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第61話 主人公を拒む者

「記録を始める」


その声は、男とも女ともつかなかった。


古い紙をめくる音に似ている。

でも、耳ではなく、頭の奥に直接入ってくる。


気持ち悪い。


率直に言えば、かなり気持ち悪い。


観測窓の向こう側に、淡い光の膜が広がっていた。

地下演習室の中央。


九重の保護陣。

タイムライン。

精神保護。

発話保護。

照明炎。

退避固定。

退避経路。

神殿式反応監視。

出力制御。


俺たちが作れるだけの安全策を、全部重ねた。


それでも。


窓の向こうは、底が見えない。


「これは、神の台本から外れた少女と」


声が続く。


「次に来る編集者のための、舞台袖の記録である」


リュミエルが、俺の隣で小さく息を吸った。


「アキト」


「分かってる」


即答した。


分かっている。


直接読まない。

中に入らない。

声に返事をしない。

主人公候補という呼称に反応しない。


ルールは頭に入っている。


……入っているが。


こういう時、人間の頭というやつは信用ならない。


画面に赤いボタンがあれば押したくなる。

開けるなと書かれた箱ほど、中身が気になる。


俺はそういう性格じゃないと思っていた。


嘘だった。


めちゃくちゃ気になる。


「表情が最悪よ」


リュミエルが言った。


「元からだ」


「今は特に」


「丁寧な追撃ありがとう」


ミラが後ろで小さく笑った。


「アキトくん、顔が『絶対やらかす主人公』って感じ」


「やめろ。その単語を使うな」


主人公。


その言葉に、観測窓の表面がわずかに波打った。


ぞくり、と背筋が冷える。


……反応した。


俺ではない。


窓が。


「今の、見たか?」


「見た」


フィン先生の声が低く落ちた。


先生は黒すぎる茶の入ったカップを片手に、観測陣の外周を見ていた。

この状況で茶を飲める神経は、もはや一種の防御魔法だと思う。


「言葉に反応している。続けろ。ただし、調子に乗るな」


「無茶言うなよ」


「現実を見ろ。無茶ではなく最低条件だ」


出た。


いつものやつ。


安心するのが腹立つ。


観測窓の奥で、光が形を変えた。


古い部屋。


石造りの壁。

低い天井。

机。

椅子。

鉄の燭台。

そして、一冊の記録簿。


その場面は、映像というより、誰かの記憶の外枠だった。


中身ではない。

輪郭だけ。


名無しの観測者が残した、外側の記録。


俺はタイムラインを薄く展開する。


深くは潜らない。

触れるのは表面だけ。


映像編集で言えば、素材を開かずにサムネイルだけ確認する感覚。


いや、たとえが地味だな。

命懸けのサムネ確認。

嫌すぎる。


「対象記録、外側輪郭のみ表示」


俺は小さく呟く。


タイムラインが、淡い線となって足元に伸びた。


観測窓の奥。


机の前に、一人の少女が座っていた。


黒髪。

細い肩。

こちらに背を向けている。


制服のような服ではない。

神殿が用意した白い拘束衣に近い。


でも、彼女の指先は動いていた。


机の上に、何かを書いている。


「ナツキ……?」


ノルンが震える声で言った。


観測窓が、また波打った。


まずい。


名前に反応した。


「ノルン」


レオンが短く呼ぶ。


「ご、ごめんなさい……!」


「謝るな。声は出せ。沈黙するな」


ノルンの肩が震える。


でも、彼女は口を閉じなかった。


それだけで十分だった。


沈黙した治癒師ではない。


今のノルンは、震えても命のために声を上げる治癒師だ。


その現在記述が、発話保護の層を支えている。


観測窓の光が落ち着いた。


セリアの炎が、ふわりと揺れる。


「照明、維持してるわよ。変な影が増えたら燃やす」


「燃やすな。照らせ」


「分かってるわよ。言い方の問題よ」


「お前の言い方はだいたい放火寄りだ」


「うるさいわね」


普通の会話。


だが、その普通さがありがたい。


舞台袖は、こちらを物語に引き込もうとしている。


なら、俺たちは現実側に足を置き続ける必要がある。


トーヤが一歩前に出た。


「退避固定、問題ない」


「助かる」


「お前が前に出たら、掴む」


「優しく頼む」


「努力する」


努力なのか。


怖い。


ヴァイスが外周の魔導制御盤を睨んでいた。


「出力値が不安定だ。だが、暴走ではない。向こう側がこちらの観測精度を測っている」


「測ってる?」


「そう見える。窓を開けた者の格を判定しているような揺れ方だ」


嫌な言い方だ。


まるで、入場審査。


誰を舞台に上げるか、選んでいる。


「……主人公候補」


レオンが呟いた。


今度は、観測窓がはっきり揺れた。


地下演習室の空気が重くなる。


光の膜に文字が浮かぶ。


【候補確認】


【台本外来訪者】


【編集者】


【青木明登】


胸の奥が、冷えた。


前世名。


またそれか。


「反応するな」


リュミエルの手が、俺の袖を掴んだ。


強くはない。


でも、逃がさない力だった。


「分かってる」


声が少し掠れた。


分かっている。

だが、前世名を出されるのは、やはり嫌な感じがする。


青木明登。


日本での俺。

高校一年生。

番組構成と編集が好きだった、ただの少年。


その名前を、この世界の敵が知っている。


気分が悪い。


吐き気ではない。


もっと別の、内側の皮を剥がされるような感覚。


「呼称フィルター、起動」


俺はタイムラインを握る。


【青木明登】という文字列に、薄い灰色の枠をかける。


名前ではある。


けれど、今の俺を動かす命令ではない。


前世名。

過去ログ。

参照情報。


現在の認証名ではない。


【応答保留】


文字が薄れる。


リュミエルの手が、ほんの少しだけ緩んだ。


「上出来」


「褒め方が先生っぽくなってきたな」


「嫌?」


「いや。ちょっと怖い」


「正直でよろしい」


やっぱり先生っぽい。


フィン先生が横で鼻を鳴らした。


「無駄口を叩けるなら、まだ戻っている」


「先生、その確認方法、雑すぎません?」


「雑で済むなら上等だ」


そうかもしれない。


綺麗な理屈より、雑な現実の方が強い時はある。


観測窓の奥で、場面が進む。


机の前の少女。


ナツキ・シノハラ。


彼女の横に、もう一人の影が立っていた。


顔は見えない。


黒い外套。

記録官の腕章。

片手に羽ペン。

もう片手に、封印印章。


名無しの観測者。


声が響く。


「対象、篠原夏希。未承認職、脚本家。異能、筋書き干渉」


記録官らしい平坦な声。


けれど。


ほんの少しだけ、息が震えていた。


「神殿記録上、当該対象は異端処理予定。処理名、校閲」


校閲。


その言葉だけで、空気が冷える。


誤字を直すように。

文を整えるように。

人間を消す。


本当に、趣味が悪い。


ナツキの背中は動かない。


ただ、指先だけが紙の上を走っている。


「彼女は、何を書いてる?」


俺が聞くと、ヴァイスが眉を寄せた。


「文字が乱れている。異界語だな」


「日本語だ」


「読めるのか?」


「ああ」


窓の中の紙片に、薄く文字が浮かんだ。


――ここで終わらせない。


知っている言葉だ。


だが、その続きがあった。


――第二幕は、読まされる。

――第三幕は、選ばせる。


俺は息を止めた。


「選ばせる……?」


ミラが耳をぴくりと動かす。


「逃げ道ってこと?」


「たぶん違う」


俺は目を細める。


逃げ道。


確かにそうだ。


でも、ただ逃げるだけの道じゃない。


ナツキは第三幕を、神殿の外に隠した。

いや、正確には記録の外側。

舞台袖に残した。


だが、今の一文が本当なら。


第三幕は、入る者を選ぶんじゃない。


入る側に選ばせる。


「罠と出口の中間か」


フィン先生が言った。


「ひどい分類ですね」


「正しいだろう」


「否定できないのが嫌です」


観測窓の奥で、ナツキの肩がかすかに揺れた。


声は聞こえない。


でも、唇が動いている。


俺は読もうとして――


「アキト」


リュミエルの声が刺さった。


止まる。


危ない。


今、俺は唇を読もうとした。


つまり、中に踏み込みかけた。


「悪い」


「謝罪は後」


「了解」


リュミエルは俺を見ていなかった。

観測窓だけを見ていた。


その横顔は静かで、鋭い。


怖いくらい綺麗だった。


……今そんなこと考えてる場合じゃない。


俺の脳、たまに編集点がおかしい。


観測窓に、また文字が出る。


【主人公候補確認中】


【条件照合】


【追放】


【外れ職】


【転生者】


【編集者】


【神の台本への干渉】


【仲間の現在記述保持】


【注釈挿入確認済】


条件が並ぶ。


俺の行動履歴だ。


見られている。


いや、違う。


最初から見られていた。


合同演習も。

注釈挿入も。

ヴァイスを助けたことも。

レオンの証言も。


すべて、誰かの審査項目になっている。


「気持ち悪いな」


思わず口に出た。


「同感だ」


レオンが低く言った。


「神殿式の反応がある。だが、純粋な神殿式ではない。もっと古い」


「転生者狩りか?」


「近い。だが、違う。これは……選定式に近い」


選定式。


嫌な言葉だ。


選ばれる。

役割を与えられる。

舞台に上げられる。


俺が一番嫌いなやつだ。


観測窓の奥で、ナツキの手が止まった。


彼女が、こちらを振り向きかける。


「見るな!」


フィン先生が鋭く言った。


全員が目線を外す。


俺も外した。


ぎりぎりだった。


直接目が合えば、引き込まれていたかもしれない。


観測窓が軋む。


ガラスではないのに、割れそうな音がした。


ノルンが両手を胸の前で握る。


「発話保護、維持します……!」


彼女の声が震えている。


でも、届く。


「ここは、特異職科地下演習室です。私たちは観測しています。中には入りません」


言葉が保護陣に染み込む。


場所の固定。


現実への杭。


ノルンは泣きそうな顔で、それでも続けた。


「アキトさんは、ひとりではありません」


その一文で、胸の奥が少し温かくなった。


まずいな。


こういうのは効く。


効きすぎる。


「……助かった」


「は、はい……!」


セリアの炎が強くなる。


「照明、上げるわよ。影が濃い」


「頼む」


「命令しないで」


「お願いする」


「最初からそう言いなさい」


炎が広がる。


観測窓の奥の影が、少しだけ薄れた。


トーヤが俺の肩に手を置く。


「足」


「え?」


「半歩、前に出ていた」


下を見る。


本当だ。


俺の右足が、観測陣の内側に半歩進んでいた。


自覚がない。


最悪だ。


「戻す」


「自分で戻れ」


「分かってる」


俺はゆっくり足を引いた。


その瞬間、観測窓の文字が乱れた。


【候補、拒否反応】


【再誘導】


【物語接続】


【青木明登】


【君は――】


「遮断!」


俺は叫んだ。


タイムラインを切る。


名前の後ろに伸びていた命令線を、選択範囲指定で囲む。


全部切るな。


名前そのものは過去ログだ。

消す必要はない。


切るのは、その後ろ。


“君は”の先に続く、役割命令。


【カット】


淡い線が裂けた。


頭に痛みが走る。


重い。


でも、倒れるほどじゃない。


倒れ芸はもう品切れだ。

俺の身体にも在庫管理くらいある。


「アキト、無理は?」


リュミエルが聞く。


「痛いだけ」


「それは無理に含まれる」


「判定が厳しい」


「当然」


彼女の右手首の呪印が、薄く光っていた。


神約の呪印。


器。


その呼称もまた、敵が貼った役割だ。


俺はそれを見て、奥歯を噛む。


観測窓は俺だけを見ているわけじゃない。


リュミエルも。

レオンも。

ノルンも。

全員を、役割として見ている。


人間ではなく、駒として。


「……ふざけるなよ」


声が低く出た。


怒りではない。


たぶん、もっと面倒なものだ。


俺はタイムラインを握り直す。


「俺は主人公候補じゃない」


観測窓が、大きく揺れた。


全員の視線が俺に集まる。


「俺は、編集者だ」


言葉にして、確定する。


自分の現在記述を。


「勝手に貼られた理不尽を、本人と共に剥がす。

それ以上でも、それ以下でもない」


窓の奥から、声がした。


名無しの観測者の声。


「確認」


短い。


だが、その声には、わずかに別の響きが混じっていた。


記録官の平坦さではない。


安堵。


そう聞こえた。


「次に来る編集者は、主人公を拒否した」


観測窓の奥で、場面が変わる。


ナツキの背中。

名無しの観測者。

古い記録室。


そのすべてが薄れ、代わりに白い余白が広がった。


舞台でもない。

客席でもない。

幕の裏。


舞台袖。


そこに、一本の細い道があった。


道の先に、四つの扉。


第一の扉には、学園上位記録保管庫の紋章。

第二の扉には、旧地下聖堂の印。

第三の扉には、白波の結界紋。

第四の扉には――何もない。


名札が剥がされている。


いや。


最初から名札がない。


名無しの観測者の声が響く。


「第三幕計画書は、四つに分けた」


知っている情報だ。


だが、声が続いた。


「第一断片は、構造を示す」


第一の扉が淡く光る。


「第二断片は、代償を示す」


旧地下聖堂の扉が、黒く沈む。


「第三断片は、逃走経路を示す」


白波の扉が、水面のように揺れる。


「第四断片は――」


声が止まった。


全員が息を呑む。


第四の扉。


名のない扉。


そこだけが、こちらを見ている気がした。


「第四断片は、まだ書かれていない」


「……は?」


思わず声が出た。


まだ書かれていない?


分割封印されているんじゃないのか。


所在不明ではなく。


未記述。


ヴァイスが制御盤を叩く勢いで覗き込んだ。


「ありえない。断片が未記述なら、封印対象として成立しない」


「普通ならな」


フィン先生の目が細くなる。


「だが、これは神の台本外だ。完成した記録とは限らん」


ミラが尻尾を揺らした。


「つまり、最後のピースはこれから作るってこと?」


「可能性はある」


俺は第四の扉を見る。


そこには何も書かれていない。


だからこそ、嫌な予感がする。


未記述。


空白。


編集者にとって、空白は素材だ。


そして罠でもある。


名無しの観測者の声が、さらに低くなる。


「第四断片は、主人公が書くものではない」


観測窓の光が強くなった。


リュミエルが俺の袖を掴み直す。


今度は、かなり強い。


「アキト」


「ああ」


分かってる。


次が本命だ。


声が告げる。


「第三幕に入れるのは、主人公ではない」


空気が止まった。


「主人公を拒んだ者だけだ」


その瞬間。


第四の扉に、影が映った。


人影。


細い輪郭。


まだ存在していない誰か。


俺は息を止める。


その影は、ゆっくりこちらを向いた。


顔が見えた。


俺と同じ顔だった。


だが、俺ではない。


もっと冷たい。

もっと空っぽだ。

仲間を持たず、最後まで一人で編集し続けたような顔。


観測窓に文字が浮かぶ。


【未完の編集者】


【第四断片候補】


【青木明登ではない】


【アキト・アオキでもない】


【主人公を拒み、なお舞台に残った者】


喉が乾く。


なんだ、これは。


未来の俺か。

失敗した俺か。

それとも、ナツキが残した別の誰かか。


影の口が動いた。


声は聞こえない。


でも、唇だけは読めた。


――俺を、書くな。


次の瞬間。


観測窓が、黒く閉じた。

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