第68話 逃げ道担当
ミラが消えた。
黒い扉が閉じた後も、地下演習室にはしばらく何も残らなかった。
音もない。
気配もない。
黒鐘廊の揺れも、消えた。
ただ、壁に浮かんだ文字だけが残っている。
――逃げ道担当は、舞台袖へ移動しました。
そして、もう一行。
――第三幕の入口を開くには、斥候の現在記述を保持せよ。
俺は、その文字を見ていた。
読んでいるわけじゃない。
見ているだけだ。
いや、違う。
たぶん、固まっていた。
ミラが消えた。
軽口を叩いて。
いつもの調子で。
最後まで、逃げ道担当みたいなことを言って。
――迎えに来るなら、正面から来ないでね。
あいつは、そう言った。
こんな時まで、道順の心配かよ。
「……ふざけるな」
声が漏れた。
低い。
自分でも驚くくらい、冷たい声だった。
壁の文字が、わずかに揺れる。
リュミエルの手が、俺の袖を掴んだ。
「アキト」
「分かってる」
「分かってない顔」
「便利だな、その顔判定」
「今のあなたは、行こうとしている」
正解。
今すぐ行きたい。
黒い扉の影をこじ開けて、黒鐘廊だろうが舞台袖だろうが突っ込んで、ミラを引きずり戻したい。
だが。
それをやったら、負ける。
ミラが言った。
正面から来るな。
つまり、今の衝動こそが正面ルートだ。
怒りで扉を開ける。
仲間を助けるために飛び込む。
主人公みたいに。
敵が一番欲しがる展開。
「……最悪だな」
俺は拳を握った。
「行きたいのに、行ったら敵の筋書き通りか」
フィン先生が、ゆっくり黒茶を置いた。
今回は飲まなかった。
珍しい。
「その通りだ」
「先生、少しは否定してくださいよ」
「否定してお前が助かるなら、いくらでもする」
その言葉は、重かった。
フィン先生の目は、現実だけを見ていた。
「だが現実は変わらん。今、お前が感情で動けば、黒鐘廊はお前を第四断片へ接続する」
「ミラを見捨てろってことですか」
言った瞬間、自分で嫌になった。
違う。
フィン先生がそんなことを言うわけがない。
でも、言ってしまった。
リュミエルの手が、少し強くなる。
フィン先生は怒らなかった。
ただ、静かに言った。
「見捨てるな。焦るな」
短い。
でも、刺さる。
見捨てるな。
焦るな。
矛盾しているようで、矛盾していない。
たぶん、今必要なのはそれだ。
「ミラは生きている」
ノルンが言った。
声は震えていた。
でも、強かった。
「声が聞こえました。恐怖はありました。でも、意識はありました。自分の言葉で話していました」
「発話保護で分かるのか?」
「少しだけです。でも……あれは、ミラさんの声でした」
ミラの声。
軽い声。
茶化す声。
でも、最後だけ少し震えていた声。
あいつは怖かった。
当たり前だ。
黒鐘廊に回収されたのだ。
舞台袖へ移動しました、なんて綺麗な言葉で包まれているが、要するに連れ去られた。
記録の中へ。
物語の裏側へ。
第三幕の入口へ。
「現地班」
フィン先生が通信石に向かって言う。
「状況を報告しろ」
通信石から、ヴァイスの声が返ってきた。
ノイズ混じり。
『扉の影は閉じた。黒鐘廊の反応は消えかけている。採取具は……半壊だ』
「ミラは?」
『退避線を張った瞬間、扉の裏側に引かれた。私の反転鏡が反応するより早かった』
ヴァイスの声には、珍しく余裕がなかった。
『私のミスだ』
「違う」
俺は即座に言った。
「ミラは、たぶん自分で退避線を通した」
通信石の向こうが静かになる。
「エリオットをこっちに戻すために、逃げ道を開いた。その道を、黒鐘廊に逆利用された」
『……だとしても、私が反転鏡を閉じるのが遅れた』
「今は責任の置き場所を探す時間じゃない」
自分で言って、少しだけ胸が痛んだ。
俺も今、誰かのせいにしたい。
黒鐘廊。
名無しの観測者。
エリオット。
ヴァイス。
自分。
どこかに怒りを置けば、動きやすくなる。
でも、それをやると間違える。
怒りは燃料になる。
同時に、視界を狭める。
セリアの声が入る。
『アキト! ミラは取り返すわよね!?』
「当たり前だ」
即答した。
そこだけは迷わない。
『ならいい』
「ただし、正面からは行かない」
『分かってるわよ! ミラがそう言ったんだから!』
セリアの声は怒っていた。
怒っているのに、泣きそうでもあった。
トーヤの声が低く響く。
『俺が、止められなかった』
「トーヤ」
『ミラは俺の前で消えた』
その一言は、重すぎた。
トーヤは盾だ。
守る相手を選べる盾。
その彼の前で、ミラが消えた。
どれだけ堪えるか、想像するだけで胸が詰まる。
「トーヤ」
俺は言った。
「ミラは守られるだけのやつじゃない」
通信石の向こうで、沈黙。
「逃げ道担当だ。あいつは、たぶん今も逃げ道を探してる」
『……そうだな』
「だから、俺たちはその道を見失わないようにする」
『分かった』
短い返事。
でも、少しだけ戻った気がした。
レオンの声が続く。
『黒鐘廊の神殿式反応は、ミラを回収した直後に薄れた。だが、完全消失ではない。細い線が残っている』
「線?」
『退避線の残響だ。ミラのものだと思う』
俺は息を止めた。
「繋がってるのか?」
『細すぎる。追えば切れるかもしれない』
追えば切れる。
つまり、雑に辿るな。
ミラが残した逃げ道は、蜘蛛の糸みたいに細い。
強く引けば切れる。
でも、見失えば終わる。
「採取できるか?」
『ヴァイス』
レオンが呼ぶ。
ヴァイスが低く答えた。
『半壊した採取具でやるしかない。だが、注釈枠はまだ一部生きている』
「外側だけでいい。ミラの現在記述に関わる痕跡だけを取ってくれ」
『条件は?』
俺は壁の文字を見る。
――第三幕の入口を開くには、斥候の現在記述を保持せよ。
保持。
登録ではない。
上書きでもない。
固定でもない。
保持。
忘れないこと。
歪めないこと。
役割に戻さないこと。
ミラは影の獣ではない。
仲間に逃げ道を残す斥候。
「条件は三つ」
俺は言った。
「ミラを影の獣として採取しない。舞台袖の案内役として採取しない。第三幕の鍵として採取しない」
リュミエルが静かに頷いた。
俺は続ける。
「採取対象は、ミラ・クロウ本人の現在記述の残響だけだ」
ヴァイスが少し黙った。
『難しい注文だな』
「できるか?」
『できるかどうかではない』
「やる、か」
『そうだ』
頼もしい。
本当に、素直じゃないくせに頼もしい。
通信石の向こうで、何かが起動する音がした。
反転鏡。
採取具。
半壊した魔導装置。
それらが、細い退避線の残響を拾い始める。
俺は受信用タイムラインを開く。
深く見ない。
黒鐘廊に触れない。
舞台袖に触れない。
ミラの外側だけ。
現在記述の残響だけ。
【注釈枠】
――これは影の獣の記録ではない。
――これは舞台袖案内役の記録ではない。
――これは第三幕の鍵の記録ではない。
――これはミラ・クロウ本人が選んだ現在記述の残響である。
――本人意思を上書きしてはならない。
――採取対象は、退避経路・仲間識別・帰還意志に限定する。
光が細く伸びる。
糸みたいな光。
地下演習室の床に、淡い線が浮かんだ。
ミラの退避線だ。
いや、退避線の残り香。
そこに、短い言葉が浮かぶ。
――正面じゃない。
ミラの声が聞こえた気がした。
胸が締めつけられる。
次の言葉。
――暗い方じゃなくて、見えてない方。
「見えてない方……?」
ノルンが呟く。
俺は眉を寄せる。
暗い方ではない。
見えてない方。
黒鐘廊の裏側。
舞台袖。
第三幕。
俺たちはずっと、見えている影を追っていた。
黒い扉。
黒い鐘。
黒い文字。
でも、ミラは斥候だ。
見えている危険より、見えていない逃げ道を見る。
「影を追うなってことか」
リュミエルが言った。
「ああ」
「では、何を見るの?」
「影ができる前の、光の抜け」
自分で言って、少し分かってきた。
影は、何かに光が遮られてできる。
なら、影そのものを追うんじゃない。
どこから光が来て、何に遮られたのかを見る。
つまり、黒鐘廊そのものではなく、黒鐘廊が隠そうとしている余白。
舞台袖のさらに端。
「ミラは、舞台袖に回収された。でも、回収された瞬間に退避線を残した」
俺は床の光を見る。
「これは、入り口じゃない。帰り道の目印だ」
フィン先生が目を細める。
「その目印を使って、何ができる」
「正面から助けに行くんじゃない」
俺は言った。
「ミラが残した帰り道を、こっちから保持する」
「綱引きか」
「綱を引いたら切れる。だから、張りを保つだけ」
言いながら、嫌になる。
繊細すぎる。
俺の性格に向いていない。
でも、やるしかない。
ミラは逃げ道担当だ。
なら、こっちは帰り道担当になる。
「具体的には?」
リュミエルが聞く。
「ミラの現在記述を、全員で保持する」
壁の文字にもそうあった。
第三幕の入口を開くには、斥候の現在記述を保持せよ。
入口を開く。
普通なら、それは誘導に見える。
でも、ミラの声が残っている。
正面じゃない。
見えてない方。
つまり、第三幕の入口を開くというより、ミラが開いた帰路を消さない。
「名前呼び防御の逆か」
フィン先生が言った。
「役割固定から戻すために名前を呼ぶのではなく、離れた場所で本人の現在記述を維持する」
「はい」
「危険は?」
「あります」
即答した。
ないわけがない。
ミラの現在記述を保持しようとして、逆に黒鐘廊へ繋がる可能性がある。
ミラを助けるつもりで、彼女を第三幕の鍵として固定してしまう可能性もある。
だから条件が必要だ。
「ミラを鍵にしない」
俺は言った。
「ミラを道具にしない。第三幕を開くために使わない。俺たちがやるのは、ミラがミラでいるための記述を、こっち側で忘れずに持つことだけ」
ノルンが頷く。
「それなら、発話保護を使えます」
「できるか?」
「はい。みんなが言葉にする現在記述を、保護できます。ミラさんに届くかは分かりません。でも、こちら側の記録としては守れます」
十分だ。
いや、十分ではない。
でも、今ある手札では一番マシだ。
カサンドラ副院長が静かに言った。
「学園保護記録としても登録しましょう」
「できますか?」
「できます。ミラ・クロウは現在、黒鐘廊による不当回収を受けた保護対象。彼女の自己定義を、学園側の正式な保護記述として記録します」
また契約で殴る人が出た。
頼もしい。
「ただし」
副院長は俺を見る。
「本人の現在記述を、こちらが勝手に完成させてはいけません」
「分かってます」
ミラは影の獣ではない。
それは言える。
でも、ミラがこれから何になるかを、俺たちが決めてはいけない。
仲間に逃げ道を残す斥候。
それは今のミラが選んだ言葉。
俺たちは、それを守るだけだ。
「現地班」
フィン先生が通信石に言う。
「帰還しろ。採取は十分だ」
ヴァイスの声。
『了解。だが、退避線の残響がまだ――』
「欲張るな」
フィン先生の声が少し強くなる。
「ミラが残した線を、お前たちが踏み荒らすな」
沈黙。
『……了解』
現地班の撤退が始まる。
通信石越しに、足音と魔導具の音が聞こえる。
ミラの声は、もう聞こえない。
それが、一番きつかった。
あいつがいないだけで、会話の余白が重くなる。
いつもなら、ここで何か茶化したはずだ。
「アキトくん、顔暗いよー」とか。
「糖分足りてないんじゃない?」とか。
「逃げ道担当のありがたみ、今わかった?」とか。
言いそうだ。
言いそうすぎて、余計に腹が立つ。
「……戻す」
俺は呟いた。
「必ず」
リュミエルが隣で言った。
「それはいい。でも、あなた一人で、ではない」
「分かってる」
「本当に?」
「本当だ」
今回は、ちゃんと言える。
ミラを助けるには、俺一人では無理だ。
というより、俺一人で助けに行ったら失敗する。
俺は編集者だ。
でも、斥候ではない。
逃げ道を見る目は、ミラの方が上だ。
なら、ミラが残した目印を信じるしかない。
しばらくして、現地班が地下演習室へ戻ってきた。
最初に入ってきたのはトーヤだった。
盾を構えたまま。
顔が硬い。
次にセリア。
炎を小さく握りしめている。
怒っている。
レオンは無言だった。
剣は抜いていない。
でも、手は柄から離れていない。
最後にヴァイス。
半壊した採取具を抱えている。
制服の袖が少し破れていた。
ミラはいない。
その事実が、目で見える形になった。
地下演習室が、少し狭くなる。
「採取具」
ヴァイスが言った。
声が硬い。
「壊れかけだが、残響は取れた」
「助かった」
俺が言うと、ヴァイスは顔を歪めた。
「助かっていない」
「……そうだな」
「私は、ミラ・クロウを回収できなかった」
「お前のせいじゃない」
「その言葉は不要だ」
ヴァイスは俺を睨んだ。
だが、怒りの向きは俺ではない。
自分だ。
「原因分析をする。感情整理は後だ」
その言い方は、俺に少し似ていた。
嫌になるくらい。
「分かった」
俺は頷く。
「残響を見よう」
リュミエルが俺の横に立つ。
「条件確認」
「中は見ない。黒鐘廊本体に触れない。ミラを鍵として扱わない。現在記述の残響だけを見る」
「よろしい」
「先生が増えた」
「黙って」
はい。
俺は採取具から出た薄い膜を、机の上に広げた。
そこには、ミラの退避線が記録されていた。
細い。
曲がっている。
途中で何度も途切れている。
まるで、暗闇の中で指先だけで壁をなぞったような線。
そこに、短い断片が残っていた。
――正面じゃない。
――暗い方じゃなくて、見えてない方。
――足音を残さない。
――声は残す。
――影に名前を取らせない。
ミラらしい。
斥候の言葉だ。
「声は残す」
ノルンが呟く。
「だから、最後に声を届けたんですね」
「たぶんな」
ミラは分かっていた。
自分が回収される瞬間、何を残せばいいか。
足跡ではなく、声。
姿ではなく、現在記述。
正面の道ではなく、見えていない方。
「影に名前を取らせない」
レオンが低く言った。
「黒鐘廊は、名前を奪うのか」
「可能性が高い」
俺は言った。
「役割名で上書きする。ミラ・クロウではなく、影の獣として」
トーヤの盾を握る手に力が入る。
「させない」
短い。
でも、重い。
セリアが炎を見つめながら言った。
「ミラは影の獣なんかじゃないわよ」
「うん」
ノルンが頷く。
「ミラさんは、いつも逃げ道を考えてくれていました」
レオンも言う。
「仲間を置いていかない斥候だ」
ヴァイスは少し黙った後、嫌そうに言った。
「軽口が多すぎるが、状況判断は早い」
「それ褒めてる?」
俺が聞くと、ヴァイスは眉をひそめた。
「他に何に聞こえる」
「悪口混じりの褒め言葉」
「正確だ」
正確なのかよ。
でも、それでいい。
ミラなら笑う。
たぶん。
「現在記述を作り直す」
俺は言った。
「いや、違うな。作り直すんじゃない。保持する」
全員が頷く。
俺は机の上の残響を見ながら、ゆっくり言葉を置いた。
「ミラ・クロウは、影に隠れる獣ではない」
ノルンの発話保護が、淡く光る。
セリアが続ける。
「誰かを置いて逃げる斥候でもない」
トーヤが言う。
「守るべき道を、最後まで見る者」
レオンが言う。
「仲間に逃げ道を残す者」
ヴァイスが少し目を伏せる。
「退避経路を、戦術として成立させる者」
ミラらしくない言い方だ。
でも、ヴァイスらしい。
リュミエルが最後に、静かに言った。
「ミラ・クロウは、自分の意思で帰り道を選ぶ者」
その言葉で、残響の線が光った。
細い線が、机の上から床へ降りる。
地下演習室の床に、淡い道筋が浮かんだ。
黒くない。
白くもない。
夕暮れみたいな、淡い色。
ミラの退避線。
その先は、壁の前で途切れていた。
壁には、黒い扉はない。
でも、そこに余白がある。
見えていない方。
俺はゆっくり近づいた。
リュミエルが隣に来る。
「触らない」
「触らない」
「近づきすぎない」
「分かってる」
「本当に」
「本当だ」
俺は壁の前で止まる。
そこには何もない。
何もない。
だからこそ、見える。
黒い扉があった場所ではない。
鐘が鳴った場所でもない。
文字が出た場所でもない。
その隣。
誰も見ていなかった、ただの壁。
そこに、ほんのわずかな継ぎ目があった。
「……見えてない方」
俺は呟く。
継ぎ目は、扉の形をしていない。
むしろ、編集画面のレイヤーの境目に近い。
本文ではない。
舞台でもない。
扉でもない。
余白への切れ目。
「ミラは、入口を見つけてた」
俺は言った。
「回収されながら、こっちに目印を残した」
トーヤが一歩前に出る。
「行けるのか」
「今すぐは無理」
俺は答えた。
「でも、道はある」
セリアが炎を掲げる。
継ぎ目が少しだけ光る。
そこに、新しい文字が浮かんだ。
日本語ではない。
この世界の文字でもない。
だが、意味だけが頭に入る。
【舞台袖・側道】
【正面入場不可】
【斥候記述保持により一時表示】
【入場条件:三名以上】
三名以上。
俺は眉を寄せる。
「一人で来るなってことか」
リュミエルが即答する。
「当然」
「いや、俺が言う前に」
「当然」
二回言われた。
強い。
さらに文字が浮かぶ。
【編集者】
【器ではない者】
【盾、または炎、または剣】
【斥候の帰還意志】
条件。
俺。
リュミエル。
そして、トーヤかセリアかレオン。
ミラ本人の帰還意志は、残響として保持されている。
「人選まで指定してくるのか」
俺は呟く。
「怪しいな」
フィン先生が言った。
「はい」
怪しい。
かなり怪しい。
でも、これは黒鐘廊の正面口ではない。
ミラが残した側道だ。
敵が用意した道なのか。
ミラが見つけた道なのか。
ナツキが残した逃げ道なのか。
まだ分からない。
だが、少なくとも正面ではない。
「行くなら、準備してからだ」
フィン先生が言う。
「今すぐ突入は却下」
「分かってます」
「本当に?」
リュミエルと声が重なった。
俺は二人を見る。
「そこまで信用ない?」
「ある」
リュミエルが言った。
「だから、止める」
フィン先生と同じ言い方だ。
ずるい。
俺は息を吐いた。
「行く。だけど、準備してからだ」
壁の側道は、淡く光っている。
いつ消えるか分からない。
だが、まだ消えない。
ミラの現在記述が保持されている限り、道は残る。
たぶん。
「ミラ」
俺は小さく呟いた。
「待ってろ」
返事はない。
だが、机の上の残響に、最後の一文が浮かんだ。
――甘いもの、忘れないで。
地下演習室が、一瞬だけ止まった。
それから、セリアが泣きそうな顔で怒った。
「あの子、何なのよ……!」
ノルンが目元を押さえる。
トーヤは静かに目を伏せた。
ヴァイスは顔を背けた。
レオンは、短く息を吐いた。
俺は笑いそうになって、失敗した。
胸が痛い。
でも。
ああ。
間違いない。
ミラだ。
あいつはまだ、ミラのままだ。
俺は拳を握る。
「了解」
声が震えた。
でも、言った。
「帰ったら、山ほど食わせてやる」
壁の側道が、ほんの少しだけ明るくなった。




