第62話 未完の編集者
観測窓が、黒く閉じた。
音はなかった。
だが、地下演習室の空気が一枚、剥がれ落ちたような感覚があった。
誰も喋らない。
九重の保護陣は、まだ淡く光っている。
セリアの照明炎も消えていない。
トーヤの退避固定も維持されている。
ヴァイスの制御盤も、低い魔力音を鳴らしている。
なのに。
静かだった。
まるで、今見たものだけが現実で、こっち側が作り物に戻ったみたいに。
最悪だ。
こういう余韻は、だいたい次の厄介事の前奏である。
「……閉じた、のか?」
レオンが低く呟いた。
「閉じたように見えるな」
フィン先生が言った。
「ように?」
「現実を見ろ。窓が閉じたから安全、という考え方が一番危ない」
ですよね。
知ってた。
俺はゆっくり息を吐いた。
まだ頭が痛い。
でも、さっきみたいな引き込まれる感覚はない。
タイムラインを薄く展開する。
地下演習室。
保護陣。
仲間たち。
閉じた観測窓。
黒い面のまま固まっている。
表面に、文字はない。
だが。
「……残ってる」
俺は言った。
「何が?」
リュミエルがすぐに聞く。
「窓の残響。いや、違うな。これは……付箋だ」
「付箋?」
ミラが首を傾げる。
「記録そのものじゃない。本文でもない。誰かがあとから貼った、目印みたいなもの」
言いながら、自分でも嫌になる。
付箋。
前世なら便利な道具だ。
会議資料に貼る。
台本に貼る。
編集点に貼る。
ここを見ろ、ここを直せ、ここを忘れるな。
だが、この世界でそれをやられると。
だいたい呪いか罠である。
仕事道具の治安が悪すぎる。
「読めるのか?」
ヴァイスが制御盤から顔を上げた。
「読まない」
俺は即答した。
「読めるかどうかを聞いている」
「読める。たぶん。でも読まない」
「なぜだ」
「さっき学んだだろ。開けるなと書かれた箱は、だいたい爆発する」
「雑な判断だな」
「生存率は高い」
ヴァイスは言い返そうとして、やめた。
珍しい。
少しは成長したらしい。
いや、たぶん単にさっきの映像で疲れているだけだ。
リュミエルが俺の袖を掴んだまま、黒い窓を見つめていた。
「付箋の内容は?」
「外側だけなら見られる」
「危険は?」
「ある」
「なら一人で見ない」
「分かってる」
言い切る。
今回は本当に分かっている。
さっきの影。
俺と同じ顔をした、俺ではない何か。
未完の編集者。
第四断片候補。
あれは、俺に向けた警告だった。
――俺を、書くな。
書くな。
つまり。
書ける、ということだ。
「……冗談じゃない」
思わず声が漏れた。
「何が?」
ノルンが不安そうに俺を見る。
「第四断片だ。まだ書かれていないって言ってた」
「はい……」
「そして、あの影は“俺を、書くな”と言った」
全員が黙る。
セリアの炎が、ぱちりと音を立てた。
「つまり、第四断片は人間を書き換えて作るものかもしれない」
リュミエルの手が、ぴくりと動いた。
空気が重くなる。
それは、禁忌だ。
俺がずっと避けてきた線。
心。
記憶。
人格。
役割。
本人の同意なく、そこに手を入れない。
それをやった瞬間、俺の編集は神殿の校閲と同じになる。
誤字を直すように、人を直す。
そんなものは、編集じゃない。
ただの暴力だ。
「アキト」
リュミエルの声は静かだった。
でも、鋭い。
「その可能性があるなら、第四断片には近づかない方がいい」
「そうしたい」
「でも、そうできない顔をしている」
「顔、便利だな。全部バレる」
「あなたは分かりやすい」
「前世で編集の才能があったはずなんだけどな」
「自分の表情は編集できないのね」
「痛いところを切ってくるな」
ミラが小さく笑った。
少しだけ、空気が戻る。
ありがたい。
けれど、問題は消えない。
ナツキが残した第三幕。
第一断片。
第二断片。
第三断片。
そして、まだ書かれていない第四断片。
その最後の空白に、俺と同じ顔の影がいた。
俺ではない。
青木明登でもない。
アキト・アオキでもない。
だったら、何だ。
俺の失敗ルートか。
神の台本が用意した代替品か。
ナツキの筋書き干渉が残した、仮の登場人物か。
考えれば考えるほど、気持ち悪い。
「結論から言う」
フィン先生が茶を置いた。
音がやけに大きく響いた。
「今すぐ第四断片を追うな」
「同意です」
カサンドラ副院長が、外周から静かに歩いてきた。
いつの間にいたのか。
いや、いた。
最初からいた。
柔らかい笑みを浮かべているが、目はまったく笑っていない。
出た。
政治と契約と記録管理を素手で殴れる人の顔だ。
「観測窓の結果だけでも、神殿と学園上層部への説明材料になります。ですが、扱い方を間違えると、アキトさんが危険存在として再査問にかけられます」
「つまり?」
「見たものを全部正直に報告してはいけません」
副院長がさらっと言った。
ノルンが目を丸くする。
「えっ……」
「嘘をつくという意味ではありません。報告範囲を制御する、という意味です」
「それは嘘では?」
ヴァイスが眉をひそめる。
「貴族社会では情報整理と言います」
「便利な言葉ですね」
「便利だから生き残るのです」
強い。
この人、やっぱり敵に回したくない。
フィン先生が黒茶を飲み直す。
「報告するのは三点だ」
指を一本立てる。
「一つ。観測窓により、舞台袖の存在が確認された」
二本目。
「二つ。第三幕計画書は四断片構造である可能性が高い」
三本目。
「三つ。第四断片は未記述であり、現時点では接触不能」
フィン先生はそこで俺を見る。
「未完の編集者については、保留だ」
「隠すのか?」
「隠す」
即答だった。
「理由は?」
「敵が知っている情報と、こちらだけが知っている情報を分けるためだ」
その言葉で、頭が少し冷える。
そうだ。
今、全部を報告すれば、記録に残る。
記録に残れば、神殿に漏れる。
神殿に漏れれば、敵が第四断片を利用する。
未完の編集者。
あれを神殿が知れば、確実に俺へ役割を貼りに来る。
主人公候補。
未完の編集者。
第四断片候補。
肩書きだけで渋滞している。
もう少しシンプルに生きたい。
「俺は、反対しない」
「珍しいな」
フィン先生が言った。
「成長期なので」
「伸びる方向を間違えるな」
「厳しい」
リュミエルが俺の袖から手を離した。
少しだけ、名残惜しい。
いや、違う。
今のは保護具が外れた感覚だ。
そういうことにしておく。
「アキト」
「何だ?」
「さっきの影を、あなたはどう見た?」
来た。
逃げたい質問ランキング上位。
俺は黒く閉じた観測窓を見る。
あの顔。
俺と同じ顔。
でも、俺ではない顔。
一人で全部を背負い、仲間を遠ざけ、編集だけで最後まで進んだような目。
空っぽだった。
「……俺が間違えた場合の完成形」
言葉にすると、胸が冷えた。
「完成形?」
セリアが顔をしかめる。
「嫌な意味でな。誰にも止められず、本人同意も無視して、必要だからって理由で全部を書き換え続けたら、たぶんああなる」
「それ、あんたじゃないでしょ」
セリアが即答した。
意外だった。
「え?」
「何よ、その顔」
「いや、思ったより早く否定されたから」
「当たり前でしょ。あんた、いちいち面倒くさいくらい確認するじゃない。切っていいか、触っていいか、本人の意思はどうかって」
「面倒くさい扱いなのか」
「褒めてるのよ」
「分かりにくい」
「火属性に繊細な言葉遣いを求めないで」
求めてはいない。
だが、少し助かった。
トーヤが頷く。
「お前は、止まる」
「そう見えるか?」
「止めれば、止まる」
「それ、俺が偉いんじゃなくて、お前らが強いだけじゃないか?」
「それでいい」
短い。
でも、重い。
トーヤらしい。
ミラがにやっと笑った。
「つまり、アキトくんが未完の編集者になりそうになったら、みんなで袋叩きにすればいいってこと?」
「言い方」
「逃げ道担当としては、物理的退避も視野に入れてるから」
「物理的退避って何だ」
「気絶させて運ぶ」
「頼もしいけど怖い」
レオンが静かに言った。
「俺も止める」
全員の視線がレオンに向いた。
彼は少しだけ目を伏せた。
「俺は一度、神の剣という役割に従った。その結果、お前を追放した」
その声に、逃げはなかった。
「だから、役割に呑まれる危険は分かる。お前が主人公候補や未完の編集者に呑まれそうになったら、俺は止める。たとえ、お前に嫌われても」
重い。
本当に、不器用だ。
だが。
こういう不器用さは嫌いじゃない。
「嫌うかどうかは、止め方による」
「善処する」
「トーヤと同じ返事するな」
ミラが笑う。
リュミエルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
地下演習室の空気が、少しずつ現実に戻ってくる。
その時だった。
黒く閉じた観測窓の表面に、小さな光が灯った。
全員が一斉に身構える。
「下がれ」
フィン先生の声。
俺は下がろうとして――
今度は、ちゃんと自分で足を止めた。
前に出ない。
覗き込まない。
読みに行かない。
学習した。
偉い。
自分で言うと急に安っぽいが、偉い。
黒い面の中央に、白い点が浮かぶ。
それは文字ではなかった。
記号でもない。
封印印章。
名無しの観測者が持っていたものと同じ形だ。
カサンドラ副院長の表情が変わる。
「記録官封印……」
「知っているんですか?」
俺が聞くと、副院長はゆっくり頷いた。
「旧神殿時代の臨時記録官が、自分の記録に責任を持つために使った印です。現在の神殿では廃止されています」
「なぜ?」
「記録官個人の意思が残るからです」
その一言で、理解した。
神殿にとって都合が悪い。
記録は神のもの。
人間の意思など不要。
だから、廃止した。
吐き気がするほど分かりやすい。
封印印章が開く。
そこから、一枚の薄い紙片が落ちた。
実体ではない。
光でできた紙片。
それは観測陣の中央にふわりと浮かび、こちらに向けて回転した。
日本語だった。
俺だけが読める文字。
いや。
今は違う。
タイムラインが補助翻訳をかけている。
全員にも意味が共有される。
紙片には、こう書かれていた。
――第四断片を探すな。
短い。
冷たい。
全員が黙る。
さらに、下に文字が浮かぶ。
――第四断片は、見つけた者を素材にする。
セリアが息を呑んだ。
ノルンの顔が青ざめる。
ヴァイスが小さく舌打ちした。
「やはり、人間を材料にする術式か」
「術式とは限らない」
フィン先生が言う。
「だが、近い。記録を完成させるために、観測者か到達者を取り込む仕組みだ」
「つまり、アキトが近づいたら……」
ミラの声が低くなる。
俺は紙片を見つめた。
答えは分かっている。
第四断片が俺を素材にする。
未完の編集者として。
俺ではない、俺の形をした何かに。
リュミエルが一歩前に出た。
「探さない」
はっきりと言った。
「第四断片は、今は探さない。異論は認めない」
「リュミエル」
「認めない」
強い。
まるで剣を抜いたみたいな声だった。
「あなたが納得する理由は、後でいくらでも用意する。でも今はこれで十分。危険すぎる」
俺は何か言おうとして、やめた。
その通りだからだ。
ここで「でも必要だから」と言ったら、さっきの影に一歩近づく。
必要だから。
仕方ないから。
俺しかできないから。
その言葉は便利だ。
便利すぎる。
人間を壊すには、十分すぎる。
「分かった」
俺は言った。
「第四断片は追わない。少なくとも、今は」
リュミエルの目が少しだけ揺れた。
「本当に?」
出た。
でも、今のはいい。
「本当だ」
俺は頷く。
「俺は主人公じゃない。だから、全部の扉を今すぐ開ける必要はない」
フィン先生が短く笑った。
「少しは現実を見られるようになったな」
「褒めてます?」
「珍しくな」
たぶん褒めている。
黒茶より苦い褒め方だ。
その時、紙片の最後に新しい文字が浮かんだ。
――第二断片を先に見よ。
旧地下聖堂。
第二幕通路。
読まされる場所。
全員の表情が変わった。
逃げた先が地獄なの、やめてほしい。
紙片は続く。
――ただし、本文を読むな。
――扉の裏を見ろ。
「扉の裏……?」
ノルンが呟く。
俺は眉を寄せる。
第二断片は旧地下聖堂にある。
だが、本文を読んではいけない。
扉の裏を見る。
つまり。
「正面から入るなってことか」
「裏口?」
ミラの耳が立つ。
「逃げ道担当の出番?」
「たぶんな」
俺はタイムラインに紙片の内容を保存する。
深く触れず、外側だけ。
【保存】
今度は痛みがない。
よし。
無茶してない。
かなり偉い。
紙片は最後に、もう一行だけ浮かべた。
――白い波より先に、黒い鐘を探せ。
文字が消える。
封印印章も消える。
観測窓の黒い面が、ただの沈黙に戻った。
地下演習室には、再び俺たちだけが残された。
白い波。
おそらく白波結界院。
第三断片の所在地。
その前に、黒い鐘。
「黒い鐘……聞いたことある人?」
俺が聞くと、全員が少し考えた。
最初に反応したのは、意外にもヴァイスだった。
「ある」
「本当か?」
「魔導科の旧教材で読んだ。旧地下聖堂の奥には、鐘楼がないのに鐘の音が鳴る区画がある」
「区画名は?」
ヴァイスは嫌そうな顔をした。
「黒鐘廊」
黒鐘廊。
名前からして行きたくない。
観光地なら星一評価だ。
フィン先生がカップを置く。
「決まりだな」
「何がですか?」
「次に調べるのは、旧地下聖堂の入口ではない。黒鐘廊だ」
「行くんですか?」
「すぐには行かん」
フィン先生は俺を見た。
「まず、ルグラン・セイムを起こす」
空気が変わった。
神殿派遣監査補助官。
意識不明。
記憶表層欠損。
手元に日本語の紙片。
――次の主人公候補は、舞台に上がった。
俺は小さく息を吐いた。
そうだ。
舞台袖だけ見ている場合じゃない。
学園内部に、まだ敵の手が残っている。
ルグランが犯人なのか。
被害者なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
確認しなければならない。
カサンドラ副院長が静かに言った。
「ルグラン補助官は、医療棟の封印病室にいます。神殿側には、まだ意識不明と報告しています」
「実際は?」
「先ほど、指先が動きました」
「……起きかけてる?」
「はい」
副院長の笑みが、ほんの少し深くなる。
「そして、彼は目覚める前に、一言だけ発しました」
嫌な予感がした。
かなり嫌な予感だ。
「何と?」
俺が聞く。
副院長は答えた。
「黒い鐘が鳴る前に、編集者を殺せ」
地下演習室の温度が、また下がった。
今度は誰も、軽口を叩かなかった。




