第65話 血の羽ペン
黒い鐘が、三度目を鳴らそうとしていた。
ご――
その音が、喉元まで来る。
空気が沈む。
床石が震える。
俺の影が、笑った気がした。
その瞬間。
「止めろ!」
フィン先生の声が飛んだ。
ノルンが両手を広げる。
「発話保護、強制展開!」
淡い光が、地下演習室の入口まで走った。
同時に、セリアの炎が床を這う。
燃やす炎ではない。
照らす炎。
黒い影の輪郭が、一瞬だけ薄くなった。
ヴァイスが制御盤に魔力を叩き込む。
「鐘音同期を遅延させる!」
「できるのか!?」
俺が叫ぶと、ヴァイスは歯を食いしばった。
「できるかどうかではない! やる!」
強い。
こいつ、こういう時だけ本当に頼もしい。
黒い鐘の音が、喉で詰まったように歪む。
ご……ぉ……
鳴り切らない。
だが、止まったわけではない。
遅れているだけだ。
つまり、時間稼ぎ。
この世界に来てから、時間稼ぎのありがたさを何度思い知ったか分からない。
派手な勝利より、数秒の猶予。
物語を変えるのは、だいたいその数秒だ。
入口に立つルグラン・セイムは、病衣のままこちらを見ていた。
裸足。
青白い顔。
焦点の合わない目。
右手に血で濡れた羽ペン。
その腕には、日本語が刻まれている。
――もう、入っている。
嫌になるほど、きれいな字だった。
本人が書いた字じゃない。
書かされた字。
いや、もっと悪い。
書かれるために、腕を紙にされた字。
「第四断片を、記述します」
ルグランがもう一度言った。
声は平坦だった。
自分の意思で言っている感じがしない。
人間の口から出た命令文。
俺は奥歯を噛む。
「ルグラン!」
カサンドラ副院長が前に出る。
その声に、ルグランの瞳がわずかに揺れた。
「あなたは、ルグラン・セイムです。神殿派遣監査補助官。現在、学園医療棟の保護対象です」
淡々とした確認。
名前。
所属。
現在地。
状態。
人間を現実に戻すための杭。
「ここは特異職科地下演習室。あなたは治療中に移動した。自分の意思で来たのですか?」
ルグランの唇が動く。
「私は……」
声が掠れる。
その瞬間、彼の右手が勝手に跳ねた。
血の羽ペンが空中に線を引く。
赤い文字が浮かぶ。
【記述開始】
【素材確認】
【編集者】
【未完の編集者】
【第四断片】
「させない!」
セリアが炎を放つ。
白い炎が赤い文字を焼こうとする。
だが、文字は燃えない。
紙ではない。
魔力でもない。
記録だ。
炎がすり抜ける。
「ちっ!」
「セリア、照明に戻せ!」
フィン先生が叫ぶ。
「分かってるわよ!」
悔しそうに、セリアが炎の性質を戻す。
照らす。
燃やすな。
影を濃くしない。
それだけでも十分に大事だ。
黒鐘廊は、こちらの焦りを燃料にしている。
たぶん。
いや、かなりの確率で。
俺はタイムラインを開こうとして、止まる。
駄目だ。
俺が直接見たら、接続される。
黒鐘廊。
第四断片。
未完の編集者。
敵は俺に編集させたい。
俺に見させたい。
俺に選ばせたい。
俺に書かせたい。
そして今度は、ルグランに書かせようとしている。
「アキト」
リュミエルの声。
俺の手首を掴む手が、まだ離れない。
「編集しない」
「分かってる」
「本当に?」
「本当だ」
今度は即答できた。
それだけで、自分でも少し驚く。
成長。
というより、恐怖が勝っている。
あの影になりたくない。
誰かを素材にして、必要だからと書き換えて、空っぽの完成形になるくらいなら。
俺は未完成のままでいい。
いや。
未完成でいい、じゃない。
未完成のまま、進むしかない。
「現地班、ルグランを止める」
フィン先生が指示を飛ばす。
「トーヤ、拘束。ミラ、退路。レオン、神殿式反応を切り分けろ。ノルン、本人の発話を拾え。ヴァイス、鐘音遅延を維持。セリア、影を照らし続けろ」
短い。
無駄がない。
えげつないくらい的確。
こういう時のフィン先生は、本当に頼れる。
黒茶の民とは思えない。
トーヤが前に出る。
「ルグラン、動くな」
「記述、します」
「動くな」
ルグランの右手がまた動く。
血の羽ペンが空を裂く。
トーヤの盾が、その前に入った。
赤い文字が盾の表面に走る。
【盾を障害として処理】
嫌な文字。
だが、今度はトーヤが自分で言った。
「俺は、障害ではない」
声は低い。
「俺は、守る相手を選べる盾だ」
盾が光る。
赤い文字が弾けた。
ミラがルグランの背後へ回る。
速い。
さすが逃げ道担当。
「ごめんね、監査補助官さん。今のあなた、ちょっと危なすぎ」
ミラは軽口を叩きながら、床に退避経路の印を置く。
ルグランの足元に、淡い線が走る。
退路を確保するための線。
同時に、逃げ出す先を限定する線。
優しい拘束。
矛盾しているようで、ミラらしい。
ルグランの首が、不自然に回った。
ミラを見る。
焦点の合わない目。
「影の獣」
ミラの耳がぴくりと動く。
黒鐘廊が呼んだ。
古い役割で。
「うわ、最悪」
ミラは笑った。
でも、笑い方が少し硬い。
「その呼び方、センスないんだよね」
床から黒い線が伸びる。
ミラの影を縛ろうとする。
その瞬間、セリアの炎が横から差し込んだ。
「ミラは影じゃない!」
炎が黒い線を照らす。
「仲間に逃げ道を残す斥候でしょ!」
「セリアちゃん、ありがとー!」
「ちゃん付けやめなさい!」
「元気出た?」
「出てない!」
出てる。
たぶん少し出てる。
ミラの足元の黒い線が消える。
彼女はそのままルグランの背後を取り、両腕を拘束しようとした。
だが。
ルグランの右手だけが、ありえない角度で動いた。
人間の関節ではない。
血の羽ペンが、ミラの頬をかすめる。
赤い線。
「ミラ!」
トーヤが叫ぶ。
「平気!」
ミラは跳んで離れる。
頬から一筋、血が流れた。
ただの傷。
そう思った。
違った。
ミラの頬の血が、空中で文字になる。
【斥候、退避失敗】
「血まで使うのかよ」
俺の声が低くなる。
ルグランの羽ペンは、本人の血だけじゃない。
触れた相手の血も、記述に使う。
最悪だ。
本当に最悪だ。
「ノルン!」
フィン先生が叫ぶ。
「はい!」
ノルンがミラに治癒符を飛ばす。
同時に、発話保護を重ねる。
「ミラさんは失敗していません!」
ノルンの声は震えている。
でも、通る。
「退避しました! 傷は浅いです! 今、治します!」
事実を言う。
現実を固定する。
それが、今のノルンの戦い方だ。
【斥候、退避失敗】の文字が揺らぐ。
ミラがにやっと笑った。
「ほら、失敗してないって」
赤い文字が砕ける。
よし。
こちらはまだ崩れていない。
だが、黒い鐘は鳴り切っていないだけだ。
ご……ぉ……
重い音が、ずっと空気の中で引き延ばされている。
ヴァイスの額に汗が滲む。
「長くは無理だ!」
「あとどれくらい?」
俺が聞く。
「聞くな! 短い!」
分かりやすい。
絶望的に分かりやすい。
レオンがルグランの右腕を見ていた。
「神殿式が混じっている。だが、これは命令だけじゃない」
「何が見える?」
フィン先生が聞く。
「補強式に似たものだ。勇者候補補強式と同系統。ただし、対象が戦闘能力ではなく、記録行為に向いている」
「記録官補強式か」
カサンドラ副院長の声が冷えた。
「廃止されたはずの旧神殿式です。記録官の手を、本人意思より優先して動かす術式」
「つまり、ルグランは書かされている」
俺は言った。
「はい」
副院長が答える。
「ただし、本人の記録能力を媒介にしています。完全な外部操作ではありません」
「本人が少しでも同意してたら?」
「術式の通りが良くなります」
嫌な話だ。
ルグランは犯人か被害者か分からない。
その曖昧さが、今ここで牙をむいている。
完全な被害者なら切り離せばいい。
完全な犯人なら拘束すればいい。
だが、本人の意思が少し混じっていたら。
どこから切る?
何を残す?
何を本人として扱う?
編集者にとって、一番厄介な問題だ。
「アキト」
リュミエルが言う。
「考えすぎない」
「まだ何も言ってない」
「顔」
もう駄目だ。
俺の顔、情報漏洩しすぎだろ。
「あなたが今考えていることは分かる。ルグランの意思と術式を切り分けたい。でも、それをあなたが直接やれば接続される」
「……ああ」
「だから、あなたは問いを作って」
「問い?」
「答えるのは、本人」
その言葉が、胸に落ちた。
問いを作る。
編集しない。
切らない。
書き換えない。
ただ、本人に戻るための問いを置く。
それなら。
「ノルン!」
俺は叫んだ。
「発話保護をルグランに通せるか!?」
ノルンが驚いた顔をする。
「ルグランさんに、ですか?」
「そうだ。命令文じゃなく、本人の声だけを拾いたい」
「やってみます!」
ノルンが両手をルグランに向ける。
淡い光が伸びる。
だが、血の羽ペンがその光を裂こうとした。
レオンが動く。
剣は抜かない。
鞘ごと、羽ペンの軌道を受ける。
「くっ……!」
赤い文字がレオンの鞘に走る。
【神の剣】
「違う」
レオンが低く言った。
「俺は神の剣ではない」
赤い文字が震える。
「俺は、自分の剣と罪を問い直す、レオン・グランベルだ」
鞘が光り、文字を弾く。
ノルンの発話保護がルグランへ届いた。
ルグランの肩が、びくりと揺れる。
焦点の合わなかった目が、一瞬だけこちらを見る。
「ルグラン・セイム!」
俺は名前を呼んだ。
でも、命令しない。
戻れ、とも言わない。
本人に問いを渡す。
「お前は、誰の記録を書いている?」
ルグランの唇が震えた。
血の羽ペンが動こうとする。
トーヤが腕を押さえる。
ミラが退避線で右足を固定する。
セリアが影を照らす。
ヴァイスが鐘を遅らせる。
ノルンが声を守る。
レオンが神殿式を押さえる。
リュミエルが俺を止める。
全員で、問いの通り道を作る。
ルグランの口が開く。
「私は……」
声が掠れる。
「記録を……」
血の羽ペンが震える。
【第四断片を記述】
「違う!」
俺は叫ぶ。
「お前に聞いてる。術式じゃない。神殿じゃない。黒鐘廊でもない」
ルグランの目が揺れる。
「ルグラン・セイム。お前は、誰の記録を書こうとしていた?」
沈黙。
黒い鐘の音が、さらに重くなる。
ご……ぉぉ……
ヴァイスが呻く。
「限界が近い!」
ルグランの口から、血が一筋流れた。
彼は、震える声で言った。
「……私の」
全員が息を呑む。
「私の、罪を」
羽ペンの動きが止まった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
でも、その一瞬で十分だった。
「罪?」
カサンドラ副院長が静かに聞く。
ルグランの目に、涙が浮かんだ。
焦点が戻っている。
ほんの少しだけ。
「私は……見逃した」
「何を?」
フィン先生の声。
ルグランは震えながら言う。
「魔導科準備室の、承認印偽造を……見た」
ヴァイスの表情が変わった。
「何だと?」
「止めなければ、ならなかった。だが……神殿の命令だと、思った。いや……思いたかった」
血の羽ペンが、また震え始める。
赤い文字が浮かぶ。
【証言不要】
【記述続行】
「抑えろ!」
フィン先生が叫ぶ。
トーヤが力を込める。
レオンが鞘で押さえる。
ノルンが発話保護を強める。
ルグランは歯を食いしばった。
「私は、犯人ではない……だが、無関係でもない」
その言葉で、地下演習室の空気が変わった。
ルグランは被害者だ。
でも、それだけではない。
見逃した。
自分で選んで、目を逸らした。
その罪が、術式の入口にされた。
「誰だ」
ヴァイスが低く言った。
「誰が、私の承認印を偽造した?」
ルグランの喉が鳴る。
血の羽ペンが、彼の手から離れようとしない。
まるで、手に縫いつけられているようだ。
「名を言え」
カサンドラ副院長の声が冷たい。
ルグランは口を開く。
「合同演習準備委員会……副責任者……」
赤い文字が彼の口元を塞ごうとする。
【秘匿】
俺は動きそうになった。
切れる。
あの文字だけなら切れる。
選択範囲指定で、口元の秘匿記述だけを――
「駄目」
リュミエルが俺を掴む。
痛い。
でも、止まった。
俺じゃない。
俺が切る場面じゃない。
「ノルン!」
リュミエルが叫んだ。
「声を守って!」
「はい!」
ノルンが泣きそうな顔で、でも全力で手を伸ばす。
「ルグランさんの声を、奪わせません!」
発話保護が赤い文字にぶつかる。
細い光。
でも、折れない。
ルグランの口が開いた。
「エリオット……」
赤い文字が割れる。
「エリオット・ベイル……!」
名前が出た。
新しい名前。
合同演習準備委員会、副責任者。
エリオット・ベイル。
その瞬間。
血の羽ペンが、ルグランの手から外れた。
いや。
外れたのではない。
自分で彼の掌を裂いて、空中に浮かんだ。
最悪だ。
ペンが自立した。
ヴァイスが叫ぶ。
「鐘音遅延、破られる!」
黒い鐘が、ついに鳴る。
ごぉん。
三度目。
完全に。
地下演習室が黒く染まった。
影が立つ。
未完の編集者。
今度は、顔があった。
俺の顔。
けれど、目が空っぽだった。
血の羽ペンが、その影の手に収まる。
影は俺を見る。
俺の声で、言った。
「素材、変更」
胸が凍る。
影は、ルグランを見た。
「罪ある記録官を、第四断片の下書きとする」
ルグランの身体に、黒い文字が走る。
「やめろ!」
俺は叫んだ。
でも、動けない。
動けば接続される。
編集すれば、俺が書くことになる。
影が血の羽ペンを振り上げる。
その時。
カサンドラ副院長が、一歩前に出た。
「記録官権限により、異議を申し立てます」
空気が止まった。
影が、副院長を見る。
副院長は柔らかく笑っていた。
ただし、目は笑っていない。
「ルグラン・セイムは、学園保護下にある証人です。現時点で、彼の記録所有権は神殿ではなく、学園にあります」
「副院長……?」
俺は呟く。
何を言っている。
いや。
分かる。
これは、契約だ。
記録管理。
保護権限。
証人扱い。
政治と契約で、黒鐘廊に殴りかかっている。
カサンドラ副院長は、静かに続けた。
「よって、本人同意なき素材化は、学園記録保護規定に違反します」
影の血の羽ペンが止まる。
黒い文字が軋む。
【規定照合】
【旧神殿式】
【学園保護規定】
【権限衝突】
いける。
まさかの法務バトル。
異世界でも規約は強い。
俺はちょっと感動した。
カサンドラ副院長の笑みが深くなる。
「そして、もう一つ」
彼女はルグランを見る。
「ルグラン・セイム本人が、自らの罪を証言しました。彼は記録される対象ではなく、証言する主体です」
ノルンが息を呑む。
レオンが頷く。
フィン先生が、わずかに笑った。
「主体を素材に落とすことは、記録の改竄にあたります」
副院長の声が、地下演習室に響く。
「神殿式記録規範、第十二条。証言中の記録主体を、処分対象へ移行する場合、三名以上の独立記録官の承認を要する」
黒い文字がさらに乱れる。
【承認不足】
【処理保留】
【処理保留】
【処理保留】
血の羽ペンが震えた。
影の顔が、歪む。
俺の顔で歪むな。
気分が悪い。
「今だ」
フィン先生が言った。
「レオン、神殿式を抑えろ。ノルン、ルグランを保護。トーヤ、ペンと腕を分離。ミラ、退避線を開け。セリア、照らせ。ヴァイス、封じろ」
一斉に動いた。
レオンが鞘を床に叩きつける。
「神殿式反応、固定!」
ノルンがルグランへ治癒と発話保護を重ねる。
「ルグランさんは、証言者です!」
トーヤがルグランの右腕を押さえ、血の羽ペンとの接続線を盾で断つ。
「切る」
ミラが退避線を開く。
「こっち! 証人様、舞台から降りるよ!」
セリアの炎が影を照らす。
「人の顔で勝手に出てくるな!」
ヴァイスが魔導封印を展開する。
「記録採取具を封印具に転用する。失敗したら笑え」
「笑わないから成功させろ!」
俺が叫ぶ。
「当然だ!」
血の羽ペンが暴れる。
だが、カサンドラ副院長の規定衝突で動きが鈍っている。
トーヤの盾が接続線を断つ。
ミラがルグランの身体を退避線へ引き込む。
ノルンの光が彼を包む。
レオンが神殿式を押さえる。
セリアが影を薄くする。
ヴァイスの封印式が、血の羽ペンを囲む。
そして。
リュミエルが俺の手を離した。
「今」
「え?」
「今だけ、外側を保存して」
その目は真剣だった。
「中は見ない。ペンの外側だけ。証拠として」
なるほど。
今、必要なのは攻撃じゃない。
証拠保存。
俺の編集操作の、安全な使い方。
「了解」
俺はタイムラインを開く。
深く潜らない。
血の羽ペンの中を読まない。
影を見ない。
第四断片に触れない。
外側だけ。
表面。
輪郭。
接続痕。
神殿式。
黒鐘廊の同期痕。
【保存】
薄い光が走る。
痛みはない。
接続もない。
よし。
俺はまだ、俺のままだ。
ヴァイスの封印式が閉じる。
血の羽ペンが、透明な薄膜の中で停止した。
黒い影が、一歩下がる。
未完の編集者。
俺の顔をした影。
そいつは、俺を見た。
そして、笑った。
「一行、遅れたな」
何が。
そう思った瞬間。
地下演習室の壁に、新しい文字が浮かんだ。
日本語。
赤黒い文字。
――エリオット・ベイルは、もう黒鐘廊にいる。
「……は?」
ヴァイスの声が漏れた。
壁の文字は続く。
――そして、彼は第二断片の本文を読んだ。
空気が凍った。
本文。
読んではいけないもの。
第二幕は、読まされる。
第三幕は、選ばせる。
俺はゆっくり息を吐く。
黒い影は、薄れながら言った。
「次は、読まされた者の番だ」
影が消える。
黒鐘廊の気配も、鐘の余韻も、地下演習室から引いていく。
残されたのは、封印された血の羽ペン。
倒れ込むルグラン。
青ざめた仲間たち。
そして。
壁に残った、最悪の一文。
――エリオット・ベイルは、もう黒鐘廊にいる。
俺は拳を握った。
今度こそ、行かなければならない。
だが。
正面から行けば、読まされる。
裏から行かなければ、届かない。
俺は黒く沈んだ壁の文字を見ながら、呟いた。
「……扉の裏を見るしかない」
リュミエルが、静かに俺の隣に立った。
「今度は、ひとりでは行かせない」
「分かってる」
俺は頷いた。
「ひとりで行ったら、たぶん俺が先に俺を殴る」
「その前に私が殴る」
「順番待ちが発生してるな」
ミラが小さく笑った。
でも、誰も本気では笑わなかった。
黒鐘廊。
第二断片。
エリオット・ベイル。
読まされた者。
物語は、こちらが準備する前に進んでいく。
なら。
こっちは、進み方を変えるしかない。
正面から読まない。
舞台には上がらない。
扉の裏から、台本を剥がす。
俺は封印された血の羽ペンを見た。
それは薄膜の中で、まだ微かに震えていた。
まるで。
次の一行を、待っているように。




