第69話 甘いものを忘れるな
壁の側道は、淡く光っていた。
黒ではない。
白でもない。
夕暮れみたいな色。
夜に落ちる直前の、最後の明るさに似ていた。
【舞台袖・側道】
【正面入場不可】
【斥候記述保持により一時表示】
【入場条件:三名以上】
【編集者】
【器ではない者】
【盾、または炎、または剣】
【斥候の帰還意志】
文字は静かに浮かんでいる。
急かしてはこない。
来い、とも言わない。
それが逆に怖い。
黒鐘廊は、いつもこちらを引っ張ってきた。
読ませようとした。
呼ばせようとした。
書かせようとした。
だが、この側道は違う。
ただ、そこにある。
ミラが残した逃げ道。
あるいは、ナツキが残した第三幕の端。
どちらにせよ。
行くしかない。
でも、今すぐではない。
「準備する」
俺は言った。
「今すぐ飛び込まない」
リュミエルが俺を見た。
「本当に?」
「本当」
「理由は?」
「ミラに怒られるから」
リュミエルは一瞬黙った。
それから、小さく頷いた。
「それなら信用できる」
「俺本人の理性より?」
「今は、ミラの苦情の方が信用できる」
ひどい。
でも、否定できない。
ミラなら絶対に言う。
アキトくんさあ、正面から来るなって言ったよね?
耳ついてる?
あ、ついてるか。人間だもんね。
そんな感じで。
腹が立つくらい想像できる。
だから、大丈夫だ。
まだ、ミラはミラのままだ。
「人選を決める」
フィン先生が言った。
「側道の条件は、編集者、器ではない者、盾または炎または剣。つまり、アキトとリュミエルは確定」
「器ではない者、か」
リュミエルが自分の右手首を見る。
神約の呪印。
淡い光は、もう消えている。
だが、そこにある。
神が彼女に貼った役割。
器。
それを否定する条件として、側道は彼女を呼んでいる。
「嫌な条件ね」
リュミエルが言った。
「私を必要としているのではなく、私の否定を必要としている」
「行かない選択もある」
俺は言った。
リュミエルの視線が俺に向く。
「本気で言ってる?」
「一応」
「一応なら不要」
即答。
強い。
「私は行く」
「危険だ」
「あなたがそれを言う?」
「言う権利くらいはあるだろ」
「ある。でも説得力はない」
それはそう。
俺が危険だから行くなと言うのは、燃えている人間が火の用心を語るようなものだ。
いや、火の用心は大事だけど。
説得力は薄い。
「リュミエルは確定だ」
フィン先生が容赦なく言う。
「本人意思もある。条件にも合う。精神保護にも必要」
「了解」
リュミエルは静かに頷く。
フィン先生は次に、三人を見た。
トーヤ。
セリア。
レオン。
盾、炎、剣。
「三人目を誰にするか」
空気が張る。
誰が行くか。
誰を連れていくか。
それは、誰を危険に晒すかという話でもある。
トーヤが最初に口を開いた。
「俺が行く」
短い。
迷いがない。
「盾が必要だ」
セリアがすぐに反論した。
「防御だけじゃ足りないわ。舞台袖の影を照らすなら、私の炎が必要よ」
レオンも静かに言う。
「神殿式反応があるなら、俺が行くべきだ。黒鐘廊には勇者候補補強式と似た術が混じっている」
三人とも正しい。
こういう時、正しい意見が複数あるのが一番困る。
間違っているやつが一人いれば、切ればいい。
だが、全員必要に見える。
「全員で行くのは?」
ノルンが不安そうに聞く。
フィン先生は首を横に振った。
「側道の入場条件は三名以上だが、表示されている役割枠は三系統。人数を増やせば安定するとは限らん」
「むしろ、役割を増やすほど黒鐘廊に拾われるかもしれない」
俺は言った。
「盾、炎、剣。どれか一つを通行鍵として使う感じだ」
「鍵って言い方、嫌ね」
セリアが眉を寄せる。
「人間を鍵扱いしてるみたい」
「だから、慎重に選ぶ」
俺は答える。
「条件に使われるんじゃない。本人が役割を選んで同行する形にする」
「また面倒くさいこと言ってる」
「面倒くさいのは安全装置だ」
「まあ、それはちょっと分かる」
少しだけ空気が戻る。
だが、決めなければならない。
トーヤは防御。
セリアは照明。
レオンは神殿式反応。
誰を連れていくか。
正解はたぶんない。
なら、目的から逆算する。
今回の目的は、ミラの救出。
正面突破ではない。
側道から入る。
舞台袖で、ミラの現在記述を保持しながら帰還経路を探す。
必要なのは、守りか。
照明か。
神殿式対策か。
「……トーヤ」
俺は言った。
トーヤが頷く。
「俺か」
「たぶん、お前が一番いい」
セリアが不満そうに腕を組む。
「理由は?」
「舞台袖で一番怖いのは、攻撃じゃなくて、引き込まれることだ。影を照らすのも、神殿式を見るのも重要だけど、今回は帰り道を守る必要がある」
俺は側道の光を見る。
「ミラは逃げ道を残した。なら、その逃げ道を潰されないように固定する役がいる」
トーヤの盾。
退避固定。
守る相手を選べる盾。
ミラが残した道を守るには、たぶん一番合っている。
「納得はするけど、悔しいわね」
セリアが言った。
「炎も必要になる」
「今回は、側道に照明炎を預けてほしい」
「預ける?」
「直接来るんじゃなくて、炎だけを道標にできないか?」
セリアは少し考えた。
「できる。短時間なら」
「それを使わせてくれ」
セリアは俺を睨んだ。
「燃やすんじゃなくて、照らすのよね」
「そう」
「……分かったわよ」
彼女は掌に小さな炎を生んだ。
赤ではない。
白に近い。
けれど、中心にほんの少しだけ橙色がある。
暖かい炎。
「これはミラの帰り道用」
セリアは炎を見つめる。
「暗いところで迷ったら、これを見つけなさいって伝えて」
「伝える」
「絶対よ」
「絶対」
セリアは炎を小さな灯火に変え、俺に渡した。
直接手で持つわけではない。
魔力の小瓶のようなものに入っている。
それだけで、少し心強い。
レオンは黙っていた。
「レオン」
俺が声をかけると、彼は頷いた。
「分かっている。今回は俺ではない方がいい」
「そういう意味じゃない」
「いや、分かる。黒鐘廊は編集者を殺せという命令を、俺の補強式に繋げた。舞台袖で同じことが起きれば、足手まといになる」
「そこまで言うな」
「事実だ」
重い。
レオンは自分に厳しすぎる。
いや、罪があるから仕方ない。
でも、仕方ないで放置すると、また神の剣に戻る。
「レオン」
俺は言った。
「お前には外側で神殿式反応を見てほしい」
「外側?」
「ああ。俺たちが側道に入った後、もし黒鐘廊が神殿式で接続してきたら、お前が最初に気づける」
レオンの目が少し動く。
「外から止める役か」
「そうだ」
「……分かった」
彼は静かに頷いた。
「俺は、自分の剣を抜かずに使う」
いい言葉だ。
たぶん、今のレオンには必要な言葉だ。
剣は抜くだけが役目じゃない。
抜かないことで守ることもある。
「ノルン」
俺は続ける。
「発話保護を外側から維持してほしい」
「はい」
ノルンは両手を握った。
「ミラさんの声が少しでも届いたら、拾います」
「頼む」
「あと……アキトさんの声も」
「俺?」
「はい。もし、アキトさんが黒鐘廊に引っ張られそうになったら、声の揺れで分かるかもしれません」
頼もしい。
最初の頃のノルンなら、こんなことは言えなかっただろう。
震えても、声を上げる治癒師。
その現在記述が、彼女の中で本物になっている。
「頼りにしてる」
ノルンは少しだけ目を丸くして、それから頷いた。
「はい」
ヴァイスが半壊した採取具を机に置いた。
「私は外側で反転鏡を維持する」
「大丈夫なのか? 壊れかけだろ」
「壊れていない。半壊だ」
「それを壊れかけと言うんじゃないのか」
「黙れ。使えるなら道具だ」
職人みたいなことを言う。
でも、たぶん正しい。
「側道内部の管理痕跡だけを拾う。本文は通さない。命令文も通さない。お前が中で妙なものを読みかけたら、こちらで遮断する」
「助かる」
「助けるためではない。観測精度を維持するためだ」
「はいはい」
「あと」
ヴァイスは少し言い淀んだ。
珍しい。
「ミラ・クロウに伝えろ」
「何を?」
「退避線の張り方は悪くなかった、と」
それ褒め言葉か?
いや、ヴァイスとしてはかなり褒めている。
「分かった」
「余計な言い換えはするな」
「そのまま伝える」
「ならいい」
カサンドラ副院長が、学園保護記録を展開した。
羊皮紙のような光が空中に浮かぶ。
「ミラ・クロウの保護記述を作成します」
その声で、全員が静かになる。
副院長はゆっくり読み上げた。
「対象、ミラ・クロウ。現在、黒鐘廊および舞台袖による不当回収状態。学園は彼女を処分対象、鍵、素材、観測部品として扱うことを認めない」
空気が震えた。
言葉が、規定になる。
規定が、盾になる。
「彼女は影の獣ではなく、本人意思を持つ生徒である。現在記述として、仲間に逃げ道を残す斥候、ならびに自分の意思で帰り道を選ぶ者、と記録する」
ノルンの発話保護が、その言葉を包む。
セリアの灯火が、淡く揺れる。
トーヤの盾が、低く鳴った。
「本人帰還まで、当該記述を保護する」
カサンドラ副院長は、そこで微笑んだ。
目は笑っていない。
「以上。学園副院長カサンドラの名において、仮登録します」
羊皮紙の光が閉じる。
壁の側道が、少しだけ明るくなった。
効いている。
ミラの現在記述が、側道を維持している。
「準備は整った」
フィン先生が言う。
「ただし、最後に確認する」
先生は俺を見た。
「目的は何だ」
「ミラの救出」
「違う」
即座に否定された。
胸が少し跳ねる。
「目的は、ミラ・クロウ本人の帰還意思を確認し、その意思に沿って帰路を確保することだ」
ああ。
そうか。
救出。
その言葉も、少し危ない。
助ける側が主体になる。
ミラを連れ戻す。
ミラを救う。
ミラを取り返す。
間違ってはいない。
でも、それだけだと、ミラの意思が消える。
「……ミラ本人の帰還意思を確認して、帰路を確保する」
俺は言い直した。
フィン先生が頷く。
「よし」
厳しい。
でも、ありがたい。
「次。敵と戦うな」
「襲われたら?」
「退避を優先しろ」
「ミラが危険だったら?」
「ミラの現在記述を確認しろ。見た目の危機に飛びつくな。舞台袖は演出で釣る可能性がある」
本当に嫌な場所だ。
「次。未完の編集者が出ても、書くな」
「書かない」
「本当に?」
リュミエルが重ねる。
「本当」
「あなたの罪悪感を使われても?」
「書かない」
「ミラの姿を使われても?」
喉が詰まる。
そこが一番きつい。
でも、答える。
「書かない」
「よろしい」
リュミエルは短く言った。
その横顔は静かだった。
でも、彼女も怖いはずだ。
器ではない者。
側道は彼女をそう呼んだ。
神の役割を否定する者として、彼女を必要としている。
それは、彼女の傷に触れる。
「リュミエル」
俺は小さく声をかけた。
「無理はするな」
「あなたに言われると不思議な気持ちね」
「だろうな」
「でも、ありがとう」
少しだけ、言葉が柔らかかった。
その一言で、胸の奥が落ち着く。
トーヤが近づく。
盾を背負い、短く言った。
「行こう」
「緊張してるか?」
「している」
正直。
トーヤらしい。
「だが、守る」
それもトーヤらしい。
俺は頷いた。
三人。
俺。
リュミエル。
トーヤ。
編集者。
器ではない者。
盾。
いや。
違う。
アキト・アオキ。
リュミエル・アークレイン。
トーヤ・ラインハルト。
役割ではなく、名前で行く。
俺は壁の側道の前に立った。
継ぎ目は細い。
扉ではない。
穴でもない。
ただ、現実の端が少しだけめくれているように見える。
「開けるのか?」
トーヤが聞く。
「開けない」
俺は言った。
「めくる」
「違いは?」
「開けると入口になる。めくると裏側を見るだけで済む」
「なるほど」
本当に分かっているのかは怪しい。
でも、トーヤはそれでいい。
俺は手を伸ばす。
リュミエルがすぐに言う。
「直接触らない」
「分かってる」
セリアの灯火を前に出す。
炎が、側道の継ぎ目を照らす。
影ができない。
光が、隙間の奥に滑り込む。
その瞬間。
壁の表面が、紙のようにめくれた。
向こう側に、細い通路が見える。
舞台の袖。
暗くはない。
ただ、光が薄い。
両側には、無数の幕が垂れている。
赤。
黒。
白。
灰色。
その幕の向こうから、声が聞こえる。
知らない誰かの台詞。
泣き声。
拍手。
剣戟。
祈り。
笑い声。
全部が混ざっている。
物語の舞台裏。
俺は息を呑む。
ここが。
舞台袖。
その入口に、淡い線が一本だけ伸びていた。
ミラの退避線。
細く、頼りない。
でも、確かにある。
線の横に、小さな文字が浮かんでいた。
――足音を残さない。
「了解」
俺は小さく言う。
「足音は残さない」
リュミエルが精神保護を展開する。
薄い膜が、俺たち三人を包む。
トーヤが盾を低く構える。
「道を守る」
俺は頷く。
「行くぞ」
一歩。
側道へ足を入れる。
音はしなかった。
本当に、足音が消えた。
二歩目。
地下演習室の空気が遠くなる。
三歩目。
幕の匂いがした。
古い布。
乾いた紙。
消えた炎。
誰かの涙。
詩みたいな匂いだ。
嫌だな。
詩的な場所ほど、だいたい危険だ。
後ろを見る。
地下演習室はまだ見える。
フィン先生。
ノルン。
セリア。
レオン。
ヴァイス。
カサンドラ副院長。
全員がこちらを見ている。
正面ではない。
裏側から。
俺は小さく頷いた。
そして、前を見る。
ミラの退避線は、幕の間を抜けて奥へ続いている。
その先で、かすかな声がした。
「こっち」
ミラの声。
俺は動きかけて、止まる。
すぐに反応するな。
声だけで判断するな。
「呼称認証」
俺は呟く。
名前だけでは足りない。
声だけでも足りない。
関係性ログ。
現在記述。
退避線。
発話保護。
全部を見る。
リュミエルが横で頷く。
「本物?」
「まだ分からない」
声はもう一度聞こえた。
「こっちだよ、アキトくん」
いつもの軽さ。
だが、何かが違う。
ミラは俺を急かす時、たぶんこうは言わない。
もっと茶化す。
もっと余計なことを言う。
そして何より。
甘いものの話をしない。
俺は息を吐いた。
「偽物だ」
幕の奥の声が止まる。
次の瞬間、無数の黒い手が幕の隙間から伸びてきた。
【影の獣】
【案内役】
【斥候を追え】
「トーヤ!」
「分かっている」
盾が前に出る。
黒い手が盾にぶつかる。
重い音はしない。
代わりに、紙を破るような音がした。
リュミエルが手を上げる。
「精神保護、固定」
淡い結界が黒い手を押し返す。
俺はタイムラインを開かない。
まだ早い。
代わりに、セリアの灯火を掲げる。
白橙の炎が揺れる。
黒い手の影が薄くなる。
「セリア、助かる」
灯火が少しだけ強くなった。
聞こえているのかもしれない。
外側から。
黒い手は燃えない。
でも、照らされると形を保てない。
影だからだ。
見えている影を追うな。
見えていない方を見ろ。
俺はミラの退避線を見る。
黒い手は、その線を隠そうとしている。
つまり、線は正しい。
「進む」
俺は言った。
「走らない」
リュミエルが言う。
「分かってる」
「焦らない」
「分かってる」
「本当に」
「本当だ」
このやり取りも、もはや保護呪文みたいになっている。
俺たちは、幕の間を進む。
足音はない。
黒い手は何度も伸びる。
トーヤが防ぐ。
リュミエルが結界で逸らす。
俺は灯火で照らす。
編集はしない。
書かない。
読まない。
切らない。
ただ、ミラの残した線を保持する。
進むほど、幕の向こうの声が増える。
「助けて」
「ここで終わらせない」
「君が書けばいい」
「主人公になれ」
「裏方は黙っていろ」
「器は開け」
「神の剣よ」
「外れ職」
声が混ざる。
俺たちの傷を知っている。
リュミエルの手首の呪印が光る。
トーヤの盾が重くなる。
俺の胸の奥が冷える。
でも、止まらない。
声は声だ。
本文ではない。
俺たちは読まない。
しばらく進むと、幕の色が変わった。
灰色の幕が並ぶ場所に出た。
そこだけ、静かだった。
退避線は、その中央で途切れている。
「ここか」
トーヤが言う。
俺は頷く。
灰色の幕の前に、小さな椅子があった。
舞台袖に置かれた、使い古された椅子。
その上に、紙袋が置かれている。
紙袋。
あまりにも普通だ。
普通すぎて、怖い。
袋には、日本語で書かれていた。
――甘いもの。
俺は呼吸を止めた。
ミラの残響。
それとも罠。
リュミエルが俺を見た。
「触らない」
「分かってる」
俺は紙袋を見つめる。
呼称認証ではない。
物品認証。
関係性ログを見る。
ミラ。
甘いもの。
逃げ道担当。
軽口。
最後の残響。
――甘いもの、忘れないで。
紙袋から、淡い光が漏れる。
黒くない。
セリアの灯火に近い色だ。
「外側だけ見る」
俺は言った。
「中身は?」
「見ない」
紙袋そのものではなく、周囲の残響を見る。
ミラの退避線は、紙袋の下へ潜っている。
違う。
紙袋が目印じゃない。
椅子だ。
椅子の下。
そこに、小さな矢印が刻まれていた。
ミラの字。
この世界の文字で、雑に書かれている。
――上を見るな。下。
俺は少し笑いそうになった。
らしい。
実にミラらしい。
普通なら紙袋を見る。
甘いものに釣られる。
上や中を確認する。
でも、答えは下。
見えてない方。
俺は膝をついた。
直接触らず、灯火で椅子の下を照らす。
そこに、細い隙間があった。
床板の継ぎ目。
舞台袖のさらに下。
「下に逃げ道がある」
俺は言った。
その時。
灰色の幕の向こうから、拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
ゆっくりした拍手。
リュミエルの表情が冷える。
トーヤが盾を構える。
幕が開く。
そこに立っていたのは、ミラだった。
いや。
ミラの形をしたものだった。
耳。
尻尾。
軽い笑み。
でも、目が違う。
あの素早く動く、いたずらっぽい目じゃない。
暗い。
固定されている。
胸元に文字が浮かぶ。
【影の獣】
偽物だ。
俺は即座に判断した。
ミラの形をした影が、笑う。
「見つけるの、早いね。さすがアキトくん」
「お前はミラじゃない」
俺は言った。
影は首を傾げる。
「どうして?」
「甘いものを餌にするやつは、ミラじゃない」
「ひどくない?」
「ミラなら自分で先に食う」
一瞬。
リュミエルが横で、本当に少しだけ笑った。
トーヤも小さく頷いた。
「それは、そうだ」
影の笑みが消える。
【影の獣】の文字が歪む。
「現在記述確認」
俺は静かに言った。
「ミラ・クロウは、影に隠れる獣ではない」
リュミエルが続ける。
「舞台袖の案内役でもない」
トーヤが言う。
「仲間に逃げ道を残す斥候だ」
セリアの灯火が強くなる。
外側から、ノルンの発話保護が届く。
薄い光が、言葉を包む。
「そして」
俺は偽物を見る。
「自分の意思で帰り道を選ぶ者だ」
【影の獣】の文字が割れた。
影ミラの身体が崩れる。
だが、消える直前。
それは、俺の声で言った。
「なら、本物が帰りたくないと言ったら?」
胸が冷える。
影が消える。
灰色の幕の奥から、別の声が聞こえた。
今度は、弱い声だった。
「……アキトくん」
俺は動かない。
呼称認証。
声。
関係性ログ。
退避線。
発話保護。
甘いもの。
現在記述。
全部を合わせる。
今度は、違った。
胸が痛くなるくらい、ミラだった。
「ミラ」
俺は声を抑えて呼ぶ。
灰色の幕の奥。
床下へ続く隙間の向こう。
そこから、ミラの声がした。
「ごめん」
軽くない。
いつもの声じゃない。
震えている。
「逃げ道、見つけたんだけどさ」
息を呑む音。
「帰り道が、私を通らないと開かないみたい」
俺は奥歯を噛んだ。
やはり。
斥候の現在記述を保持せよ。
ミラを鍵にする罠。
ミラ自身も、それを分かっている。
「だから」
ミラの声が続く。
「私を、帰り道にしないで」
言葉が刺さる。
「私を助けようとして、みんなをこっちに連れてこないで」
「ミラ」
「ごめん。ちょっと、今は軽口無理」
その一言が、一番きつかった。
ミラが軽口を捨てるほど、追い詰められている。
俺は膝をついたまま、床下の隙間を見る。
暗い。
でも、そこにミラがいる。
「ミラ」
「なに」
「甘いもの、忘れてない」
沈黙。
それから、かすかな笑い声。
泣きそうな、笑い声。
「……そこ?」
「そこだろ」
「ばかじゃないの」
「よく言われる」
「誰に?」
「主にリュミエル」
「妥当」
リュミエルが横で静かに言った。
「後で訂正させる」
少しだけ、ミラの呼吸が戻った気がした。
俺は続ける。
「お前を帰り道にはしない」
「本当?」
「本当だ」
「アキトくん、こういう時、無茶するじゃん」
「今日はみんなに止められてる」
「信用できる」
ひどい。
でも、今はそれでいい。
「ミラ」
俺は言った。
「お前は鍵じゃない。道具でもない。影の獣でもない」
返事はない。
でも、聞いている。
「お前は、仲間に逃げ道を残す斥候だ」
沈黙。
「だから、今度は自分にも逃げ道を残せ」
床下の暗闇が、少しだけ揺れた。
ミラの声が、小さく返る。
「……そんなの、ずるいよ」
「知ってる」
「それ言われたら、探すしかないじゃん」
「探せ」
「命令?」
「お願い」
少しの沈黙。
「なら、聞く」
床下の奥で、淡い光が灯った。
ミラの退避線。
消えかけていた線が、もう一度伸びる。
ただし、こちらへではない。
さらに奥へ。
見えていない方へ。
「アキトくん」
「何だ」
「下の奥に、変な扉がある」
「どんな?」
「扉っていうか……紙の切れ目みたいなやつ」
俺はリュミエルを見る。
リュミエルも頷く。
「第三幕の入口かもしれない」
ミラの声が震える。
「でも、そこに文字がある」
嫌な予感がした。
「読むな」
「読んでない。見ただけ」
「内容は?」
「読まない方がいい?」
「管理情報だけなら」
ミラは少し黙った。
それから言った。
「じゃあ、形だけ」
息を吸う音。
「第三幕・仮入口」
俺たちは黙る。
ミラは続けた。
「入場条件」
一拍。
「帰りたい者ではなく、帰す者」
胸の奥が、静かに冷えた。
帰りたい者ではなく。
帰す者。
ミラを助けに来た俺たちではなく。
ミラ自身が、誰かを帰す者になる必要がある。
「……なるほど」
俺は呟いた。
「第三幕は、選ばせる」
ミラは帰る側ではなく、帰す側を選ばされている。
つまり。
誰かを逃がすために、自分が残る。
最悪だ。
本当に、性格が悪い。
ミラの声が言う。
「アキトくん」
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだから先に言った」
「じゃあ言わない」
「言え」
「どっち?」
ミラが少し笑った。
ほんの少しだけ。
でも、その笑いに救われる。
「私が帰す者になるなら、みんなを帰せるかも」
「駄目だ」
「即答じゃん」
「お前を置いて帰る選択肢はない」
「でも、私が選べば?」
その問いに、俺は答えられなかった。
本人の意思。
俺が一番重視してきたもの。
ミラが自分の意思で残ると言ったら。
俺は止められるのか。
止めるべきなのか。
それは、本人の選択を尊重することなのか。
それとも、自己犠牲という役割に呑まれることなのか。
喉が詰まる。
リュミエルが横で言った。
「ミラ」
声は静かだった。
「あなたが残る選択をするなら、理由を確認する」
「理由?」
「仲間を帰したいから、だけなら却下」
「厳しいなあ」
「それは自己犠牲の役割に近い」
リュミエルの声は揺れなかった。
「あなたが本当に望む帰り道を、まだ確認していない」
沈黙。
長い沈黙。
ミラの声が、小さくなる。
「私が、帰りたいって言ったら」
「ああ」
俺はすぐに答えた。
「絶対に道を作る」
「難しくても?」
「難しくても」
「アキトくんが危なくても?」
「そこはみんなで止める」
「便利だね、仲間」
「ああ」
本当に。
便利という言い方は雑だが。
仲間は、俺が壊れないための命綱だ。
「ミラ」
トーヤが口を開いた。
声は低い。
でも、届く。
「帰りたいと言え」
床下の奥で、ミラの呼吸が止まった気がした。
トーヤは続ける。
「命令ではない」
短い。
「頼みだ」
その言葉は、盾みたいだった。
重くて、真っ直ぐで、逃げ場を塞がない。
ミラの声が震えた。
「……帰りたい」
小さな声。
でも、確かに聞こえた。
「私、帰りたい」
その瞬間。
床下の退避線が、強く光った。
側道全体が震える。
黒い文字が浮かぶ。
【帰還意志確認】
【斥候記述、保持】
【第三幕・仮入口、再定義】
再定義。
今だ。
俺はタイムラインを開きかけて、止まる。
違う。
俺が書くんじゃない。
ミラが選んだ。
俺たちは、その選択を保持する。
「ノルン!」
俺は外側へ叫ぶ。
声が届くか分からない。
でも、発話保護の光が応えた。
『聞こえています!』
ノルンの声。
「ミラの帰還意志を保護してくれ!」
『はい!』
淡い光が、床下の隙間へ降りる。
ミラの声を包む。
「セリア!」
『何よ!』
外側から怒った声。
「灯火を強めろ! ミラが自分の道を見る!」
『任せなさい!』
白橙の炎が強くなる。
床下の暗闇が薄れる。
「ヴァイス!」
『聞こえている!』
「仮入口の管理情報だけ拾え! 本文は通すな!」
『当然だ!』
「レオン!」
『神殿式反応、抑える』
「頼む!」
外側と内側。
地下演習室と舞台袖。
仲間たちの役割が、一本の線に重なる。
誰か一人の力ではない。
ミラが帰りたいと言った。
だから、俺たちは帰り道を作る。
黒い文字が抵抗する。
【帰す者】
【自己犠牲】
【斥候は道となる】
「違う」
俺は言った。
「ミラは道じゃない」
リュミエルが続ける。
「彼女は、道を選ぶ者」
トーヤが盾を床に立てる。
「帰る者だ」
その瞬間、床下の奥で何かが割れた。
紙を破るような音。
そして、ミラの声。
「見えた!」
「何が!」
「下じゃない!」
俺は一瞬、意味が分からなかった。
ミラは叫ぶ。
「下の奥に行くんじゃない! 床下から、舞台の上に出る道がある!」
舞台の上。
正面ではない。
裏から舞台に出る。
つまり、観客席からではなく、舞台袖からではなく、床下の奈落から上がる道。
「それ、危なくないか?」
「危ない!」
即答。
「でも、黒鐘廊の正面じゃない! 第三幕の裏口だと思う!」
第三幕の裏口。
ついに来た。
俺はリュミエルを見る。
彼女は頷く。
「ミラを先に動かす」
「分かってる」
「あなたが先に行かない」
「分かってる」
本当に分かっている。
今回は、ミラが斥候だ。
俺たちは彼女の道を信じる。
「ミラ」
俺は言った。
「行けるか?」
「行ける」
声が少し戻っている。
「でも、たぶん一回しか開かない」
「十分だ」
「あと、開いたら変なの見えるかも」
「どんな?」
「分かんない。でも、たぶんナツキの記録」
胸が跳ねる。
ナツキ・シノハラ。
第三幕。
舞台袖。
名無しの観測者。
ここで、つながる。
「読まない」
俺は自分に言い聞かせるように言った。
「外側だけ見る」
「うん」
ミラの声が少し笑う。
「アキトくん、成長したね」
「うるさい。帰ったら甘いもの半分にするぞ」
「それはひどい!」
声が戻った。
少しだけ。
それだけで、泣きそうになる。
もちろん泣かない。
泣いたらリュミエルに顔でバレる。
いや、もうバレてるかもしれない。
床下の奥で、光が広がる。
ミラの退避線が上へ伸びる。
舞台の床を、裏から押し上げるように。
その瞬間、側道の幕が一斉に揺れた。
灰色の幕が開く。
俺たちの前に、巨大な舞台の裏面が現れた。
表ではない。
床板の下。
吊り具。
古い滑車。
絡まった糸。
使われなかった背景板。
破れた台本。
舞台を支える、見えない構造。
その中心に、ひとつの光が浮かんでいた。
ミラの退避線。
そして、その奥。
古い机。
白い拘束衣の少女。
黒髪。
ナツキ・シノハラの背中。
彼女は、こちらに背を向けて座っていた。
第61話で見た記録と同じ。
だが、今度は少し違う。
ナツキの横に、紙が一枚置かれている。
そこには、日本語で書かれていた。
――第三幕は、逃げるための物語ではない。
その下に、もう一行。
――帰りたいと口にした者を、帰すための物語である。
俺は息を止めた。
ナツキは、逃げ道を作ったんじゃない。
帰る意思を守るための物語を作った。
ミラの声が、床下から聞こえる。
「アキトくん」
「ああ」
「私、帰る」
今度は、はっきりしていた。
震えている。
でも、はっきりしていた。
「帰りたい」
その瞬間。
舞台の裏面に、細い扉が開いた。
黒くない。
白くもない。
夕暮れ色の扉。
ミラの帰り道。
俺は手を伸ばさない。
待つ。
ミラが、自分で帰ってくるのを。
扉の向こうから、小さな手が出た。
獣人の少女の手。
傷だらけで、震えている。
でも、自分の意思で伸ばされた手。
トーヤが盾を床に固定する。
リュミエルが精神保護を広げる。
俺はセリアの灯火を掲げる。
「ミラ」
俺は言った。
「こっちだ」
今度は、呼んでもいい。
名前と、現在記述が一致している。
「ミラ・クロウ」
リュミエルが続ける。
「あなたは、影の獣ではない」
トーヤが言う。
「帰る者だ」
俺は手を伸ばす。
「仲間に逃げ道を残す斥候」
ミラの手が、俺の手を掴んだ。
温かい。
現実の温度。
「おかえり」
言った瞬間。
扉の奥から、別の手が伸びた。
白い手。
ナツキの手。
いや。
記録の手。
その手が、ミラの背中ではなく。
俺の袖を、掴んだ。
「――次は、あなたが帰す番」
ナツキの声がした。
初めて聞く声だった。
次の瞬間。
舞台の裏面が、白く反転した。




