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第67話 次期観測者候補

黒い扉の奥で、鐘が揺れていた。


音はしない。


ただ、揺れている。


それだけなのに、地下演習室の空気が重くなる。


扉の向こうから、丁寧で穏やかな声がした。


「ようやく、裏側を見てくれましたね」


エリオット・ベイル。


合同演習準備委員会、副責任者。

ヴァイスの承認印を偽造した疑いがある男。

第二断片の本文を読んだ者。

そして今、黒鐘廊の裏側管理者として表示された者。


声だけなら、普通だった。


いや。


普通すぎた。


怒鳴らない。

狂っていない。

怯えてもいない。


その普通さが、逆に気持ち悪い。


「待っていました。編集者」


黒い扉の奥に、人影が立っていた。


細い体。

整った制服。

乱れのない姿勢。


顔はまだ見えない。


でも、声だけで分かる。


こいつは、舞台の表に立つタイプじゃない。


人の横に立つ。

後ろで帳尻を合わせる。

誰かの失敗を先回りして消す。


そういう人間の声だ。


「僕はもう、舞台の裏方ではありません」


声は笑っていた。


泣いているようにも聞こえた。


「これからは、観測する側です」


リュミエルの手が、俺の袖を掴んだ。


「返事をしないで」


「分かってる」


即答した。


分かっている。


黒い扉は、こちらに語りかけている。

つまり、本文に近い。


いや、本文そのものではない。


でも、限りなく危ない。


読者への呼びかけ。

命令文。

人物の内面記述。


俺たちが弾くと決めたものに近い。


「フィン先生」


俺は視線を外さずに聞く。


「これは、会話していいやつですか?」


「駄目なやつだ」


即答。


ですよね。


「ただし、完全無視も危険だ。向こうは接続を維持するために、こちらの反応を待っている」


「どうしろと?」


「会話ではなく、記録確認として扱え」


なるほど。


話すな。

質問するな。

誘導に乗るな。


ただ、事実確認だけを投げる。


面接ではない。

事情聴取でもない。

ましてや物語の対話でもない。


記録の照合。


地味だ。


そして、地味は強い。


俺は深く息を吸う。


「こちらは特異職科地下演習室。観測記録の外側確認中」


声に感情を乗せない。


「対象、エリオット・ベイル。現在地および状態の確認を求める」


黒い扉の奥で、影が少し揺れた。


「さすがですね」


エリオットが言った。


「すぐに会話ではなく、記録確認に切り替える。そういうところが、あなたらしい」


乗るな。


その褒め方は罠だ。


あなたらしい。


その一言で、こちらの人格に触れてくる。


俺を観測しようとしている。


「状態確認のみを求める」


俺は繰り返した。


「現在地。黒鐘廊、裏側管理層」


エリオットは素直に答えた。


「状態。次期観測者候補。第二断片本文、閲覧済み。黒鐘同期、部分成立」


部分成立。


嫌な言葉だ。


全部ではない。


でも、もう始まっている。


「本文の内容は不要」


俺はすぐに言う。


「管理情報のみ提示しろ」


「本当に慎重ですね」


「管理情報のみ提示しろ」


「分かりました」


扉の奥で、黒い鐘がゆっくり揺れる。


エリオットの声が、少しだけ低くなった。


「第二断片は、代償を示す断片です」


代償。


ナツキの第三幕計画書。


第一断片は構造。

第二断片は代償。

第三断片は逃走経路。

第四断片は、まだ書かれていない。


そこまでは、観測窓で分かっていた。


「代償の本文は不要」


俺は言った。


「代償の管理情報だけを示せ」


「では、分類だけ」


エリオットは言った。


「第三幕へ入るための代償は、命ではありません」


全員が動きを止めた。


命ではない。


それは救いに聞こえる。


だが、こういう救いはだいたい崖の縁に置かれている。


エリオットは続けた。


「記憶でもありません」


俺の胸が、わずかにざわつく。


命でもない。

記憶でもない。


なら。


「能力でもありません」


エリオットの声は穏やかだった。


「代償は、役割です」


空気が凍った。


役割。


この世界で、もっとも重い言葉の一つ。


職業。

称号。

神託。

勇者候補。

器。

外れ職。

盾。

影の獣。

沈黙した治癒師。


人間に貼られ、人間を縛り、人間を便利な形に整えるもの。


それが代償。


「具体内容は不要」


リュミエルが低く言った。


俺へではない。


扉の向こうへだ。


エリオットは少し笑った。


「リュミエル・アークレイン。器ではない者」


リュミエルの右手首の呪印が、淡く光る。


俺の背筋に冷たいものが走った。


「呼ぶな」


声が出た。


低い。


まずい。


感情が乗った。


リュミエルの手に力が入る。


「アキト」


「悪い」


俺は息を吐く。


駄目だ。


今のは乗った。


黒い扉の奥で、エリオットが静かに言う。


「怒るんですね。やはり、あなたは主人公向きだ」


「違う」


リュミエルが即座に言った。


「彼は主人公ではない」


「では、何ですか?」


「編集者」


「それも役割ですよ」


エリオットの声が、少しだけ鋭くなった。


「外れ職から編集者へ。異物から人間へ。主人公候補から拒否者へ。あなたたちは役割を剥がしているつもりで、新しい役割を貼っている」


言葉が刺さる。


痛いところを突いてきた。


俺たちは現在記述を作った。


器ではない。

神の剣ではない。

沈黙した治癒師ではない。

ただの盾ではない。

影の獣ではない。


その代わりに、新しい自己定義を置いた。


自分で選ぶ自由を望む者。

自分の剣と罪を問い直す者。

命のために声を上げる治癒師。

守る相手を選べる盾。

仲間に逃げ道を残す斥候。


それは役割ではないのか。


違う。


……と言い切りたい。


だが、簡単ではない。


「違いはある」


フィン先生が言った。


「本人が選んだかどうかだ」


黒い扉の奥が、わずかに揺れる。


「フィン先生」


エリオットの声が少し明るくなる。


「あなたはいつも正しい。でも、正しさは残酷です」


「知っている」


フィン先生は短く返す。


「だから、使い方を間違えるな」


「僕は間違えていません」


「間違えた者ほど、そう言う」


容赦ない。


だが、エリオットは怯まなかった。


「僕は、ずっと裏方でした」


声が、少し変わった。


穏やかさの奥に、別のものが滲む。


「誰かのために準備し、誰かの失敗を直し、誰かの功績を支えました。資料を整え、承認印の不備を修正し、演習場の調整をし、貴族生徒のわがままを処理し、教師の指示漏れを埋めた」


ヴァイスの顔が硬くなる。


通信石の向こうにいる現地班にも聞こえているはずだ。


「でも、舞台に立つのは別の誰かです」


エリオットの声は静かだった。


「勇者候補。天才魔導師。器。外れ職から成り上がった編集者」


俺の胸が、嫌な感じに重くなる。


「僕は、ずっと台本の余白でした」


黒い扉の奥で、鐘が揺れる。


「だから、第二断片は教えてくれたんです」


「本文を言うな」


俺は遮った。


エリオットは黙った。


一秒。


二秒。


「……惜しいですね」


「何が?」


「今のあなたは、僕を救おうとしている」


言葉が鋭くなる。


「でも、本当は知りたいはずです。僕が何を読んだのか。第二断片に何が書かれていたのか。僕がどうしてこうなったのか」


知りたい。


正直、知りたい。


喉が渇くほど知りたい。


でも。


「知りたいからって、読むとは限らない」


俺は言った。


「そうですか?」


「そうだ」


「本当に?」


その言い方。


リュミエルの口癖を真似た。


瞬間、リュミエルの目が冷えた。


「真似しないで」


静かな声。


でも、地下演習室の温度が下がった。


エリオットは、小さく笑った。


「失礼しました」


「失礼では済まない」


「では、記録します。リュミエル・アークレインは、模倣に怒る」


「記録するな」


俺は言いかけて、止まった。


まただ。


記録する。


その言葉に反応させられる。


エリオットは会話でこちらの反応を採取している。


ただの対話じゃない。


観測だ。


「フィン先生」


俺は小さく言う。


「こいつ、喋るだけで記録を取ってます」


「ああ」


「会話を切るべきです」


「同感だ」


フィン先生は通信石に触れる。


「現地班。採取具の状態は?」


通信石から、ヴァイスの声が返ってくる。


『反転鏡が黒い扉の影に噛まれている。切り離すには少し時間がいる』


「急げ」


『分かっている!』


ミラの声も混じる。


『扉の影、こっち側にも広がってる。長居はまずいね』


「退避経路は?」


『ある。でも、扉の影が帰り道を覚えようとしてる』


嫌な表現だ。


帰り道を覚える。


つまり、黒鐘廊がミラの退避経路を逆探知しようとしている。


「ミラ、経路を固定するな。変え続けろ」


俺は言った。


『了解。逃げ道担当、忙しいねえ』


軽い声。


でも、余裕は少ない。


トーヤの声が入る。


『影がこちらに伸びている。盾で止める』


セリアも叫ぶ。


『照らしてるけど、これ、影が燃えない!』


「燃やすな、照らせ」


『分かってるってば!』


分かっているならいい。


たぶん。


レオンの低い声。


『神殿式反応が増えている。エリオット本人のものだけじゃない。別の権限が混じっている』


「名無しの観測者か?」


『分からない。だが、古い』


古い権限。


旧神殿時代。

臨時記録官。

名無しの観測者。


その名前を、誰かが使っている。


本人なのか。

記録だけなのか。

あるいは、黒鐘廊が権限を模倣しているのか。


判断できない。


判断できないなら、決めつけるな。


「エリオット」


俺は言った。


「記録確認を続ける」


「どうぞ」


「お前は、名無しの観測者本人か?」


「いいえ」


即答だった。


「名無しの観測者の権限を持っているのか?」


「一部を」


「誰から受け取った?」


沈黙。


黒い扉の奥の影が、ほんの少し揺れた。


「答えられない?」


俺が聞く。


「答えると、本文に触れます」


エリオットは言った。


「では答えなくていい」


「賢明です」


「褒めるな。気持ち悪い」


「失礼」


丁寧だ。


どこまでも丁寧。


その丁寧さが、黒い。


「質問を変える。お前は自分の意思で、次期観測者候補になったのか?」


長い沈黙。


さっきより長い。


扉の奥で、黒い鐘が揺れる。


そして、エリオットは言った。


「分かりません」


その答えは、予想外だった。


「分からない?」


「はい。僕は、望んだと思います。舞台の裏で終わりたくないと。誰かのための準備係ではなく、物語を見届ける側になりたいと」


声が少し震える。


「でも、その望みが僕のものだったのか、第二断片に読まされたものだったのか、もう分からない」


地下演習室が静まる。


この声は、演技かもしれない。

誘導かもしれない。

観測のための餌かもしれない。


でも。


その中に、本人の声が混じっている気がした。


ノルンが小さく息を吸った。


「発話保護を、通せるかもしれません」


「距離がある」


フィン先生が言う。


「でも、声があります」


ノルンは震えながらも、手を前に出した。


「本人の声が、まだあります」


フィン先生は少しだけ考えた。


「やるなら短く。深入りするな」


「はい」


ノルンの淡い光が、黒い扉へ伸びる。


細い。


頼りない。


でも、折れない。


エリオットの声が止まった。


「これは……」


「エリオットさん」


ノルンが呼ぶ。


「あなたは、今、痛いですか?」


問い。


命令ではない。

誘導でもない。

戻れ、とも言わない。


ただ、本人の感覚を聞く。


俺がルグランにやったことと同じだ。


いや、あれより優しい。


エリオットはしばらく黙った。


「痛い、です」


声が変わった。


少しだけ、普通の青年の声になった。


「どこが痛いですか?」


「分かりません。頭か、胸か、手か……いや、違う」


「違う?」


「見られていない場所が、痛い」


その言葉に、胸が詰まった。


見られていない場所。


評価されなかった場所。

誰にも記録されなかった努力。

裏で消した失敗。

飲み込んだ不満。

言わなかった本音。


そこが痛い。


「……分かるよ」


思わず、声が出た。


リュミエルが俺を見る。


でも、止めなかった。


エリオットも沈黙した。


俺は言葉を選ぶ。


慎重に。


「俺も、外れ職って呼ばれて、見られなかった」


黒い扉が揺れる。


「役に立たないって決めつけられて、捨てられた。だから、見られない痛みは少し分かる」


「あなたは、見返したでしょう」


エリオットの声が戻る。


「学園中の前で証明した。外れ職ではないと。仲間もいる。評価も変わった」


「そうだな」


否定しない。


今の俺がそれを否定したら、逆に嘘になる。


「でも、見返したからって、痛かった過去が消えるわけじゃない」


沈黙。


「それに、俺は一人で見返したわけじゃない」


リュミエル。

ミラ。

トーヤ。

ノルン。

セリア。

レオン。

フィン先生。

副院長。

そして、素直じゃないヴァイス。


たぶん、誰か一人でも欠けていたら、俺はここまで来られなかった。


「お前が本当に舞台の裏にいたなら」


俺は続ける。


「お前を見ていた誰かが、たぶんいる」


「いません」


即答。


早すぎる。


痛すぎる。


「僕はいませんでした。記録されなかった。成果は誰かの名前になった。失敗だけが僕のところに戻ってきた」


「それは違う」


通信石から、ヴァイスの声がした。


全員が少し驚く。


ヴァイスの声は硬かった。


でも、はっきりしていた。


『エリオット。聞こえているな』


黒い扉の奥が揺れる。


「……ヴァイス・ローレン」


『お前の処理能力は、魔導科でも上位だった。合同演習準備委員会の細部調整を、お前がほぼ一人で回していたことも知っている』


「知っていたなら」


エリオットの声が低くなる。


「なぜ、何も言わなかったんですか」


ヴァイスは黙った。


痛い沈黙。


それから、短く言った。


『必要だと思わなかった』


おい。


言い方。


でも、ヴァイスは続けた。


『私は、優秀な者が優秀に働くのは当然だと思っていた。お前が処理するのも、できるからだと考えていた』


「便利だったから、使った」


『そうだ』


逃げなかった。


ヴァイスは認めた。


『私はお前を便利に扱った。承認印の管理も甘かった。お前が不満を抱えていたことにも気づかなかった』


エリオットの声が震える。


「謝るんですか」


『謝罪は必要ならする。だが、その前に事実を言う』


ヴァイスの声が鋭くなる。


『お前の仕事は、無価値ではなかった』


黒い扉の奥で、鐘が止まった。


完全にではない。


でも、揺れが小さくなった。


『私はお前の仕事を評価していなかったわけではない。口にしなかっただけだ』


「それは、同じです」


『ああ。同じだな』


ヴァイスが言う。


『だから、今言う。エリオット・ベイル。お前の仕事は、魔導科に必要だった』


沈黙。


長い。


黒い扉の奥から、かすかな息遣いが聞こえた。


エリオットが息を吸ったのか。

泣いたのか。

笑ったのか。


分からない。


「遅いですよ」


エリオットが言った。


「本当に、遅い」


『そうだな』


ヴァイスは答えた。


『だが、遅いから無意味とは限らない』


その言葉は、少しだけ意外だった。


ヴァイスがそんなことを言うとは思わなかった。


いや。


こいつも変わっている。


人は変わる。


遅くても。


その時、ノルンの発話保護が強く光った。


「エリオットさんの声、少し戻っています!」


リュミエルが言う。


「今なら、管理接続を切れる?」


「切るんじゃない」


俺は言った。


「本人に選ばせる」


フィン先生が頷く。


「問いを出せ」


俺は黒い扉を見る。


「エリオット・ベイル」


声を整える。


「お前は、観測者でいたいのか?」


扉の奥で、影が揺れる。


「それとも、エリオット・ベイルとして戻りたいのか?」


答えはすぐには返ってこなかった。


黒い鐘が、ゆっくり揺れる。


エリオットの声がした。


「戻ったら」


震えている。


「僕は、どうなりますか」


誰も即答できなかった。


偽造。

広域校閲杭。

黒鐘廊。

第二断片。


無罪ではない。

完全な被害者でもない。


戻れば、責任を問われる。


それは避けられない。


カサンドラ副院長が静かに言った。


「証言者として保護します。ただし、関与した事実については調査します」


「罰は?」


「あり得ます」


正直だった。


柔らかい嘘は言わない。


エリオットは小さく笑った。


「優しくないですね」


「優しい嘘は、あなたを戻しません」


副院長の声は穏やかだった。


「あなたが戻るなら、罪も一緒に戻ります」


重い。


でも、正しい。


罪を切り捨てて戻ることはできない。


ルグランもそうだった。


エリオットも、たぶん同じだ。


「罪ごと戻る」


エリオットが呟いた。


黒い扉の奥で、影が少しだけ人の形を取り戻す。


顔が見えた。


細い顔。

疲れた目。

整った髪。


たぶん、本来は真面目な青年だったのだろう。


その目が、こちらを見た。


「編集者」


「何だ」


「あなたなら、僕の罪を切れますか」


来た。


甘い罠。


本人の頼み。


罪を切ってくれ。

苦しさを切ってくれ。

責任を切ってくれ。


できるかもしれない。


でも。


「切らない」


俺は言った。


エリオットの顔が歪む。


「なぜ」


「それを切ったら、お前が戻れなくなる」


胸が痛い。


でも、言う。


「罪は、お前を潰すかもしれない。でも、お前が何を選んだかの記録でもある。それを勝手に切れば、俺は神殿と同じになる」


「では、僕は苦しめと?」


「違う」


俺は首を振る。


「一緒に持って戻れ」


エリオットの目が揺れる。


「重すぎます」


「ああ」


「耐えられません」


「一人ならな」


俺は言った。


「だから、証言者として戻れ。全部話せ。誰が関わったのか。何を読まされたのかじゃなく、何をされたのか。お前が何を見逃して、何を選んだのか」


エリオットの唇が震える。


「そして、その後どうするかは」


俺は少し息を吸った。


「お前が選べ」


黒い扉の奥で、鐘の揺れが止まった。


ほんの一瞬。


本当に一瞬だけ。


エリオットの目に、人間の色が戻った。


「僕は……」


その時だった。


黒い扉の奥から、別の声がした。


エリオットではない。


古い紙をめくるような声。


名無しの観測者の声。


「選択を確認」


地下演習室の全員が固まる。


エリオットの顔が青ざめた。


「違う……僕じゃない……」


声が続く。


「次期観測者候補、揺らぎ発生」


黒い扉の奥で、無数の文字が浮かぶ。


【裏方】

【未評価】

【観測者】

【証言者】

【罪人】

【次期観測者候補】


役割が混ざる。


エリオットの身体が、黒い文字に引き戻される。


「エリオット!」


ヴァイスの声が通信石から響く。


『手を伸ばせ!』


扉の奥で、エリオットがこちらに手を伸ばす。


だが、黒い文字がその腕を巻き取った。


名無しの観測者の声が告げる。


「候補不安定につき、管理者権限を再接続」


まずい。


戻りかけたエリオットが、また持っていかれる。


俺はタイムラインを開きかける。


駄目だ。


直接触れば、俺が接続される。


でも、今何もしなければ、エリオットは落ちる。


「アキト」


リュミエルが俺を見る。


その目が言っていた。


無理をするな。


でも。


何もしない理由にはするな。


俺は奥歯を噛む。


切らない。

書かない。

読まない。


なら。


注釈だけなら。


「ヴァイス!」


俺は通信石に叫んだ。


「採取具の注釈枠、まだ生きてるか!?」


『生きている!』


「そこに追加しろ!」


『何をだ!』


俺は黒い扉を見る。


エリオットの腕が、文字に飲まれていく。


「エリオット・ベイルは、管理者ではなく証言者である」


ヴァイスが一瞬黙る。


『……なるほど』


「本人の罪を証言する主体として、黒鐘廊管理者権限から分離しろ!」


『やってみる!』


「やってみるじゃなくて、やれ!」


『うるさい! やる!』


通信石の向こうで、魔力が跳ねる気配がした。


俺は直接編集しない。


注釈枠に、外からルールを追加するだけ。


それでも、危険はある。


リュミエルが俺の手首を掴んだ。


「深く行かない」


「行かない」


「本当に」


「本当」


俺は注釈枠に、言葉を渡す。


【追加注釈】


――エリオット・ベイルは、現在、学園調査対象であり証言主体である。

――本人同意なき管理者権限再接続を禁止する。

――証言主体を観測者候補へ移行する処理は、記録改竄に該当する。

――本人の選択確認が完了するまで、役割固定を保留する。


魔力が抜ける。


少しだけ。


でも、まだ浅い。


ヴァイスの声が響く。


『注釈、反転鏡に乗った!』


黒い扉の奥で、文字の束が止まる。


エリオットの腕に絡んでいた黒い記述が、ぎしりと軋んだ。


【権限衝突】


【証言主体】


【管理者候補】


【処理保留】


いける。


「エリオット!」


俺は叫ぶ。


「戻るなら、今選べ!」


エリオットの顔が歪む。


「僕は……」


黒い文字が彼の喉に絡む。


「僕は、観測者に――」


言葉が止まる。


違う。


それは黒鐘廊の言葉だ。


ノルンが叫ぶ。


「エリオットさん! 痛いのはどこですか!」


その問いが、発話保護に乗って届く。


エリオットの目が揺れる。


「見られて……いない、場所」


「そこを、あなた自身で見てください!」


ノルンの声が震える。


でも、強い。


「誰かに見てもらうために、黒鐘廊へ行かないでください!」


エリオットの喉が震える。


ヴァイスの声が続く。


『お前の仕事は無価値ではなかった。遅いが、私は今それを記録する』


黒い扉の奥で、エリオットが目を見開いた。


「記録……」


『ああ。魔導科上位生徒ヴァイス・ローレンの名で記録する。エリオット・ベイルは合同演習準備において、実務上不可欠な調整を行った』


ヴァイスの声は硬い。


だが、逃げない。


『そして私は、その評価を本人に伝えなかった』


エリオットの目から、涙が落ちた。


「遅いですよ……」


『知っている』


「本当に、遅い……」


『だから戻れ。直接文句を言え』


その言葉で、エリオットの口元が歪んだ。


泣き笑いのようだった。


「それは……少し、いいですね」


黒い文字が弾けた。


エリオットの腕が自由になる。


彼は、こちらへ手を伸ばした。


ミラの声が通信石から飛ぶ。


『退避線、通す!』


黒い扉の奥から、細い線が伸びる。


ミラの退避経路。


トーヤが盾で扉の影を押さえる。


『今だ!』


セリアが炎を強める。


『影、薄くする!』


レオンが神殿式を抑える。


『管理者権限、揺らいだ!』


ヴァイスが叫ぶ。


『引っ張るぞ、エリオット!』


黒い扉の奥で、エリオットの身体がこちら側へ傾いた。


いける。


そう思った。


その瞬間。


名無しの観測者の声が、静かに告げた。


「証言者回収、許可」


え。


許可?


黒い扉が、突然こちら側に開いた。


引き戻すのではない。


押し出すように。


エリオットの身体が、黒い扉から放り出された。


地下演習室の床に、転がる。


「エリオット!」


ヴァイスの声が通信石から響く。


だが、現地班は旧地下聖堂入口にいる。


ここにいるのは、俺たちだけ。


ノルンがすぐに駆け寄ろうとして、フィン先生に止められる。


「待て。確認が先だ」


エリオットは床に倒れていた。


息はある。


制服は黒い文字で汚れている。

右手には、黒いインクのような痕がある。


そして、彼の背中に一枚の紙片が貼られていた。


日本語。


俺は読まないように、まず注釈枠を通す。


本文か。

命令文か。

呼びかけか。


違う。


管理記録。


紙片には、こう書かれていた。


――証言者を返却する。


その下に、もう一行。


――代わりに、観測者を一名回収した。


胸が凍った。


「現地班!」


フィン先生が通信石に叫ぶ。


「全員応答しろ!」


ノイズ。


嫌なノイズ。


最初に返事をしたのは、トーヤだった。


『トーヤ、無事』


次に、セリア。


『セリア、いる!』


レオン。


『レオン、問題ない』


ヴァイス。


『ヴァイス、無事だ。エリオットはそっちか!?』


フィン先生の顔が硬くなる。


「ミラは?」


沈黙。


通信石から、ノイズだけが返る。


「ミラ、応答しろ」


沈黙。


胸の奥が冷える。


リュミエルの手が、俺の袖を掴む。


強い。


でも、俺はもう動きかけていた。


「ミラ!」


通信石に向かって叫ぶ。


返事はない。


代わりに、黒い扉の奥から、軽い声が聞こえた。


ミラの声だった。


「やっば」


いつもの軽さ。


でも、遠い。


「逃げ道担当、回収されちゃったかも」


黒い扉が、ゆっくり閉じていく。


俺は手を伸ばしかけた。


リュミエルが止める。


「駄目!」


分かっている。


でも。


扉の隙間から、ミラの声が最後に届いた。


「アキトくん」


軽い声。


少しだけ震えている声。


「迎えに来るなら、正面から来ないでね」


黒い扉が閉じた。


地下演習室に、沈黙が落ちる。


俺は、動けなかった。


ミラが。


黒鐘廊に、回収された。


壁に新しい文字が浮かぶ。


――逃げ道担当は、舞台袖へ移動しました。


そして、もう一行。


――第三幕の入口を開くには、斥候の現在記述を保持せよ。


俺の手が震えた。


怒りではない。


たぶん、もっと面倒なものだ。


俺はゆっくり息を吸う。


ミラは言った。


正面から来るな。


なら。


行き方は一つだ。


「……扉の裏から行く」


俺は呟いた。


リュミエルが隣で、静かに言った。


「今度は、私も行く」


その声に、拒否の余地はなかった。

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