第63話 黒鐘廊
「黒い鐘が鳴る前に、編集者を殺せ」
カサンドラ副院長の声は、静かだった。
静かすぎた。
だからこそ、その言葉だけが地下演習室に落ちて、床石の隙間にまで染み込んでいく。
誰も動かない。
セリアの照明炎が、ぱち、と小さく鳴った。
黒い鐘。
編集者を殺せ。
実に分かりやすい。
分かりやすい言葉は嫌いだ。
だいたい、裏にもっと面倒なものが隠れている。
「……俺を?」
俺が言うと、ミラが即座に顔をしかめた。
「他に編集者いる?」
「いてほしい」
「現実逃避は可愛いけど、今は無理かな」
「可愛さで許されたい人生だった」
「たぶん無理」
ひどい。
だが、その軽口で少しだけ呼吸が戻った。
レオンは黙ったまま、拳を握っていた。
ノルンは青ざめている。
トーヤは俺の斜め前に立っている。
リュミエルは、俺の横から動かない。
フィン先生だけが、いつも通り黒すぎる茶を飲んだ。
この人の胃袋は、神殿の封印より強いんじゃないか。
「副院長」
フィン先生が言う。
「その言葉を聞いた者は?」
「医療棟の封印病室にいた治癒師二名と、私です。治癒師には、記録制限をかけています」
「神殿側は?」
「まだ知りません」
「なら、時間はある」
「短いですが」
カサンドラ副院長は微笑んだ。
目は笑っていない。
「ルグラン補助官が完全に目覚めれば、神殿側は面会権を主張してきます。こちらが拒み続けるには、理由が必要です」
「理由ならあるだろ」
俺は言った。
「記憶表層欠損。神殿式記録票への不正干渉疑惑。広域校閲杭の関与可能性。あと、寝言が物騒」
「寝言では済みませんね」
「ですよね」
ですよね、じゃない。
笑えない。
殺せ、だ。
俺を殺せ。
殺意というより、命令に近い。
しかも、ルグラン自身の言葉とは限らない。
「確認したい」
リュミエルが言った。
「ルグランは、自分の意思でそれを言ったの?」
カサンドラ副院長は首を横に振る。
「不明です。ただ、声色は本人のもの。ですが、発話直前に神殿式の微弱反応がありました」
「遠隔命令?」
セリアが低く言う。
「可能性はあります」
「気持ち悪いわね」
「同感です」
副院長が普通に同意した。
気持ち悪い。
本当に、それに尽きる。
神殿式は、いつも人間の口を道具にする。
名前を呼ぶ。
役割を貼る。
記録を整える。
そして今度は、寝ている人間に命令を吐かせる。
趣味が悪いにも限度がある。
「黒い鐘が鳴る前に、という部分が重要だな」
ヴァイスが制御盤の前で腕を組んだ。
「黒鐘廊にある鐘のことか?」
「おそらく。だが黒鐘廊の鐘は、物理的な鐘ではない」
「鐘楼がないのに鳴るって言ってたな」
「ああ。旧教材では、あれは警鐘ではなく、記録同期音だと説明されていた」
「記録同期音?」
「旧地下聖堂の記録層が切り替わる時に鳴る音だ。鐘に聞こえるだけで、実際には空間全体の魔力振動らしい」
なるほど。
分からん。
いや、少し分かる。
パソコンの処理音みたいなものか。
実際に鐘があるわけじゃなく、システム更新時の通知音。
ただし、鳴ったら命が危ないタイプの通知音。
嫌すぎる。
「黒い鐘が鳴る前、ということは」
俺は考える。
「鳴った後では、俺を殺す必要がなくなる?」
「あるいは、殺せなくなる」
リュミエルが言った。
「または、殺しても意味がなくなる」
フィン先生が続ける。
「最悪の場合、黒い鐘が鳴ることで、お前が何かに接続される」
「何かって?」
「第四断片だ」
地下演習室が、さらに静かになった。
第四断片。
見つけた者を素材にする。
未記述。
未完の編集者。
俺と同じ顔の影。
思い出すだけで、胃の奥が重くなる。
「つまり、黒い鐘が鳴ると、俺が第四断片に素材認定される可能性がある」
「可能性の一つだ」
フィン先生は容赦なく言う。
「そして、その前にお前を殺せという命令が出た。敵は、お前が第四断片に接続されることを恐れているのかもしれん」
「敵が俺を助けようとしてるってこと?」
ミラが眉を寄せる。
「ありえなくはないが、期待するな」
「だよねー。神殿が優しさで殺せとか言うわけないもんね」
「言われた側としては、優しさだったとしても困る」
命の取り扱いが雑すぎる。
黒い鐘が鳴る前に殺せ。
つまり、誰かは黒い鐘が鳴る未来を知っている。
あるいは、鳴らそうとしている。
「黒鐘廊を調べる必要がある」
レオンが言った。
「だが、旧地下聖堂は危険だ」
「危険だから調べない、とはならない」
「分かっている」
レオンは俺を見た。
「ただし、お前は行くべきではない」
来た。
正論。
強すぎる正論は、だいたい逃げ場を潰す。
「だよな」
俺は頷いた。
全員が少しだけ驚いた顔をした。
なんだその顔。
俺だって毎回突っ込むわけじゃない。
学習機能はある。
アップデート頻度は低いが。
「黒鐘廊が俺を第四断片に接続する可能性があるなら、俺が直接行くのは悪手だ」
「分かってるならいい」
リュミエルが言う。
「でも、別の手は考えている顔ね」
「便利だな、本当に」
「あなたが分かりやすいだけ」
反論できない。
俺はタイムラインを薄く広げる。
直接旧地下聖堂を見るわけじゃない。
今ある情報だけを並べる。
舞台袖。
第四断片。
黒い鐘。
ルグラン。
日本語の紙片。
旧地下聖堂。
第二幕。
扉の裏。
線が絡み合う。
正面から入るな。
本文を読むな。
扉の裏を見ろ。
つまり、旧地下聖堂そのものではなく、そこに入る前の構造を調べろ、ということか。
「扉の裏」
俺は呟く。
「旧地下聖堂の入口を、外側から見る必要がある」
「下見は前にした」
ミラが言う。
「その時は表側だけだった」
「ああ」
前に見たのは、入口。
第二幕通路。
アキトを誘導する罠。
つまり、俺たちは舞台の正面玄関を見た。
でも、ナツキの紙片は言っている。
本文を読むな。
扉の裏を見ろ。
裏。
舞台袖と同じ発想。
本文ではなく、余白。
正面ではなく、裏側。
読まされるものではなく、読まれなかったもの。
「旧地下聖堂の入口そのものを、編集対象として見ればいい」
俺は言った。
「入らずに?」
リュミエルが聞く。
「入らずに」
「本当に?」
「本当だ。今回は外側だけ見る。扉の裏に残った施工記録とか、開閉ログとか、封印の継ぎ目を探す」
「施工記録……」
ヴァイスが眉をひそめる。
「発想が地味だな」
「地味なものほど強いんだよ」
これは本当だ。
派手な演出は目を引く。
でも、事件を解く時に効くのは、だいたい細部だ。
誰が承認印を使ったか。
どの準備室を経由したか。
どの記録票に違和感があるか。
どの扉が、いつ開いたか。
物語の派手な場面より、編集で見るべきは接続点だ。
「まずルグランを確認する」
フィン先生が言った。
「その後、旧地下聖堂入口の裏側記録を調べる。アキト、お前は直接接触禁止」
「なら、どうやって見る?」
「代理観測だ」
カサンドラ副院長が答えた。
「代理観測?」
「観測者を分けます。現地に行く者と、解析する者を分離する。現地班が持ち帰った外側記録だけを、アキトさんが解析する」
「持ち帰れるのか?」
「通常は難しいですが」
副院長がヴァイスを見る。
「魔導科上位生徒の記録採取具があれば可能です」
ヴァイスが露骨に嫌そうな顔をした。
「私の器材を使えと?」
「協力者でしょう?」
「一時的な、だ」
「では一時的に貸してください」
「言い方で押し切ろうとするな」
副院長は笑っている。
ヴァイスは負けている。
分かる。
この人相手に正面から勝とうとするのは無理だ。
ヴァイスはため息をついた。
「旧型の魔力拓本具ならある。対象表面の魔力痕跡を薄膜に写し取る道具だ。扉の裏側記録を取るなら、それが使える」
「素晴らしい」
「褒めても貸すとは言っていない」
「貸していただけますね?」
「……貸す」
負けた。
速い。
ミラが小声で言う。
「ヴァイスくん、押しに弱いね」
「黙れ、獣人」
「獣人じゃなくて、逃げ道担当でーす」
「その肩書きは何なんだ」
「生き残るための誇り?」
ミラが軽く言う。
でも、その言葉は軽くない。
逃げ道を残す。
それは、この物語においてかなり重要な仕事だ。
ナツキもそうだった。
第三幕は、たぶん逃げ道だ。
ただし、入る者を素材にするかもしれない、最悪の逃げ道。
安全な逃げ道が必要だ。
俺たちには。
「班分けをする」
フィン先生が言った。
「医療棟でルグラン確認。旧地下聖堂入口の裏側記録採取。地下演習室で待機解析」
「三班か」
「そうだ」
フィン先生は淡々と割り振る。
「医療棟。俺、カサンドラ、ノルン、レオン」
ノルンが小さく息を呑む。
「わ、私もですか?」
「治癒師として見る必要がある。発話保護も使える」
「はい……やります」
声は震えている。
でも、逃げなかった。
レオンが頷く。
「俺は神殿式反応を確認する」
「そうだ。暴走したら止めろ」
「分かった」
フィン先生は次に、ミラを見る。
「旧地下聖堂入口。ミラ、トーヤ、セリア、ヴァイス」
「お、現地班だ」
ミラの耳が立つ。
「退避経路確保。防御。照明。記録採取。役割は分かるな」
「分かる」
トーヤが短く答える。
「燃やさず照らすのよね」
セリアが言う。
「そうだ」
「分かってるわよ」
ヴァイスは腕を組む。
「私が記録採取係か」
「他にできる者がいない」
「当然だ。私以外に扱えるはずがない」
「なら頼む」
「……ふん」
分かりやすい。
褒めると伸びるタイプかもしれない。
いや、言ったら燃えるな。
主にセリアが。
「待機解析。アキト、リュミエル」
フィン先生が最後に言った。
俺は頷く。
リュミエルも静かに頷いた。
「アキトを一人にしないためですね」
「そうだ」
即答。
隠す気がない。
「俺の信用」
「ある」
フィン先生は言った。
「だから一人にしない」
その言い方は、ずるい。
信用していないから見張るんじゃない。
信用しているから、壊れないように支える。
そう言われると、文句が言いづらい。
「了解」
俺は短く答えた。
その時、カサンドラ副院長の通信石が淡く光った。
副院長の表情が変わる。
柔らかい笑みが消える。
「医療棟からです」
全員が黙る。
副院長は通信石に触れた。
「はい。……分かりました。封印を維持してください。神殿側にはまだ連絡しないで」
通信が切れる。
嫌な沈黙。
こういう沈黙は、だいたい悪い報告だ。
「ルグラン補助官が?」
フィン先生が聞く。
副院長は頷いた。
「目を開けました」
空気が張る。
「ただし、意識は混濁しています。自分の名前も答えられない状態です」
「他には?」
副院長は俺を見た。
俺を。
嫌な予感が、首筋を撫でた。
「彼は、壁に文字を書いています」
「何の文字ですか?」
ノルンが震える声で聞く。
副院長は答えた。
「日本語です」
またか。
俺は目を閉じたくなった。
でも、閉じない。
「内容は?」
カサンドラ副院長の声が、低くなる。
「黒鐘廊に入るな」
少しだけ、救いに聞こえた。
入るな。
警告。
だが、副院長は続けた。
「そして、その下にもう一文」
嫌な予感が、確信に変わる。
「もう、入っている」
地下演習室の床が、遠くなった気がした。
もう、入っている。
誰が。
何に。
黒鐘廊か。
第四断片か。
それとも――
俺たちが、すでに。
「アキト」
リュミエルが俺の名前を呼んだ。
今度は袖ではなく、手首を掴まれた。
温かい。
現実の温度だ。
俺はその温度を頼りに、タイムラインを見た。
地下演習室。
医療棟。
旧地下聖堂。
黒鐘廊。
四つの線が、勝手に繋がっていく。
その中心に、黒い点があった。
鐘の形ではない。
穴だ。
俺は喉を鳴らす。
「……黒鐘廊は、場所じゃない」
全員が俺を見る。
俺は続けた。
「たぶん、状態だ」
黒い点が、ゆっくり広がる。
まるで、紙に落ちたインクみたいに。
「誰かが黒鐘廊に入ったんじゃない」
俺は言った。
「黒鐘廊が、こっちに入り込んでる」
その瞬間。
地下演習室のどこにもないはずの鐘が、低く鳴った。
ごぉん。
一度だけ。
黒い鐘が。
鳴った。




