第52話 休むことも、台本の一部
旧記録保管庫から戻ったあと、俺――アキト・アオキは、しばらく黒板の前から動けなかった。
【ナツキ・シノハラ】
私は、まだ終わっていない。
【名無しの観測者】
名前はまだ不明。
でも、ナツキを記録した人。
【観測記録の一文】
主人公とは、選ばれた者ではない。
最後まで降りなかった者である。
その三つの文字が、頭の中で何度も反響していた。
ナツキ・シノハラ。
日本から来た十七歳の少女。
未承認職【脚本家】。
異能【筋書き干渉】。
転生者狩りに引き渡され、人格整文の対象にされたかもしれない人。
そして、名無しの観測者。
名前を封印されながらも、ナツキの物語を記録しようとした誰か。
その人が残した言葉。
主人公とは、選ばれた者ではない。
最後まで降りなかった者である。
俺は、主人公になりたいわけじゃない。
そもそも、そんな立派なものじゃない。
追放されて。
毒で死にかけて。
外れ職と笑われて。
神に異物と呼ばれて。
転生者狩りに名前を掴まれて。
それでも、なぜかまだ降りていない。
降りる場所が分からないだけかもしれない。
でも。
それでも、今はまだこの舞台から降りる気にはなれなかった。
「アキト」
隣から声がした。
リュミエル・アークレインだった。
いつもの静かな声。
けれど、今日は少しだけ柔らかい。
「顔が、また深刻になっているわ」
「内容が深刻だからな」
「それはそうね」
即答だった。
もう少し慰めてほしい気もしたが、リュミエルらしい。
「でも、今は考え続ける時間ではないわ」
「え?」
リュミエルは黒板の横に置いてあったチョークを取り、さらさらと一行を書いた。
【休息】
俺はその二文字を見て、少し固まった。
「……今?」
「今よ」
「この流れで?」
「この流れだから」
彼女はチョークを置いた。
「あなたは、情報を拾うたびに次へ行こうとする。ナツキの記録、舞台袖、名無しの観測者、主人公候補。全部を今すぐ繋げようとしている」
「繋げないと危ないだろ」
「繋げすぎても危ないわ」
言葉に詰まった。
リュミエルは俺のタイムラインを見た。
「編集には、切る作業だけでなく、間を置く作業も必要なのでしょう?」
「……まあ、そうだな」
前世の編集でもそうだった。
映像は詰めればいいわけじゃない。
余白がないと、感情が届かない。
間がないと、視聴者は息ができない。
物語には、休む時間が必要だ。
それは分かっている。
分かってはいるけど、自分のことになると途端に下手になる。
「だから今日は休む」
リュミエルは言った。
「これは提案ではなく、監督者判断よ」
「監督者判断……」
「学園保護契約に基づくもの」
「契約をそういう使い方するのか」
「便利でしょう?」
「便利だけど、少し理不尽」
「あなたが無茶をしなければ使わないわ」
「ぐうの音も出ない」
実際、出なかった。
その時、窓枠からミラ・クロウがひょいと顔を出した。
「はいはい、休息なら私の出番だね」
「ミラの出番?」
俺が聞くと、ミラは胸を張った。
「逃げ道担当だからね。思考からの逃げ道も作るよ」
「かっこいいこと言ってるけど、具体的には?」
「食堂で甘いもの食べる」
「急に現実的」
「甘いものは世界を救うよ」
トーヤ・ラインハルトが真面目に頷いた。
「疲労回復には糖分が必要だ」
「トーヤまで」
「必要だ」
この二人に挟まれると、妙に説得力がある。
ノルン・エルシアも両手で小さな包みを持って近づいてきた。
「治癒茶も淹れたよ。精神疲労に効く薬草を少しだけ入れてあるの」
「ありがとう、ノルン」
「うん。今日はちゃんと休んでね」
その言い方が優しくて、少し胸が痛くなった。
俺はいつの間にか、心配される側になっていた。
前は、役に立たないと捨てられた。
今は、無茶をするなと止められている。
この差は、思ったより大きい。
セリア・フレイムロードが腕を組んで言った。
「ちなみに、休むって言っても、あんたが一人で部屋に戻ると絶対考え込むでしょ」
「否定はできない」
「だから、今日は特異職科で休憩。逃走禁止」
「俺は囚人か?」
「危険物よ」
「扱いが悪化してる」
レオン・グランベルまで静かに言った。
「今日に限っては、同意する」
「レオンまで?」
「お前は、自分が危険だと理解している割に、自分を止める判断が遅い」
「刺さるな」
「事実だ」
レオンは少しだけ視線を逸らした。
「……俺も昔、そうだったから分かる」
その言葉には、妙な重みがあった。
勝たなければならない。
前へ出なければならない。
退けば価値がない。
レオンは、そういう補強式に縛られてきた。
俺の場合は少し違う。
でも、似ているところもある。
知らなければならない。
救わなければならない。
俺がやらなければならない。
そう思い込んだ時、人は簡単に自分を追い詰める。
「分かった」
俺は両手を上げた。
「今日は休む」
教室中の空気が少し緩んだ。
ミラがすぐに言う。
「はい、言質取った」
タイムラインが勝手に淡く光った。
【休息誓約ログ】
本日、アキト・アオキは以下を守る。
一、舞台袖の内部閲覧を行わない。
二、ナツキ・シノハラ関連記録の深掘りを行わない。
三、単独で旧地下聖堂へ向かわない。
四、最低六時間の睡眠を取る。
五、甘いものを食べる。
記録しますか?
「最後おかしいだろ」
俺は思わず言った。
ミラが覗き込んで爆笑する。
「タイムライン分かってる!」
「絶対ミラの影響受けてるだろ」
トーヤは真面目に言った。
「五も大事だ」
「トーヤ……」
ノルンも小さく笑う。
「甘いものは精神疲労にいいよ」
セリアは呆れたように言う。
「もう記録しなさいよ。どうせ食べるんだから」
リュミエルまで淡々と頷いた。
「必要項目ね」
「全員が敵だ」
「味方よ」
リュミエルは即答した。
それが少し嬉しかったので、俺は文句を飲み込んだ。
「記録」
【休息誓約ログを記録しました】
こうして、神の台本と転生者狩りを追っていたはずの俺は、なぜか甘いものを食べることを誓約させられた。
異世界、奥が深い。
場所は特異職科の教室のまま。
机を寄せて、簡単な休憩会が始まった。
ミラがどこからか焼き菓子を取り出し、トーヤが温かいスープを運び、ノルンが治癒茶を配る。
セリアは「私は別に」と言いながら、一番きれいな焼き菓子を確保していた。
レオンは最初、明らかに場違いそうな顔をしていたが、ミラに「勇者様、皿回して」と言われ、前より自然に皿を回していた。
人は変わる。
皿の回し方にも、それは出るらしい。
「そういえば」
ミラが焼き菓子をかじりながら言った。
「新人くん、前の世界でもこういう休憩してたの?」
「こういう?」
「仲間と集まって、お茶飲んで、作戦会議っぽい顔しながらお菓子食べるやつ」
俺は少し考えた。
前世の記憶。
学校。
撮影現場。
編集室。
企画会議。
「似たようなのはあったな」
「へえ」
「番組とか映像の企画を考えてる時、みんなで机を囲んで、ああでもないこうでもないって話す。疲れてくると、誰かがコンビニでお菓子を買ってきたりする」
「こんびに?」
ノルンが首を傾げた。
「何でも売ってる小さい店みたいなもの」
ミラの耳がぴんと立った。
「何でも?」
「まあ、だいたい」
「焼き菓子も?」
「ある」
「肉も?」
「ある」
「甘い飲み物も?」
「ある」
「天国じゃん」
「そこまでではない」
「いや、天国でしょ」
ミラの中で、コンビニが神殿より上位の聖域になった気がする。
トーヤも真剣に言った。
「盾は売っているか?」
「たぶん売ってない」
「そうか」
少し残念そうだった。
セリアが興味なさそうにしながら聞いた。
「魔法具は?」
「ない」
「じゃあ不便ね」
「その代わり、スマホがある」
「すまほ?」
また説明が難しい単語を出してしまった。
俺は少し考えた。
「遠くの人と話せて、文字も送れて、映像も見られて、地図も見られて、音楽も聞けて、写真も撮れる小さい板」
教室が静まり返った。
レオンが真顔で言った。
「それは神具ではないのか」
「神具ではない」
セリアが眉をひそめる。
「そんなものを高校生が持ってるの?」
「だいたい持ってる」
「前の世界、怖いわね」
「この世界に言われたくない」
神託とダンジョンと人格整文がある世界に、スマホで怖がられたくはない。
リュミエルは静かに聞いていたが、ふと口を開いた。
「その小さい板には、記録も残せるの?」
「残せる。写真も動画も文章も」
「なら、あなたが編集者になった理由も少し分かる気がするわ」
「そうか?」
「ええ。あなたの世界は、記録することと編集することが、こちらより身近だったのでしょう」
その言葉に、俺は少し黙った。
確かにそうかもしれない。
前世の俺にとって、映像を撮ること、編集すること、物語を組み立てることは、神殿や貴族だけの特権ではなかった。
誰でも記録できる。
誰でも発信できる。
誰でも編集できる。
もちろん、全員がうまくできるわけではない。
でも、少なくとも“記録は神のもの”ではなかった。
この世界では違う。
職業も称号も記録も、神殿が管理している。
だからこそ、俺の【編集操作】は異物なのかもしれない。
「また深く考えてる」
リュミエルが言った。
「ばれた」
「顔に出ているわ」
「そんなに?」
「かなり」
ミラが焼き菓子を差し出してきた。
「はい、誓約ログ五番」
「強制力がすごい」
俺は焼き菓子を受け取った。
甘い。
少し硬めで、ナッツの香りがする。
うまい。
悔しいが、少し気が抜けた。
「どう?」
ミラが聞く。
「おいしい」
「でしょ。生きる理由が一つ増えたね」
「大げさだな」
「大げさくらいがちょうどいいよ。世界は勝手に重くなるんだから」
ミラの言葉に、俺は少しだけ驚いた。
軽いようで、時々こういうことを言う。
「ミラって、たまに核心を突くよな」
「たまに?」
「頻繁に」
「よし」
ミラは満足そうに尻尾を揺らした。
その時、教室の外が少しざわついた。
廊下から、生徒たちの声が聞こえる。
「特異職科のやつらだろ?」
「神託で保留された異端がいるって」
「剣術科のレオンまで出入りしてるらしいぞ」
「外れ職の編集者だっけ?」
「危険職だろ。近づくなって神聖科で言われた」
空気が、ほんの少し固まった。
俺は焼き菓子を持ったまま、動きを止める。
来たか。
噂。
神託試問。
神殿査問会。
台本外来訪者。
転生者狩り。
あれだけのことが起きて、学園内で何も広がらないはずがない。
むしろ、ここまで遅かったくらいだ。
セリアが眉を吊り上げた。
「何よ、あいつら」
レオンの表情も険しくなる。
「俺が注意してくる」
「待て」
フィン先生がいつの間にか教室の入口に立っていた。
黒すぎる茶を持っている。
いつの間に淹れたんだ。
「今出るな。火に油だ」
セリアが不満そうに言う。
「でも、好き勝手言わせるの?」
「今はな」
「先生」
俺は声を出した。
「俺は大丈夫です」
「そういう顔ではない」
即座に返された。
ぐうの音が出ない。
胸の奥は、確かに少し痛かった。
外れ職。
危険職。
異端。
何度聞いても慣れない。
いや、慣れたら駄目なのかもしれない。
ミラがわざと明るく言った。
「噂が広がるの早いねえ。新人くん、有名人じゃん」
「嬉しくない種類の有名人だな」
トーヤが静かに言う。
「言わせておけばいい。必要なら、俺が立つ」
「立つだけ?」
「立つだけで、だいたい黙る」
確かに。
トーヤが盾を持って立ったら、かなりの説得力がある。
ノルンは不安そうに俺を見ている。
「アキトくん……」
「大丈夫」
言いかけて、リュミエルの視線を感じた。
大丈夫ではない時に大丈夫と言うな。
そういう目だった。
俺は言い直した。
「少し痛い。でも、潰れるほどじゃない」
リュミエルは小さく頷いた。
「よろしい」
その時、廊下の声が少し大きくなった。
「特異職科って、問題児の集まりだろ」
「外れ職をかばうとか、フィン先生も終わってるな」
「合同演習で当たったらどうする?」
「外れ職なんて放っておけばいいだろ」
合同演習。
その言葉に、フィン先生がわずかに反応した。
セリアも「あ」と声を漏らす。
「そういえば、来週だったわね」
「何が?」
俺が聞くと、レオンが答えた。
「学園合同演習だ」
「合同演習?」
「ああ。剣術科、魔導科、神聖科、特異職科の合同訓練。学園内での実戦演習だ」
ミラがにやっと笑った。
「毎年、派手にやるやつだよ。上位クラスの生徒も見に来るし、先生たちも評価する」
嫌な予感がした。
いや、同時にチャンスの匂いもした。
フィン先生が黒すぎる茶を一口飲む。
「予定では、特異職科は今年も端の方で補助役だった」
「今年も?」
「去年はミラが罠を全部解除し、トーヤが壁になり、俺が怒られた」
「何したんですか」
「教育的指導だ」
「絶対違う」
ミラが小声で言う。
「先生、演習場の地形を勝手に変えたんだよ」
「教育的指導だ」
やっぱり違う。
リュミエルが黒板を見た。
「合同演習……学園内の評価が動く場になるわね」
その言葉で、俺も理解した。
今、学園内には俺への悪評が広がり始めている。
外れ職。
異端。
危険職。
神に保留された男。
でも、合同演習は、多くの生徒と教師の前で力を示す場だ。
俺の価値を、外から見せる機会になる。
もちろん、危険もある。
転生者狩りが学園外周を探っている。
記述釘も使われている。
人が多い合同演習は、狙われやすい。
だが、逆に言えば。
相手が何か仕掛けてくるなら、そこかもしれない。
フィン先生が俺を見る。
「休息中に悪いが、次の台本が来たな」
「休息誓約ログ、まだ有効ですよ」
「だから今日は考えすぎるな。明日からでいい」
「先生がそれ言うんですか」
「俺は休ませる時は休ませる」
意外だった。
でも、少し嬉しかった。
廊下の生徒たちは、まだ何か言っている。
昔なら、俺はその言葉に沈んでいたかもしれない。
また見下された。
また役に立たないと思われた。
また捨てられるかもしれない。
でも今は、少し違う。
俺の隣にはリュミエルがいる。
ミラが焼き菓子を押しつけてくる。
トーヤが盾を持っている。
ノルンが治癒茶を用意してくれる。
セリアが怒ってくれる。
レオンが立とうとしてくれる。
フィン先生が止めてくれる。
名前を呼び返してくれる人たちがいる。
だから、まだ立っていられる。
俺は焼き菓子をもう一口食べた。
甘い。
そして、廊下の声に向かってではなく、黒板に向かって小さく言った。
「合同演習か」
タイムラインが淡く光る。
【新規予定】
学園合同演習
関連:
学園内評価
特異職科
アキトへの悪評
転生者狩りの介入可能性
公開された場での能力証明
推奨:
準備を行ってください。
ただし、本日は休息誓約ログが有効です。
「タイムラインにも休めって言われた」
俺が言うと、ミラが笑った。
「タイムライン、今日いちばん正しい」
リュミエルも頷く。
「ええ。今日は休む」
「分かったよ」
俺は椅子に座り直した。
世界は勝手に重くなる。
なら、休むことも戦いの一部だ。
ナツキの第三幕。
名無しの観測者。
舞台袖。
旧地下聖堂。
合同演習。
悪評。
転生者狩り。
問題は山ほどある。
でも、今日は焼き菓子を食べる。
治癒茶を飲む。
少しだけ笑う。
それもまた、神の台本にない一場面だと信じたかった。
廊下の悪意が遠ざかる中、特異職科の教室には、温かい湯気と甘い匂いが残っていた。




