第7話 特異職科への逃走
旧排水路は、思っていたよりずっと寒かった。
石造りの細い通路。
足元を流れる黒い水。
壁には苔が張りつき、ところどころに古い魔法灯が埋め込まれている。
光は弱い。
青白く、頼りない。
まるで、世界から忘れられた道だった。
俺――アキト・アオキは、リュミエル・アークレインの後ろを歩いていた。
背後には、もう隠し研究室はない。
神殿査察官に存在を知られた以上、あそこには戻れない。
追放された。
死にかけた。
禁忌職扱いされた。
神殿に捕獲対象として名前を知られた。
一日で起きるイベント量じゃない。
「……異世界転生って、もう少しチュートリアルが優しくてもよくないか」
思わず呟く。
前を歩くリュミエルが、振り返らずに答えた。
「チュートリアルなら、あなたはたぶん失敗しているわ」
「そこは励ませよ」
「生きている時点で、合格点ではあるわね」
「急に優しい」
「事実よ」
リュミエルの言う「事実よ」は、相変わらず感情が薄い。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
彼女は俺を甘やかさない。
哀れまない。
けれど、置いていかない。
それだけで、今の俺には十分だった。
しばらく歩くと、排水路が二手に分かれた。
左は水量が多い。
右は乾いているが、天井が低い。
リュミエルは迷わず右へ進む。
「そっちで合ってるのか?」
「ええ。学園の旧管理区画に出る」
「詳しいな」
「逃げ道は全部覚えているから」
「優等生のセリフじゃない」
「優等生だから覚えているのよ」
なるほど。
優等生の方向性が思っていたのと違う。
俺は少しだけ笑った。
その瞬間、足元がふらついた。
「っ……」
壁に手をつく。
胸の奥がまだ痛い。
さっき血痕から【本人識別】を切った反動だ。
毒を切った時とは違う。
もっと深い場所を削られたような感覚。
自分の名前の輪郭が、一瞬だけ曖昧になる。
アキト。
アキト・アオキ。
青木明登。
大丈夫。
覚えている。
俺はまだ、俺だ。
「アキト」
リュミエルが振り返る。
その目は鋭かった。
「無理してる?」
「してない、と言いたいけど、たぶんしてる」
「正直でよろしい」
「先生みたいだな」
「学園では、よく教授に説教される側よ」
「だろうな」
「どういう意味?」
「いや、何でもない」
リュミエルは俺のそばに戻ると、短杖を軽く振った。
淡い星の光が、俺の胸元に触れる。
温かい。
痛みが少しだけ和らぐ。
【システム表示】
外部補助魔法を検出しました。
効果:
【精神安定・微弱】
【魔力循環補助・微弱】
「完全には治せないわ」
リュミエルが言った。
「あなたが削ったのは、肉体じゃなくて存在情報に近い部分だから」
「存在情報って、言い方が怖いな」
「実際に怖いものよ」
「だろうな。今、自分でも少し分かる」
俺は胸元を押さえた。
「自分の名前が、一瞬だけ遠くなった」
リュミエルの表情がわずかに強張る。
「次は本当に気をつけて」
「分かってる」
「いいえ、分かってない。あなたは必要ならまたやる顔をしている」
「そんな顔してるか?」
「してる」
即答だった。
何も言い返せなかった。
たぶん、彼女の言う通りだ。
もし目の前で誰かが死にそうになっていたら。
もしリュミエルの呪印を切るしかない場面が来たら。
もし仲間を守るために、自分の何かを削る必要があったら。
俺は、またやるかもしれない。
それは優しさなのか。
ただの自己犠牲癖なのか。
まだ分からない。
リュミエルは少しだけ目を伏せた。
「あなたは、自分の価値を低く見すぎている」
「会って数時間で分かるものなのか?」
「分かるわ。そういう人は、危険な時ほど自分を計算に入れない」
胸に刺さった。
前世でも、そうだったかもしれない。
自分が寝なくても、作品が間に合えばいい。
自分が怒られても、現場が回ればいい。
自分が裏方に徹すれば、誰かが輝く。
それでいいと思っていた。
でも、この世界では。
それだと死ぬ。
「……覚えておく」
「約束して」
また約束だ。
エルフの約束は重い。
さっき彼女はそう言っていた。
なら、俺も軽く扱うべきじゃない。
「約束する。簡単に自分を削らない」
「簡単に、じゃなくて、勝手に」
「……勝手に自分を削らない」
「よろしい」
今度こそ本当に先生みたいだった。
俺たちは再び歩き出した。
旧排水路の奥へ進むにつれ、空気が少しずつ変わっていく。
湿った土と苔の匂いに混じって、魔力の匂いのようなものがした。
表現しづらいが、空気がぴりぴりする。
リュミエルが足を止めた。
「ここから先は、学園の結界内よ」
「勝手に入って大丈夫なのか?」
「普通は大丈夫じゃない」
「やっぱり」
「でも、私の身分証で一人分なら通れる」
「俺は?」
「あなたは、通れない」
「詰んだな」
「だから、あなたの存在感を一時的に薄める」
嫌な予感がした。
「まさか、また俺の本人識別を切るとか言わないよな?」
「言わない。あれは危険すぎる」
「よかった」
「代わりに、私の認証情報の影に隠す」
「それはそれで危なくないか?」
「危ないわ」
「よくない」
「でも、本人識別を削るよりは安全」
リュミエルは首元から銀色の小さな札を取り出した。
学園の紋章が刻まれている。
「これは学園の認証札。結界はこれを持つ者を学園関係者と判断する」
「俺に持たせれば?」
「無理。登録された魔力と一致しないと反応しない」
「厳重だな」
「王立学園だから当然よ」
「じゃあ、どうする?」
リュミエルは俺を見る。
「あなたの【編集操作】で、私の認証札から漏れている認証魔力の余白を切り出して、あなたの外套に貼る」
「余白?」
「認証札は私本人を証明するために魔力を出している。でも、結界を通る時には周囲にも少し漏れる。その漏れを利用する」
「つまり、俺をリュミエル本人に偽装するんじゃなくて、リュミエルの近くにいる付属物みたいに見せる?」
リュミエルが少し目を見開いた。
「理解が早いわね」
「編集でも、メイン素材に紐づく補助トラックみたいなものはあるからな」
「補助トラック?」
「こっちの話」
俺は認証札を見つめた。
青い線が見える。
札からリュミエルへ伸びる太い線。
そして、その周囲に霧みたいに広がる薄い光。
あれが余白か。
【システム表示】
編集対象を検出しました。
対象:学園認証札の周辺魔力
構成要素:
【本人認証】
【所属証明】
【同行許可余白】
【結界通行記録】
実行可能操作:
【カット】
警告:
本人認証の切断は、認証札の破損および警報発動の危険があります。
成功率:
五十八パーセント
「同行許可余白ってのが見える」
「それよ。それだけを切って」
「本人認証は切らない」
「絶対に」
「怖いくらい分かった」
俺は息を整える。
対象を間違えるな。
切るのは本人認証じゃない。
所属証明でもない。
通行記録でもない。
同行許可余白だけ。
薄い霧のような光に意識を合わせる。
細い。
掴みづらい。
でも、毒や粘着よりは穏やかだ。
「カット」
小さく呟く。
ぷつん、と柔らかい感触。
掌に、淡い青色の膜が浮かんだ。
【システム表示】
対象:【同行許可余白】をカットしました。
保存スロット:1/1
保存中:【同行許可余白】
リュミエルがすぐに俺の外套を指差す。
「そこに貼って」
「了解。ペースト」
淡い青色の膜が、俺の外套に染み込んだ。
【システム表示】
対象:アキト・アオキの外套
付与効果:
【同行許可余白】
持続時間:
三分
警告:
学園結界の精密認証には耐えられません。
「三分」
「走るわ」
「だと思った」
リュミエルが床の魔法陣に手をかざす。
旧排水路の先に、透明な壁のようなものが現れた。
そこに触れた瞬間、空気がびり、と震える。
学園結界。
リュミエルが一歩踏み出す。
結界は彼女を受け入れるように淡く光った。
俺も続く。
一瞬、全身を見えない目で確認される感覚がした。
名前。
職業。
魔力。
称号。
存在の輪郭。
全部を撫でられているようで、気持ち悪い。
【システム表示】
外部結界認証を検出。
認証照合中……
付与効果:【同行許可余白】が反応しました。
通行判定:
仮許可
「仮でも何でも通れ!」
俺は思わず叫びそうになった。
次の瞬間、体が結界を抜けた。
空気が変わる。
湿った排水路の匂いが薄れ、代わりに清潔な石と草木の匂いが流れ込んできた。
目の前に広がっていたのは、地下とは思えない空間だった。
高い天井。
魔法灯に照らされた白い石畳。
壁には蔦が絡み、小さな水路には澄んだ水が流れている。
その奥に、巨大な扉が見えた。
扉の向こうから、朝の光が漏れている。
「ここが……学園?」
「王立アルカディア魔導学園の旧地下区画よ」
リュミエルは足を止めずに進む。
「急いで。仮許可は長く持たない」
「分かってる」
俺たちは白い石畳を走った。
だが、扉の前まで来た瞬間。
甲高い音が鳴った。
きぃん、と耳の奥を刺すような音。
壁の魔法陣が赤く点滅する。
【システム表示】
警告。
結界認証に不整合が発生しました。
付与効果:【同行許可余白】が消失します。
「三分経ってないぞ!?」
「精密認証に引っかかったのよ!」
リュミエルが短杖を構える。
「走って!」
扉が開く。
その先は、学園の中庭だった。
広い芝生。
噴水。
白い校舎。
空に伸びる尖塔。
制服を着た生徒たち。
まぶしい朝の光が、俺の目を刺した。
あまりにも普通の学園風景。
さっきまで神殿に追われ、地下を逃げていたことが嘘みたいだった。
だが、赤い警報音がすべてをぶち壊す。
生徒たちが一斉にこちらを見る。
「何だ?」
「侵入者?」
「リュミエル様?」
「隣の男、誰?」
ざわめきが広がる。
俺は思わず立ち止まりそうになった。
この視線。
値踏みする目。
警戒する目。
好奇心の目。
レオンたちの前にいた時と同じように、体が少し硬くなる。
だが、リュミエルが俺の袖を掴んだ。
「止まらないで」
「どこへ?」
「特異職科棟」
「場所分かるのか?」
「もちろん」
「逃げ慣れすぎだろ」
「褒め言葉として受け取るわ」
俺たちは中庭を横切る。
その途中、何人かの生徒が道を塞ごうとした。
貴族らしい少年が、俺を見て鼻で笑う。
「おい、そこの不審者。リュミエル様に近づくな」
リュミエルが無言で短杖を振った。
少年の足元に、星の魔法陣が浮かぶ。
次の瞬間、彼はその場でくるりと半回転し、なぜか自分から道を譲った。
「え、あれ?」
「行くわ」
「今の何?」
「進路誘導魔法」
「便利すぎる」
「人にはあまり使わない方がいいわ」
「使ったよな?」
「緊急時よ」
リュミエルは平然としていた。
この子、優等生の皮を被った問題児なのでは?
そんなことを考えていると、前方に古い校舎が見えてきた。
他の白く美しい校舎とは違い、その建物だけ少し離れた場所に建っている。
灰色の壁。
古い木の扉。
窓には鉄格子。
看板には、かすれた文字でこう書かれていた。
【特異職科】
外れ職。
未知職。
危険職。
研究対象。
そういう人間を押し込める場所。
リュミエルは扉の前で足を止めた。
「ここよ」
「思ったより歓迎されてない見た目だな」
「歓迎する場所ではないもの」
「本当に入って大丈夫なのか?」
「大丈夫ではない。でも、ここ以外だと神殿に捕まる」
選択肢が毎回ひどい。
リュミエルが扉を叩こうとした、その時だった。
扉が内側から勝手に開いた。
中から出てきたのは、黒髪に無精ひげの男だった。
白衣の上に、よれたローブ。
眠そうな目。
手には湯気の立つカップ。
どう見ても、朝の機嫌が悪い大人だった。
男は俺たちを見る。
次に、遠くで鳴っている警報を見る。
そして、リュミエルを見た。
「アークレイン。また問題を拾ってきたのか」
「拾ったのではありません。保護しました」
「言い方を変えただけだな」
男はカップの中身を一口飲み、俺を見る。
その目が、さっきまでの眠気を少しだけ失った。
「名前は?」
「アキト・アオキ」
「職業は?」
俺は一瞬だけ迷った。
でも、ここで隠しても意味がない。
「編集者です」
男の眉が、ぴくりと動いた。
リュミエルが静かに言う。
「フィン先生。彼を特異職科に仮登録してください」
「理由は?」
「神殿査察官に追われています」
「また面倒な」
「禁忌職の疑いがあります」
「もっと面倒な」
男――フィン先生は、俺の顔をじっと見た。
その目は、レオンたちとも神殿査察官とも違った。
見下していない。
恐れてもいない。
ただ、観察している。
俺の中にある何かを、見極めようとしている。
「アキト・アオキ」
「はい」
「お前は、自分の力で何をした?」
俺は答えに詰まった。
毒を切った。
粘着を貼った。
足音を消した。
本人識別を切った。
認証情報を貼った。
どれも危うい。
どれも正しいとは言い切れない。
でも。
「生き残るために、切って、貼りました」
フィン先生は、数秒だけ黙った。
そして、にやりと笑った。
「いい答えだ。綺麗事を言わないやつは嫌いじゃない」
彼は扉を大きく開けた。
「入れ。特異職科は、世界から弾かれたやつらのゴミ箱だ」
その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。
ゴミ箱。
でも、フィン先生は続けた。
「だがな、アキト・アオキ」
彼の目が、鋭く光る。
「世界のゴミ箱には時々、神様が捨て損ねた爆弾が混じってる」
その瞬間、遠くの警報音が一段高くなった。
フィン先生は笑う。
「ようこそ、特異職科へ」
俺は古い扉の向こうを見た。
薄暗い教室。
奇妙な魔道具。
壁一面の書物。
そして、こちらを見ている数人の生徒たち。
ここから始まる。
追放された俺の、新しい居場所。
いや。
まだ居場所と呼ぶには早い。
でも、少なくともここは、俺を置き去りにしなかった。
俺は一歩、特異職科の中へ踏み出した。
その瞬間、視界にシステム表示が浮かんだ。
【システム表示】
所属候補を検出しました。
王立アルカディア魔導学園
特異職科
登録しますか?
選択肢:
【はい】
【いいえ】
俺は、迷わず【はい】を選んだ。




