」


たぶん。


黒鐘廊は、管理者を役割固定したい。


でも、注釈でこう入れる。


いつでも降りられる者しか、その席には座れない。


それは黒鐘廊にとって、管理者として使えない人間だ。


だって、途中で降りるかもしれない。


役割固定できない。


「さらに」


リュミエルが続けた。


「第三者承認だけでは不可。本人の発話による意思確認を必要とする」


ノルンが頷く。


「発話保護を通した声ですね」


「はい」


カサンドラ副院長が微笑む。


「学園保護規定としても入れましょう。本人が役割を降りる権利を保持していること。本人の発話が保護されていること。第三者の承認だけで着座処理を行わないこと」


フィン先生が頷く。


「それで保留しやすくなる」


保留の仕組みを作る。


空席を埋めないための条件。


「やる」


俺は言った。


リュミエルが俺の腕を掴む。


「浅く」


「分かってる」


「空席に触らない」


「触らない」


「椅子に座らない」


「座らない」


ミラが寝台から言う。


「変な確認だけど大事だね」


「本当にな」


俺は息を吸う。


注釈挿入。


ただし、対象は空席そのものではない。


空席へ至る着座処理。


そこに条件を足す。


【注釈挿入】


――ただし、当該管理者権限への着座処理は、本人が役割を降りる権利を保持している場合に限る。

――ただし、本人の発話保護下での意思確認なしに、着座処理を進めてはならない。

――ただし、第三者承認、観測記録、役割条件のみをもって本人同意と見なしてはならない。

――ただし、黒鐘廊の代償により降りる権利が奪われている者は、管理者権限へ着座できない。

――ただし、本人が保留を選んだ場合、着座処理は凍結される。

――空席は、本人性回復が完了するまで空席として保持される。


魔力が抜ける。


少し重い。


だが、耐えられる。


頭痛はある。

でも、深くはない。


リュミエルの精神保護が俺を包む。


ノルンの発話保護が注釈の言葉を守る。


カサンドラ副院長の学園保護規定が、文面の外枠を固める。


ヴァイスの反転鏡が、注釈を空席の輪郭にだけ乗せる。


レオンが神殿式の割り込みを押さえる。


トーヤが退避固定を維持する。


セリアの炎が影を照らす。


全員の力が、一本の注釈に重なる。


黒い椅子が震えた。


【条件追加】


【着座処理、遅延】


【本人発話、未確認】


【降役権保持、未確認】


【処理保留】


保留。


また出た。


俺は息を吐く。


いけた。


その瞬間。


黒い椅子の背もたれに、文字が浮かんだ。


【では、誰が保留を管理する?】


来た。


そう来るか。


保留するにも、管理者が必要だと言いたいのか。


「罠だ」


リュミエルが即座に言う。


「答えるな」


フィン先生も言う。


「質問形式の着座誘導だ」


俺は頷く。


分かってる。


誰が管理する?


俺が、と言えば座らされる。

学園が、と言えば副院長が狙われる。

ミラが、と言えば第一帰還者が使われる。

帰還記述保管者が、と言えば本名開示へ誘導される。


だから、答えは人ではない。


「管理しない」


俺は言った。


黒い椅子が震える。


「保留は、管理者が持つものじゃない」


言いながら、俺の中で形になる。


「保留は、本人が選択を先送りにする権利だ。誰かが管理するものじゃない」


リュミエルが続ける。


「必要なのは管理者ではなく、保護条件」


カサンドラ副院長が微笑む。


「学園保護規定として記録します」


ノルンが言う。


「本人の声が出るまで、発話保護で守ります」


ミラが寝台から弱々しく手を上げる。


「第一帰還者としても、保留は本人のものってことで」


セリアが言う。


「外から燃やすやつが来たら照らすわ」


「燃やすじゃないのか」


「まず照らす」


成長している。


ヴァイスが冷静に言う。


「反転鏡で着座誘導を監視する。管理ではない。監視だ」


レオンが言う。


「神殿式が介入したら止める」


トーヤが言う。


「道を塞ぐ」


フィン先生が最後に言った。


「つまり、誰も座らない」


黒い椅子の文字が乱れる。


【管理者不在】


【保留維持不能】


俺は言う。


「不能ではない」


【根拠】


「人間は、決めないまま生きられる」


地下演習室が静かになる。


俺は続ける。


「未定のまま、迷ったまま、答えが出ないまま、それでも今日を進める」


黒い椅子が軋む。


「神の台本にはそれがない。黒鐘廊にもない。だから分からないだけだ」


胸の奥が熱くなる。


怒りではない。


たぶん、もっと面倒で、もっと人間らしいもの。


「保留は空白じゃない。選択を奪われないための時間だ」


黒い椅子に、ひびが入った。


【処理保留】


【管理者不在】


【着座不可】


【空席保持】


椅子の輪郭が薄くなる。


消えたわけではない。


だが、深く沈んだ。


簡単にはこちらへ接続できない場所へ。


「成功……?」


ノルンが小さく言う。


ヴァイスが反転鏡を見る。


「着座誘導が停止した。完全封印ではないが、凍結に近い」


カサンドラ副院長が頷く。


「十分です。今は」


フィン先生が俺を見る。


「消耗は」


「少し重いけど、倒れない」


「なら座れ」


「はい」


俺は素直に椅子に座った。


普通の椅子だ。


黒鐘廊の椅子ではない。


そこ大事。


リュミエルが水を差し出す。


「飲んで」


「ありがとう」


「黒茶ではないから安心して」


「本当に安心した」


フィン先生が少しだけ不満そうにした。


いや、何でだ。


自分の黒茶の危険性を自覚してほしい。


ミラが寝台から言った。


「保留、強いね」


「お前が選んだから分かった」


俺は答えた。


ミラは少し照れたように、焼き菓子をかじった。


「じゃあ、私のおかげだ」


「ああ」


「そこは茶化してよ」


「今は茶化さない」


ミラは目を丸くした。


そして、少しだけ笑った。


「そっか」


その笑顔は弱い。


でも、ちゃんとミラだった。


その時。


保護封筒の表面に、また文字が浮かんだ。


全員が身構える。


俺はすぐに注釈枠を確認する。


本文ではない。

命令文ではない。

管理通知。


文字は短かった。


――黒鐘廊管理者権限、空席凍結。


よし。


さらに、その下。


――帰還記述保管者の本名照合、凍結解除まで延期。


本名も保留。


今はそれでいい。


だが、最後にもう一行浮かんだ。


――旧地下聖堂・第二断片本文、暴走準備中。


空気が、一気に冷えた。


「暴走……?」


セリアが呟く。


フィン先生の表情が鋭くなる。


「空席を凍結した反動か」


ヴァイスが反転鏡を確認する。


「違う。第二断片側で別の処理が走っている。黒鐘廊の管理者権限が凍結されたため、本文が自動再生に移る可能性がある」


「自動再生?」


俺は嫌な予感に顔をしかめた。


「つまり、誰かに読ませるんじゃなくて」


ヴァイスが低く言う。


「周囲に本文をばら撒く」


最悪だ。


読まされるどころではない。


ばら撒かれたら、学園中が危ない。


外れ職。

器。

勇者候補。

裏方。

沈黙。

盾。

影。

炎。


生徒たちの傷に、第二断片の本文が刺されば。


「役割固定が広がる」


レオンが言った。


フィン先生が即座に立ち上がる。


「全員、休憩終了」


ミラが菓子を持ったまま固まる。


「え、糖分休憩は?」


「持って行け」


「先生、意外と優しい」


「現実を見ろ。糖分切れで倒れられる方が困る」


やっぱり現実的だった。


俺は保護封筒を見た。


保留は武器になった。


だが、敵も次の手に移った。


第二断片本文の暴走。


読まされるものが、ばら撒かれる。


その前に止める必要がある。


でも、正面から読んではいけない。


俺はゆっくり息を吐いた。


「次は、本文を止める」


リュミエルが俺を見る。


「読むのではなく?」


「ああ」


俺は頷く。


「読まれる前に、再生装置を止める」


フィン先生が短く笑った。


「ようやく分かってきたな」


「褒めてます?」


「珍しくな」


今日は珍しいが多い。


だが、素直に受け取っておく。


神の台本。

黒鐘廊。

第二断片。


どれだけ読ませたがっても、俺たちは読むために行くんじゃない。


止めるために行く。


いや。


もっと正確に言うなら。


読まない権利を守るために行く。


俺は立ち上がった。


少しふらついた。


リュミエルがすぐに支える。


「無理は?」


「少しだけ」


「それは無理に含まれる」


「知ってる」


「なら、言い直して」


「今は行ける。でも、一人では無理」


リュミエルは頷いた。


「よろしい」


地下演習室の壁に、旧地下聖堂へ続く地図が展開される。


次の目的地は、はっきりした。


旧地下聖堂。


第二断片。


黒鐘廊ではない。


本文でもない。


その本文をばら撒こうとしている、再生装置の裏側。


俺は拳を握る。


保留を守った。


空席を凍結した。


次は。


読まない自由を守る番だ。

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