↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
69/100

第69話 甘いものを忘れるな

壁の側道は、淡く光っていた。


黒ではない。

白でもない。


夕暮れみたいな色。


夜に落ちる直前の、最後の明るさに似ていた。


【舞台袖・側道】


【正面入場不可】


【斥候記述保持により一時表示】


【入場条件:三名以上】


【編集者】

【器ではない者】

【盾、または炎、または剣】

【斥候の帰還意志】


文字は静かに浮かんでいる。


急かしてはこない。


来い、とも言わない。


それが逆に怖い。


黒鐘廊は、いつもこちらを引っ張ってきた。

読ませようとした。

呼ばせようとした。

書かせようとした。


だが、この側道は違う。


ただ、そこにある。


ミラが残した逃げ道。


あるいは、ナツキが残した第三幕の端。


どちらにせよ。


行くしかない。


でも、今すぐではない。


「準備する」


俺は言った。


「今すぐ飛び込まない」


リュミエルが俺を見た。


「本当に?」


「本当」


「理由は?」


「ミラに怒られるから」


リュミエルは一瞬黙った。


それから、小さく頷いた。


「それなら信用できる」


「俺本人の理性より?」


「今は、ミラの苦情の方が信用できる」


ひどい。


でも、否定できない。


ミラなら絶対に言う。


アキトくんさあ、正面から来るなって言ったよね?

耳ついてる?

あ、ついてるか。人間だもんね。


そんな感じで。


腹が立つくらい想像できる。


だから、大丈夫だ。


まだ、ミラはミラのままだ。


「人選を決める」


フィン先生が言った。


「側道の条件は、編集者、器ではない者、盾または炎または剣。つまり、アキトとリュミエルは確定」


「器ではない者、か」


リュミエルが自分の右手首を見る。


神約の呪印。


淡い光は、もう消えている。


だが、そこにある。


神が彼女に貼った役割。


器。


それを否定する条件として、側道は彼女を呼んでいる。


「嫌な条件ね」


リュミエルが言った。


「私を必要としているのではなく、私の否定を必要としている」


「行かない選択もある」


俺は言った。


リュミエルの視線が俺に向く。


「本気で言ってる?」


「一応」


「一応なら不要」


即答。


強い。


「私は行く」


「危険だ」


「あなたがそれを言う?」


「言う権利くらいはあるだろ」


「ある。でも説得力はない」


それはそう。


俺が危険だから行くなと言うのは、燃えている人間が火の用心を語るようなものだ。


いや、火の用心は大事だけど。


説得力は薄い。


「リュミエルは確定だ」


フィン先生が容赦なく言う。


「本人意思もある。条件にも合う。精神保護にも必要」


「了解」


リュミエルは静かに頷く。


フィン先生は次に、三人を見た。


トーヤ。

セリア。

レオン。


盾、炎、剣。


「三人目を誰にするか」


空気が張る。


誰が行くか。


誰を連れていくか。


それは、誰を危険に晒すかという話でもある。


トーヤが最初に口を開いた。


「俺が行く」


短い。


迷いがない。


「盾が必要だ」


セリアがすぐに反論した。


「防御だけじゃ足りないわ。舞台袖の影を照らすなら、私の炎が必要よ」


レオンも静かに言う。


「神殿式反応があるなら、俺が行くべきだ。黒鐘廊には勇者候補補強式と似た術が混じっている」


三人とも正しい。


こういう時、正しい意見が複数あるのが一番困る。


間違っているやつが一人いれば、切ればいい。


だが、全員必要に見える。


「全員で行くのは?」


ノルンが不安そうに聞く。


フィン先生は首を横に振った。


「側道の入場条件は三名以上だが、表示されている役割枠は三系統。人数を増やせば安定するとは限らん」


「むしろ、役割を増やすほど黒鐘廊に拾われるかもしれない」


俺は言った。


「盾、炎、剣。どれか一つを通行鍵として使う感じだ」


「鍵って言い方、嫌ね」


セリアが眉を寄せる。


「人間を鍵扱いしてるみたい」


「だから、慎重に選ぶ」


俺は答える。


「条件に使われるんじゃない。本人が役割を選んで同行する形にする」


「また面倒くさいこと言ってる」


「面倒くさいのは安全装置だ」


「まあ、それはちょっと分かる」


少しだけ空気が戻る。


だが、決めなければならない。


トーヤは防御。

セリアは照明。

レオンは神殿式反応。


誰を連れていくか。


正解はたぶんない。


なら、目的から逆算する。


今回の目的は、ミラの救出。


正面突破ではない。

側道から入る。

舞台袖で、ミラの現在記述を保持しながら帰還経路を探す。


必要なのは、守りか。

照明か。

神殿式対策か。


「……トーヤ」


俺は言った。


トーヤが頷く。


「俺か」


「たぶん、お前が一番いい」


セリアが不満そうに腕を組む。


「理由は?」


「舞台袖で一番怖いのは、攻撃じゃなくて、引き込まれることだ。影を照らすのも、神殿式を見るのも重要だけど、今回は帰り道を守る必要がある」


俺は側道の光を見る。


「ミラは逃げ道を残した。なら、その逃げ道を潰されないように固定する役がいる」


トーヤの盾。


退避固定。


守る相手を選べる盾。


ミラが残した道を守るには、たぶん一番合っている。


「納得はするけど、悔しいわね」


セリアが言った。


「炎も必要になる」


「今回は、側道に照明炎を預けてほしい」


「預ける?」


「直接来るんじゃなくて、炎だけを道標にできないか?」


セリアは少し考えた。


「できる。短時間なら」


「それを使わせてくれ」


セリアは俺を睨んだ。


「燃やすんじゃなくて、照らすのよね」


「そう」


「……分かったわよ」


彼女は掌に小さな炎を生んだ。


赤ではない。


白に近い。

けれど、中心にほんの少しだけ橙色がある。


暖かい炎。


「これはミラの帰り道用」


セリアは炎を見つめる。


「暗いところで迷ったら、これを見つけなさいって伝えて」


「伝える」


「絶対よ」


「絶対」


セリアは炎を小さな灯火に変え、俺に渡した。


直接手で持つわけではない。

魔力の小瓶のようなものに入っている。


それだけで、少し心強い。


レオンは黙っていた。


「レオン」


俺が声をかけると、彼は頷いた。


「分かっている。今回は俺ではない方がいい」


「そういう意味じゃない」


「いや、分かる。黒鐘廊は編集者を殺せという命令を、俺の補強式に繋げた。舞台袖で同じことが起きれば、足手まといになる」


「そこまで言うな」


「事実だ」


重い。


レオンは自分に厳しすぎる。


いや、罪があるから仕方ない。


でも、仕方ないで放置すると、また神の剣に戻る。


「レオン」


俺は言った。


「お前には外側で神殿式反応を見てほしい」


「外側?」


「ああ。俺たちが側道に入った後、もし黒鐘廊が神殿式で接続してきたら、お前が最初に気づける」


レオンの目が少し動く。


「外から止める役か」


「そうだ」


「……分かった」


彼は静かに頷いた。


「俺は、自分の剣を抜かずに使う」


いい言葉だ。


たぶん、今のレオンには必要な言葉だ。


剣は抜くだけが役目じゃない。


抜かないことで守ることもある。


「ノルン」


俺は続ける。


「発話保護を外側から維持してほしい」


「はい」


ノルンは両手を握った。


「ミラさんの声が少しでも届いたら、拾います」


「頼む」


「あと……アキトさんの声も」


「俺?」


「はい。もし、アキトさんが黒鐘廊に引っ張られそうになったら、声の揺れで分かるかもしれません」


頼もしい。


最初の頃のノルンなら、こんなことは言えなかっただろう。


震えても、声を上げる治癒師。


その現在記述が、彼女の中で本物になっている。


「頼りにしてる」


ノルンは少しだけ目を丸くして、それから頷いた。


「はい」


ヴァイスが半壊した採取具を机に置いた。


「私は外側で反転鏡を維持する」


「大丈夫なのか? 壊れかけだろ」


「壊れていない。半壊だ」


「それを壊れかけと言うんじゃないのか」


「黙れ。使えるなら道具だ」


職人みたいなことを言う。


でも、たぶん正しい。


「側道内部の管理痕跡だけを拾う。本文は通さない。命令文も通さない。お前が中で妙なものを読みかけたら、こちらで遮断する」


「助かる」


「助けるためではない。観測精度を維持するためだ」


「はいはい」


「あと」


ヴァイスは少し言い淀んだ。


珍しい。


「ミラ・クロウに伝えろ」


「何を?」


「退避線の張り方は悪くなかった、と」


それ褒め言葉か?


いや、ヴァイスとしてはかなり褒めている。


「分かった」


「余計な言い換えはするな」


「そのまま伝える」


「ならいい」


カサンドラ副院長が、学園保護記録を展開した。


羊皮紙のような光が空中に浮かぶ。


「ミラ・クロウの保護記述を作成します」


その声で、全員が静かになる。


副院長はゆっくり読み上げた。


「対象、ミラ・クロウ。現在、黒鐘廊および舞台袖による不当回収状態。学園は彼女を処分対象、鍵、素材、観測部品として扱うことを認めない」


空気が震えた。


言葉が、規定になる。


規定が、盾になる。


「彼女は影の獣ではなく、本人意思を持つ生徒である。現在記述として、仲間に逃げ道を残す斥候、ならびに自分の意思で帰り道を選ぶ者、と記録する」


ノルンの発話保護が、その言葉を包む。


セリアの灯火が、淡く揺れる。


トーヤの盾が、低く鳴った。


「本人帰還まで、当該記述を保護する」


カサンドラ副院長は、そこで微笑んだ。


目は笑っていない。


「以上。学園副院長カサンドラの名において、仮登録します」


羊皮紙の光が閉じる。


壁の側道が、少しだけ明るくなった。


効いている。


ミラの現在記述が、側道を維持している。


「準備は整った」


フィン先生が言う。


「ただし、最後に確認する」


先生は俺を見た。


「目的は何だ」


「ミラの救出」


「違う」


即座に否定された。


胸が少し跳ねる。


「目的は、ミラ・クロウ本人の帰還意思を確認し、その意思に沿って帰路を確保することだ」


ああ。


そうか。


救出。


その言葉も、少し危ない。


助ける側が主体になる。


ミラを連れ戻す。

ミラを救う。

ミラを取り返す。


間違ってはいない。


でも、それだけだと、ミラの意思が消える。


「……ミラ本人の帰還意思を確認して、帰路を確保する」


俺は言い直した。


フィン先生が頷く。


「よし」


厳しい。


でも、ありがたい。


「次。敵と戦うな」


「襲われたら?」


「退避を優先しろ」


「ミラが危険だったら?」


「ミラの現在記述を確認しろ。見た目の危機に飛びつくな。舞台袖は演出で釣る可能性がある」


本当に嫌な場所だ。


「次。未完の編集者が出ても、書くな」


「書かない」


「本当に?」


リュミエルが重ねる。


「本当」


「あなたの罪悪感を使われても?」


「書かない」


「ミラの姿を使われても?」


喉が詰まる。


そこが一番きつい。


でも、答える。


「書かない」


「よろしい」


リュミエルは短く言った。


その横顔は静かだった。


でも、彼女も怖いはずだ。


器ではない者。


側道は彼女をそう呼んだ。


神の役割を否定する者として、彼女を必要としている。


それは、彼女の傷に触れる。


「リュミエル」


俺は小さく声をかけた。


「無理はするな」


「あなたに言われると不思議な気持ちね」


「だろうな」


「でも、ありがとう」


少しだけ、言葉が柔らかかった。


その一言で、胸の奥が落ち着く。


トーヤが近づく。


盾を背負い、短く言った。


「行こう」


「緊張してるか?」


「している」


正直。


トーヤらしい。


「だが、守る」


それもトーヤらしい。


俺は頷いた。


三人。


俺。

リュミエル。

トーヤ。


編集者。

器ではない者。

盾。


いや。


違う。


アキト・アオキ。

リュミエル・アークレイン。

トーヤ・ラインハルト。


役割ではなく、名前で行く。


俺は壁の側道の前に立った。


継ぎ目は細い。


扉ではない。

穴でもない。


ただ、現実の端が少しだけめくれているように見える。


「開けるのか?」


トーヤが聞く。


「開けない」


俺は言った。


「めくる」


「違いは?」


「開けると入口になる。めくると裏側を見るだけで済む」


「なるほど」


本当に分かっているのかは怪しい。


でも、トーヤはそれでいい。


俺は手を伸ばす。


リュミエルがすぐに言う。


「直接触らない」


「分かってる」


セリアの灯火を前に出す。


炎が、側道の継ぎ目を照らす。


影ができない。


光が、隙間の奥に滑り込む。


その瞬間。


壁の表面が、紙のようにめくれた。


向こう側に、細い通路が見える。


舞台の袖。


暗くはない。


ただ、光が薄い。


両側には、無数の幕が垂れている。


赤。

黒。

白。

灰色。


その幕の向こうから、声が聞こえる。


知らない誰かの台詞。

泣き声。

拍手。

剣戟。

祈り。

笑い声。


全部が混ざっている。


物語の舞台裏。


俺は息を呑む。


ここが。


舞台袖。


その入口に、淡い線が一本だけ伸びていた。


ミラの退避線。


細く、頼りない。


でも、確かにある。


線の横に、小さな文字が浮かんでいた。


――足音を残さない。


「了解」


俺は小さく言う。


「足音は残さない」


リュミエルが精神保護を展開する。


薄い膜が、俺たち三人を包む。


トーヤが盾を低く構える。


「道を守る」


俺は頷く。


「行くぞ」


一歩。


側道へ足を入れる。


音はしなかった。


本当に、足音が消えた。


二歩目。


地下演習室の空気が遠くなる。


三歩目。


幕の匂いがした。


古い布。

乾いた紙。

消えた炎。

誰かの涙。


詩みたいな匂いだ。


嫌だな。


詩的な場所ほど、だいたい危険だ。


後ろを見る。


地下演習室はまだ見える。


フィン先生。

ノルン。

セリア。

レオン。

ヴァイス。

カサンドラ副院長。


全員がこちらを見ている。


正面ではない。


裏側から。


俺は小さく頷いた。


そして、前を見る。


ミラの退避線は、幕の間を抜けて奥へ続いている。


その先で、かすかな声がした。


「こっち」


ミラの声。


俺は動きかけて、止まる。


すぐに反応するな。


声だけで判断するな。


「呼称認証」


俺は呟く。


名前だけでは足りない。

声だけでも足りない。

関係性ログ。

現在記述。

退避線。

発話保護。


全部を見る。


リュミエルが横で頷く。


「本物?」


「まだ分からない」


声はもう一度聞こえた。


「こっちだよ、アキトくん」


いつもの軽さ。


だが、何かが違う。


ミラは俺を急かす時、たぶんこうは言わない。


もっと茶化す。

もっと余計なことを言う。


そして何より。


甘いものの話をしない。


俺は息を吐いた。


「偽物だ」


幕の奥の声が止まる。


次の瞬間、無数の黒い手が幕の隙間から伸びてきた。


【影の獣】


【案内役】


【斥候を追え】


「トーヤ!」


「分かっている」


盾が前に出る。


黒い手が盾にぶつかる。


重い音はしない。


代わりに、紙を破るような音がした。


リュミエルが手を上げる。


「精神保護、固定」


淡い結界が黒い手を押し返す。


俺はタイムラインを開かない。


まだ早い。


代わりに、セリアの灯火を掲げる。


白橙の炎が揺れる。


黒い手の影が薄くなる。


「セリア、助かる」


灯火が少しだけ強くなった。


聞こえているのかもしれない。


外側から。


黒い手は燃えない。


でも、照らされると形を保てない。


影だからだ。


見えている影を追うな。

見えていない方を見ろ。


俺はミラの退避線を見る。


黒い手は、その線を隠そうとしている。


つまり、線は正しい。


「進む」


俺は言った。


「走らない」


リュミエルが言う。


「分かってる」


「焦らない」


「分かってる」


「本当に」


「本当だ」


このやり取りも、もはや保護呪文みたいになっている。


俺たちは、幕の間を進む。


足音はない。


黒い手は何度も伸びる。


トーヤが防ぐ。

リュミエルが結界で逸らす。

俺は灯火で照らす。


編集はしない。


書かない。

読まない。

切らない。


ただ、ミラの残した線を保持する。


進むほど、幕の向こうの声が増える。


「助けて」

「ここで終わらせない」

「君が書けばいい」

「主人公になれ」

「裏方は黙っていろ」

「器は開け」

「神の剣よ」

「外れ職」


声が混ざる。


俺たちの傷を知っている。


リュミエルの手首の呪印が光る。


トーヤの盾が重くなる。


俺の胸の奥が冷える。


でも、止まらない。


声は声だ。


本文ではない。


俺たちは読まない。


しばらく進むと、幕の色が変わった。


灰色の幕が並ぶ場所に出た。


そこだけ、静かだった。


退避線は、その中央で途切れている。


「ここか」


トーヤが言う。


俺は頷く。


灰色の幕の前に、小さな椅子があった。


舞台袖に置かれた、使い古された椅子。


その上に、紙袋が置かれている。


紙袋。


あまりにも普通だ。


普通すぎて、怖い。


袋には、日本語で書かれていた。


――甘いもの。


俺は呼吸を止めた。


ミラの残響。


それとも罠。


リュミエルが俺を見た。


「触らない」


「分かってる」


俺は紙袋を見つめる。


呼称認証ではない。


物品認証。


関係性ログを見る。


ミラ。

甘いもの。

逃げ道担当。

軽口。

最後の残響。


――甘いもの、忘れないで。


紙袋から、淡い光が漏れる。


黒くない。


セリアの灯火に近い色だ。


「外側だけ見る」


俺は言った。


「中身は?」


「見ない」


紙袋そのものではなく、周囲の残響を見る。


ミラの退避線は、紙袋の下へ潜っている。


違う。


紙袋が目印じゃない。


椅子だ。


椅子の下。


そこに、小さな矢印が刻まれていた。


ミラの字。


この世界の文字で、雑に書かれている。


――上を見るな。下。


俺は少し笑いそうになった。


らしい。


実にミラらしい。


普通なら紙袋を見る。

甘いものに釣られる。

上や中を確認する。


でも、答えは下。


見えてない方。


俺は膝をついた。


直接触らず、灯火で椅子の下を照らす。


そこに、細い隙間があった。


床板の継ぎ目。


舞台袖のさらに下。


「下に逃げ道がある」


俺は言った。


その時。


灰色の幕の向こうから、拍手が聞こえた。


ぱち。


ぱち。


ぱち。


ゆっくりした拍手。


リュミエルの表情が冷える。


トーヤが盾を構える。


幕が開く。


そこに立っていたのは、ミラだった。


いや。


ミラの形をしたものだった。


耳。

尻尾。

軽い笑み。


でも、目が違う。


あの素早く動く、いたずらっぽい目じゃない。


暗い。


固定されている。


胸元に文字が浮かぶ。


【影の獣】


偽物だ。


俺は即座に判断した。


ミラの形をした影が、笑う。


「見つけるの、早いね。さすがアキトくん」


「お前はミラじゃない」


俺は言った。


影は首を傾げる。


「どうして?」


「甘いものを餌にするやつは、ミラじゃない」


「ひどくない?」


「ミラなら自分で先に食う」


一瞬。


リュミエルが横で、本当に少しだけ笑った。


トーヤも小さく頷いた。


「それは、そうだ」


影の笑みが消える。


【影の獣】の文字が歪む。


「現在記述確認」


俺は静かに言った。


「ミラ・クロウは、影に隠れる獣ではない」


リュミエルが続ける。


「舞台袖の案内役でもない」


トーヤが言う。


「仲間に逃げ道を残す斥候だ」


セリアの灯火が強くなる。


外側から、ノルンの発話保護が届く。


薄い光が、言葉を包む。


「そして」


俺は偽物を見る。


「自分の意思で帰り道を選ぶ者だ」


【影の獣】の文字が割れた。


影ミラの身体が崩れる。


だが、消える直前。


それは、俺の声で言った。


「なら、本物が帰りたくないと言ったら?」


胸が冷える。


影が消える。


灰色の幕の奥から、別の声が聞こえた。


今度は、弱い声だった。


「……アキトくん」


俺は動かない。


呼称認証。


声。

関係性ログ。

退避線。

発話保護。

甘いもの。

現在記述。


全部を合わせる。


今度は、違った。


胸が痛くなるくらい、ミラだった。


「ミラ」


俺は声を抑えて呼ぶ。


灰色の幕の奥。


床下へ続く隙間の向こう。


そこから、ミラの声がした。


「ごめん」


軽くない。


いつもの声じゃない。


震えている。


「逃げ道、見つけたんだけどさ」


息を呑む音。


「帰り道が、私を通らないと開かないみたい」


俺は奥歯を噛んだ。


やはり。


斥候の現在記述を保持せよ。


ミラを鍵にする罠。


ミラ自身も、それを分かっている。


「だから」


ミラの声が続く。


「私を、帰り道にしないで」


言葉が刺さる。


「私を助けようとして、みんなをこっちに連れてこないで」


「ミラ」


「ごめん。ちょっと、今は軽口無理」


その一言が、一番きつかった。


ミラが軽口を捨てるほど、追い詰められている。


俺は膝をついたまま、床下の隙間を見る。


暗い。


でも、そこにミラがいる。


「ミラ」


「なに」


「甘いもの、忘れてない」


沈黙。


それから、かすかな笑い声。


泣きそうな、笑い声。


「……そこ?」


「そこだろ」


「ばかじゃないの」


「よく言われる」


「誰に?」


「主にリュミエル」


「妥当」


リュミエルが横で静かに言った。


「後で訂正させる」


少しだけ、ミラの呼吸が戻った気がした。


俺は続ける。


「お前を帰り道にはしない」


「本当?」


「本当だ」


「アキトくん、こういう時、無茶するじゃん」


「今日はみんなに止められてる」


「信用できる」


ひどい。


でも、今はそれでいい。


「ミラ」


俺は言った。


「お前は鍵じゃない。道具でもない。影の獣でもない」


返事はない。


でも、聞いている。


「お前は、仲間に逃げ道を残す斥候だ」


沈黙。


「だから、今度は自分にも逃げ道を残せ」


床下の暗闇が、少しだけ揺れた。


ミラの声が、小さく返る。


「……そんなの、ずるいよ」


「知ってる」


「それ言われたら、探すしかないじゃん」


「探せ」


「命令?」


「お願い」


少しの沈黙。


「なら、聞く」


床下の奥で、淡い光が灯った。


ミラの退避線。


消えかけていた線が、もう一度伸びる。


ただし、こちらへではない。


さらに奥へ。


見えていない方へ。


「アキトくん」


「何だ」


「下の奥に、変な扉がある」


「どんな?」


「扉っていうか……紙の切れ目みたいなやつ」


俺はリュミエルを見る。


リュミエルも頷く。


「第三幕の入口かもしれない」


ミラの声が震える。


「でも、そこに文字がある」


嫌な予感がした。


「読むな」


「読んでない。見ただけ」


「内容は?」


「読まない方がいい?」


「管理情報だけなら」


ミラは少し黙った。


それから言った。


「じゃあ、形だけ」


息を吸う音。


「第三幕・仮入口」


俺たちは黙る。


ミラは続けた。


「入場条件」


一拍。


「帰りたい者ではなく、帰す者」


胸の奥が、静かに冷えた。


帰りたい者ではなく。


帰す者。


ミラを助けに来た俺たちではなく。

ミラ自身が、誰かを帰す者になる必要がある。


「……なるほど」


俺は呟いた。


「第三幕は、選ばせる」


ミラは帰る側ではなく、帰す側を選ばされている。


つまり。


誰かを逃がすために、自分が残る。


最悪だ。


本当に、性格が悪い。


ミラの声が言う。


「アキトくん」


「駄目だ」


「まだ何も言ってない」


「言いそうだから先に言った」


「じゃあ言わない」


「言え」


「どっち?」


ミラが少し笑った。


ほんの少しだけ。


でも、その笑いに救われる。


「私が帰す者になるなら、みんなを帰せるかも」


「駄目だ」


「即答じゃん」


「お前を置いて帰る選択肢はない」


「でも、私が選べば?」


その問いに、俺は答えられなかった。


本人の意思。


俺が一番重視してきたもの。


ミラが自分の意思で残ると言ったら。


俺は止められるのか。


止めるべきなのか。


それは、本人の選択を尊重することなのか。

それとも、自己犠牲という役割に呑まれることなのか。


喉が詰まる。


リュミエルが横で言った。


「ミラ」


声は静かだった。


「あなたが残る選択をするなら、理由を確認する」


「理由?」


「仲間を帰したいから、だけなら却下」


「厳しいなあ」


「それは自己犠牲の役割に近い」


リュミエルの声は揺れなかった。


「あなたが本当に望む帰り道を、まだ確認していない」


沈黙。


長い沈黙。


ミラの声が、小さくなる。


「私が、帰りたいって言ったら」


「ああ」


俺はすぐに答えた。


「絶対に道を作る」


「難しくても?」


「難しくても」


「アキトくんが危なくても?」


「そこはみんなで止める」


「便利だね、仲間」


「ああ」


本当に。


便利という言い方は雑だが。


仲間は、俺が壊れないための命綱だ。


「ミラ」


トーヤが口を開いた。


声は低い。


でも、届く。


「帰りたいと言え」


床下の奥で、ミラの呼吸が止まった気がした。


トーヤは続ける。


「命令ではない」


短い。


「頼みだ」


その言葉は、盾みたいだった。


重くて、真っ直ぐで、逃げ場を塞がない。


ミラの声が震えた。


「……帰りたい」


小さな声。


でも、確かに聞こえた。


「私、帰りたい」


その瞬間。


床下の退避線が、強く光った。


側道全体が震える。


黒い文字が浮かぶ。


【帰還意志確認】


【斥候記述、保持】


【第三幕・仮入口、再定義】


再定義。


今だ。


俺はタイムラインを開きかけて、止まる。


違う。


俺が書くんじゃない。


ミラが選んだ。


俺たちは、その選択を保持する。


「ノルン!」


俺は外側へ叫ぶ。


声が届くか分からない。


でも、発話保護の光が応えた。


『聞こえています!』


ノルンの声。


「ミラの帰還意志を保護してくれ!」


『はい!』


淡い光が、床下の隙間へ降りる。


ミラの声を包む。


「セリア!」


『何よ!』


外側から怒った声。


「灯火を強めろ! ミラが自分の道を見る!」


『任せなさい!』


白橙の炎が強くなる。


床下の暗闇が薄れる。


「ヴァイス!」


『聞こえている!』


「仮入口の管理情報だけ拾え! 本文は通すな!」


『当然だ!』


「レオン!」


『神殿式反応、抑える』


「頼む!」


外側と内側。


地下演習室と舞台袖。


仲間たちの役割が、一本の線に重なる。


誰か一人の力ではない。


ミラが帰りたいと言った。


だから、俺たちは帰り道を作る。


黒い文字が抵抗する。


【帰す者】


【自己犠牲】


【斥候は道となる】


「違う」


俺は言った。


「ミラは道じゃない」


リュミエルが続ける。


「彼女は、道を選ぶ者」


トーヤが盾を床に立てる。


「帰る者だ」


その瞬間、床下の奥で何かが割れた。


紙を破るような音。


そして、ミラの声。


「見えた!」


「何が!」


「下じゃない!」


俺は一瞬、意味が分からなかった。


ミラは叫ぶ。


「下の奥に行くんじゃない! 床下から、舞台の上に出る道がある!」


舞台の上。


正面ではない。


裏から舞台に出る。


つまり、観客席からではなく、舞台袖からではなく、床下の奈落から上がる道。


「それ、危なくないか?」


「危ない!」


即答。


「でも、黒鐘廊の正面じゃない! 第三幕の裏口だと思う!」


第三幕の裏口。


ついに来た。


俺はリュミエルを見る。


彼女は頷く。


「ミラを先に動かす」


「分かってる」


「あなたが先に行かない」


「分かってる」


本当に分かっている。


今回は、ミラが斥候だ。


俺たちは彼女の道を信じる。


「ミラ」


俺は言った。


「行けるか?」


「行ける」


声が少し戻っている。


「でも、たぶん一回しか開かない」


「十分だ」


「あと、開いたら変なの見えるかも」


「どんな?」


「分かんない。でも、たぶんナツキの記録」


胸が跳ねる。


ナツキ・シノハラ。


第三幕。

舞台袖。

名無しの観測者。


ここで、つながる。


「読まない」


俺は自分に言い聞かせるように言った。


「外側だけ見る」


「うん」


ミラの声が少し笑う。


「アキトくん、成長したね」


「うるさい。帰ったら甘いもの半分にするぞ」


「それはひどい!」


声が戻った。


少しだけ。


それだけで、泣きそうになる。


もちろん泣かない。


泣いたらリュミエルに顔でバレる。


いや、もうバレてるかもしれない。


床下の奥で、光が広がる。


ミラの退避線が上へ伸びる。


舞台の床を、裏から押し上げるように。


その瞬間、側道の幕が一斉に揺れた。


灰色の幕が開く。


俺たちの前に、巨大な舞台の裏面が現れた。


表ではない。


床板の下。

吊り具。

古い滑車。

絡まった糸。

使われなかった背景板。

破れた台本。


舞台を支える、見えない構造。


その中心に、ひとつの光が浮かんでいた。


ミラの退避線。


そして、その奥。


古い机。


白い拘束衣の少女。


黒髪。


ナツキ・シノハラの背中。


彼女は、こちらに背を向けて座っていた。


第61話で見た記録と同じ。


だが、今度は少し違う。


ナツキの横に、紙が一枚置かれている。


そこには、日本語で書かれていた。


――第三幕は、逃げるための物語ではない。


その下に、もう一行。


――帰りたいと口にした者を、帰すための物語である。


俺は息を止めた。


ナツキは、逃げ道を作ったんじゃない。


帰る意思を守るための物語を作った。


ミラの声が、床下から聞こえる。


「アキトくん」


「ああ」


「私、帰る」


今度は、はっきりしていた。


震えている。


でも、はっきりしていた。


「帰りたい」


その瞬間。


舞台の裏面に、細い扉が開いた。


黒くない。


白くもない。


夕暮れ色の扉。


ミラの帰り道。


俺は手を伸ばさない。


待つ。


ミラが、自分で帰ってくるのを。


扉の向こうから、小さな手が出た。


獣人の少女の手。


傷だらけで、震えている。


でも、自分の意思で伸ばされた手。


トーヤが盾を床に固定する。


リュミエルが精神保護を広げる。


俺はセリアの灯火を掲げる。


「ミラ」


俺は言った。


「こっちだ」


今度は、呼んでもいい。


名前と、現在記述が一致している。


「ミラ・クロウ」


リュミエルが続ける。


「あなたは、影の獣ではない」


トーヤが言う。


「帰る者だ」


俺は手を伸ばす。


「仲間に逃げ道を残す斥候」


ミラの手が、俺の手を掴んだ。


温かい。


現実の温度。


「おかえり」


言った瞬間。


扉の奥から、別の手が伸びた。


白い手。


ナツキの手。


いや。


記録の手。


その手が、ミラの背中ではなく。


俺の袖を、掴んだ。


「――次は、あなたが帰す番」


ナツキの声がした。


初めて聞く声だった。


次の瞬間。


舞台の裏面が、白く反転した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。