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第64話 鳴ってしまった鐘

ごぉん。


鐘が鳴った。


一度だけ。


どこにもないはずの鐘が、地下演習室の底から響いた。


いや、底じゃない。


壁。

床。

天井。

空気。

俺の骨の内側。


全部が、同じ音で震えた。


黒い鐘。


鳴ってしまった。


「全員、動くな!」


フィン先生の声が飛ぶ。


鋭い。


その一言で、全員の足が止まった。


ミラでさえ、反射的に動きかけた体を止める。


トーヤは盾を構えた。

セリアの炎が一気に広がる。

ヴァイスが制御盤に手を伸ばす。

ノルンが息を呑む。

レオンは剣の柄に手を置いた。


リュミエルは。


俺の手首を、掴んだままだった。


強く。


痛いくらいに。


でも、その痛みがありがたかった。


現実の痛みだ。


黒い鐘の音は、現実を薄くする。


さっきまで確かにあった地下演習室の輪郭が、ぼやける。


石壁が、暗い回廊に見えた。

床の魔法陣が、古い聖堂の敷石に見えた。

天井の明かりが、黒い燭台の火に見えた。


重なっている。


地下演習室と、別の場所が。


いや。


別の場所ではない。


「……黒鐘廊が、重なってきてる」


俺は呟いた。


喉が乾いている。


「入ってないのに?」


ミラが言う。


「向こうが来た」


最悪だ。


こちらが慎重に距離を取った意味がない。


扉を開けなかった。

本文を読まなかった。

旧地下聖堂にも入っていない。


なのに、向こうから舞台がせり出してきた。


強制イベント。


俺はこの言葉が嫌いだ。


前世でも嫌いだった。


ゲームでも、物語でも、現実でも。


強制される展開ほど、ろくでもない。


「アキト、見るな」


リュミエルが低く言った。


「何を?」


「あなたの足元」


言われて、逆に見そうになる。


人間は愚かだ。


いや、俺が愚かだ。


だが、見ない。


首を固定する。


「状況を教えてくれ」


「あなたの影が、伸びている」


リュミエルが言った。


「黒鐘廊の方へ」


胸の奥が冷える。


影。


俺の影だけが、床の魔法陣から外れて、黒い回廊の奥へ伸びているらしい。


影だけ先に入っている。


それはつまり。


「俺が、もう入っている扱いになってるのか」


「可能性はある」


フィン先生が答えた。


先生は動かない。


だが、その目は異様に鋭かった。


「黒鐘廊は場所ではなく状態。お前の仮説が当たりなら、鐘が鳴った時点で接続条件が成立した」


「嬉しくない正解だな」


「現実を見ろ。正解は正解だ」


本当に嬉しくない。


テストなら丸をもらえる。

でも、この丸はたぶん首輪だ。


床に、黒い文字が浮かび始めた。


【同期開始】


【対象確認】


【編集者】


【主人公拒否済】


【第四断片接続準備】


「ヴァイス!」


フィン先生が叫ぶ。


「切れ!」


「やっている!」


ヴァイスの魔力が跳ね上がる。


制御盤の上に幾何学模様が走る。


魔導科上位生徒。


嫌味で、プライドが高くて、最初は俺を見下していた男。


だが、今の彼の動きは速かった。


迷いがない。


「対象は床面魔力層ではない。空間記録層だ。通常の遮断では切れない!」


「なら通常じゃない方法でやれ」


「簡単に言うな!」


「できないのか?」


「できる!」


できるのかよ。


頼もしいな、こいつ。


ヴァイスが魔導式を三重に重ねる。


床の文字が歪む。


【同期開始】の文字が一瞬だけ揺らいだ。


だが、消えない。


「くそ……深い!」


「魔術で削れないなら、燃やすわよ!」


セリアが前に出る。


「燃やすな、照らせって言っただろ!」


「今回は燃やす寄りで正解でしょ!」


「たぶん半分だけ正解だ!」


「面倒くさい!」


セリアの炎が床を舐める。


赤ではない。


白に近い炎。


照らす炎。


燃やすためではなく、影を剥がすための炎。


床に伸びた俺の影が、少しだけ薄くなった。


「効いてる!」


ミラが叫ぶ。


「セリア、そのまま!」


「言われなくても!」


炎が広がる。


黒い回廊の輪郭が揺らぐ。


俺はタイムラインを開こうとして――


「駄目」


リュミエルが即座に止めた。


「まだ何もしてない」


「しようとした」


「顔?」


「呼吸」


そこまで読まれるのか。


怖い。


でも、正しい。


今タイムラインを開けば、黒鐘廊と正面から接続する。

それは、敵が望んでいる流れだ。


俺が見る。

俺が解析する。

俺が切ろうとする。

その瞬間、第四断片が俺を素材にする。


たぶん、そういう筋書き。


「なら、どうする」


俺は聞いた。


「あなたは編集しない」


リュミエルが答える。


「あなた以外が、あなたを戻す」


その言葉で、胸の奥が少し揺れた。


俺以外が。


俺を。


戻す。


今まで、俺は仲間を戻してきた。


名前を呼んだ。

現在記述を呼び返した。

役割を剥がした。


でも今回は逆だ。


俺が、戻される側。


情けない。


いや。


違う。


たぶん、これが必要なんだ。


俺が全部やる物語じゃない。


それを間違えた先に、未完の編集者がいる。


俺と同じ顔をした、空っぽの影が。


「分かった」


俺は手を下ろした。


タイムラインを閉じる。


「俺は編集しない」


リュミエルが小さく頷く。


「よろしい」


「先生っぽい」


「黙って」


強い。


その時、床の文字が変わった。


【対象抵抗】


【代理干渉確認】


【仲間記述、障害】


障害。


その単語で、俺の中の何かが冷えた。


仲間を障害と呼んだ。


リュミエルを。

ミラを。

トーヤを。

ノルンを。

セリアを。

レオンを。

ヴァイスを。

フィン先生を。

副院長を。


全部、俺を素材にするための邪魔な物として。


「……おい」


声が出た。


低い声だった。


リュミエルの手に力が入る。


「アキト」


「分かってる」


編集はしない。


でも、怒るくらいは許されるだろ。


床の文字がさらに滲む。


【障害排除】


黒い線が伸びた。


狙いはリュミエル。


俺ではない。


俺の手首を掴んでいる、彼女の右手。


神約の呪印。


黒い線が、そこへ走る。


「リュミエル!」


俺が叫ぶより早く、トーヤが動いた。


盾が割り込む。


重い音。


黒い線が盾にぶつかり、火花のような文字片を散らす。


【盾】


その文字が浮かぶ。


違う。


トーヤの現在記述を呼ばなければ。


俺が叫ぼうとして、止まる。


俺は編集しない。


なら。


「トーヤ!」


ミラが叫んだ。


「ただの盾じゃない!」


セリアが続ける。


「守る相手を選べる盾でしょ!」


ノルンも震えながら声を出す。


「トーヤさんは、命令で立っているんじゃありません!」


レオンが低く言った。


「自分の意思で、そこにいる」


トーヤの盾が、鈍く光る。


黒い線が弾かれた。


床の文字が崩れる。


【盾】ではない。


【守る相手が選べる盾】


俺は息を吐いた。


そうだ。


俺じゃなくてもできる。


名前を呼ぶのは、俺だけの役目じゃない。


現在記述は、みんなで守るものだ。


黒い線は次に、ノルンへ向かった。


【沈黙】


最悪の文字。


ノルンの喉元へ、黒い針のような記述が伸びる。


「ノルン!」


セリアが炎を飛ばす。


だが、針は炎をすり抜けた。


声を奪う記述。


物理攻撃ではない。


ノルンの唇が震える。


声が出ない。


一瞬。


たった一瞬だけ、彼女の目に恐怖が浮かんだ。


沈黙した治癒師。


敵が貼った、古い役割。


でも。


レオンが一歩前に出た。


「ノルン・エルシア」


彼は彼女の名前を呼んだ。


静かに。


はっきりと。


「君は沈黙したままの治癒師ではない」


ノルンの目が揺れる。


レオンは続けた。


「俺が間違っていた時、君は震えていた。それでも、今は違う」


不器用な言葉だった。


けれど、嘘がない。


「震えてもいい。声が小さくてもいい。君は、命のために声を上げる治癒師だ」


ノルンの喉元に刺さりかけていた黒い針が止まる。


彼女の唇が、少しだけ動いた。


「……私は」


声が出た。


細い。


でも、出た。


「私は、沈黙したままでは、ありません」


黒い針が砕けた。


ノルンは涙目になりながら、両手を前に出す。


「発話保護、再展開します!」


淡い光が広がる。


地下演習室の空気が、現実の重さを取り戻す。


すごいな。


本当に。


人は変わる。


震えたままでも、変われる。


黒鐘廊の輪郭が歪んだ。


怒っているように見えた。


ざまあみろ。


俺は何もしてないけど。


いや、何もしてないからこそ、意味があるのかもしれない。


次に狙われたのは、レオンだった。


床から白い文字が浮かぶ。


【勇者候補】


【神の剣】


【編集者排除命令】


レオンの剣が震えた。


本人の意思ではない。


剣に刻まれた補強式が反応している。


「ぐっ……!」


レオンが歯を食いしばる。


右手が勝手に剣を抜こうとする。


俺を殺す命令。


黒い鐘が鳴る前に、編集者を殺せ。


その命令が、レオンの勇者候補補強式に接続された。


「レオン!」


俺は思わず一歩出ようとした。


リュミエルが止める。


「駄目」


「でも」


「彼を信じて」


きつい。


見ているだけというのは、こんなにきついのか。


レオンの剣が、半分抜ける。


刃が光を反射する。


俺に向けて。


だが、レオンは両手で柄を押さえ込んだ。


「俺は……」


声が低く震える。


「神の剣では、ない」


床の文字が強くなる。


【神の剣】


【勇者候補】


【編集者を殺せ】


「違う!」


レオンが叫んだ。


初めて聞くような声だった。


怒り。

悔い。

痛み。


全部が混じっている。


「俺は、自分の剣と罪を問い直す、レオン・グランベルだ!」


剣の震えが止まった。


白い文字が割れる。


補強式の線が、火花のように散った。


レオンは剣を抜かず、逆に鞘ごと床へ押しつけた。


重い音。


黒鐘廊の文字が乱れる。


【勇者候補、拒否】


【対象殺害命令、失敗】


「……すまない」


レオンが荒い息で言った。


「謝るな」


俺は言った。


「殺してない」


「だが」


「殺してない。それで十分だ」


レオンは黙った。


そして、ゆっくり頷いた。


黒鐘廊が、次の手を出す。


今度は、全員の足元に黒い文字が広がった。


【外れ職】


【危険職】


【災厄】


【編集者を隔離せよ】


ああ。


そう来るか。


直接俺を素材にできないなら、周りに俺を切り離させる。


仲間を障害と呼び。

今度は、俺を災厄と呼ぶ。


役割固定。


孤立誘導。


昔からの手口だ。


だが、俺は動かない。


編集しない。


俺が自分で否定すると、たぶん接続が強まる。


なら。


誰かが言うしかない。


最初に口を開いたのは、意外にもヴァイスだった。


「外れ職ではない」


全員がヴァイスを見た。


本人は露骨に嫌そうな顔をした。


「見るな。事実を言っただけだ」


床の文字が揺れる。


ヴァイスは続けた。


「危険ではある。そこは否定しない。むしろかなり危険だ。扱いを間違えれば、私の魔術より厄介だ」


「おい」


「黙れ。まだ途中だ」


ひどい。


でも、続きがあった。


「だが、役に立たない力ではない。少なくとも、合同演習で私を救ったのは事実だ」


彼は制御盤に魔力を叩き込む。


「そして私は、事実を曲げる奴が嫌いだ」


制御式が走る。


床の【外れ職】の文字に、別の注釈が重なる。


ヴァイスの魔術式。


俺の注釈挿入ではない。


彼なりの、記録訂正。


【外れ職】

――評価根拠、不足。

――合同演習時の実績と矛盾。

――再審査対象。


なんだそれ。


魔導科式の注釈か。


やるじゃないか。


「ヴァイス」


「礼は言うな。不愉快だ」


「まだ言ってない」


「顔が言っている」


俺もそんなに顔に出るのか。


リュミエルを見る。


彼女は小さく頷いた。


出てるらしい。


もう顔面に封印をかけたい。


黒鐘廊の文字がさらに乱れる。


セリアが炎を強める。

ミラが退避経路を張り直す。

トーヤが盾を構える。

ノルンが発話保護を維持する。

レオンが剣を押さえたまま、神殿式反応を抑える。

ヴァイスが外部制御を噛ませる。


俺は。


何もしない。


何もしないことが、こんなに難しいとは思わなかった。


胸の奥で、声がする。


切れ。

編集しろ。

お前ならできる。


うるさい。


俺は奥歯を噛む。


それは俺の声か。

黒鐘廊の声か。

それとも、未完の編集者の声か。


分からない。


分からないなら、従わない。


それでいい。


「アキト」


リュミエルが言った。


「あなたの現在記述を、私が言う」


「え?」


「黙って聞いて」


彼女は俺の手首を掴んだまま、黒い床を見据える。


「アキト・アオキは、異物ではない」


その声は静かだった。


だが、地下演習室の全員に届いた。


「外れ職でも、災厄でも、主人公候補でもない」


黒い文字が震える。


「彼は、人間」


胸の奥が、痛いほど熱くなった。


「勝手に貼られた理不尽を、本人と共に剥がす編集者」


リュミエルの右手首の呪印が、強く光る。


器。


神が彼女に貼った役割。


だが彼女は、その手で俺を掴んでいる。


神のためではなく。


自分の意思で。


「そして」


彼女は少しだけ息を吸った。


「ひとりで舞台に立たせるほど、私たちは甘くない」


言い切った。


その瞬間、床の黒い文字が砕けた。


黒鐘廊の輪郭が大きく歪む。


地下演習室が戻ってくる。


壁。

床。

魔法陣。

照明。

制御盤。


現実の輪郭が、濃くなる。


勝った。


そう思った。


甘かった。


黒い鐘が、もう一度鳴った。


ごぉん。


今度は、近い。


耳元ではない。


俺の影の中から鳴った。


床に落ちている俺の影が、立ち上がる。


全員が息を呑む。


影は、俺と同じ形をしていた。


だが、顔はなかった。


ただ、黒い輪郭だけ。


影の胸元に文字が浮かぶ。


【未完の編集者】


来た。


第四断片候補。


俺と同じ顔をした、まだ存在しない編集者。


いや、今は顔がない。


まだ書かれていないから。


影が、俺の方へ手を伸ばした。


リュミエルが俺を引く。


トーヤが盾を構える。


セリアが炎を放とうとする。


その前に。


影が、声を出した。


俺の声だった。


「俺を、書くな」


全員が止まる。


同じ言葉。


第六十一話で見た、あの唇の動き。


今度は、声が聞こえた。


影は続けた。


「俺を書けば、お前は助かる」


胸が冷える。


「俺を書けば、仲間は助かる」


やめろ。


「俺を書けば、第四断片は完成する」


やめろ。


「俺を書けば、第三幕に入れる」


やめろ。


黒い影が、俺の目の前まで近づく。


リュミエルの手が震えた。


でも、離さない。


影は、顔のないまま笑った気がした。


「だから、書くな」


意味が分からない。


助かるなら書けと言うはずだ。

完成するなら、書けと誘うはずだ。


なのに、書くな。


警告か。

挑発か。

それとも。


俺は唇を噛む。


タイムラインを開きそうになる。


駄目だ。


編集しない。


今は、しない。


影は俺の胸に手を伸ばした。


「お前が俺を書かないなら」


黒い指が、俺の胸の前で止まる。


「誰かが、お前を書く」


その瞬間。


地下演習室の入口扉が、内側からではなく、外側から開いた。


重い音。


全員が振り向く。


そこに立っていたのは。


医療棟にいるはずの男。


神殿派遣監査補助官。


ルグラン・セイム。


病衣のまま。

裸足のまま。

目の焦点が合わないまま。


彼は右手に、血で濡れた羽ペンを握っていた。


壁に書いたのと同じ、日本語が、その腕に刻まれている。


――もう、入っている。


ルグランは、俺を見た。


いや。


俺の影を見た。


そして、かすれた声で言った。


「第四断片を、記述します」


黒い鐘が、三度目を鳴らそうとしていた。

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